次の日の夜。時刻は二十三時前。バイト上がりの私はまず化粧室の鏡の前に立つ。
 ——紗央里ちゃん、勇気をちょうだい。
 心を決めて鞄から取り出したのはメイク落とし。私は、本当の私で彼と向き合うことにした。
 駅の改札を出ると、無防備な肌に夜風を感じる。風に乗ってギターの音色が聞こえてきてたから分かる。いつもの場所に、彼は居る。
 そうと決まれば向かうだけだけど、やっぱり堂々となんて出来なくて、なるべく俯いたままゆっくりと歩いた。少し離れた場所から彼の反応を見てみる。けれど、待ってみても向こうから声をかけられることはなかった。
 前までなら気づいてくれてたのに……やっぱり、普通に突き放されただけだった? それとも、メイクしてないと私だってわからない?
 ドキドキと心臓が煩くて、口から出てきちゃいそうだった。緊張で気持ち悪い。よく考えたらすっぴんで外を歩いてるってだけでもあり得ないことなのに、それを好きな人に晒すなんて……遠谷さんと出会う前の私なら考えつきもしなかった未来だ。あり得ないって、少し前の私が冷たい目をして今の私に言っている。でもここまで来たんだ、やるしかない。
 意を決していつもの定位置である彼の目の前に立った。そこは一番彼に全てを晒け出す場所だった。
 ついに彼と、遠谷さんと、目が合った。

「こんばんは」
「……こんばんは」
「また来てくれたんだ」
「…………」

 にっこりと微笑みそんなことを言う彼には今まで会ってきた時と全然違う私の顔が見えているはずなのに、それに関しての反応は特に何も返ってこない。彼にとっての私はそんなものだったのだと、何も言われないことで安心した気持ちと、どうでもいいと言われたような虚しさで心が騒めいた。
 あれ? 私、何しにきたんだっけ……?
 それだけのことで急に心細くなり、頭の中が真っ白になって俯いてしまう。
 足元が歪んで見える。込み上げた涙が膜を張って、今にも溢れ出しそう。顔を上げる、勇気が出ない。
 そんな何も出来ないでいる情けない私に降って来た、「あのさ、」という彼の声。

「……ずっと考えてたんだ。なんで陽ちゃんに俺の歌が響いたんだろうって」
「…………」
「前に陽ちゃんが話してくれたことがピンと来なくて。十分可愛いのに泣いちゃうくらい悩む必要ないだろうって、必死に訴えてくれる意味がわからなかった。でも……そっか」

 聞こえてきた遠谷さんの言葉と共に、ぽんと優しく私の頭に手が乗って、さらさらと撫でられる。涙を隠そうと俯いていた顔を、そっと上げてみると、

「……陽ちゃん、頑張ってくれたんだね」

 そこにはさっきまでの完璧な貼り付けた笑顔ではない。優しく微笑む遠谷さんの柔らかな表情があった。

 『頑張ってくれたんだね』

 それは、今の私の顔を見た遠谷さんが私にくれた言葉だとすぐにわかった。素顔を晒した私の勇気を受け止めてくれた言葉。私の全てを包み込んでくれる、私が信じた彼が、紛れもなくそこにいた。
 ……今なら遠谷さんに届くかもしれない。勇気を出せ、私!

「わ、私! ずっと嘘ついてたんです。私の嘘はこの顔。メイクが私を守ってきました」
「うん」
「だから私、嘘の裏にある本当の姿を曝け出す怖さを知ってます。でも、それを受け入れてもらった時の心の軽さも知ってます」

 そのきっかけをくれたのは遠谷さん。変わらない私の世界が変わるきっかけをくれたのは遠谷さんの言葉。

「あの時、遠谷さんは全部嘘だって言いました。すごくショックだったけど、でも嘘でもあの優しい言葉で救われた私が居るのは事実です。もしその優しい嘘に隠れるあなたが居るなら、私は知りたい。受け入れたいです。私が遠谷さんに助けられたように」

 こうして遠谷さんと向き合える勇気がわいたのは紗央里ちゃんのおかげ。私はもう、めそめそ泣いて帰る私じゃない。外見にとらわれる私じゃない。心から信じられる言葉が、人が、本当の私を見つけてくれるのだと知っている。
 だから今、私は遠谷さんに全てを見せている。私を信じて欲しいから。

「あなたが今までついた嘘は全部、私を変えてくれた、私の宝物です。だからきっとあなたが見せてくれるなら全部、それは私の宝物になるんです」
「……それ、聞いたことあるね」
「はい。私の大好きな曲です」
「……そっか……うん。そっか」

 何かを噛み締めるように相槌を打った彼は、納得したように一つ頷いた。

「陽ちゃんは、かっこいいね」
「え……?」
「可愛いしかっこいい。憧れるな」

 眩しいものでも見るように目を細めて、遠谷さんは私に言った。その目に映る私は、遠谷さんの視線をしっかり受け止めて、真っ直ぐに彼を見つめ返していた。

「俺さ、なかなか本音が口に出せないんだ」

 遠谷さんがぽつりと呟くように溢す。

「いつも傷つくのが怖くて、その場で繕った言葉でしか言えなくて。だから歌でなら言えるかなって始めたんだけど、歌にすればするほど、そこに居るのは理想の自分だなって、本当はこんなこと言えないし出来ない自分との落差に気付くばかりで」
「…………」
「現実の俺は違う。続けるうちに本音だと思ってた言葉は俺の願望になっていて、こんなことを言える人になりたいって気持ちのままに、その嘘で自分を偽ってきた。だからこの歌も、歌詞も、全部その中にあるのは嘘の俺の綺麗事なんだよ。それなのに陽ちゃんは本当の俺だって信じてる真っ直ぐな目で見てくれるから、俺もそれに答えたくて、その内に信じてもらえるのが心地良くなって、でもそれは本当の俺じゃないと思うと……もう、耐えられなくて。陽ちゃんが好きなのは理想の俺。本当の俺じゃないんだって、言わないと気が済まなかった。君の為にも、俺の為にも」
「…………」

 『俺の言葉は全部嘘。騙されてるんだよ』

 それは、私を傷付けようとして使われた言葉ではなかったのだ。突き放したのは、自分と私を守る為?

「じゃあ騙されてるんだよって言うのは、本当の遠谷さんの言葉だったんですね」
「…………」
「遠谷さんは、やっぱり優しい」
「優しくないよ。事実、俺は君に嘘をついて騙してた。実際の俺は人の嘘まで包み込める包容力なんてないし、憧れは眩し過ぎて遠ざけてきた。可愛いって言葉も、褒められて嬉しくなって格好つけた俺が、陽ちゃんを喜ばす為に使った当たり障りのない言葉だ」
「それでも、私は救われました。あなたの優しい言葉に。あなたが目指す憧れの言葉が、私の世界を変えてくれました」
「…………」
「それはきっと、そこにあなたの心がこもっていたから。だってあなたの言えない願望が歌になっていたのなら、そこにあるのは遠谷さんの心です。私には分かります。だって私にはあなたの歌が沁みたんだから。優しいあなたの心が、伝わったから」
「…………」
「理想との違いに落ち込んで、守る為に離れようとする臆病なあなただから。騙して喜ばせておけばいいのに、それをしなかった正直で正しい道を選べるあなただから、だから作れた優しい歌。理想も現実も、どちらも変わらず優しい遠谷さんです。私の信じてる、大好きなあなたです」
「…………」
「私は、あなたが大好きです」
「…………」

 遠谷さんは黙っていた。ただじっと、私の目を見つめたまま。そのまま言葉のない時間が続く。
 これで私からの言葉は全部伝え切った。思いを乗せた言葉を送れたはずだ。届いたかな、私の気持ち。伝われ、届け、奥に隠れてしまう本当のあなたに。
 私は、あなたを信じてる。
 すると、ふと柔らかく、遠谷さんが困ったように眉を下げた。

「……ありがとう。陽ちゃんの言葉は、俺に勇気をくれるね」
「……遠谷さん」
「陽ちゃんはすごい。きっと自分の嫌な部分と向き合ってきて、それを受け入れられた人だから、そうやって言えるようになれたんだね」
「……遠谷さんの歌がきっかけをくれて、紗央里ちゃんが信じてくれたからです。一人きりじゃ無理でした。でも今の遠谷さんには私がついてます」

 「だから大丈夫!」と笑ってみせると、遠谷さんもつられるように笑ってくれた。明るい、前向きな笑顔だった。

「……うん。陽ちゃんはいつも俺の声を聞いて、俺を見てくれるから。きっと俺は、陽ちゃんみたいな人になりたかったんだろうな」
「私?」
「そう。だって陽ちゃんは今ここで、俺の綺麗事を現実にしてくれたから。だから俺もそうなれるって、信じてみようと思う」
「!」
「陽ちゃんみたいに俺も、全部まとめて自分のこと受け入れられるようになれるかな」
「なれますよ! だって私にそのきっかけをくれたのは遠谷さんだから!」
「……うん、信じるよ。だって陽ちゃんの言葉だから。俺も陽ちゃんの全部が好きだから。今日の言葉はずっと本当」
「!」

 にっこり笑うと、遠谷さんは言う。

「今度は俺が現実にしてみせるから、信じて待ってて」

 その悪戯っ子のような笑顔が明るく照らし出された、真夜中の時計台の前。それは私達の本当の心が通じ合った瞬間だった。