——はずなのに、大変だ。困ったことに、生徒手帳が見つからない。
あの日から二日後に持ち物検査があったことで発覚した。いつも入れてるはずの鞄の中に生徒手帳が入っていないと。もちろん先生から怒られたし、私の個人情報が晒されているかもと思うと気が気じゃなくて、バイト先でも最寄駅でも必死になって探したけれど、見つからなかった。
となるともう、あと思いつくとしたらあの日の慌てて走り去った夜しかなくて……。
「…………」
今、私はバイトを終えて、またこの場所にいる。彼が歌う、真夜中の時計台の前に。
居ないかもしれないと思ったけど、やっぱり今日も彼はここで歌っていた。
どうしよう……めっちゃ気まずい。でも今駅の人に聞いても預かってないって言ってたし、もうこの人に聞いてみるしか……。
「あ、君!」
「!」
前回同様少し離れた場所に立ち、どうしようかと悩んでいると、演奏する手をとめた彼から声を掛けられた。まさかのことにびっくりして固まる私に、彼はあの日のように自分の前に来るよう手招きするので、断るわけにもいかず、渋々そこに立つ。緊張で、心臓が嫌な感じにドキドキしている。
……大丈夫。今日は大丈夫。さっき鏡で顔の確認したし。今は見られても大丈夫だけど、あの日は本当に駄目だった……あぁ、思い出したらもう帰りたい。早く聞くだけ聞いて帰ろう!
「あ、あの……っ、」
「はいこれ。君のでしょ?」
そう言って、私が問い掛ける前に彼が差し出したそれは、正しく私の生徒手帳。
「これ……!」
「あ。悪用とかしてないよ? 盗んだとかでもなくて」
「も、もちろん! 疑ってるとかじゃ……その、びっくりして」
驚きのあまり身体をこわばらせながらも、なんとか両手で受け取ることが出来た私。彼も私に渡せたことでほっとした様子だった。
「……その、ありがとうございました。探してたんです。見つからなくて」
「この間走って帰った時に落としてたよ。駅員さんに預けようかと思ったんだけど、また来てくれるかなぁと思って持ってた」
「え……! そ、そうなんですね。なんかすみません……」
「いやこちらこそ。来てくれて嬉しかった。また聞きに来てくれたの?」
「あ、えっと……」
「あ。今回は探しにだった? ごめん、調子に乗ってしまいました」
「いえっ! そんな……っ」
あぁ、もう。こんなおどおどした態度、普段の私らしくなくてすごく恥ずかしい。でもどうしても上手く言葉がでないし、真っ直ぐに目を見られなかった。
だって私の顔を見られるのが恥ずかしい。彼はもう私のメイクの崩れた真っ黒の顔を知ってると思うと、汚い顔を見せてしまったという恥ずかしさの他に、今のメイクした自分は偽物ですと目の前で宣言しているような気分だった。
「まぁ今回の目的が何にせよ、この間はどうもありがとう。あんなに直球で好きだって言ってもらえたの初めてで、すごく嬉しかった」
「えっ? あ、え?」
そ、そうだ! そうだった私、あの時感極まってそんなことを……! しかもあの顔で……! 最悪だ!
「すみません! あの時勢いで……!」
「え? 嘘だったってこと?」
「ちがっ、違くてっ。好きなのは本当です! 本当にその、救われたんです。あの歌に」
「…………」
「本当になんでだろうってくらい今の私の悩みへの答えだったっていうか、私には辿り着けなかった答えを教えてくれたっていうか……。だからそれでつい大泣きを……」
だ、だめだ。またあの時を思い出して心が折れそう。
「あ、あんな汚いものを晒してしまい、申し訳ありません……消えてなくなりたい」
「汚いもの?」
「私の顔です……! メイク落ちてドロドロで」
「全然。可愛かったよ」
「いやそんなわけっ、……え?」
「?」
「い、今なんて?」
「あぁ。可愛いって。俺の歌を聞いて感動して泣いてくれてる女の子が可愛くないわけないよ」
「……!」
驚きのあまり、パクパクと口から言葉が出なくて、空気だけが行ったり来たり。びっくりし過ぎるとこうなるんだって、どこか冷静な頭の隅で思ったのち、初めて言われた年上の男の人からの可愛いの衝撃と、嬉しさと、感動の先に、あっさりと告げられたその言葉の重さが、私の価値観と違うことに気がついた。
……え、大人の人ってこんなに簡単に可愛いって言っちゃうの?
「だ、駄目ですよ! 女の子に可愛いってそんな簡単に言ったら駄目です!」
「そうなの? 嬉しくない?」
「嬉しいですけど! ですけど、本当の本当に思った時に取っておくべきです!」
「なんで?」
「なんでって……そりゃあ価値が下がるからですよ! 可愛いって言葉は大事な言葉です」
「価値が下がるか……なるほどなぁ。でも本当なんだけどなぁ」
「いえ! 実際にあの顔も私も可愛くないので! 」
「…………」
私の言葉に、彼は黙って私をじっと見つめる。ここでようやくしっかりと見られた彼の顔が思った以上に整っていることに気がついて、ついドキッとしたけれど、そんな私の心はよそに、彼はムッとした表情をして小さく溜め息をついた。
「俺の可愛いが駄目ならさ、君の好きも同じでしょ? 大事な時に取っておかないと価値が下がるよ」
「! 私の好きは本当に好きです! すごくいい曲です!」
「いえ。実際にあの曲も俺もいいものでは無いので」
「そんな……っ、」
なんでだろう。なんでそんなことを言うんだろう。あんなに心動かされた曲は初めてだったのに、それを駄目なものみたいに言わないで欲しい……!
「……ね? 否定されると悲しいでしょ? だからちゃんと、俺が可愛いって思った君のことも受け入れてあげてね」
「!」
「俺、嬉しかったよ。そんなに褒めてもらえるようなものじゃないってわかってても、君がボロボロ泣いて、真っ直ぐ伝えてくれた言葉が嬉しかった。だからお互い、大事にしていこう」
「…………」
……この人は、なんて優しい人なんだろう。
「……わかりました。……ごめんなさい」
「いえこちらこそ。こんなことになっちゃってあれだけど……最後に一曲聞いてく?」
その彼の提案にもちろん頷いて、昨日と同じ曲を一曲だけ聞かせてもらって、その夜は終わりを迎えた。
帰りの電車に揺られながら、彼の言葉が頭の中を巡る。
『否定されると悲しいでしょ? だからちゃんと、俺が可愛いって思った君のことも受け入れてあげてね』
まるで魔法の言葉だった。私は可愛い。だって、その気持ちを大事にしないのは、彼の気持ちを否定することになってしまうから。私が彼に好きだと伝えたいように、彼が私にくれた、大事な気持ち。そう思えると、なんだか自分のことを少しだけ、私だって可愛いのかもしれないと初めて受け入れられるような気がした。
それはメイクをしている私のことでも、していない私のことでもない。どちらでもなく、どちらでもある本当の私。それが私なのだと、自分のことを受け入れられたことで初めて気がついた。
私は私だ。卑屈な意味を持った言葉でも、無理に前を向く為の言葉でもなく、ただ真っ直ぐにそう思えた。それを教えてくれたのは彼だ。
彼は、私の知らない答えを教えてくれる。また彼に会いたい。彼と話がしたい。彼は一体、どんな人なのだろう。
——彼のことがもっと知りたい。
それからの私はバイトのあとにあの駅へ向かうことが習慣になり、二十三時までのたった十分ほどの短い時間の中で、私達は少しずつ会話を重ね、距離を縮めていくようになった。
彼の名前は遠谷さん。大学に通っていて、ストリートライブは趣味でやっているらしく、返事の代わりに私は高校生だと伝えると、知ってるよと遠谷さんは笑った。それはそうか。私はいつも制服だし、生徒手帳も拾ってもらったんだから。
高校生がこんな時間にうろついてるのは危ないよ、と言いながらも、明らかに私が通い始めてることに気づいているのに、それをやめるよう言わない遠谷さん。
そんな遠谷さんの対応に、もしかしたら私と同じように会える時間を楽しみにしてくれているのかもしれないと思うと、私はいつも心がそわそわして、ぽかぽか温まった。
遠谷さんと会う真夜中の駅前は、いつも穏やかなのにドキドキと胸が高鳴る、私にとって特別な時間だった。
あの日から二日後に持ち物検査があったことで発覚した。いつも入れてるはずの鞄の中に生徒手帳が入っていないと。もちろん先生から怒られたし、私の個人情報が晒されているかもと思うと気が気じゃなくて、バイト先でも最寄駅でも必死になって探したけれど、見つからなかった。
となるともう、あと思いつくとしたらあの日の慌てて走り去った夜しかなくて……。
「…………」
今、私はバイトを終えて、またこの場所にいる。彼が歌う、真夜中の時計台の前に。
居ないかもしれないと思ったけど、やっぱり今日も彼はここで歌っていた。
どうしよう……めっちゃ気まずい。でも今駅の人に聞いても預かってないって言ってたし、もうこの人に聞いてみるしか……。
「あ、君!」
「!」
前回同様少し離れた場所に立ち、どうしようかと悩んでいると、演奏する手をとめた彼から声を掛けられた。まさかのことにびっくりして固まる私に、彼はあの日のように自分の前に来るよう手招きするので、断るわけにもいかず、渋々そこに立つ。緊張で、心臓が嫌な感じにドキドキしている。
……大丈夫。今日は大丈夫。さっき鏡で顔の確認したし。今は見られても大丈夫だけど、あの日は本当に駄目だった……あぁ、思い出したらもう帰りたい。早く聞くだけ聞いて帰ろう!
「あ、あの……っ、」
「はいこれ。君のでしょ?」
そう言って、私が問い掛ける前に彼が差し出したそれは、正しく私の生徒手帳。
「これ……!」
「あ。悪用とかしてないよ? 盗んだとかでもなくて」
「も、もちろん! 疑ってるとかじゃ……その、びっくりして」
驚きのあまり身体をこわばらせながらも、なんとか両手で受け取ることが出来た私。彼も私に渡せたことでほっとした様子だった。
「……その、ありがとうございました。探してたんです。見つからなくて」
「この間走って帰った時に落としてたよ。駅員さんに預けようかと思ったんだけど、また来てくれるかなぁと思って持ってた」
「え……! そ、そうなんですね。なんかすみません……」
「いやこちらこそ。来てくれて嬉しかった。また聞きに来てくれたの?」
「あ、えっと……」
「あ。今回は探しにだった? ごめん、調子に乗ってしまいました」
「いえっ! そんな……っ」
あぁ、もう。こんなおどおどした態度、普段の私らしくなくてすごく恥ずかしい。でもどうしても上手く言葉がでないし、真っ直ぐに目を見られなかった。
だって私の顔を見られるのが恥ずかしい。彼はもう私のメイクの崩れた真っ黒の顔を知ってると思うと、汚い顔を見せてしまったという恥ずかしさの他に、今のメイクした自分は偽物ですと目の前で宣言しているような気分だった。
「まぁ今回の目的が何にせよ、この間はどうもありがとう。あんなに直球で好きだって言ってもらえたの初めてで、すごく嬉しかった」
「えっ? あ、え?」
そ、そうだ! そうだった私、あの時感極まってそんなことを……! しかもあの顔で……! 最悪だ!
「すみません! あの時勢いで……!」
「え? 嘘だったってこと?」
「ちがっ、違くてっ。好きなのは本当です! 本当にその、救われたんです。あの歌に」
「…………」
「本当になんでだろうってくらい今の私の悩みへの答えだったっていうか、私には辿り着けなかった答えを教えてくれたっていうか……。だからそれでつい大泣きを……」
だ、だめだ。またあの時を思い出して心が折れそう。
「あ、あんな汚いものを晒してしまい、申し訳ありません……消えてなくなりたい」
「汚いもの?」
「私の顔です……! メイク落ちてドロドロで」
「全然。可愛かったよ」
「いやそんなわけっ、……え?」
「?」
「い、今なんて?」
「あぁ。可愛いって。俺の歌を聞いて感動して泣いてくれてる女の子が可愛くないわけないよ」
「……!」
驚きのあまり、パクパクと口から言葉が出なくて、空気だけが行ったり来たり。びっくりし過ぎるとこうなるんだって、どこか冷静な頭の隅で思ったのち、初めて言われた年上の男の人からの可愛いの衝撃と、嬉しさと、感動の先に、あっさりと告げられたその言葉の重さが、私の価値観と違うことに気がついた。
……え、大人の人ってこんなに簡単に可愛いって言っちゃうの?
「だ、駄目ですよ! 女の子に可愛いってそんな簡単に言ったら駄目です!」
「そうなの? 嬉しくない?」
「嬉しいですけど! ですけど、本当の本当に思った時に取っておくべきです!」
「なんで?」
「なんでって……そりゃあ価値が下がるからですよ! 可愛いって言葉は大事な言葉です」
「価値が下がるか……なるほどなぁ。でも本当なんだけどなぁ」
「いえ! 実際にあの顔も私も可愛くないので! 」
「…………」
私の言葉に、彼は黙って私をじっと見つめる。ここでようやくしっかりと見られた彼の顔が思った以上に整っていることに気がついて、ついドキッとしたけれど、そんな私の心はよそに、彼はムッとした表情をして小さく溜め息をついた。
「俺の可愛いが駄目ならさ、君の好きも同じでしょ? 大事な時に取っておかないと価値が下がるよ」
「! 私の好きは本当に好きです! すごくいい曲です!」
「いえ。実際にあの曲も俺もいいものでは無いので」
「そんな……っ、」
なんでだろう。なんでそんなことを言うんだろう。あんなに心動かされた曲は初めてだったのに、それを駄目なものみたいに言わないで欲しい……!
「……ね? 否定されると悲しいでしょ? だからちゃんと、俺が可愛いって思った君のことも受け入れてあげてね」
「!」
「俺、嬉しかったよ。そんなに褒めてもらえるようなものじゃないってわかってても、君がボロボロ泣いて、真っ直ぐ伝えてくれた言葉が嬉しかった。だからお互い、大事にしていこう」
「…………」
……この人は、なんて優しい人なんだろう。
「……わかりました。……ごめんなさい」
「いえこちらこそ。こんなことになっちゃってあれだけど……最後に一曲聞いてく?」
その彼の提案にもちろん頷いて、昨日と同じ曲を一曲だけ聞かせてもらって、その夜は終わりを迎えた。
帰りの電車に揺られながら、彼の言葉が頭の中を巡る。
『否定されると悲しいでしょ? だからちゃんと、俺が可愛いって思った君のことも受け入れてあげてね』
まるで魔法の言葉だった。私は可愛い。だって、その気持ちを大事にしないのは、彼の気持ちを否定することになってしまうから。私が彼に好きだと伝えたいように、彼が私にくれた、大事な気持ち。そう思えると、なんだか自分のことを少しだけ、私だって可愛いのかもしれないと初めて受け入れられるような気がした。
それはメイクをしている私のことでも、していない私のことでもない。どちらでもなく、どちらでもある本当の私。それが私なのだと、自分のことを受け入れられたことで初めて気がついた。
私は私だ。卑屈な意味を持った言葉でも、無理に前を向く為の言葉でもなく、ただ真っ直ぐにそう思えた。それを教えてくれたのは彼だ。
彼は、私の知らない答えを教えてくれる。また彼に会いたい。彼と話がしたい。彼は一体、どんな人なのだろう。
——彼のことがもっと知りたい。
それからの私はバイトのあとにあの駅へ向かうことが習慣になり、二十三時までのたった十分ほどの短い時間の中で、私達は少しずつ会話を重ね、距離を縮めていくようになった。
彼の名前は遠谷さん。大学に通っていて、ストリートライブは趣味でやっているらしく、返事の代わりに私は高校生だと伝えると、知ってるよと遠谷さんは笑った。それはそうか。私はいつも制服だし、生徒手帳も拾ってもらったんだから。
高校生がこんな時間にうろついてるのは危ないよ、と言いながらも、明らかに私が通い始めてることに気づいているのに、それをやめるよう言わない遠谷さん。
そんな遠谷さんの対応に、もしかしたら私と同じように会える時間を楽しみにしてくれているのかもしれないと思うと、私はいつも心がそわそわして、ぽかぽか温まった。
遠谷さんと会う真夜中の駅前は、いつも穏やかなのにドキドキと胸が高鳴る、私にとって特別な時間だった。