私の朝は早い。何故なら単純に通学とメイクに時間がかかるから。
 昨日帰るのが遅くなったせいでだいぶハードな朝を迎えることになったけど、それでも心は温かく、今日が始まることにわくわくした。
 だって、もしかしたら私を受け入れてくれる誰かが居るかもしれないって、そう思えるだけでこの世界が輝きだしたから。あの歌を作った人がこの世に存在することが何よりの証拠だった。
 またあの歌が聴きたいな……。歌ってた人、名前はなんて言うんだろう。あの人が作ったんだったらもっと素敵だな。だって本人に会えたってことでしょ? そうだったらいいのに。でも、きっといつも歌ってるわけじゃないよね……。

「おはよう陽ちゃん。どうしたの? 難しい顔して」
「あ、おはよう紗央里ちゃん。……してる? そんな顔」

 高校の最寄駅を出て通学路を歩いていると、紗央里ちゃんが声を掛けてくれた。私の問いに紗央里ちゃんはうんうんと大きく頷くと、「何か考えごと?」と聞いてくれる。

「考えごと……は、してる」
「悩んでるの?」
「そうじゃないんだけど、なんていうか……」

 ここで紗央里ちゃんに、この曲知ってる?と聞けたら良かったんだと思う。でも、言いたくない気持ちがあって、言葉にすることが出来なかった。

「……ちょっと寝不足で。ちゃんと目のくま隠れてる?」

 だって、言ってしまったら、私の全てを話さないといけない気がして怖かったから。私の秘密はもちろんのこと、昨日の出来事は、この曲は、私の中の誰にも触られたくない大事な宝物になっていた。

「もちろん今日のメイクもバッチリ可愛いけどさ、珍しいね。いつもちゃんと寝ないと駄目だって陽ちゃんが言ってるのに」
「ね。お肌のゴールデンタイム逃したくなかったんだけど、バイトが忙しくて……」
「あー、残されて帰れなかったの? あるあるだよねー」

 すんなり信じてくれて、私のことまで気遣ってくれる紗央里ちゃんにチクリと罪悪感が胸に刺さる。
 「私も頑張るから一緒に頑張ろー!」と、今日もキラキラ可愛い紗央里ちゃんが眩しかった。優しくて明るくて、素直で可愛い。彼女は私の憧れの女の子。

「……うん。ありがとう」

 素敵だなって思うたびに自分の嫌な所が勝手に見つかって、大好きだなって思うほどに憧れが募り、ゴールが遠く感じる。
 いつか、こんな気持ちがなくなる日は来るのかな。あの人なら、わかるのかな。
 昨日の曲をあの人が作ったのだとしたら、あの歌詞もあの人が作ったものかもしれない。あの人なら私の知らない世界を知っていて、私の答えを持っている。そんな気がして仕方なかった。
 ——もう一度、あの人に会いたい。

 放課後になり、いつも通りにバイト先へ向かう。ホールの仕事をこなしながらも、ずっと頭の中はこの後のことでいっぱいだった。
 明日はバイトがないから、今日行かないと昨日と同じ時間にあの駅に行くことが出来ない。あんなに遅い時間に家を出たら流石に親に引き止められてしまうから。だから、出来ることなら今日もう一度、帰りにあの駅に寄っていきたいと思っていた。
 ……でも、昨日の今日でまた居るのかな。
 バイトの上がる時間が近づくにつれて、やっぱり居ないだろうし流石に怒られるから、とか、でも会いたいからもう一度確かめるだけでも、なんて言葉が頭の中を行ったり来たりして、休憩室でメイク直しをしながらもずっと悩んでいた。
 「お疲れ様でした」と挨拶したのも覚えていないような状態で駅に着き、改札を抜け電車に乗り、そのまま降りるはずの自宅の最寄り駅を乗り越して——。

「……来ちゃった……」

 今、化粧室の鏡の前に私は居る。やっぱり会いたい気持ちが強かった。悩んだ振りしてきっと初めから決まってたんだと思う。じゃなきゃ今ここに居ない。だけどバイト先のあと、乗った駅でメイクの確認を忘れて電車に乗っちゃったんだったと気がついて、いつも通りに化粧室に飛び込み、鏡の前で今起こっている現実と向き合った。私って、結構ヤバい奴では……?

「……はぁ。とにかく行くしかない」

 時刻は昨日と同じ、あと十分ほどで二十三時になる所。昨日は二十三時には終わったはず。ここまで来てグズグズしてるうちに終わっちゃいました、なんてシャレにならない。
 どうか居ますように。居ますように……!
 祈る思いで駅を出ると、昨日と同じ古びた時計台の前。ぼんやりと照らす街頭の下に、彼は居た。

「っ、」

 居た! 今日も居た! 心は大喜びなはずなのに、呼吸が止まったようにピタリと静かになる私の全て。
 吸い込まれるように彼の声に耳を傾ける。

 ——嘘で塗り固まった自分が重い。だけど誰も気づいてないから、この重みを知るのは自分だけ。
 
 あぁ、昨日の歌だとすぐに気づいた。一歩、一歩と彼に近づく。今日もこんな時間だ。他に彼の歌を聞いている人は居なくて、どこまで近づいていいのかわからないまま、少し離れた距離で足を止めた。
 昨日より近い、私達の距離。

 ——知ってるよ。だから僕はここにいる。君の嘘は君の心。君の努力。誰も知らない、僕だけの宝物。

 グッと来て胸に手をやる。彼の声は消えてしまいそうな繊細さがあるのに、温かい包容力がある。私を受け入れてくれる、この歌が好き。あなたが好き。初めてだった、こんな気持ちになるのは。胸がギュッと切なくて苦しい。

 ——君の全部が、僕の大切な宝物。

 あぁ、終わってしまう。
 アコースティックギターの音色を聞きながら、彼の歌が終わってしまうことを寂しく思った。だって終わったらすぐに彼は帰ってしまう。昨日の彼がそうだったから、今日の彼もきっとそう。
 こんなに名残惜しく思ってる気持ちは彼に届いているだろうか。少し離れた位置にいる私に彼は気づいているだろうか。
 ついに、曲が終わってしまった。

「………」

 ……あれ? どうしたんだろう。
 昨日とは違い、その場にじっと佇む彼。が、ふとこちらを向いた。

「あの、もしかして聞いてくれてました?」
「! は、はい!」
「そっか。じゃあ時間まであと一曲歌えるんで、良かったらもっと傍で聞きませんか?」

 そう言って彼は自分の目の前を指差すので、私は真っ白になった頭でとりあえずうんうんと大きく頷くと、何も考えずに彼の目の前に立った。

「……えっと、じゃあ最後。『憧れ』」

 優しくギターを鳴らすと、俯いた彼の口から私の知らない歌が(こぼ)れるように優しく(あふ)れ出す。彼の声に乗せて。

 ——羨んでばかりはいられない。でも、羨ましく思うからあなたは僕の憧れで。きっと手が届かないから、あなたは僕の憧れで。

 ——あなたがいるから僕は知る。それが辛い現実だと。あなたがいるから僕は知る。それが幸せな夢なのだと。全ては進んだ先にある未来の話。

 ——どうせ届かないのはわかってる。でもあなたが僕の目標だから。ずっとあなたを憧れていたい。僕の憧れでいてください。そんな今が、きっと幸せ。
 
 ……どうしよう。
 溢れる涙を隠すように俯いて、そっと涙を拭った。何度も何度も。溢れてやまないそれは間違いなく私の感情だった。

 ——憧れは憧れでいいじゃない。あなたに会えた僕は幸せ。ずっとあなたを追いかけさせて。そんな今が、きっと本当は一番幸せ。

 私の憧れは可愛い女の子。私の憧れは可愛い紗央里ちゃん。私とは正反対の大好きな彼女を見るたびに、ゴールが果てしなく遠く思えて心が折れそうになる。
 毎日毎日、憧れを目指して頑張る今日に疲れていた。だってきっと紗央里ちゃんみたいにはなれない。私は私だから。永遠に彼女に追い付くことは出来ないんだって、本当は心のどこかでわかってた。でも、彼は言う。

 ——どうせ届かないのはわかってる。でもあなたが僕の目標だから。ずっとあなたを憧れていたい。僕の憧れでいてください。そんな今が、きっと幸せ。
 
 ——憧れは憧れでいいじゃない。あなたに会えた僕は幸せ。ずっとあなたを追いかけさせて。そんな今が、きっと本当は一番幸せ。

 なんでわからなかったんだろう。憧れは追いつかなくちゃならないものだって、ずっと思い込んでた。その思い込みが自分の首を絞めていたんだ。
 憧れは追いつかなきゃならないものじゃない。憧れは目標で、そこを目指す目印の様なもの。
 可愛くなりたい私が一歩踏み出したから、紗央里ちゃんという憧れの女の子に出会えた。紗央里ちゃんという目標があるから、私は道を迷うことなく真っ直ぐに進んでいくことが出来るんだ。
 そんな簡単なことをすっかり忘れていた。ひとりぼっちでメイクを練習していた時と比べたら今の方がずっと楽しい。それはきっと紗央里ちゃんが居てくれるから。
 ボロボロと涙を流す私を置いて、最後の曲が終わる。あぁ、まだ聞いていたいのに。
 優しく儚い彼の声は私の背中を撫でて慰めてくれているようで、気持ちがわかるよ、一緒に頑張ろうと背中を押してくれているようでもあった。
 昨日もそう。この歌は、彼の歌は、私の傍に寄り添い、新しい世界へ連れて行ってくれる。

「……えっと、おしまいです」
「はい……ありがとうございました」
「こちらこそだけど……あの、大丈夫?」

 俯いて涙を流す私に心配そうに掛けてくれた声が聞こえる。歌っていたときよりも少し低い声。これが普段の彼の声だと思うと、急に今、彼が目の前に居るんだという実感がむくむくと湧いてきて、

「〜〜あのっ!」

 ガバッと勢いよく顔を上げた先、彼と目が合った。なんだかキラキラと輝いているように見えて、胸の奥から感動が一気に込み上げる。

「この曲、あなたが作ったんですか?」
「そ、そうです」
「歌詞も?」
「歌詞も全部です」
「好きです! 昨日の曲もこの曲も、作ってくれたあなたも好き!」

 感情のままに言葉が口から飛び出して、その勢いのままハッと我に返る。今の私、ドロドロに顔崩れてない……?
 ポカンと口を開けて戸惑っている彼の表情を確認して、思ったよりもその距離が近い事実に慌ててその場を飛び退くと、そのまま逃げるように改札に飛び込んだ。化粧室で鏡を確認するとやっぱり目の周りが黒く滲んでしまっていて、もう最悪な気分だった。
 これをあの距離で見られたなんて……本当に最悪。真夜中といえど街灯の下じゃ私の顔が隠れるほどの暗さは期待出来ない。
 終わったなと、絶望しながらメイクを直してやってきた電車に乗ると、あっという間に降りるはずの駅まで着いた。きっと心が抜け殻になっていたからだ。呆然と降りた駅のホームに立ちつくし、もうあの駅には行けない。行かないと覚悟を決めてその日を終えることとなった。