アラームが鳴り、私は眠気をおしてカーテンを開いた。
 まぶしすぎる。朝陽を浴びるのはいつぶりだろう。
 眠たいし、頭が重い。早起きは三文の徳という言葉があるが、三文は現代でいうと百円にも満たないらしい。こんなにつらいならもっと高くないと、五万くらいないと割に合わないと思う。
 私は朝陽から、世界から逃げるようにまくらに顔をうずめる。まっくらだ。なんちゃって。
 …………学校行こ。
 私はもぞもぞと起き上がり、制服の袖に腕を通した。

 教室に入ると、ほんの一瞬、空気が止まってまたすぐに動き出した。
 大半のクラスメイトは私をちらりと見るだけで私のことを気にも留めていないが、一部男子たちが私を見てこそこそと顔を合わせる。
「うっしゃ! 今日の昼飯お前のおごりな」
「まじかよ。今日月曜だぜ? ぜってー来ねーと思ったのに」
 どうやら私は賭け事の対象らしい。
 今まで気が向いた時だけ学校に来ていたやつの連続登校はいつまで続くのか、ってところだろう。
 チャイムが鳴り、朝のホームルームが始まる。
 担任のつまらない世間話を聞き流しながら、私はめらめらと燃えていた。
 連続登校がいつまで続くのか? おもしろいじゃん。
 私は、私が卒業するまで通い続けるに賭けてやるよ。


「え? 私卒業できないの?」
 昼休み。職員室に呼ばれ、担任から今の私のヤバさを説明された。
「いや、進級がね、できないの。今のままじゃ」
 卒業までに必要な出席日数はギリギリ足りている。前のような生活に戻ればすぐにダメになるらしいが、出席日数は大丈夫。
 問題は授業態度と成績だ。
 私はなれない早起き生活の弊害で午前中の授業はほとんど寝てしまっている。それに成績も昔の私と比べれば飛躍的に頭がよくなっている自負があるが、平均を見ればやはり私はまだまだ馬鹿だ。二次方程式は解けるのに、いまだに九九は言えない。そんないびつな頭脳になっている。
 担任はもう一度、今度はゆっくりと、わかりやすく説明する。
「だからね、今度のテストで一個でも赤点を取ればね、あなたは進級できないの」
「だから卒業できないってことじゃん!」
 担任は呆れた様子でこめかみをかいた。でも、分かっていないのは担任の方だ。
 担任は、私の母のことを知らない。
 進級できない。それはつまり、留年か、退学か、ということになる。
 母は私によく18になったら必ず家を出て働け、と言った。働いた金の半分は家に入れろ、とも。
 そんな母が絶対に留年なんて許してくれない。私には留年という選択肢がない。
「だからね、卒業じゃなくて、進級、……えっと、学年が一つあがることを進級て言うんだけど」
 的外れな訂正をしてくる担任を殴りたくなった。
 子ども扱いするな。進級の意味ぐらいわかる。その馬鹿を見る目をやめろ。
「横からごめんなさいね」
 するといきなり松吉先生がやってきて、爆発寸前だった感情がすーっと落ち着いた。
「河西さん、よかったね」
「……なにが?」
「授業をよく聞いて、テストで赤点を取らなければ進級できるって。大丈夫! 河西さん勉強好きだもんね」
「……うん」
 私は思わず泣いてしまいそうになって、それしか言えなかった。
 松吉先生の言葉に、担任は困った感じでこめかみではなく、頭をかいていた。
「松吉先生はときどきよくわからないことを言うなぁ」
 担任がぼそっとつぶやく。今日初めて、担任の意見に賛同した。

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、職員室を出ると今一番会いたくなかった相手が壁にもたれてスマホをいじっていた。
「姫香……?」
 姫香は私に気づくと、よっと手を挙げ寄ってきた。
 夏なのにカーディガンを羽織った姫香。久しぶりに見た姫香はかわいくなっていた。
 ぷっくりとした涙袋も、大きな瞳も、全部どこかでみた「かわいい」が詰まっていた。
「ねぇねぇ、理沙も退学する?」
 姫香も私のように呼び出しを食らったのだろう。
 このままじゃ進級、もしくは卒業できないぞって。でも、口ぶり的に考えて。
「姫香、退学する気なの?」
「まぁね。え? 逆に理沙はしないの?」
「しないよ。……ほら、親がうるさいし」
 私はとっさに嘘をついた。でも、姫香には嘘が効かない。いや、そもそも私の話を聞いていない。
「えーなんで? いっしょに退学しようよ。自由の身になろうぜ」
「私は……」
「っていうかさっきゴミ教師から言われたんだよね。河西は最近学校来てるのにお前はなにしてんだって。まじむかついたわ。理沙のせいだからな?」
 姫香は笑って私の肩を押す。その力加減から、姫香が本気で私に対してキレているのがわかった。
「理沙さ、学校になにしにきてんの?」
「……べつに。暇つぶし」
「なにそれ」
 廊下に姫香の笑い声が冷たく響き渡る。また嘘をついてしまった。
「今日夜さ、久々にカラオケいかね? 誰かいないかなー」
 そう言うと姫香はスマホをいじりだす。
 今までの私なら黙ってついていっただろう。でも、今までのままじゃダメなんだ。
 嘘つきな私のままじゃ。
 私は松吉先生のこと、そして朝のことを思い出し、拳をぐっと握る。
「私行かない」
「……は?」
「用事あるから」
 嘘はついていないが、本当のことも言えなかった。だが、私なりの小さくて、大きな成長だ。
 姫香は人差し指に爪を噛みながら、ぼそぼそと話す。
「そうやって理沙もたーくんも姫香のこと一人にするんだ」
 たーくんとは姫香の年上の彼氏のことだ。も、ってことは。
「彼氏と別れたの?」
「私のことどうでもいいくせに心配するふりとかやめてもらえる? うざいから」
 姫香はそう言い放ち、私の横を通り過ぎていった。
 その瞬間、姫香の手首が見えた。姫香の孤独の数だけ刻まれた赤い傷のついた白い手首。
 だけど、私はその腕をつかむことができなかった。
「姫香……」
 私の声は、もう届かないのかな。