路地裏や電柱など、町のあらゆるところに存在するグラフィティには実はちゃんと種類がある。
単色で自分のサインなどの文字を描くタギング。私が最近までやっていたのはこれ。
文字の枠だけを描いたものをホロー。ホローの中を塗りつぶし、影をつけたものをスローアップ。
「じゃあこれは?」
朝は高架下の壁に描かれた大きなグラフィティを指さす。これは、私が描いたものだ。
「これは一応マスターピースのつもり」
マスターピースの定義はサイトによってちがった。
文字は3色以上使用しているもの、だったり、文字だけではなくキャラクターなどが描かれているものをそう呼ぶとも書いてあった。
ただ、どのサイトにも共通して書かれた言葉があった。
マスターピースとはライターが『本気』で描くグラフィティだ、と。
「朝は、どんなのが描きたいの?」
「もちろん、マスターピース」
朝は迷わない。地面に置かれたスプレー缶を拾い上げ、インクの出をよくするために素早く振る。
蓋を開け、ノズルに置いた指に力を入れる瞬間、私は朝からスプレーを奪い取った。
「なにすんだよ!」
「まだデザインが決まってないでしょ! それにスプレーってすぐなくなるんだから!」
スプレーの値段はそれほど高くないが、複数色を、大きく描くとなるとかなり痛い出費になる。払うのは私じゃないけど。それでも目の前でもったいないことをされるのはストレスだ。
「まずは紙に描いて自分なりのデザインを考える」
「自分なりの?」
「例えば」
私は階段に腰掛け、ノートを取り出し、ペンで『L』と書く。
「上から下に線を引いて、そこから右に線を引くと『L』という文字になる。これがみんなが描く『L』。じゃあこれを逆の書き順で描いたり、わざと一回ずつノートからペンをはなして書いたり、丸っこく書いたり、かっちり書いたり……」
ノートにはたくさんの『L』の文字が描かれる。でも、そのどれもが同じものではない。
「ね、これが自分なりのデザイン」
「なるほど」
朝は私の隣へ座ってノートに『M』を普通の書き順と逆の書き順で書く。
「すげー、たしかにちょっと違うかも」
そういうと朝はいろんな描き方で『M』を描いていく。量産されていく『M』を見て、私は頭上にはてなが浮かんだ。
小野寺朝。名前に『M』なんて入らないけど。
「ねぇ、それってなんの『M』?」
朝は待ってました、と言わんばかりに口角を片方だけ上げてニヤッと笑う。
「化け物、モンスターの『M』」
こいつ、まだ根に持ってたのかよ。
朝はひたすらにペンを走らせた。私はノートを見ながら、朝の無防備な横顔を私は盗み見る。
私が化け物と口走ったことを言われるまで、朝の肌のことを忘れていた。
それよりも、朝のキラキラと輝く茶色の瞳や薄い唇に目がいってしまう。
するといきなり、朝が私の方へと振り向く。
「なんか顔赤くない?」
「……へ?」
「って、俺に言われたくないか」
そういって朝はまた自分の世界へ戻っていった。ほんとに、なんだこいつは。
朝と出会って一か月が経とうとしていた。
一か月の間、あーでもない、こーでもない、と朝はデザインをひたすら考えていた。
夜になると突然呼び出され、インスピレーションが大事だといって、山の上の展望台に連れていかれたり、レンタル自転車で県境の大きな川にかかる橋まで行ったりもした。ほとんど遊んでばっかりだったけど、楽しかったから良しとする。
朝と会った帰り道、姫香がいなくてよかったとよく考えた。姫香は最近できた年上の彼氏と同棲しており、ここ一か月顔を見ていない。
姫香は彼氏ができると、彼氏のことしか見えなくなるタイプだが、周りの人が恋人を作ると必ず邪魔をする。
相手が男でも女でも誘惑して、二人の時間に入り込む。そうして周りの人が自分のことを考えていないと気が済まない。
そもそも朝とは付き合っていないが、姫香には朝のことは言っていない。
私は、朝と過ごす時間を絶対に邪魔されたくなかった。
「これ」
その日は突然やってきた。朝のデザインが完成したという。
朝が渡してきたノートに描かれたギザギザとした『MONSTER』の文字。文字を塗りつぶす某エナジードリンクを思わせるグリーンが、文字を縁取る黒色でよく目立っている。また、文字には光沢を思わせる白い点がついており、立体感も出ている。
文字の上部分は藍色から青色へとグラデーションで彩られ、白い飛沫が飛んでいる。これは。
「もしかして、夜空?」
「そう。この白いのが星」
それは、二人で展望台で見た景色とよく似ていた。ほんとにインスピレーション受けてたんだ。
「どう? けっこういい感じじゃない? 理沙が言ってたことはおさえられてると思うんだけど」
私はじっくりと朝のグラフィティを見つめる。
文字のデザイン。色の使い方、塗り方。
朝のいうとおり、私が教えたことが、グラフィティの随所に盛り込まれている。
「で、どうよ?」
大型犬のように口を開けてぐいぐいと近づいてくる朝に、私は笑って答える。
「嬉しい。動画とかネットで見ただけの付け焼刃だけど、私の知識が朝のグラフィティの役に立って」
「……デザインがかっこいいかって聞いてんだけど」
望む答えじゃなかった朝は、不満そうに目を細める。朝はほんとに嘘がつけない、正直者だな。
『だって二人とも、正直者じゃない』
そのとき、七輪の火のような強く、じんわりとしたぬくもりが胸の内に広がり、松吉先生の顔が浮かんだ。
「私は、松吉先生のような先生になりたい」
「ん? なに急に?」
「あ、いや……」
朝の驚く顔を見て、私も驚いた。ほとんど無意識に、言葉を発していた。
「ちょっと前にね、好きな先生から聞かれたの。やりたいことはないのって。ないって答えたら、じゃあ憧れる人は、って聞かれたの」
私は自分の気持ちを言葉にできない。苦手とかじゃない、無理なんだ。怖いんだ。
本音を笑われたり、無視されたり、否定されることが。
なのになんでだろう。誰かの前でこんなに正直に自分の気持ちを話すのなんて、生まれて初めてだ。
もしかしたら、朝の正直がうつってしまったのかもしれない。
「私、こんなんだけど、先生のおかげで勉強が好きになってきたの。朝にグラフィティのこと教えたりするのもすごく楽しくて。だから」
「その先生みたいな先生になりたい?」
私はうん、とうなずきかけて、首を横に振った。
「……もうおそいけどね。今更勉強ってキャラでもないし」
松吉先生のおかげで古典の知識がついたところで、私は漢字の読み書きもできないし、小説だって読んだことはない。
九九も危ういし、都道府県は10個くらいしか知らない。義務教育をないがしろにしたツケが回ってきている。
そんな私が、勉強を人に教えるなんてできるわけがない。
気持ちが沈みかけた時、朝はおもむろに言った。
「俺は、学校に通ってみたい」
「……今は通信だっけ」
「そう。勉強は家でもできるけどさ、おれはもっと定番なことがしたい。アクエリのCMみたいな、部活で汗流したりみたいな、そういうアオハルじゃなくていいからさ、ふつーに誰かのとなりで勉強して、一緒に帰ったり、そういうやつ」
朝が望んでいるのは、学生にとってのありふれた日常だった。
しかし、その日常の空には必ず太陽がある。朝日が、夕日が、彼らの日常を色づける。
それはつまり。
「おれの夢はどうしても叶えられない」
朝は夜空に向かってつぶやく。
「でも、理沙の夢はどうにかなるって思うけどな」
「簡単に言うなよ。朝だってそんなこというならちゃんと治療受けろよ。薬とか飲んでねーんだろ?」
朝のアレルギーは今の医学では完治することはないらしい。だが、症状を緩和する薬や手術などの手はあるという。
だけど、朝は投薬も手術も拒否していた。
「俺は太く短く生きるんだよ」
けらけらと笑う朝は、出会ったころよりも痩せていた。
帰り道。私は夜空を見上げて、朝のことを思い出す。
朝は私の夢を笑わなかった。無視しなかった。否定しなかった。それに。
どうにかなるって思う。
「どうにかなるってなんだよ」
わたしはふっ、と噴き出し、よし、と覚悟を決めた。
根拠はないが嘘もない朝の言葉に、私は背中を押された。
単色で自分のサインなどの文字を描くタギング。私が最近までやっていたのはこれ。
文字の枠だけを描いたものをホロー。ホローの中を塗りつぶし、影をつけたものをスローアップ。
「じゃあこれは?」
朝は高架下の壁に描かれた大きなグラフィティを指さす。これは、私が描いたものだ。
「これは一応マスターピースのつもり」
マスターピースの定義はサイトによってちがった。
文字は3色以上使用しているもの、だったり、文字だけではなくキャラクターなどが描かれているものをそう呼ぶとも書いてあった。
ただ、どのサイトにも共通して書かれた言葉があった。
マスターピースとはライターが『本気』で描くグラフィティだ、と。
「朝は、どんなのが描きたいの?」
「もちろん、マスターピース」
朝は迷わない。地面に置かれたスプレー缶を拾い上げ、インクの出をよくするために素早く振る。
蓋を開け、ノズルに置いた指に力を入れる瞬間、私は朝からスプレーを奪い取った。
「なにすんだよ!」
「まだデザインが決まってないでしょ! それにスプレーってすぐなくなるんだから!」
スプレーの値段はそれほど高くないが、複数色を、大きく描くとなるとかなり痛い出費になる。払うのは私じゃないけど。それでも目の前でもったいないことをされるのはストレスだ。
「まずは紙に描いて自分なりのデザインを考える」
「自分なりの?」
「例えば」
私は階段に腰掛け、ノートを取り出し、ペンで『L』と書く。
「上から下に線を引いて、そこから右に線を引くと『L』という文字になる。これがみんなが描く『L』。じゃあこれを逆の書き順で描いたり、わざと一回ずつノートからペンをはなして書いたり、丸っこく書いたり、かっちり書いたり……」
ノートにはたくさんの『L』の文字が描かれる。でも、そのどれもが同じものではない。
「ね、これが自分なりのデザイン」
「なるほど」
朝は私の隣へ座ってノートに『M』を普通の書き順と逆の書き順で書く。
「すげー、たしかにちょっと違うかも」
そういうと朝はいろんな描き方で『M』を描いていく。量産されていく『M』を見て、私は頭上にはてなが浮かんだ。
小野寺朝。名前に『M』なんて入らないけど。
「ねぇ、それってなんの『M』?」
朝は待ってました、と言わんばかりに口角を片方だけ上げてニヤッと笑う。
「化け物、モンスターの『M』」
こいつ、まだ根に持ってたのかよ。
朝はひたすらにペンを走らせた。私はノートを見ながら、朝の無防備な横顔を私は盗み見る。
私が化け物と口走ったことを言われるまで、朝の肌のことを忘れていた。
それよりも、朝のキラキラと輝く茶色の瞳や薄い唇に目がいってしまう。
するといきなり、朝が私の方へと振り向く。
「なんか顔赤くない?」
「……へ?」
「って、俺に言われたくないか」
そういって朝はまた自分の世界へ戻っていった。ほんとに、なんだこいつは。
朝と出会って一か月が経とうとしていた。
一か月の間、あーでもない、こーでもない、と朝はデザインをひたすら考えていた。
夜になると突然呼び出され、インスピレーションが大事だといって、山の上の展望台に連れていかれたり、レンタル自転車で県境の大きな川にかかる橋まで行ったりもした。ほとんど遊んでばっかりだったけど、楽しかったから良しとする。
朝と会った帰り道、姫香がいなくてよかったとよく考えた。姫香は最近できた年上の彼氏と同棲しており、ここ一か月顔を見ていない。
姫香は彼氏ができると、彼氏のことしか見えなくなるタイプだが、周りの人が恋人を作ると必ず邪魔をする。
相手が男でも女でも誘惑して、二人の時間に入り込む。そうして周りの人が自分のことを考えていないと気が済まない。
そもそも朝とは付き合っていないが、姫香には朝のことは言っていない。
私は、朝と過ごす時間を絶対に邪魔されたくなかった。
「これ」
その日は突然やってきた。朝のデザインが完成したという。
朝が渡してきたノートに描かれたギザギザとした『MONSTER』の文字。文字を塗りつぶす某エナジードリンクを思わせるグリーンが、文字を縁取る黒色でよく目立っている。また、文字には光沢を思わせる白い点がついており、立体感も出ている。
文字の上部分は藍色から青色へとグラデーションで彩られ、白い飛沫が飛んでいる。これは。
「もしかして、夜空?」
「そう。この白いのが星」
それは、二人で展望台で見た景色とよく似ていた。ほんとにインスピレーション受けてたんだ。
「どう? けっこういい感じじゃない? 理沙が言ってたことはおさえられてると思うんだけど」
私はじっくりと朝のグラフィティを見つめる。
文字のデザイン。色の使い方、塗り方。
朝のいうとおり、私が教えたことが、グラフィティの随所に盛り込まれている。
「で、どうよ?」
大型犬のように口を開けてぐいぐいと近づいてくる朝に、私は笑って答える。
「嬉しい。動画とかネットで見ただけの付け焼刃だけど、私の知識が朝のグラフィティの役に立って」
「……デザインがかっこいいかって聞いてんだけど」
望む答えじゃなかった朝は、不満そうに目を細める。朝はほんとに嘘がつけない、正直者だな。
『だって二人とも、正直者じゃない』
そのとき、七輪の火のような強く、じんわりとしたぬくもりが胸の内に広がり、松吉先生の顔が浮かんだ。
「私は、松吉先生のような先生になりたい」
「ん? なに急に?」
「あ、いや……」
朝の驚く顔を見て、私も驚いた。ほとんど無意識に、言葉を発していた。
「ちょっと前にね、好きな先生から聞かれたの。やりたいことはないのって。ないって答えたら、じゃあ憧れる人は、って聞かれたの」
私は自分の気持ちを言葉にできない。苦手とかじゃない、無理なんだ。怖いんだ。
本音を笑われたり、無視されたり、否定されることが。
なのになんでだろう。誰かの前でこんなに正直に自分の気持ちを話すのなんて、生まれて初めてだ。
もしかしたら、朝の正直がうつってしまったのかもしれない。
「私、こんなんだけど、先生のおかげで勉強が好きになってきたの。朝にグラフィティのこと教えたりするのもすごく楽しくて。だから」
「その先生みたいな先生になりたい?」
私はうん、とうなずきかけて、首を横に振った。
「……もうおそいけどね。今更勉強ってキャラでもないし」
松吉先生のおかげで古典の知識がついたところで、私は漢字の読み書きもできないし、小説だって読んだことはない。
九九も危ういし、都道府県は10個くらいしか知らない。義務教育をないがしろにしたツケが回ってきている。
そんな私が、勉強を人に教えるなんてできるわけがない。
気持ちが沈みかけた時、朝はおもむろに言った。
「俺は、学校に通ってみたい」
「……今は通信だっけ」
「そう。勉強は家でもできるけどさ、おれはもっと定番なことがしたい。アクエリのCMみたいな、部活で汗流したりみたいな、そういうアオハルじゃなくていいからさ、ふつーに誰かのとなりで勉強して、一緒に帰ったり、そういうやつ」
朝が望んでいるのは、学生にとってのありふれた日常だった。
しかし、その日常の空には必ず太陽がある。朝日が、夕日が、彼らの日常を色づける。
それはつまり。
「おれの夢はどうしても叶えられない」
朝は夜空に向かってつぶやく。
「でも、理沙の夢はどうにかなるって思うけどな」
「簡単に言うなよ。朝だってそんなこというならちゃんと治療受けろよ。薬とか飲んでねーんだろ?」
朝のアレルギーは今の医学では完治することはないらしい。だが、症状を緩和する薬や手術などの手はあるという。
だけど、朝は投薬も手術も拒否していた。
「俺は太く短く生きるんだよ」
けらけらと笑う朝は、出会ったころよりも痩せていた。
帰り道。私は夜空を見上げて、朝のことを思い出す。
朝は私の夢を笑わなかった。無視しなかった。否定しなかった。それに。
どうにかなるって思う。
「どうにかなるってなんだよ」
わたしはふっ、と噴き出し、よし、と覚悟を決めた。
根拠はないが嘘もない朝の言葉に、私は背中を押された。