「化け物?」
「そう。夜にだけあらわれる化け物」
そんな会話が私の周りでよく聞こえるようになった。
誰かが近くで見かけたとか、話しかけられたとか、襲われたとか、食べられたとか。
皮膚が赤いとか、鋭い牙が生えているとか、地獄を這うような低い声とか。
噂は立派な尾ひれをつけて、私の周りを遊泳している。
くだらないなぁ、と思いながら私は今日もスプレーを噴く。
はじまりは、ゴミ捨て場に転がっていた一本のスプレー缶だった。
その時一緒にいた男(名前は忘れた)が拾い上げ、塀に向かってノズルを押す。すると、予想に反しスプレーは勢いよく噴射し、灰色のブロック塀に白いインクが垂れた。
それから男子はDr.スランプアラレちゃんのようなわかりやすいうんちのイラストを描き、みんなはゲラゲラと笑った。大きさ、バランス、先端のとがり具合、すべてがちょうどいいうんちだった。
スプレー缶はまだ数本あった。
「はい」
姫香に差し出され、私はなんとなく手に取る。
みんなが思い思いのくだらないイラストや下品な言葉を描く中、私はなにを描くか迷っていた。
結局その後、私がなにかを描く前に巡回の警察がやってきて、私たちは散り散りになって逃げた。
私と姫香は高架下へとたどり着いた。私と姫香は息を切らして、壁にもたれかかる。
「私も、ああいうの描いてみたいな」
姫香が指さす先にはスプレーで描かれた大きな文字のような落書きがあった。
しかしその落書きは落書きというにはあまりにも色遣いがきれいで、飛び出してきそうなほど立体的で勢いがあり、存在感を放っていた。その落書きに私は心を奪われた。
私はスマホで調べた。ああいう類の落書きはグラフィティアートというらしい。
動画サイトで描き方を学び、グラフィティアートの制作風景の様子を見て研究した。
練習もした。足りなくなったらスプレーを買い足した。ネイルはインクで汚れるから止めた。
そして本番。私たちは高架下に集まった。みんなにデザインを伝え、スプレーの噴き方を教えた。
だが、ものの1時間でみんな飽きて帰ってしまい、結局私一人で描きあげた。気がつけば、空が白ずんでいた。
縦横1.5メートルの大きなグラフィティだ。私は最後の仕上げに、右端にLisaと記した。初めて筆記体で自分の名前を書いた。
私はその日、久しぶりに満ち足りた気分で眠った。
「マジで描いてるし。なに夢中になっちゃってんの?? サインまでしてるし」
次の日。姫香やみんなは私のグラフィティを見て笑った。私も「だよね」と言って笑った。
それから私はグラフィティを描くことはなかった。
でも、スプレーを噴くことだけはやめられなくて、自分のサインを町のあちこちに噴いた。
Lisaを少し変えてLiar。私はうそつきだ、と。
月明かりが照らす満月の夜。時間はすでに0時を過ぎている。その日も私は、いつもように私はスプレーを噴いていた。
カラカラ……と空っぽで、バカみたいな音を響かせて。すると。
「見つけたぞ。うそつき」
月が雲に隠れた時、そんな声が聞こえた。低く、がさついた声だった。私はとっさに声のする方へふり向く。
人の影は見える。私よりも高い身長、細いが角ばった体格、そしてさっきの声からして男だろう。しかし、もうすぐ夏だというのに厚手のパーカーを着ているせいでそれ以上の情報は分からない。
だれ、と聞こうとしたとき、雲が晴れ、月明かりが男の正体を教えてくれた。
首元まで伸びた枝毛だらけの髪の毛。鋭い目つき。いや、そんなことは些末なことだ。
頬、首筋、手の甲。男の見える範囲すべての肌は、どこも赤黒くただれていた。
肌が、赤い。低い声。
私は、いつしか聞いた噂を思い出した。
「化け物……」
「そう。夜にだけあらわれる化け物」
そんな会話が私の周りでよく聞こえるようになった。
誰かが近くで見かけたとか、話しかけられたとか、襲われたとか、食べられたとか。
皮膚が赤いとか、鋭い牙が生えているとか、地獄を這うような低い声とか。
噂は立派な尾ひれをつけて、私の周りを遊泳している。
くだらないなぁ、と思いながら私は今日もスプレーを噴く。
はじまりは、ゴミ捨て場に転がっていた一本のスプレー缶だった。
その時一緒にいた男(名前は忘れた)が拾い上げ、塀に向かってノズルを押す。すると、予想に反しスプレーは勢いよく噴射し、灰色のブロック塀に白いインクが垂れた。
それから男子はDr.スランプアラレちゃんのようなわかりやすいうんちのイラストを描き、みんなはゲラゲラと笑った。大きさ、バランス、先端のとがり具合、すべてがちょうどいいうんちだった。
スプレー缶はまだ数本あった。
「はい」
姫香に差し出され、私はなんとなく手に取る。
みんなが思い思いのくだらないイラストや下品な言葉を描く中、私はなにを描くか迷っていた。
結局その後、私がなにかを描く前に巡回の警察がやってきて、私たちは散り散りになって逃げた。
私と姫香は高架下へとたどり着いた。私と姫香は息を切らして、壁にもたれかかる。
「私も、ああいうの描いてみたいな」
姫香が指さす先にはスプレーで描かれた大きな文字のような落書きがあった。
しかしその落書きは落書きというにはあまりにも色遣いがきれいで、飛び出してきそうなほど立体的で勢いがあり、存在感を放っていた。その落書きに私は心を奪われた。
私はスマホで調べた。ああいう類の落書きはグラフィティアートというらしい。
動画サイトで描き方を学び、グラフィティアートの制作風景の様子を見て研究した。
練習もした。足りなくなったらスプレーを買い足した。ネイルはインクで汚れるから止めた。
そして本番。私たちは高架下に集まった。みんなにデザインを伝え、スプレーの噴き方を教えた。
だが、ものの1時間でみんな飽きて帰ってしまい、結局私一人で描きあげた。気がつけば、空が白ずんでいた。
縦横1.5メートルの大きなグラフィティだ。私は最後の仕上げに、右端にLisaと記した。初めて筆記体で自分の名前を書いた。
私はその日、久しぶりに満ち足りた気分で眠った。
「マジで描いてるし。なに夢中になっちゃってんの?? サインまでしてるし」
次の日。姫香やみんなは私のグラフィティを見て笑った。私も「だよね」と言って笑った。
それから私はグラフィティを描くことはなかった。
でも、スプレーを噴くことだけはやめられなくて、自分のサインを町のあちこちに噴いた。
Lisaを少し変えてLiar。私はうそつきだ、と。
月明かりが照らす満月の夜。時間はすでに0時を過ぎている。その日も私は、いつもように私はスプレーを噴いていた。
カラカラ……と空っぽで、バカみたいな音を響かせて。すると。
「見つけたぞ。うそつき」
月が雲に隠れた時、そんな声が聞こえた。低く、がさついた声だった。私はとっさに声のする方へふり向く。
人の影は見える。私よりも高い身長、細いが角ばった体格、そしてさっきの声からして男だろう。しかし、もうすぐ夏だというのに厚手のパーカーを着ているせいでそれ以上の情報は分からない。
だれ、と聞こうとしたとき、雲が晴れ、月明かりが男の正体を教えてくれた。
首元まで伸びた枝毛だらけの髪の毛。鋭い目つき。いや、そんなことは些末なことだ。
頬、首筋、手の甲。男の見える範囲すべての肌は、どこも赤黒くただれていた。
肌が、赤い。低い声。
私は、いつしか聞いた噂を思い出した。
「化け物……」