月が空のてっぺんまで昇り、また傾いたころ、スプレーがすべて空になった。
グラフィティはまだ途中。そもそも朝のデザインは複雑すぎて、今日の夜だけで完成するようなスケールじゃない。
だが、この調子なら一週間もあれば完成するだろう。
私は汚くもきれいに染まった両手を見て、ほっと息を吐く。
「続きはまた明日の夜かな」
そういってそこら中に散らばったスプレー缶を拾い上げていると、朝はおもむろに私からスプレーを奪い取った。
「あとは俺一人でやる」
「え。掃除ありがと」
「そうじゃなくて、グラフィティそのものを」
「は? なんで?」
「……一人でやりたいから」
朝は残りのスプレー缶を拾い上げると、すべてコンビニ袋にいれてきつく縛った。
「もうお前から教わることはなにもない。おつした」
「……なに、言ってんの?」
朝は不機嫌そうにため息を漏らし、冷めた目つきで私を見下ろす。
「前からお前のこと、気に食わなかったんだよ。口悪いし、髪の毛ぼさぼさだし、いや、ぼさぼさは今だけだけど、なんつーか、もう、お前の顔は見飽きたのっ!」
「…………」
開いた口が塞がらない。なんだいきなり。なんでそんなことを言うんだ。なんでそんな。
「なんで、嘘つくの?」
「う、嘘じゃねえし!」
あぁ、もう! と朝は自分の髪をわしゃわしゃとかきむしる。
「だから! もうこんな夜に出歩くなって言ってんの! 化け物に食われるぞ!」
朝はそう私に言い放った。
なんて。なんてへたくそな嘘なんだ。
でも、朝にへたな嘘をつかれたことで、私はすぐに理解した。
朝が正直者だってこと。そして、そんな正直者ががんばって慣れない嘘をついた理由も。
「じゃあ私もいわせてもらうけどさ」
うそつきな私にうそをつくことで、朝の気持ちが伝わった。
だから私は正直者の朝に、自分の正直な気持ちをぶつけてやる。
「私は、朝に長生きしてほしい。だから、もう夜に出歩かないで」
「え」
不規則な生活は免疫力を低下させ、アレルギー症状を悪化させる。朝は出会ったころよりも肌のあれがひどく、体調が良くない日が多くなっていた。
しかし、アレルギーもなく、日の光を浴びて生きる私が、むやみに口出ししてはいけないと遠慮していた。
でも、もう遠慮しない。朝だって私にいろんなわがまま言ってきたんだ。
朝にだって、私のわがままを聞く義理があるはずだ。
「ちゃんと治療を受けて。薬も飲んで。無責任だけど、これが私の正直な気持ちだから」
私はそれだけ言うと、カバンを持って振り返る。
「じゃあ、がんばってね」
「……理沙」
振り向くと、朝は唇を一文字に結び、うつむいていた。
あぁ。今やっと、松吉先生の言葉の意味が分かったよ。
私と朝は、同じなんだ。
私たちが出会った夜。一緒に過ごした夜。
孤独で嫌いだった夜が、私は朝に出会って夜が好きになった。きっと、朝も同じ気持ちだ。
だけど、私たちは夜とともに生きていけない。
だからここで、お別れしなきゃいけない。大好きな夜と。大好きなあなたと。
朝は私のために嘘をついて。私は朝のために正直になって。
私と朝は、似た者同士なんだ。
朝の目の淵がきらりと輝く。
あぁ、やっぱり朝は正直者だな。まったく、嘘をつくなら最後まで嘘をつきとおしてよ。
私はうそつきとして、これが本物の嘘だぞって心の中で謎のドヤ顔をしながら、涙をぬぐって嘘をつく。
「私は、大丈夫だから」
本当は全然大丈夫じゃない。心はぽっきり折れてるし、これから先どうすればいいのかもなにもわかっていない。
でも、大丈夫って嘘をつく。
朝が安心できるように。私が、この嘘を本当にできるように、強く生きていくために。
これがうそつきな私の、最後の嘘。
私はこの日から、夜に出歩くことはなくなった。
あの日から一度も、朝とは会っていない。
グラフィティはまだ途中。そもそも朝のデザインは複雑すぎて、今日の夜だけで完成するようなスケールじゃない。
だが、この調子なら一週間もあれば完成するだろう。
私は汚くもきれいに染まった両手を見て、ほっと息を吐く。
「続きはまた明日の夜かな」
そういってそこら中に散らばったスプレー缶を拾い上げていると、朝はおもむろに私からスプレーを奪い取った。
「あとは俺一人でやる」
「え。掃除ありがと」
「そうじゃなくて、グラフィティそのものを」
「は? なんで?」
「……一人でやりたいから」
朝は残りのスプレー缶を拾い上げると、すべてコンビニ袋にいれてきつく縛った。
「もうお前から教わることはなにもない。おつした」
「……なに、言ってんの?」
朝は不機嫌そうにため息を漏らし、冷めた目つきで私を見下ろす。
「前からお前のこと、気に食わなかったんだよ。口悪いし、髪の毛ぼさぼさだし、いや、ぼさぼさは今だけだけど、なんつーか、もう、お前の顔は見飽きたのっ!」
「…………」
開いた口が塞がらない。なんだいきなり。なんでそんなことを言うんだ。なんでそんな。
「なんで、嘘つくの?」
「う、嘘じゃねえし!」
あぁ、もう! と朝は自分の髪をわしゃわしゃとかきむしる。
「だから! もうこんな夜に出歩くなって言ってんの! 化け物に食われるぞ!」
朝はそう私に言い放った。
なんて。なんてへたくそな嘘なんだ。
でも、朝にへたな嘘をつかれたことで、私はすぐに理解した。
朝が正直者だってこと。そして、そんな正直者ががんばって慣れない嘘をついた理由も。
「じゃあ私もいわせてもらうけどさ」
うそつきな私にうそをつくことで、朝の気持ちが伝わった。
だから私は正直者の朝に、自分の正直な気持ちをぶつけてやる。
「私は、朝に長生きしてほしい。だから、もう夜に出歩かないで」
「え」
不規則な生活は免疫力を低下させ、アレルギー症状を悪化させる。朝は出会ったころよりも肌のあれがひどく、体調が良くない日が多くなっていた。
しかし、アレルギーもなく、日の光を浴びて生きる私が、むやみに口出ししてはいけないと遠慮していた。
でも、もう遠慮しない。朝だって私にいろんなわがまま言ってきたんだ。
朝にだって、私のわがままを聞く義理があるはずだ。
「ちゃんと治療を受けて。薬も飲んで。無責任だけど、これが私の正直な気持ちだから」
私はそれだけ言うと、カバンを持って振り返る。
「じゃあ、がんばってね」
「……理沙」
振り向くと、朝は唇を一文字に結び、うつむいていた。
あぁ。今やっと、松吉先生の言葉の意味が分かったよ。
私と朝は、同じなんだ。
私たちが出会った夜。一緒に過ごした夜。
孤独で嫌いだった夜が、私は朝に出会って夜が好きになった。きっと、朝も同じ気持ちだ。
だけど、私たちは夜とともに生きていけない。
だからここで、お別れしなきゃいけない。大好きな夜と。大好きなあなたと。
朝は私のために嘘をついて。私は朝のために正直になって。
私と朝は、似た者同士なんだ。
朝の目の淵がきらりと輝く。
あぁ、やっぱり朝は正直者だな。まったく、嘘をつくなら最後まで嘘をつきとおしてよ。
私はうそつきとして、これが本物の嘘だぞって心の中で謎のドヤ顔をしながら、涙をぬぐって嘘をつく。
「私は、大丈夫だから」
本当は全然大丈夫じゃない。心はぽっきり折れてるし、これから先どうすればいいのかもなにもわかっていない。
でも、大丈夫って嘘をつく。
朝が安心できるように。私が、この嘘を本当にできるように、強く生きていくために。
これがうそつきな私の、最後の嘘。
私はこの日から、夜に出歩くことはなくなった。
あの日から一度も、朝とは会っていない。