コンクリートの壁にスプレーを噴きながら、自分が今、夢を見ていることに気がついた。
 これは私が初めて、スプレーを噴いた時の記憶だ。
 スプレーノズルを押す感触。インクが噴き出す爽快感。
 夢の中でもはっきり思い出せるのに、壁に描いた落書きは黒い霧がかかってよく見えなかった。
 私はあの日、なにを描いたのだろうか。
「おい、理沙……、おい」
 身体を揺さぶられ、意識がだんだんと明瞭になっていく。
 重い瞼をあけると世界はすっかり夜で、ただ目の前に朝のあきれた顔があった。
「お前なぁ、こんなところで寝んなよ」
 ここは高架下。姫香との電話が終わったあと、私の身体は無意識にここを目指していた。
 重たい足を引きずって、のどの渇きをつばで潤して、高架下にたどり着いた瞬間、私は猛烈な眠気に襲われ、力尽きた。
 深くて一瞬だった眠りから覚めた今、私がなぜここに来たのか、どうやってここに来たのか、何も覚えてはいなかった。
「なんだ、朝か」
「もう夜だよ、なんつって。くだらねぇ」
 朝は笑った。朝の笑い声につづいて、私も笑ってみる。あはは。あはは。
「ほんと、くだらない」
 私はその調子を崩さないように、さらりと言う。
「わたしのも聞いてよ。私の、とっておきのくだらない話」
 私は今日のことを朝に話した。
 卒業をかけたテストを投げだしたこと。親友に裏切られたこと。私にはもう、なにも残っていなかったこと。
 なるべく面白く、バカっぽく、なにやってんだよ私、って感じで。
 そうして笑っているうちに、なんだかほんとに笑えてきた。
「マジで最悪だわ姫香のやつ。まじでカスだよね」
 やばすぎだろ、って笑ってほしいのに、朝は口を閉ざしたまま、黙って私の話を聞いていた。
「いや、笑えないかもだけど、ここは笑ってほしいんですけど」
 朝はすっと立ち上がり、コンビニ袋からスプレー缶を取り出す。
「よし、やるか」
 片手でインクの出が良くなるように振りながら、もう片方の手で私にスプレー缶を差し出してくる。
 だけど私は、首を横に振った。
「なんだよ。夏休み入ったらやる約束だったろ? もう学校行かないならずっと夏休みみたいなもんじゃん」
 うざすぎる。そういう問題じゃない。ちょっとはこっちの身にもなれよ。どんだけわがままなんだよ。
 言いたいことが多すぎてなにも言えずにいると、朝は私に聞こえるように大きなため息をついた。
「やっぱりお前はうそつきだな」
「……はぁ?」
 顔を上げると、いきなりスプレー缶を投げ渡され、私は思わず受け取った。
 久しぶりに手に持ったスプレー缶は重たくて、冷たくて、夢で感じたそれと全く同じだった。
 朝はノートに描いたデザインを見ながら私が描いたグラフィティのとなりのスペースに向かってスプレーを噴く。
『まずはざっくりと文字の枠を描く。腕だけじゃなくて、体全体を動かす方が線が曲がらないよ』
『多少ズレてもあとで上書きできるから、ここは勢いが大事。じゃないとインクが垂れてきちゃうから』
 朝は私が教えたとおりに、体を動かし、勢いよくスプレーを動かす。
 文字の枠を描き終わったら、次は文字を塗りつぶす作業だ。
 これにはかなり時間がかかる。
 塗りつぶしが甘いと、壁の色が透けてしまうため、丁寧に作業をする必要があるからだ。
 朝が一文字塗り終わるころには、あたりはスプレーの粒子が漂い、薄い霧のようになっていた。
 咳こむ朝。今度は私があきれる番だ。
 体調がよくないくせに、ノーマスクでグラフィティなんて。
 私はスプレー缶を持ったまま立ち上がり、朝に近づきマスクを手渡す。
「あざー」
 朝はマスクをすると、またすぐに作業に戻った。
 私はコンクリートの壁を見つめ、スプレー缶の蓋を取る。
 私は、私は……。
『理沙すごい!』
 頭の中で姫香の声が聞こえ、さっきまで朝がいた場所に姫香が立っていた。
 これは夢で見た私たちが初めてスプレーを手にした日の記憶だ。
『それって姫香のサイン?』
 目を輝かせて見つめる先には私が描いた姫香のサインがあった。
 そうだ。私が初めて描いたもの、それは姫香のサインだった。
 himekaを筆記体で描いただけのシンプルなものだったが、姫香はすごく喜んでくれた。
 姫香は『じゃあ次は私ね』と言ってスプレーを噴いた。
『できた!』
 理沙は私の名前をカタカナで描いた。しかし、スプレーを強く噴きすぎて、ところどころでインクが滴っている。まるでホラー番組のテロップのようだった。
 私はお腹が痛くなるほど笑って、姫香はちょっとだけ拗ねていたけど、結局最後は笑っていた。

「姫香は、私の友だちだった」
 私はスプレーを噴きながらぼそりとつぶやく。朝はしずかに頷いた。
「うん」
「今回のことはやっぱり許せない。ふざけんなって思う。思い切りぶん殴ってやりたい」
「うん」
「でも、でもさ」
 でも、なんだろう。私はなぜか、姫香のことをこれ以上責める気になれなかった。
 どうして。姫香も私と同じ孤独を抱えているから? 私と同じ生きにくさを感じていたから?
 ちがう。そんなことはいまさらどうでもいい。ただただ姫香は私にとって、大切で、かけがえのない。
「……姫香は、私の友だちなんだよ」
 うそつきな私が初めて口にした正直な気持ち。

 私はさみしくて、会いたくて、二人の時間をやり直したくて、でもいまさらどうにもならなくて、どうしようもなくて、涙があふれて止まらなかった。