母は朝から大忙しのようだ。早起きして、お節の準備に余念がない。
トントンと包丁がまな板を叩く音で目覚め、二階の自室から台所に隣接するこの和室の炬燵に潜り込んだ。母の後姿をじっと見つめる。
「あら、もう起きたの?」
振り向き様、母が声をかけた。
「お母さん、程々にね。二人だけなんだし、食べ切れないわよ」
「そうね、ついつい多めに作ってしまうのね、フフフ……」
章乃は背を丸め、炬燵布団を肩まで被った。今朝は冷え込みが厳しい。ラジオの天気予報では夜半から雪になる模様である。
母娘二人、引越し先のアパートからこの古里に戻って正月を過ごす予定だ。もっとも章乃は母の住むアパートにはまだ一度も暮らしたことはない。病室から直接懐かしの我が家へ舞い戻って来たのだ。
章乃がこの街の病院から別の病院を紹介され、入院することになったのを機に、ここを引き払い、治療に専念することにした。今回は、章乃達ての願いの里帰りという訳だ。十七歳の締め括りだけはこの家で過ごしたかったから。一週間だけの滞在予定である。年が明ければ、また入院生活が待っている。
「お母さん、ありがとう……」
章乃は呟いた。
「ええっ、なにか言った?」
「ううん、なんでもないわ」
章乃は炬燵を抜け出し、台所に入って母の隣に立った。「手伝うわね」
「いいのよ、休んでなさい」
「大丈夫。熱もないし、気分もいいの」
「顔色も今朝はいいみたいね……でも無理はダメよ」
母は章乃の顔を覗き込み、この額に手を添える。ふくよかな柔らかい手の感触がとても温かい。お互いしばらくの間無言で微笑み合う。
「朝食にしましょう」
章乃は笑顔のまま頷いた。
*
朝食を済ますと、章乃はしばらく頬杖を突いて何気なくぼんやりと窓に目をやった。
「五ヶ月と……十日ね、もうそんなに……」
健祐と最後に会った日から今日までの日数を指折り数えてみる。
「健ちゃんのこと?」
章乃の向かいでファッション雑誌を捲っていた母が、チラッとこちらを見て、直ぐにまた雑誌に視線を落とした。
「聞き耳立ててたわね、嫌なお母さん」
「どうしてるのかしらねえ……」
母はページを繰りながら雑誌から視線を外し、湯呑に移す。「本当に知らせなくてもいいの?」
「絶対にダメ! お願いよ、お母さん……」
咄嗟に頬杖を突いていた手を崩して両手を合わせると、章乃は叫ぶように懇願した。
幼馴染の健祐には引っ越し先の住所も連絡先も一切教えていない。郵便転送の手続きもしなかったから、もし健祐が章乃宛に手紙を出していれば送り返されたはずだ。
「どうして?」
「元気になって再会したいの。今のこんな姿、健ちゃんだけには見られたくはないの。分かって、お母さん」
本当はそんな理由からじゃないことは母も薄々気づいているだろう。だが、おくびにも出さずにいてくれる。要らぬ気を遣わせてすまないと思う。章乃は心の中で手を合わせ、詫びた。
「こういうのは、どう?」
母は雑誌を章乃の前に置いて指差した。「章乃に似合うと思うわ」
「私のはもういいから、自分の洋服作ったら?」
「私はいいの」
母は洋裁が得意だ。職人だから当たり前なのだが。仕事の合間に章乃の服を縫ってくれたりもする。
田代家の家計は母ひとりが担っている。母が仕立て直しで生計を立ててきた。家の一室を仕事場にして、工業用ミシンのモーター音が途切れることはなかった。その音を聞きながら章乃は育った。母の背を見つめながら。
章乃はパラパラと雑誌を捲って、ざっと目を通してから母の方へそれを返した。
「ねえ、お父さんって……どんな人だった?」
父は章乃が三歳の誕生日を迎えるひと月程前にこの世を去った。だから父の顔は写真でしか知らない。
父、章は自動車販売会社の平凡なサラリーマンで、営業畑一筋に歩んで来た人だ。帰宅途中、歩道に突っ込んで来たトラックの下敷きになったのだ。トラックは前方の居眠り運転の乗用車をかわそうとして歩道に乗り上げてしまった。不運にもそこを父は通りかかったという訳だ。
「優しい人よ、とっても」
母はこちらに顔を向け、微笑む。「章乃がお父さんを独り占めにしてたのよ。お父さん、家にいるときは片時もあなたの傍を離れなかったわね……」
母は懐かしそうな表情を見せた。
「健ちゃんのお父さんみたいに……」
健祐父子の写真を思い浮かべながら、章乃はまた頬杖を突く。「ガッシリしてた?」
「いいえ、お父さんは細かったわね。いつも笑ってたわ」
「ふうん……私、お父さんに似てる?」
敢えて訊いてみた。
「どちらかというと、章乃はお父さん似よ。性格も……」
母はそう言ってクスッと笑った。
「じゃあ、とても性格よかったのね?」
「フフフ……そうね、頑固なとこが、そっくりよ」
「嫌なお母さん……」
章乃がふくれっ面を見せると、母はニッコリ微笑みながら炬燵に手を引っ込める。
「冷えるわね。寒いでしょ、ストーブ点けようか?」
「大丈夫よ」
母が立ち上がろうとしたところを章乃は制した。
「疲れない? そろそろ寝床に戻った方がいいわ」
「今朝はとても調子いいみたい。けど……そうね、そうするわね」
章乃は炬燵を抜け出ると、母の言いつけ通り、大事をとって二階の自室へ戻り、床に潜り込んだ。
トントンと包丁がまな板を叩く音で目覚め、二階の自室から台所に隣接するこの和室の炬燵に潜り込んだ。母の後姿をじっと見つめる。
「あら、もう起きたの?」
振り向き様、母が声をかけた。
「お母さん、程々にね。二人だけなんだし、食べ切れないわよ」
「そうね、ついつい多めに作ってしまうのね、フフフ……」
章乃は背を丸め、炬燵布団を肩まで被った。今朝は冷え込みが厳しい。ラジオの天気予報では夜半から雪になる模様である。
母娘二人、引越し先のアパートからこの古里に戻って正月を過ごす予定だ。もっとも章乃は母の住むアパートにはまだ一度も暮らしたことはない。病室から直接懐かしの我が家へ舞い戻って来たのだ。
章乃がこの街の病院から別の病院を紹介され、入院することになったのを機に、ここを引き払い、治療に専念することにした。今回は、章乃達ての願いの里帰りという訳だ。十七歳の締め括りだけはこの家で過ごしたかったから。一週間だけの滞在予定である。年が明ければ、また入院生活が待っている。
「お母さん、ありがとう……」
章乃は呟いた。
「ええっ、なにか言った?」
「ううん、なんでもないわ」
章乃は炬燵を抜け出し、台所に入って母の隣に立った。「手伝うわね」
「いいのよ、休んでなさい」
「大丈夫。熱もないし、気分もいいの」
「顔色も今朝はいいみたいね……でも無理はダメよ」
母は章乃の顔を覗き込み、この額に手を添える。ふくよかな柔らかい手の感触がとても温かい。お互いしばらくの間無言で微笑み合う。
「朝食にしましょう」
章乃は笑顔のまま頷いた。
*
朝食を済ますと、章乃はしばらく頬杖を突いて何気なくぼんやりと窓に目をやった。
「五ヶ月と……十日ね、もうそんなに……」
健祐と最後に会った日から今日までの日数を指折り数えてみる。
「健ちゃんのこと?」
章乃の向かいでファッション雑誌を捲っていた母が、チラッとこちらを見て、直ぐにまた雑誌に視線を落とした。
「聞き耳立ててたわね、嫌なお母さん」
「どうしてるのかしらねえ……」
母はページを繰りながら雑誌から視線を外し、湯呑に移す。「本当に知らせなくてもいいの?」
「絶対にダメ! お願いよ、お母さん……」
咄嗟に頬杖を突いていた手を崩して両手を合わせると、章乃は叫ぶように懇願した。
幼馴染の健祐には引っ越し先の住所も連絡先も一切教えていない。郵便転送の手続きもしなかったから、もし健祐が章乃宛に手紙を出していれば送り返されたはずだ。
「どうして?」
「元気になって再会したいの。今のこんな姿、健ちゃんだけには見られたくはないの。分かって、お母さん」
本当はそんな理由からじゃないことは母も薄々気づいているだろう。だが、おくびにも出さずにいてくれる。要らぬ気を遣わせてすまないと思う。章乃は心の中で手を合わせ、詫びた。
「こういうのは、どう?」
母は雑誌を章乃の前に置いて指差した。「章乃に似合うと思うわ」
「私のはもういいから、自分の洋服作ったら?」
「私はいいの」
母は洋裁が得意だ。職人だから当たり前なのだが。仕事の合間に章乃の服を縫ってくれたりもする。
田代家の家計は母ひとりが担っている。母が仕立て直しで生計を立ててきた。家の一室を仕事場にして、工業用ミシンのモーター音が途切れることはなかった。その音を聞きながら章乃は育った。母の背を見つめながら。
章乃はパラパラと雑誌を捲って、ざっと目を通してから母の方へそれを返した。
「ねえ、お父さんって……どんな人だった?」
父は章乃が三歳の誕生日を迎えるひと月程前にこの世を去った。だから父の顔は写真でしか知らない。
父、章は自動車販売会社の平凡なサラリーマンで、営業畑一筋に歩んで来た人だ。帰宅途中、歩道に突っ込んで来たトラックの下敷きになったのだ。トラックは前方の居眠り運転の乗用車をかわそうとして歩道に乗り上げてしまった。不運にもそこを父は通りかかったという訳だ。
「優しい人よ、とっても」
母はこちらに顔を向け、微笑む。「章乃がお父さんを独り占めにしてたのよ。お父さん、家にいるときは片時もあなたの傍を離れなかったわね……」
母は懐かしそうな表情を見せた。
「健ちゃんのお父さんみたいに……」
健祐父子の写真を思い浮かべながら、章乃はまた頬杖を突く。「ガッシリしてた?」
「いいえ、お父さんは細かったわね。いつも笑ってたわ」
「ふうん……私、お父さんに似てる?」
敢えて訊いてみた。
「どちらかというと、章乃はお父さん似よ。性格も……」
母はそう言ってクスッと笑った。
「じゃあ、とても性格よかったのね?」
「フフフ……そうね、頑固なとこが、そっくりよ」
「嫌なお母さん……」
章乃がふくれっ面を見せると、母はニッコリ微笑みながら炬燵に手を引っ込める。
「冷えるわね。寒いでしょ、ストーブ点けようか?」
「大丈夫よ」
母が立ち上がろうとしたところを章乃は制した。
「疲れない? そろそろ寝床に戻った方がいいわ」
「今朝はとても調子いいみたい。けど……そうね、そうするわね」
章乃は炬燵を抜け出ると、母の言いつけ通り、大事をとって二階の自室へ戻り、床に潜り込んだ。