章乃は幸福感で満たされていた。懸命に愛し、愛された証がある。ほかに何も要らなかった。
 健祐は存分に与えてくれた。なのに、章乃には返す術がない。自分の全てを差し出しても余りあるというのに。それが残念でならない。
 目を閉じれば、瞼の裏に健祐の面影がはっきりと浮かび上がる。傍にいなくとも、心は常に健祐の元にある。いつだって健祐は微笑みかけてくれる。章乃も微笑みを返した。そっと健祐の胸に顔を埋めてみる。鼓動が、温もりが、頬を伝って章乃の奥底までも温めてくれる。身も心も自ずと燃え上がるのだ。
 健祐の腕の中でこのまま眠りに就きたかった。熱い血潮に抱かれたいと願った。
 疼きの海に身を任せたい。健祐が起こす穏やかな波に、徐々に章乃は(うしお)に満たされてゆく。やがて波は激流となり、堤を越えて押し寄せる。波間にこの身を沈め、波濤(はとう)を乗り越えた果てに、(なぎ)が訪れるのを待つ。
 そっと目を開く。狂おしいまでの熱情にうなされているというのに、愛しい人は目の前にはいなかった。空虚しかない。それでも目前の闇を抱き締めた。火照ったこの心身(からだ)を癒してはくれない。胸元で腕を交差したまま思わず両の手を握り締める。常に章乃の願望は、無情にも打ち砕かれてしまうのだ。
 静かだった。風音もない。夜空に瞬いていた星々は、厚い雲に遮られ、最早光は届かない。
 もう一度星空が見たい一心で、空を見渡し、雲の切れ間を探した。切れ間などどこにもありはしなかった。諦めて社殿の石段を上り、膝を突いた。 
 胸に手を当て鼓動を確かめる。己が命の灯火(ともしび)はめらめらと燃え盛る。徐にコートの内ポケットからスナップ写真を取り出すと、目を閉じ、そっと口づけた。闇の中では見えるはずもないが、健祐は微笑んでいた。章乃にははっきりと見える。
 遠い空の下の健祐にキスを送ったあと、自分も健祐がくれたキスを胸に抱いて準備を終えた。
 頬に冷たい感触が伝わった。ゆっくりと目を開け、頬に手をあてがう。頬に当たる雪だけがこの熱情を徐々に冷ましてくれる。
 両手を合わせる。最早祈ることしかできない。心はどこまでも平安そのものである。瞼の裏に懐かしい面影を投影して祈り続けた。
 遠くの方で除夜の鐘が鳴る。もうじき年が明けるのだ。
 その場にうつ伏せに寝そべってみる。石の感触が頬を突き刺した。闇の底が白に染まる。真白なシーツに身を埋めるように社殿の石段に横たわり、章乃は尚も祈り続けるのだった。
「健ちゃん……」