『遺書』を読み終えると、指で字面をなぞってみた。章乃の息遣いが伝わってくるかのようだ。文字は終わりに近づくにつれ、次第に乱れている。
 もう一度目を閉じる。これを認めたときの章乃の姿が瞼に浮かんでくる。
「辛かっただろうに」
 目を開けると、もう一通の手紙と見比べてみた。同じ日付だ。
 『遺書』と『最後の手紙』を封筒に戻すと、二通を重ねて日記帳の横に並べた。椅子に深く体を沈め、腕組みをし、ぼんやりとそれらを見つめる。
 窓ガラスが揺れる音がする。ふと、そちらに目を向けると、窓外は日が暮れかかっている。ゆっくりと立ち上がり、窓際まで歩み寄った。
「風が強まったな」
 空を望むと、雲の動きが速くなっている。そのまましばらく雲が流れる様を眺め続けた。
 ──もうあんな所まで……
 ──あそこが過去で、あの先が未来、というわけか……
 健祐は雲の軌跡に時間をなぞらえた。
「二十年。こんなに遠くまで……」
 一秒なんて、あんなに短いのに、積み重なればとてつもない長さになる。時の流れの早さに改めて驚いた。
 あの日、幸乃から『遺書』を渡され、読んだ。健祐は章乃に近づこうとした。寸前に、章乃と文に生かされた。そしてようやく、あの夏休みのホームでの章乃とのやり取りを思い出すことができた。章乃と初めての口づけを交わした直後の。
「健ちゃん。もし、もしも私がこの世から……もし、私が死んだら、どうする?」
「僕も、あとを追う。アヤちゃんひとりだけを死なせはしないよ」
 一度も「好きだ」なんて口にしたことはなかったが、章乃と一緒に命を全うすることこそが「好きだ」という証であり、究極の愛だと信じて疑わなかった。
 章乃を列車に乗せ、こちらに振り返った途端、激しくかぶりを振って「ダメ、ダメ、絶対にダメ!」と章乃は叫んだ。ドアが閉まって列車が動き出してからも、健祐を見つめたまま、目にいっぱいの涙を溜めていた。健祐は列車の速度に合わせて、ホームの端まで章乃を追って見送った。
 それが、健祐が章乃を見た最後となったのだ。
 章乃はドアの向こうで叫んでいた。健祐にその声は聞こえなかったが、口元を見れば何を言っているかは、はっきりと分かっていた。
「健ちゃん、生きて」
 なぜあの日まで、十年間も思い出せなかったのかは分からない。無意識のうちに拒絶し続けていたのかもしれない。ただ、章乃を追い詰め、あんな嘘までつかせ、遺書まで書かせてしまったのは自分だと、ずっとあとになって気づいた。
 健祐は思う。
 あのとき、もし、あんなことを言わなければ。「自分もあとを追う」なんて口にしなかったなら。章乃を看取ってやれたのかもしれない。心穏やかに逝かせてやれたのかもしれない。自分の心ないひとことが章乃を苦しめた。今思えば、何て思いやりに欠けていたのか、とそれだけが悔やまれてならない。残酷なのは、自らの死を隠し通した章乃の優しさではなく、ほかならぬこの自分自身の浅はかで幼稚な言動だったのだ。罪深い自分が無性に腹立たしくなる。今となってはなす術もないことだが。
 ──生きるとは?
 思いを受け継ぎ、温め膨らませ、次の世代へと確かに(つな)ぐ行為なのかもしれない。人はそれを未来永劫繰り返してゆくのだろう。そうして、思いは永遠に生き続けることになる。
 章乃を偲ぶとき、ふとそんな風に考えることがある。無論、真の解答など存在せぬ問いかけだろうが。人生の旅路の果てに辿り着いたとき、どんな答えが得られるのだろうか。章乃が授けてくれたこの宿題を、かけがえのない家族と過ごすなかで、問い続けてゆこうと健祐は思った。
「青春と決別して、初めて本当の生を知る。本当の愛を知る」
 『遺書』にあった言葉を口にしてみる。
 健祐は視線を窓外から机の上に向けた。
 また机の前まで来ると、椅子に座り、日記帳を手前に引き寄せる。ペンケースから万年筆をつかむと、キャップを開け、握り直した。
 そのまましばらく日記帳を見つめ、ゆっくりとページを捲る。白紙のページが次々と健祐の目の前を過ぎ去った。ようやく最後のページに辿り着くと、そこに書き添えるのだった。

   *

君の面影を求めつつ
いつしか今になった

だから、今、言うよ
君が『好き』だったと          

永遠に、僕の心を伝えよう
もう逢えぬ君に

そして想い出は
心の奥に仕舞っておこう
夢が覚めぬように


        晩秋

   *

 日記帳を閉じ、ペンを静かに置くと、健祐は机の引き出しを開け、書類封筒を取り出した。
 二通の封筒と日記帳を重ね、章乃が映った写真と共に書類封筒の中に入れ、封をした。そして、机の引き出しの一番奥に仕舞い込んだ。
 もう二度と開けることはないであろう。