健祐は早めの夕食を終え、しばらくダイニングテーブルの上に両肘を突き、台所で洗い物に取りかかる妻に視線を向けていた。
 すると、テーブルの下をくぐり抜け、長男の健一(けんいち)が膝によじ登って来た。来月、六歳の誕生日を迎える息子を抱き寄せ、膝に座らせる。
 食器を拭く手伝いをしていた長女の(あい)が、それを見るなり皿を置き、一目散に健祐の背後から抱きついて来た。今年小学校に上がったばかりの彼女の重みを体いっぱいに受け止めた。
「あら、お父さん、大モテね」
 妻は洗い物の手は休めず、振り向き様に微笑む。「愛。ほらほら、布巾を返してちょうだい。これを拭いたらおしまいよ」
「お母さん、私がやってあげる」
 愛は妻の元へ走り寄ると、最後の皿一枚を受け取り、丁寧に拭きあげて食器棚に戻した。
 妻はエプロンを外しながら健祐の向かいの椅子に座った。
「健一は、お父さんが大好きなのね」
「そうだよ。ここはね、ボクのとくとうせきなの。おネエちゃんはダメだよ。もう大きいんだから」
 健一は健祐の隣に座った愛の方を向いて得意げだ。
「ベエー。遊んであげないから」
 愛は健一に舌を見せ、もったいぶった仕種でゆっくり立ち上がると、健一の様子をうかがいながら自分の部屋へと引っ込んでしまった。
 健一は膝の上でしばらく考えていたが、慌てて膝を下りた。
「お父さん、また、あとでね」
 そう言い残し、健一は愛のあとを急いで追いかけた。
 妻を見ると、子供たちの軌跡を視線で追いかけながら薄らと唇に笑みを湛え、満足げな表情を浮かべている。母親の慈愛に満ちた目の輝きを残したままこちらを向いて微笑みかける。
「あなた、早いものね。健一も来年から小学生だなんて……」
 子供たちが入った部屋のドアにもう一度視線を向け、ゆっくりとこちらに移しながらしみじみとした口調で呟いた。
「そうだなあ、お互い歳を取ったってことか?」
「あら、まだ若いわよ」
「僕のこと?」
 健祐は笑った。
「お互いに……ってことにしときましょう」
「そうか? どれどれ」
 健祐は妻の顔を覗き込む。「シワはないかな?」
「もう、いやね!」
 妻は咄嗟に両手で顔を覆った。
「いやあ、綺麗だよ。二人の子持ちとは、誰も思わないだろうね」
「フフフ……ありがとう。でも、そこまで自惚れてないわ」
 何気ない家族団らんの光景だと思った。だが、これこそ長年追い求めてきた夢であり、今この上なく幸せだ。
 自分には愛する妻と子供たちがいる。苦楽を共にしてきた家族があるのだ。これ程の幸福がこの世にあるものかと健祐は思う。もし、この子らを残して旅立たねばならないとしたら。今更ながら父と母の無念さを思った。今ならその胸のうちが痛い程身に染みて理解できる。
「早いものだね」
「健一のこと?」
「いや、あれから十年か」
「違うわ」
「十年じゃなかった?」
「二十年よ、今度の大晦日で」
「そうか、そんなに……」
 章乃があの場所で最期を迎えて二十年が経とうとしていた。
 健祐はその間の道のりを振り返ってみた。

   *

 あの故郷の旅から戻って、長い期間、心にぽっかり穴が空いてしまった。健祐には心を整理する時間が必要だった。章乃が死んだ意味を、一年かけて問い続けた。
 章乃が自分に遺してくれたもの。
 ──思いやり。
 ──いたわり。
 ──愛。
 そんなちっぽけなものではなかった。
 文は言っていた。
「死んで、生かす」
 章乃は自分の死を十年隠し通した。章乃の死を知らなかった健祐のあの十年間は幸福だった。章乃との再会を夢見て、希望に満ちていたことは確かだ。
「あなたに生きる力を与えたかった……」
 文の言う通りだった。
 ──もし章乃の死を知っていたなら?
 健祐は何度も自問してみる。
 早まった行動をとっていただろう。躊躇いもなく自分も章乃のあとを追っていた。十七年の短い生涯だったはずだ。両親や祖母の愛に報いることなく、ただの恩知らずで恥知らずの愚か者になり果てたに相違ないのだ。何よりも祖母のタツに深い悲しみと自責を強いることになっていただろう。
 章乃は全てを見通していた訳だ。
 あのとき、命の灯は自ら燃やしているのだと信じていた。それをともし続けようが、消そうが、己の選択如何だと信念は揺るぎはしなかった。
 だが、命とは与えられるべきもの。互いに呼応し合うもの。だから、己ひとりだけの勝手気ままな自由に委ねられるべきなどと思うのは、傲慢なのかもしれない。家族を持つ身になった今、そんな考えが脳裏をよぎる。
「死んで、生かす」
 健祐は生かされた。章乃の命の呼びかけによって。
 章乃の愛の形だ。
 ──人は大切な者を失っても、尚も生き続けなければならない。それが、残された者どもの義務!
 健祐は文の力も借りて結論を出した。
 健祐の愛の形とは。
 家族。家族を愛し慈しむことだった。両親や祖母が自分に施してくれたように。天涯孤独になった健祐にとって、家族を持つことが一大事業だった。それこそが、この世で最も重要な仕事のように健祐には思われる。
「家族をつくらなければ」
 健祐は決心した。
 文はその間、健祐を避けているようだった。文の思いやりであることは、自分にはよく理解できた。文はあの旅の間も、旅から戻ってからも健祐を遠くから見守ってくれた。
 それが、文の愛の形だった。
 一年かけて心に整理をつけたとき、自分にとって最も大切な人が傍にいたことにようやく気づいた。健祐は文にプロポーズしたのだった。
 文は最初、健祐の申し出を拒んだ。そこで健祐は熱心に文に対する自分の愛を説き続けた。
「アヤちゃんの代役なんかじゃない。アヤちゃんに貰った命を共に全うできるのは、フミちゃんだけなんだ。僕はあのとき、フミちゃんの愛を知った。僕が愛し続けることができるのは、フミちゃんだけだ。それが、アヤちゃんの愛に唯一報いることなんだよ。代役なんて考えられない」
 健祐は思いの丈を口に出してはっきりと伝えた。「僕は君が好きだ。君を心から、心から愛してる」
 文はようやく受け入れてくれた。
 十年の道程を今日まで、紆余曲折を乗り越えながら、お互いの愛を育み、親となり幸福を築き上げてきたのだった。

   *

「ねえ、あなた。今日、妹から電話があったの」
「なんて言ってた?」
「できたらしいの、赤ちゃん」
「そうか! よかったじゃないか」
「ええ」
「また家族が増えるな。楽しみだよ」
「そうね」
「くれぐれも、大事にするようにと……」
「言っておくわ」
 文の妹は一昨年の春に結婚し、今は夫の仕事の関係で遠く九州のとある街に暮らしている。妹は、なかなか子宝に恵まれないと愚痴を零していた矢先だっただけに、健祐にとっても大変嬉しい知らせだ。
「お正月休みはどうするの?」
「そうだなあ……」
「向こうのお母様に会いに行くでしょう? あの子たちの成長も見ていただきたいわ」
「ああ、当然そうしよう。愛も健一も喜ぶしな」
「そうね、今度が最後のお正月ね、春には退職するんだし」
 健祐と文にとって章乃の母、幸乃も家族にほかならない。二人は事ある毎に子供たちを連れて行き、子供たちも実の祖母同然に慕っている。
 健祐は来年の四月から独立して設計事務所を開業予定だ。健一の小学校への入学を機に、タツと暮らしたこの家へ戻ることにもなっている。既にリフォームも済み、老朽化が著しく、築百年を迎えようとしていた家も、一部その面影を残したまま新築同然に変貌を遂げた。
「ねえ、フミ」
「なあに、難しい顔して」
 文はいつもの明るい笑顔を健祐に向けた。
「あのとき……」
「あのとき?」
「十年前の、あの場所での……」
「……なにかしら?」
「僕は確かに二度聞いた」
 健祐は腕組みをして首を傾げた。「健ちゃん、生きて」
「私は、一度だけしか叫ばなかったのよ。本当よ」
「じゃあ、最初に聞いたのは?」
「たぶん、章乃さんね」
「まさか……」
「きっとそうよ」
 文はきっぱりと言った。「私、分からないの。本当に私がそう言ったの?」
「言ったじゃないか」
「あのとき、『健ちゃん』って、私がそんな言い方したなんて、あり得ないもの」
「じゃあ、だれが?」
「章乃さんよ。章乃さんが私に言わせたのかも……それとも、章乃さん自身の声じゃなかったのかしら?」
「そんなこと……」
「あるわよ!」
 健祐が否定しようとすると、文は強く健祐の言葉を遮った。
 健祐はまた首を傾げ、天井を仰いだ。健祐には、もう一つ()せないことが胸に巣くっている。
 あのとき文の到着がほんの数秒遅かったなら、自分は確実にあの崖の上から身を投じていたはずだ。直前、何者かに地べたに押さえつけられたかのように体が重くなり、いっとき身動きできなくなった。しかも、それまで経験し得なかった胸辺りの不快感に襲われ、嘔吐を繰り返したせいで時間を稼ぐ結果となった。寸でのところで愚行は免れたのだ。
「不思議だな……」
 しばらく頭を巡らしたのち、ぼそっと呟いた。
「章乃さんがあなたを引き戻したのね、きっと」
「アヤちゃんが?」
 上に向けていた視線を文の顔に移す。
「でも、そんなことどうでもいいじゃない」
 文は両肘をテーブルに突き、左手を右手の甲に重ね、その上に顎を置いて健祐に微笑んだ。「章乃さんに貰った幸せ、大事にしないと」
 健祐は腕組みをしたまま微笑み返した。無言で何度も頷く。二人は、そのまましばらく見つめ合うと、声を上げて笑い出すのだった。
「じゃあ、行って来るよ」
 組んだ腕を解くと、健祐は唐突に立ち上がった。
「あらっ、あなた、どこへお出かけ?」
 文はきょとんとした顔を向ける。
「ちょっと、書斎まで」
 健祐は文に手を振る。
「いってらっしゃあーい」
 文も手を振り返しながら大袈裟に肩を竦める。右手の人差し指で首筋を掻いて健祐の癖を真似て見せ、快活に笑った。
 部屋中に文の笑い声が溢れる。

   *

 書斎に入ると、静かにドアを閉めた。革張りの肘掛け椅子に座り、机に向かう。スタンドを点し、机の一段目の引き出しから、赤色と緑色のチェック柄の古い日記帳と二通の白封筒を取り出すと、封筒は机の上に置いた。日記帳を左手に載せ、ゆっくりと開いてみる。最初のページにのみ拙い詩が綴られているだけでほかには何も記されてはいない。
“十七才の晩秋”
 詩の最後にそう記した。章乃からの『最後の手紙』に記されたものを真似したに過ぎなかった。深い意味は何もない。十七の年の晩秋に認めたという意味しかなかったのだ。
 章乃はたった一度だけ、この家を訪れたことがある。あの十七歳の夏休みに。当時はまだ祖母と暮らしていた。日記帳は、そのとき、この近くの文房具店で章乃が見つけたものだ。
「交換日記しましょう。年に一度だけ、この日記に思いの丈を綴りましょう。年の瀬にそれを送り合うの。その年の締め括りに。初めに健ちゃんが書いて。なんでもいいから。十年……続けられるといいなあ……」
 一ページ目に章乃への思いを詩に認めて、あの年の暮、直ぐに郵送したが送り返されて来たのだった。それ以来、空白のまま健祐の手元に残された。
「十七才の晩秋」
 呟いてもう一度その箇所だけを見つめた。日記帳を目の前に置き、『最後の手紙』を手にした。便箋を抜き、目を通してから日記帳のそれと比べてみる。
“十一月二十五日 十七才の晩秋 田代章乃”
「十七才の晩秋……か」
 その言葉の意味を噛み締めた。「アヤちゃん……」
 手紙を日記帳の横に置き、もう一通の封筒を手に取った。
“立花健祐 様”
 しばらく表の文字を見つめたのち、便箋を取り出すと、封筒は机上に置いて一旦目を閉じた。一度深呼吸をして目を開ける。
 折り畳まれた便箋を机上で丁寧に開いて整え、再び手にすると静かに読み始めた。