瞼の裏に映像が次から次へと移り変わっていった。
 母と過ごした人生が再び蘇る。母はミシンを踏んでいた。章乃が声をかけると、振り返ってくれた。縫い上がったものを高々と掲げる。
「やっと仕上がったわ」
 真っ青なビロード生地のワンピースだった。母はそれを見つめ満足げな顔だ。優しい母の横顔が自分に微笑みかけている。その表情に章乃の気持ちも(ほぐ)されてゆく。
 公子も満面の笑みでこちらを見ていた。章乃は公子を抱きしめながら詫びた。
「キミちゃん、ごめんね。でも、健ちゃんのこと、頼んだわよ。お願いね」
 夕刻のまどろみの中に見た夢が脳裏をよぎる。社殿の前にひれ伏す女性は自分の姿だと気づいた。
 正夢だったのか。運命の時の流れに、逸れることなく乗っているのだと章乃は悟った。
 ──もう少し先だと思ってた……
 ──今日がそのときだったのね……
 健祐が笑っている。笑い声が聞こえる。健祐は誰かと向かい合わせに座っていた。健祐の前に座す女性は健祐の妻だと分かった。妻は章乃ではなかった。子供の声もする。皆、幸せそうに談笑している。微笑ましい家族団らんの光景に、章乃も思わず笑みを漏らした。よかった、と章乃は安堵した。
 章乃は天を仰いだ。眩い光が射していた。温かく、身も心もとろけそうな程心地良い光だ。そこに近づきたいと願った。その瞬間、既に全身が光に包まれていた。体は軽くなり、次第に解き放たれてゆく。
 誰かが章乃の名を呼んだ。声を聞いていると、胸の奥まで温もりは浸透し、心は一層穏やかになる。何と慈愛に満ちた響きだろう。声の主は目の前に立っていた。
「お父さん。そんな所にいたのね」
「こっちへおいで。幸せになろうね」
 章乃は頷いた。だが、十分に幸せだった。精一杯生き抜いた証が、自分にはある。それが章乃には誇らしかった。ほかに何が要るというのか。
 ──心を解き放つ時が来たのよ!
 最早、章乃を縛りつけるたがは外れた。今、この身は自由だ。章乃は健祐の傍へ行き、そっと抱き締めると、健祐に手を振り、母の傍に立つ。
「お母さん、お願いね」
 母に健祐の幸せを託して、また父の元へ戻った。父の顔を見つめ、微笑んだ。
「もういいのかい?」
 満面の笑みを見せ、深く頷くと、父に寄り添った。父はこの体を包み込むように抱き締めてくれる。章乃が幾度となく夢見た父の温もりである。章乃の心は満たされる。
「みんな、ありがとう。お母さーん! 健ちゃーん! わたし、幸せよー!」
 章乃は父の(かいな)(いだ)かれながら、笑顔のまま大きく手を振って叫ぶのだった。