健祐は、まだ章乃の亡骸の上にすがりついている。
「死んで生かす」
確か、文はそんなことを言っていた。章乃の愛に報いるべき。生ある限り生きなければならない。残された者の義務。頭の中で文の声が響く。
もう一度激しくかぶりを振った。そんなことなど到底受け入れられる訳がない。章乃の死によって自分だけが生かされるなど、ただの戯言に過ぎない。章乃と自分の生命の灯はひとつなのだ。章乃の傍へ行くのが、愛に報いる唯一の手段だと疑わない。
──俺には、章乃しかいないんだ!
──残された者の義務だなんて、残酷過ぎる!
さっき、確かに、章乃の声が聞こえた。あれは幻聴なんかじゃない。
「健ちゃん、生きて」
それとも己の心の叫びなのか。いや、そんなはずはない。健祐はいつでも覚悟していた。死など怖いものか、と。全てを失った者にとって、そんなことは当然だ。
「アヤちゃん、どうして、あんなこと言うの。アヤちゃんの傍へ行くのがそんなに悪いことかい? アヤちゃんしかいないんだよ、僕には……」
ゆっくりとその場に起き上がり、膝を突いた。「なぜ、そっちへ行ってはダメなの? また、独りぼっちになれと……?」
頭は混乱し、最早何も考えられない。ただ、章乃に会いたい一心だった。
健祐は立ち上がった。石段を下りると、その場にしゃがみ込んだ。突然、胃のあたりから何かが突き上げ、胸がむかついた。口の中いっぱいに苦いものが込み上げてくる。堪え切れず健祐は嘔吐した。何度も何度も息ができないくらい、胃の中が空っぽになっても尚繰り返した。
ようやく治まると、ふらつきながら社殿横の崖の上まで歩き、そこから下を覗き込む。
「アヤちゃん、アヤちゃんの傍へ……」
「健ちゃん」
また声が聞こえた。健祐は振り返った。
「生きて!」
人影が近づいて来る。自らも声のした方へ近づこうとしたら、既に誰かが目の前に立っている。
「アヤちゃん!」
突然、左頬に痛みが走った。もう一度、またもう一度。
「しっかり、して!」
声の方を見下ろした。目の前に誰かの顔が見える。輪郭はぼやけ、正体はつかめない。
「だれ?」
また頬に痛みが走った。
「しっかり、してー!」
その人影に両肩をつかまれ、揺さぶられた。
「フミ……ちゃん?」
「なんで……なんで、章乃さんの気持ちが分からないの!」
文は泣き叫んだ。
小柄な文に腰辺りを抱き締められ、思うように身動きが取れない。
「アヤちゃんの……気持ち……」
虚空を見つめ、呟いた。
「そうよ。章乃さんが、なぜ、あなたに自分の死を隠し続けたと思うの!」
文はまた強く抱き締めた。「あなたに生きる力を与えたかったのよ! なぜ、分からないの!」
「生きる……力? 僕に……」
目の前の風景が霞んで見える。
「生きなきゃダメ! 分かる?」
健祐は下を向いた。彼女の体温が、その額から健祐の頬へ伝わった。自らの目の焦点が文の濡れた眼に合う。
「フミちゃん、離して」
「イヤーッ!」
文は力いっぱい叫んだ。密着した文の声の振動が健祐の胸を伝って全身を共鳴させた。健祐はしっかりと文を見つめる。
「フミちゃん、離して」
「ダメ!」
文は激しくかぶりを振って、また一層力を込めて抱き締めてきた。
「分かったから」
文は健祐の体に腕を回したまま決して離そうとはしない。
健祐は文の体をそっと抱き寄せ、腕を背中に回すと、左手で文の頭を後ろから優しく撫でた。俯くと、文は瞬きもせず、健祐の目をじっと見つめている。
「イヤッ!」
「もう、分かったから。大丈夫だから」
それでも文は力を緩めない。
「ダメ、ダメよ! 死んではダメ!」
「僕、疲れたよ。あそこまで連れてってくれない? 座りたい」
健祐は石段を指差した。「もう、しない。約束するよ」
「本当に?」
「ああ、どうかしてた」
健祐はもう一度文の顔に視線を向けた。
文は健祐の胸に顔を押しつけて嗚咽し始めた。全身を密着させたまま、小柄なその体が小刻みに震える。
「約束するのね!」
文は念を押した。
「約束する。絶対にしない。あそこまで頼むよ」
文は少しだけ力を緩めた。
健祐は文に抱きかかえられるように石段まで移動すると、そこに腰を下ろした。
文も横に座ると、健祐の左腕に自らの両腕を巻き、しがみつく。
二の腕が締めつけられ、痛みが走った。健祐は微笑みながら右手で文の腕をさする。
「フミちゃん、痛いよ。腕がちぎれそうだ」
文は少しだけ力を緩めてくれたが、決してその腕を解こうとはしない。引き寄せようとする力が勝り、健祐の体は文の側へなびく。錨を下ろした船のように、その場に繋ぎ止められた。
「思い出したんだ」
健祐は穏やかな口調でそう切り出すと、文に夢の話を語り始めた。
*
「それで、章乃さんは、夢の中でなんて言ったの?」
ようやく落ち着きを取り戻した文は、いつもの明るい表情をこちらに向け、尋ねる。その優しい眼差しに健祐の胸は痛んだ。
「健ちゃん、生きて」
健祐は文の手を握った。「フミちゃんが、あのとき叫んだのと同じだった」
文は健祐の話を真剣な面持ちで聞いてくれている。
「私が……言った?」
「ああ、そうだよ」
「私が、立花さんのこと、『健ちゃん』って言ったの?」
「覚えてないの?」
「あのとき、無我夢中だったから。『生きて』って叫んだのは覚えてる。だけど、『健ちゃん』だなんて……」
「本当に聞こえたよ」
文の視線は一旦健祐から離れ、しばらく自らの足元に移された。もう一度健祐の目に注がれたとき、力強い光を放っていた。
「そうかもしれない。たぶん、章乃さんの口調を真似したのかも。私、章乃さんのこと知らないけど、咄嗟にそうしたのね……きっと」
「二度目に聞いたとき、引き戻されたんだね」
「二度目? 私、一度しか叫ばなかったわ」
「一度? そんなはずは……丁度この場所で。この石段の上で聞いたんだ」
「変ねえ。私、ここに来たとき、立花さんが崖の上にいたから、飛び降りるんじゃないかと思って……」
「おかしいな……」
健祐は首を傾げた。
「本当に、二度聞いたの?」
「本当だよ。はっきりと」
「……やっぱり……」
文はしばらく黙り込んだあと、声に力を込めた。「章乃さんの声だと思うわ」
「アヤちゃんの? まさか、ここには……」
「いるわ、絶対に! 章乃さんが立花さんの傍を離れる訳ないもの」
文は健祐の言葉を遮って強い口調で言い切った。
「本当にフミちゃんじゃないの?」
「違うわ」
「不思議だ。確かに聞いた」
「章乃さんが守ったのね、きっと。章乃さんは生き続けてる。今も尚、立花さんを愛しているのよ。思いは、生き続けるのよ」
──思いは生き続ける……
健祐は章乃の『遺書』を思い出した。今、文が口にしたことを章乃も綴っていた。
「フミちゃん、分かったよ。ごめんね、心配かけて」
文はゆっくりと首を横に振った。
「私、章乃さんに会ってみたかった」
「でも、アヤちゃんは……」
健祐はその先の言葉を飲み込んで急に立ち上がり、文に手を差し出す。「さあ、帰ろうか」
「ええ」
健祐が差し出した手を握り返すと、文も立ち上がった。
二人は石段を下り、その場を離れようとした。文は健祐が脱ぎ捨てた上着を拾うと、肩に羽織らせてくれた。袖を通しながら、ふと振り返り、石段を見る。
──あの場所で、章乃は……
──章乃は……
「フミちゃん」
自分の数歩前を歩いていた文を呼び止めた。
「どうしたの?」
文が振り返ると、もう一度、視線を章乃が横たわっていた場所に移し、じっと見つめ続ける。
「アヤちゃんは、死んだ」
健祐はきっぱりと口に出して言った。と、胸の奥から今まで抑えていた感情の波が押し寄せ、体が震え出す。突然全身の力が抜け、その場にくずおれて地面に手を突いた。すると涙が溢れ出し、健祐は咽び泣いていた。最後には、子供のように泣きじゃくった。
「アヤちゃんは、死んだ! 死んだんだよ!」
健祐は右手で拳を作り、地面を何度も叩いた。「辛い! ああ、苦しいよ!」
文は健祐の正面に回ると、健祐の肩越しに体を包み込むように抱き締めてくれた。健祐は文を見上げ、その胸に顔を埋めていつまでも泣いた。そうして、文の温もりだけを全身で感じ取った。
辺りはいつしか薄暮に覆われつつある。風は相変わらず吹き荒れ、健祐の体を容赦なく突き刺していた。
「死んで生かす」
確か、文はそんなことを言っていた。章乃の愛に報いるべき。生ある限り生きなければならない。残された者の義務。頭の中で文の声が響く。
もう一度激しくかぶりを振った。そんなことなど到底受け入れられる訳がない。章乃の死によって自分だけが生かされるなど、ただの戯言に過ぎない。章乃と自分の生命の灯はひとつなのだ。章乃の傍へ行くのが、愛に報いる唯一の手段だと疑わない。
──俺には、章乃しかいないんだ!
──残された者の義務だなんて、残酷過ぎる!
さっき、確かに、章乃の声が聞こえた。あれは幻聴なんかじゃない。
「健ちゃん、生きて」
それとも己の心の叫びなのか。いや、そんなはずはない。健祐はいつでも覚悟していた。死など怖いものか、と。全てを失った者にとって、そんなことは当然だ。
「アヤちゃん、どうして、あんなこと言うの。アヤちゃんの傍へ行くのがそんなに悪いことかい? アヤちゃんしかいないんだよ、僕には……」
ゆっくりとその場に起き上がり、膝を突いた。「なぜ、そっちへ行ってはダメなの? また、独りぼっちになれと……?」
頭は混乱し、最早何も考えられない。ただ、章乃に会いたい一心だった。
健祐は立ち上がった。石段を下りると、その場にしゃがみ込んだ。突然、胃のあたりから何かが突き上げ、胸がむかついた。口の中いっぱいに苦いものが込み上げてくる。堪え切れず健祐は嘔吐した。何度も何度も息ができないくらい、胃の中が空っぽになっても尚繰り返した。
ようやく治まると、ふらつきながら社殿横の崖の上まで歩き、そこから下を覗き込む。
「アヤちゃん、アヤちゃんの傍へ……」
「健ちゃん」
また声が聞こえた。健祐は振り返った。
「生きて!」
人影が近づいて来る。自らも声のした方へ近づこうとしたら、既に誰かが目の前に立っている。
「アヤちゃん!」
突然、左頬に痛みが走った。もう一度、またもう一度。
「しっかり、して!」
声の方を見下ろした。目の前に誰かの顔が見える。輪郭はぼやけ、正体はつかめない。
「だれ?」
また頬に痛みが走った。
「しっかり、してー!」
その人影に両肩をつかまれ、揺さぶられた。
「フミ……ちゃん?」
「なんで……なんで、章乃さんの気持ちが分からないの!」
文は泣き叫んだ。
小柄な文に腰辺りを抱き締められ、思うように身動きが取れない。
「アヤちゃんの……気持ち……」
虚空を見つめ、呟いた。
「そうよ。章乃さんが、なぜ、あなたに自分の死を隠し続けたと思うの!」
文はまた強く抱き締めた。「あなたに生きる力を与えたかったのよ! なぜ、分からないの!」
「生きる……力? 僕に……」
目の前の風景が霞んで見える。
「生きなきゃダメ! 分かる?」
健祐は下を向いた。彼女の体温が、その額から健祐の頬へ伝わった。自らの目の焦点が文の濡れた眼に合う。
「フミちゃん、離して」
「イヤーッ!」
文は力いっぱい叫んだ。密着した文の声の振動が健祐の胸を伝って全身を共鳴させた。健祐はしっかりと文を見つめる。
「フミちゃん、離して」
「ダメ!」
文は激しくかぶりを振って、また一層力を込めて抱き締めてきた。
「分かったから」
文は健祐の体に腕を回したまま決して離そうとはしない。
健祐は文の体をそっと抱き寄せ、腕を背中に回すと、左手で文の頭を後ろから優しく撫でた。俯くと、文は瞬きもせず、健祐の目をじっと見つめている。
「イヤッ!」
「もう、分かったから。大丈夫だから」
それでも文は力を緩めない。
「ダメ、ダメよ! 死んではダメ!」
「僕、疲れたよ。あそこまで連れてってくれない? 座りたい」
健祐は石段を指差した。「もう、しない。約束するよ」
「本当に?」
「ああ、どうかしてた」
健祐はもう一度文の顔に視線を向けた。
文は健祐の胸に顔を押しつけて嗚咽し始めた。全身を密着させたまま、小柄なその体が小刻みに震える。
「約束するのね!」
文は念を押した。
「約束する。絶対にしない。あそこまで頼むよ」
文は少しだけ力を緩めた。
健祐は文に抱きかかえられるように石段まで移動すると、そこに腰を下ろした。
文も横に座ると、健祐の左腕に自らの両腕を巻き、しがみつく。
二の腕が締めつけられ、痛みが走った。健祐は微笑みながら右手で文の腕をさする。
「フミちゃん、痛いよ。腕がちぎれそうだ」
文は少しだけ力を緩めてくれたが、決してその腕を解こうとはしない。引き寄せようとする力が勝り、健祐の体は文の側へなびく。錨を下ろした船のように、その場に繋ぎ止められた。
「思い出したんだ」
健祐は穏やかな口調でそう切り出すと、文に夢の話を語り始めた。
*
「それで、章乃さんは、夢の中でなんて言ったの?」
ようやく落ち着きを取り戻した文は、いつもの明るい表情をこちらに向け、尋ねる。その優しい眼差しに健祐の胸は痛んだ。
「健ちゃん、生きて」
健祐は文の手を握った。「フミちゃんが、あのとき叫んだのと同じだった」
文は健祐の話を真剣な面持ちで聞いてくれている。
「私が……言った?」
「ああ、そうだよ」
「私が、立花さんのこと、『健ちゃん』って言ったの?」
「覚えてないの?」
「あのとき、無我夢中だったから。『生きて』って叫んだのは覚えてる。だけど、『健ちゃん』だなんて……」
「本当に聞こえたよ」
文の視線は一旦健祐から離れ、しばらく自らの足元に移された。もう一度健祐の目に注がれたとき、力強い光を放っていた。
「そうかもしれない。たぶん、章乃さんの口調を真似したのかも。私、章乃さんのこと知らないけど、咄嗟にそうしたのね……きっと」
「二度目に聞いたとき、引き戻されたんだね」
「二度目? 私、一度しか叫ばなかったわ」
「一度? そんなはずは……丁度この場所で。この石段の上で聞いたんだ」
「変ねえ。私、ここに来たとき、立花さんが崖の上にいたから、飛び降りるんじゃないかと思って……」
「おかしいな……」
健祐は首を傾げた。
「本当に、二度聞いたの?」
「本当だよ。はっきりと」
「……やっぱり……」
文はしばらく黙り込んだあと、声に力を込めた。「章乃さんの声だと思うわ」
「アヤちゃんの? まさか、ここには……」
「いるわ、絶対に! 章乃さんが立花さんの傍を離れる訳ないもの」
文は健祐の言葉を遮って強い口調で言い切った。
「本当にフミちゃんじゃないの?」
「違うわ」
「不思議だ。確かに聞いた」
「章乃さんが守ったのね、きっと。章乃さんは生き続けてる。今も尚、立花さんを愛しているのよ。思いは、生き続けるのよ」
──思いは生き続ける……
健祐は章乃の『遺書』を思い出した。今、文が口にしたことを章乃も綴っていた。
「フミちゃん、分かったよ。ごめんね、心配かけて」
文はゆっくりと首を横に振った。
「私、章乃さんに会ってみたかった」
「でも、アヤちゃんは……」
健祐はその先の言葉を飲み込んで急に立ち上がり、文に手を差し出す。「さあ、帰ろうか」
「ええ」
健祐が差し出した手を握り返すと、文も立ち上がった。
二人は石段を下り、その場を離れようとした。文は健祐が脱ぎ捨てた上着を拾うと、肩に羽織らせてくれた。袖を通しながら、ふと振り返り、石段を見る。
──あの場所で、章乃は……
──章乃は……
「フミちゃん」
自分の数歩前を歩いていた文を呼び止めた。
「どうしたの?」
文が振り返ると、もう一度、視線を章乃が横たわっていた場所に移し、じっと見つめ続ける。
「アヤちゃんは、死んだ」
健祐はきっぱりと口に出して言った。と、胸の奥から今まで抑えていた感情の波が押し寄せ、体が震え出す。突然全身の力が抜け、その場にくずおれて地面に手を突いた。すると涙が溢れ出し、健祐は咽び泣いていた。最後には、子供のように泣きじゃくった。
「アヤちゃんは、死んだ! 死んだんだよ!」
健祐は右手で拳を作り、地面を何度も叩いた。「辛い! ああ、苦しいよ!」
文は健祐の正面に回ると、健祐の肩越しに体を包み込むように抱き締めてくれた。健祐は文を見上げ、その胸に顔を埋めていつまでも泣いた。そうして、文の温もりだけを全身で感じ取った。
辺りはいつしか薄暮に覆われつつある。風は相変わらず吹き荒れ、健祐の体を容赦なく突き刺していた。