章乃はゆっくりと社殿の前まで歩み寄った。その場で一旦身を翻し、街を見下ろす。
 静かだった。風音もない。街の夜景が仄かにともる蝋燭のように点々と雲の底で燃えていた。家々の窓から漏れる幸福な光である。
 闇に広がる眼下の世界に手を大きく広げてみる。街の輪郭を成す灯りに沿って、空中を漂う自分を想像した。今、章乃の目には鮮明な色彩で着色された、この街での出来事が、想い出が、浮かび上がる。
 そのまま胸を張り、天を仰いだ。夜空に瞬いていた星々は、厚い雲に遮られ、最早光は届かない。
 もう一度星空が見たい一心で、空を見渡し、雲の切れ間を探した。切れ間などどこにもありはしなかった。章乃は諦めて社殿の石段を上り、膝を突いた。
 胸に手を当て鼓動を確かめる。己が命の灯火(ともしび)はめらめらと燃え盛る。 徐にコートの内ポケットからスナップ写真を取り出すと、目を閉じ、そっと口づけた。闇の中では見えるはずもないが、健祐が微笑んでいた。章乃にははっきりと見える。
 頬に冷たい感触が伝わった。章乃はゆっくり目を開け、頬に手をあてがう。
 雪、雪が降ってきた。
 左の掌を天に向け、雪を受け止める。音もなく降り続く雪は辺り一面を白に染めようとしている。章乃の肩にも降り積もる。それを払い除けたくはない。白の中に身を埋めたいと思った。
 章乃は社殿を前に再び目を閉じ、両手を合わせる。祈ることしかできない。心はどこまでも平安そのものである。瞼の裏に懐かしい面影を投影して祈り続けた。
 遠くの方で除夜の鐘が鳴る。もうじき年が明けるのだ。
 その場にうつ伏せに寝そべってみる。石の感触が頬を突き刺した。章乃は生きていた。痛い程の冷たさに、胸は幸福感で満たされる。左手を胸に置く。血潮が奏でる穏やかなリズムが掌を揺さぶる。じっと生命(いのち)の旋律に耳を傾けた。章乃の時間(とき)は絶え間なく流れゆく。
 胸の鼓動が激しく波打つ。美しい旋律は聞こえない。
 そっと目を開けると、最早白だけの世界だった。雪は章乃の体を包み込むように折り重なってゆく。
 章乃は涙を流した。瞼は次第に重くなる。瞬きを繰り返し、やがて目は閉じられた。章乃の時間(とき)は凍結した。
 ──生きたい……健ちゃん……わたし生きたい……
 ──怖い……お母さん……とても怖いの……死ぬのはイヤ……死にたくない……
 ──お母さん……お母さん……お母さん……
 章乃は力を振り絞り、健祐の写真を胸に押し当て、健祐を体いっぱいに感じ取った。とても温かい。
「健ちゃん、生きて」