ホテルに続く道のりを辿った。
 文は横で虚ろな目を自身の足元に置き、沈んだ表情のまま歩調を合わせてくれる。
 この道はよく知っているはずなのに、健祐にはどこを歩いているのかさえ分からない。脳は意識と無意識の狭間で覚醒と昏睡を繰り返し、あたかも健祐に夢幻の世界を垣間見せようとしているかのようだ。まるで迷路に迷い込んだ感覚だ。幼い頃の迷子になった自分を想起した。
 いや違う。そんな感覚とも全く違う。この世には存在しない感覚だ。誰が分かってくれるというのだ。
「フミちゃん、ここ、どこだっけ?」
 辺りを見回しながら呟いてみる。
「どうしたの、立花さん?」
 文の声が風に乗って健祐の鼓膜を微かに振動させる。
「いや、なんでもないけど……」
 健祐はもう一度視線を巡らせてみた。
 見慣れた風景が目の前に鎮座している。前方にホテルの全形が迫ってくる。しばらくして、やっとここがどの辺りかを認識できた。
「フミちゃん……先にホテルに戻ってて」
「……立花さんは?」
 文はいっとき黙って健祐を見つめるだけだったが、今にも風に掻き消されそうなくらいか細い声で尋ねてきた。
「あとから戻るよ」
 文は無言だった。
 健祐は突然文に踵を返すと、今来た道を引き返した。
 俯き加減で目的地を目指していると、次第に地面が後方へ流れる速さを増しゆく。いつの間にか健祐は駆け出していた。
 何があるというのだ。自分がこれから向かおうとしている場所に待ち受けているものとは。
 胸の奥から一気に突きあがった熱いものを、何か得体の知れぬ手に鷲づかみに引き千切られるような感覚に襲われた。
 ──虚無?
 ──これが虚無なんだ!
 健祐は一心不乱に走り続けた。

   *

 健祐の左前方に寺院の屋根が見えてきた。川を隔てて民家群に埋もれた一角に章乃が眠る場所がある。
「あの橋を、あの橋を渡ろう」
 左に折れ、橋を渡ると、もう直ぐ辿り着く。心臓の鼓動がこめかみの血管を圧迫して打つ音が耳に響く。
 やっと、墓地の入口まで来ると、一旦立ち止まり、全体を見渡してみる。深呼吸をして一歩を踏み出し、記憶を頼りに田代家の墓を探した。
 墓は直ぐに見つかった。健祐は荒い息遣いで墓前に佇んだ。自ずと章乃の姿が頭の中に浮かぶ。微笑み、悲しみ、喜び、様々な表情が健祐に呼びかける。
 どのくらい経ったのだろう。息遣いも元に戻っている。健祐には時間の感覚が麻痺していたし、今ここに立っていることさえ現実とは思えない。別次元の世界を覗いているに過ぎないのかもしれない。
 一度天を仰ぎ、それからまたしばらくそのまま墓石の文字を見ていた。やっと決心して墓石の裏に回る。
 幸乃は言っていた。ここに眠っている、と。それでも、章乃の名を確認しないうちは、断じて信じるべきではない。健祐は、一旦墓石から目を逸らし、また天を仰ぐ。そのまま目を閉じて静かに目を開けると、墓石に視線を向けた。


 章乃

 享年十七才

 十二月三十一日


 章乃の名は刻まれていた。
 健祐はその名を見つめ続けた。章乃の名を何度も指でなぞってみる。
「章乃。享年十七才」
 健祐は呟いた。「十七才の晩秋……章乃。享年十七才」
 涙は出なかった。不思議なくらい悲しみは襲ってこない。それどころか健祐は安堵する。
 ──なぜ?
 空虚と安寧が混在した感情のなか、健祐は自問してみる。
 ──知っていた?
 そんな気がする。章乃を慕いつつも、心のどこかで既に章乃はいないことを分かっていた。自分は、それを認めたくなかっただけかもしれない。
 初めから用意された結末だったのか。初めから分かっていたのなら、どうしてあのときに、章乃を見送った駅のホームで、なぜ章乃に対する思いの丈を口にできなかったのか。「好きだ」と、ひとことだけでも言ってやれなかったのか。健祐は後悔し、自分を責め立てるしかなった。自分を思い切り痛めつけたい衝動に駆られた。それだけが、章乃への侘びではないか。
 右手の拳を固く握り締める。それで右の頬を一度だけ力いっぱい殴りつけた。
「アヤちゃん、ごめんよ」
 ひとことだけ章乃に声をかけると、墓前を離れた。
 ──待ってて。僕も……
 あの神社を目指し、健祐は走った。と、墓地を出た所で目の前に文がいた。健祐の足は制動をかけられ、ぎこちない足さばきと共に静止した。
 風が文の髪を激しく乱す。
「フミちゃん、寒いだろう?」
 自分で放った声はただの反射に過ぎなかった。文を慮っての言葉では決してなかった。
 文は首を何度も激しく横に振るばかりだ。
「さあ、帰ろう」
 健祐は微笑みながら文を促し、先を歩く。
 文は後方から駆け寄ると、白いハンカチを手渡そうとした。
「立花さん、血が……」
 立ち止まって文に顔を向けると、文はハンカチを差し出したまま健祐を見上げる。健祐は首を横に振った。すると、文はハンカチを健祐の口元にそっと当て、優しく血を拭き取ってくれた。
「ありがとう、フミちゃん。ハンカチ汚しちゃったね」
 折り畳まれたハンカチには、鮮血が一面に付着していた。
「いいの! いいの!」
 文は叫ぶと、真一文字に口を結び、激しくかぶりを振った。その澄んだ(まなこ)から滴が弾き飛ばされる。
 文が、また口元にハンカチをあてがおうとしてくれた。が、健祐は文の手を優しく握り締め、その行為を拒んだ。文の手は酷く震えている。
「温かい手だね」
 文は無言で微笑む。
 健祐はそっとその手を解放してやると、また文の先を行く。文も小走りに健祐を追って横に並ぶと、寄り添うようにつき従う。
 道すがら、文は何度も健祐の様子をうかがっていた。
「フミちゃん、心配しなくていいよ。大丈夫だから」
 健祐は諭すように語り始めた。「やっぱり、こういうことだったよ。僕は心のどこかでこうなることを分かっていた。アヤちゃんとの連絡が途絶えたときから、もういないんじゃないかって。二十歳まで生きられるだろうか? アヤちゃん自身もそう言ってたんだ。そんなの僕は信じたくなかった。僕が信じてあげなくて、誰が信じてくれる? 僕が守るんだって、思ってたんだ、子供の頃から。でも、やっぱり、やっぱり、こういう結末が用意されてたんだね。おかしいだろう? 僕だけがアヤちゃんを待ち続けていたんだよ。アヤちゃんの幻をね。皆、アヤちゃんがいないのを知ってたのに。僕だけが、僕だけが……いや、知ってたけど、怖くて認めたくなかっただけかも。なんて、なんて喜劇だろう。ハハハ……」
 健祐は声高に笑った。
「立花さん、やめて! 章乃さんが可愛そうよ! 私、章乃さんの気持ちよく分かる。最初は、なんて強い人だろうって思ったけど、そうじゃないわ。ひとりの女性だわ。なんて、深い思いやりなの。死を前にして、立花さんにとても会いたかったはずよ。だけど、そうしなかった。会ってしまったら、きっと心が折れてしまうわ。立花さんにすがりつき、泣き、愛し、結局この世に未練しか残せない。立花さん、章乃さんのそんな姿、直視できる? きっと、言葉では言い表せない程の悲しみに襲われるわ。耐えられないくらいの。立花さんは、どうしてた? 章乃さんのあとを追った? 章乃さんは、それが一番怖かった。一番近くで立花さんを見てきて、一番立花さんを知ってる。そうでしょう? 自分が生き続けて立花さんにすがる。そして、自分の死を立花さんが目の当たりにすれば、どうなるか章乃さんには分かってた。自分が生き続けて死なせる。章乃さんには、そんなこと到底できっこない。自分の死を隠すことで、立花さんを生かした。死んで、生かす。こんな思いやりって……本当の愛? 愛するってこと? そんな陳腐な言葉では表現できない。だから、立花さんは、章乃さんの愛に報いるべきなの! 生ある限り生きなければならないのよ。それが、残されたものの義務よ! 章乃さんは、今尚、立花さんを愛し続けているわ。自分がこの世から消えてしまっても、愛し続けているなんて……立花さんも、章乃さんを愛してあげなきゃ」
 文は体を震わせながら、目にいっぱい涙を溜めていた。
 健祐は文の言葉を噛み締めた。文に微笑みかけると、深く頷いた。