居間のソファに腰かけると、深く身を沈め、天井の一点を見つめた。しばらくぼんやりしたのち、視線を巡らせてみる。この家で過ごした十七年が目の前をよぎった。幼い自分と若かりし母の姿が、自ずと部屋の其処かしこに映し出される。
 母に負われた厳冬の夕方、家路を辿っていた足取りが止まった。背に密着した章乃の胸が急に小刻みに震え出す。不規則な揺れに不安が募り小声で問うと、いっとき母は黙りこくって、いきなり歌い出した。その背から胸に伝わる振動はいつしかリズミカルなものへと変わり、章乃も明朗な声に合わせて歌った。あの日の一節を口ずさんでみる。どこか寂しげな旋律の流行歌だが、胸の奥に灯がともるような歌詞に、気分も次第に晴れやかになったのを覚えている。
 あの日、なぜ母が泣いていたのかは、ずっと聞きそびれて結局理由は未だに分からず仕舞いだが、どんな思いで生きてきたのか、章乃も今なら少しばかりはその心情を理解できるような気がする。
 我が子に涙を見せたのはあの時だけだ。そんな母を悲しませたくはない。
「でも……」
 己の力ではどうしようもないことがこの世にはある。
 ──お母さん、ごめんなさい……
 思わず目を閉じて手を組んだ。俯くと、固く結んだ手に唇が触れた。そのまま指を噛み締める。静かに全身の力を緩め、組んだ手を解くと、左手人差し指の歯形を見つめながら時が満ちるのを待った。

   *
 
 居間の掛け時計が八時を指すのを見届けると、浴室に向かった。
 今夜は体の隅々まで念入りに洗い、入浴を済ますと、脱衣室で肩辺りまでの黒髪を()かしながら鏡に映る己の裸身を見つめる。ヘアブラシを置き、向こう側の自分に頭からゆっくりと下方へと視線を這わせた。
 自身の裸体は瑞々しく、まだ汚れを知らない。そっと胸を両の掌で鷲づかみにしてみる。乳白色の柔肌の弾力に十指は撥ね返される。
 まだこんなにも若々しく美しい。眩いばかりなのに、滅びてしまう。その前に健祐に差し出してやりたかった。健祐は綺麗だと言ってくれるだろうか。
 章乃の目に涙が溢れた。汚れのない美しい裸身なんて悲し過ぎる。自分は生身の女だ。
「健ちゃん……」
 章乃の夢が最早叶わぬと悟った日、健祐に抱かれる日は永遠に訪れないと知ったとき、章乃の決意は固まった。汚れを知らぬ心身(からだ)のまま、美しい面影だけを残したまま旅立つのだ、と。
 まだ少し先かもしれないし、そのときが永遠に来ないでくれるよう祈りたい。だが、いつでも覚悟はできている。そのときになって無様な振舞いだけはしたくないと強く願ってきた。だから、今日から身も心も真白なままでいようと決心した。
 章乃は涙を拭って顔を上げた。鏡に向かって微笑みかける。
 今夜はなぜか心が騒ぐ。