公子が帰ったのち、彼女が座っていた場所を見つめながら欠けた心を埋め合わせる手立てを探った。
 祭りのあとに訪れる、あの独特の余韻が章乃の胸を襲う。祭りの賑わい、華やぎに反比例するように、寂寥(せきりょう)感が心の中を侵蝕してゆく。
 結局、何の手立ても思いつかぬまま、時間だけが方向を確実に定め、急き立てるように章乃の前を遠ざかるばかりであった。
 時間を持て余しつつ外の様子に耳を傾けてみると、路地を往来する微かな足音と話し声が時たま届くだけだ。人の気配も次第に途切れてゆくのが、この部屋の中からもうかがわれる。
 前の車道は元々交通量が極めて少ない上に、大晦日とあって、自家用車を所有するご近所さんの大半が帰省中だから、尚のことエンジン音も通りから途絶えてしまった。どこかの大学生だかが、たまに夜中にバイクで爆音を響かせてひんしゅくを買うこともあるが、この辺りは至って閑静な住宅街である。しかし、今宵ばかりはバイクの轟音も懐かしく思われてくるのが不思議だ。
 母に視線を向けた。母は台所で洗い物を片づけている最中だ。
 食器のこすれ合う音が母の音色を奏でる。米を研ぐ音、包丁がまな板を叩く音、濯ぎや滴を切る音までもが、それぞれにその人特有のリズムがある。
 いっとき母の背中を見つめてから頬杖を突き、ぼんやり窓の方を眺めた。蛇口から流れ落ちる水音が止むと、カーテンの隙間を縫って、夜の静寂(しじま)が室内へも忍び込んで来る。狭い和室に、居間の方から掛け時計の心許ない響きだけが、胸底で剥がれかけた切片の狭間を埋めてゆく。二人っきりの時間は閉ざされた。
 母が後片づけを終え、正面に座るや、炬燵の横から紙袋を差し出した。
「頼まれた物よ。あなたが寝てる間に買って来たの。これでよかったかしら?」
 章乃はハッとしてそれを引き寄せた。中身を覗いて母に顔を向ける。
「お母さん、わざわざごめんなさいね。ありがとう」
「ねえ、章乃。心機一転して……なにを始めるの?」
「脱皮するのよ」
 章乃は笑う。
「脱皮?」
 母は幾分怪訝そうに眉根を寄せ、首を傾げる。
「そう、古い殻は今年中に脱ぎ捨てて、新しい私になって、身も心も……」
「そして新年を迎えるのね?」
 得心顔で一度だけ頷いてそう言うと、明るい表情を向け、じっと章乃を見つめる。
「汚れのない、真っ白なままで……」
 母の顔から一旦視線を逸らして俯き加減で答える。顔を上げ、真っ直ぐ母の顔を見た。母は静かに微笑んでくれる。 章乃は心の中で何度も、「ごめんなさい」と謝り続けていた。