章乃は夕食後、しばらく一階で暖を取ると、自室へ引っ込んだ。
机の前に腰かけ、スタンドを点すと、引き出しから白封筒を取り出した。先月、病室で認めた手紙が既に入れてある。それを封筒から引き抜き、ざっと目を通す。静かに手紙を机上に置いてペンを取り、白封筒の表に、いつの日か受け取るであろう人の名を記した。手紙を丁寧に折り畳んで封筒に戻したあと、厳重に封をして胸に押し当て、目を閉じた。
そっと目を開け、宛名を見つめる。
“立花健祐 様”
字面を指で何度もなぞってみると、健祐の顔が浮かぶ。健祐は笑っていた。
章乃は決心して立ち上がった。封筒をパジャマのポケットに忍ばせ、宝箱を両手で抱えると、自室を出て階段を下りた。
和室に入り、母の横に膝を突き、箱を置いて蓋を開ける。
「なに?」
母が不思議そうな目で章乃と木箱を交互に見た。
章乃は中の物をひとつずつ手にしながら母に説明する。
健祐が章乃のために持って来てくれた物だ。健祐が描いた絵、綺麗な貝殻、石ころ。色々な物が詰まっている。他人にはガラクタ同然だろうが、章乃にとっては、かけがえのない懐かしの品物ばかりだ。どんな高価な宝石ですら章乃には色あせて見える。
母は静かに笑みを浮かべながら章乃の話につき合ってくれた。
「健ちゃん、どうしてるかな?」
「きっと元気にしてるでしょう、やきもきしながら……」
母は章乃の顔を覗き込んできた。「ねえ、知らせてあげようよ」
章乃は口を真一文字に結ぶと、激しく首を振る。
「それだけは絶対に……」
母は表情を強張らせ、しばらく章乃を見つめる。
章乃は視線を箱の中に落としたまま奥歯を噛み締めた。
「仕方ないわね、でも、もうじき元気な章乃を見せてあげられるわね……」
「うん、病院に戻ったら、手術を受けて治療に専念する……」
章乃の心は押し潰されそうになる。「直ぐに会えるわ」
「その調子よ」
母はようやくいつもの笑顔を見せてくれた。
章乃は箱の中をじっと眺めた。中の物を見ている訳ではなかった。しばらくして、徐にパジャマのポケットから白封筒を取り出すと、母に差し出す。
「もし、健ちゃんが来たら……この手紙渡して欲しいの」
母は手紙を受け取ると、裏表を交互に確かめた。
「これ、出さないの?」
「うん、健ちゃんが来たときでいいの。この箱に入れとくから、お願いね」
「いいけど……なに?」
「野暮な質問はご法度よ。お母さんって……わりと無粋な人ね」
章乃はわざと不機嫌を装い、顔を背けた。
「あら、恋文?」
「古風ね、こいぶみ……いい響きだわ。ま、そんなものかな。面と向かって言えないことも、手紙だと素直に言えちゃうのね。それに……まだ健ちゃんに知られたくないの」
「分かったわ」
母は笑って頷いてくれた。
「ありがとう……」
章乃は躊躇いながらも、ようやく決心してあとを続けた。「健ちゃんって、酷いこと言うのよ。私にもしものことがあったら、自分もあとを追う、だなんて、それも真剣な顔してよ。ホント嫌になっちゃう。縁起でもない、冗談にも程があるわ!」
「章乃……」
母の顔色が変わった。
「で、私決心したの。この機会に一度だけ健ちゃんをとっちめてやろうって。お母さんも手伝ってね、健ちゃんを驚かすのよ」
章乃は悪戯っぽい目つきで母を見た。「本心なのかしら?」
真っ直ぐ母の顔を見ると、母は顔を章乃に向けたまま無言で視線だけを落とした。悲しげな表情だ。
章乃の胸は張り裂けそうだった。母も同じだろう。「ごめんなさい」と叫びたかった。
「もし、本心なら……私は絶対に先に天国へは行けないわね。お婆ちゃんになっても、健ちゃんを看取るまではって、決めてるの、フフフ……」
母は黙って章乃を見つめるだけだ。
「章乃……」
母が囁くように口を開いたのは大分時間が経ってからだ。「あなたは大丈夫なのよ。大学病院の先生だって太鼓判押してくれたのよ。心配いらないのよ」
「当然よ。私はそんな柔じゃないわ。全快……とまでは言わない。でも……健ちゃんに会いに行けるぐらいには早くなりたいわね。その日が待ち遠しいなあ。お母さんが縫ってくれたビロードのワンピースで……突然、健ちゃんの前に現れたら……健ちゃん、驚くわね、フフフ……」
「そうね、健ちゃんの驚く顔、見てみたいわね」
母もやっと笑ってくれた。
章乃は母の膝に頭を乗せた。
「ああ、懐かしい感触。なん年振りかしら、お母さんの膝枕……」
「なーに、甘えちゃって……」
母は章乃の髪を優しく撫でてくれた。
母の膝はとても温かく、幼い頃の記憶が次から次へと脳裏を掠めて流れた。まるでパラパラ漫画のように。
章乃は母の膝の上で一つひとつの映像の断片を噛み締めていた。
机の前に腰かけ、スタンドを点すと、引き出しから白封筒を取り出した。先月、病室で認めた手紙が既に入れてある。それを封筒から引き抜き、ざっと目を通す。静かに手紙を机上に置いてペンを取り、白封筒の表に、いつの日か受け取るであろう人の名を記した。手紙を丁寧に折り畳んで封筒に戻したあと、厳重に封をして胸に押し当て、目を閉じた。
そっと目を開け、宛名を見つめる。
“立花健祐 様”
字面を指で何度もなぞってみると、健祐の顔が浮かぶ。健祐は笑っていた。
章乃は決心して立ち上がった。封筒をパジャマのポケットに忍ばせ、宝箱を両手で抱えると、自室を出て階段を下りた。
和室に入り、母の横に膝を突き、箱を置いて蓋を開ける。
「なに?」
母が不思議そうな目で章乃と木箱を交互に見た。
章乃は中の物をひとつずつ手にしながら母に説明する。
健祐が章乃のために持って来てくれた物だ。健祐が描いた絵、綺麗な貝殻、石ころ。色々な物が詰まっている。他人にはガラクタ同然だろうが、章乃にとっては、かけがえのない懐かしの品物ばかりだ。どんな高価な宝石ですら章乃には色あせて見える。
母は静かに笑みを浮かべながら章乃の話につき合ってくれた。
「健ちゃん、どうしてるかな?」
「きっと元気にしてるでしょう、やきもきしながら……」
母は章乃の顔を覗き込んできた。「ねえ、知らせてあげようよ」
章乃は口を真一文字に結ぶと、激しく首を振る。
「それだけは絶対に……」
母は表情を強張らせ、しばらく章乃を見つめる。
章乃は視線を箱の中に落としたまま奥歯を噛み締めた。
「仕方ないわね、でも、もうじき元気な章乃を見せてあげられるわね……」
「うん、病院に戻ったら、手術を受けて治療に専念する……」
章乃の心は押し潰されそうになる。「直ぐに会えるわ」
「その調子よ」
母はようやくいつもの笑顔を見せてくれた。
章乃は箱の中をじっと眺めた。中の物を見ている訳ではなかった。しばらくして、徐にパジャマのポケットから白封筒を取り出すと、母に差し出す。
「もし、健ちゃんが来たら……この手紙渡して欲しいの」
母は手紙を受け取ると、裏表を交互に確かめた。
「これ、出さないの?」
「うん、健ちゃんが来たときでいいの。この箱に入れとくから、お願いね」
「いいけど……なに?」
「野暮な質問はご法度よ。お母さんって……わりと無粋な人ね」
章乃はわざと不機嫌を装い、顔を背けた。
「あら、恋文?」
「古風ね、こいぶみ……いい響きだわ。ま、そんなものかな。面と向かって言えないことも、手紙だと素直に言えちゃうのね。それに……まだ健ちゃんに知られたくないの」
「分かったわ」
母は笑って頷いてくれた。
「ありがとう……」
章乃は躊躇いながらも、ようやく決心してあとを続けた。「健ちゃんって、酷いこと言うのよ。私にもしものことがあったら、自分もあとを追う、だなんて、それも真剣な顔してよ。ホント嫌になっちゃう。縁起でもない、冗談にも程があるわ!」
「章乃……」
母の顔色が変わった。
「で、私決心したの。この機会に一度だけ健ちゃんをとっちめてやろうって。お母さんも手伝ってね、健ちゃんを驚かすのよ」
章乃は悪戯っぽい目つきで母を見た。「本心なのかしら?」
真っ直ぐ母の顔を見ると、母は顔を章乃に向けたまま無言で視線だけを落とした。悲しげな表情だ。
章乃の胸は張り裂けそうだった。母も同じだろう。「ごめんなさい」と叫びたかった。
「もし、本心なら……私は絶対に先に天国へは行けないわね。お婆ちゃんになっても、健ちゃんを看取るまではって、決めてるの、フフフ……」
母は黙って章乃を見つめるだけだ。
「章乃……」
母が囁くように口を開いたのは大分時間が経ってからだ。「あなたは大丈夫なのよ。大学病院の先生だって太鼓判押してくれたのよ。心配いらないのよ」
「当然よ。私はそんな柔じゃないわ。全快……とまでは言わない。でも……健ちゃんに会いに行けるぐらいには早くなりたいわね。その日が待ち遠しいなあ。お母さんが縫ってくれたビロードのワンピースで……突然、健ちゃんの前に現れたら……健ちゃん、驚くわね、フフフ……」
「そうね、健ちゃんの驚く顔、見てみたいわね」
母もやっと笑ってくれた。
章乃は母の膝に頭を乗せた。
「ああ、懐かしい感触。なん年振りかしら、お母さんの膝枕……」
「なーに、甘えちゃって……」
母は章乃の髪を優しく撫でてくれた。
母の膝はとても温かく、幼い頃の記憶が次から次へと脳裏を掠めて流れた。まるでパラパラ漫画のように。
章乃は母の膝の上で一つひとつの映像の断片を噛み締めていた。