一階の和室に入ると、既に炬燵の上に夕食が用意されていた。重箱も載っていた。
「お正月の準備も済んだのね、ご苦労様」
「味見してごらんなさい」
座布団に膝を突いて身を乗り出し、重箱を覗いたら、母はテーブルの中央に重箱を移動させ、三段重ねの最下段を真ん中に挟むように、二段目と最上段をそれぞれ横に並べた。二段目と三段目は何の変哲もない我が家の味だ。御煮しめや黒豆、出汁巻き玉子やらが所狭しとひしめき合っている。御節料理定番の顔ぶれである。母は最上段の蓋を開けた。鯛の尾頭付きと伊勢海老が居座っていた。
「お母さん、張り込んだのね……」
章乃は伊勢海老の巨大さに目を奪われた。「高かったでしょうに」
「摘まんでみる?」
台所へ向かいながら母が訊く。
「そうね……」
少し思案してみる。「来年まで待つことにするわ」
「まあ、気の長いこと、フフフ……」
炬燵に潜りながら母の様子をうかがう。母は台所から鍋を持って来た。
「年越しそば?」
「章乃の好きなコンソメスープもあるのよ。お昼にと思って……」
「お昼、抜いちゃったもんね。二階までいい匂いしてたわ。両方もらっていい?」
「ええ、ちょっと待ってなさい、温め直すから」
章乃が頷くと、母はまた台所へと立った。
待つ間、もう一度重箱の蓋を開けて中を覗いてみる。伊勢海老は今にも躍り出しそうな勢いで身構えていた。隣の鯛を襲うんじゃないかしら、海老で鯛を釣るなんて、と章乃はクスッと笑った。真鯛が貧相に見えるのが何とも滑稽である。
母はスープの入った鍋を持って来た。
「お腹減っちゃった。スープからにしようっと」
笑みを見せながら頷いた母はスープを装って章乃の前に皿を置いた。人参と玉ねぎの間をジャガイモと地鶏の肉団子がゴロゴロと転がりそうだ。
さっそくスプーンを取って、次から次へと口に運んだ。香りの高いジャガイモのとろけるような食感と肉団子の地鶏の味わい深い弾力が対照的に口の中で秩序立ち、濃くも薄くもない絶妙な濃度のスープに、玉ねぎの香りと人参の甘みがそれらの味を引き締める。
章乃はたちまち皿を空にした。
「食欲出たみたいね」
「やっぱり、お昼抜いたせいね、ペコペコだもの」
年越し蕎麦を啜ると、もう一杯お代わりをした。それにまたコンソメスープをさっきと同量だけ胃袋に流し込み、腹をさすりながら口を尖らせ、フウッと息を吐いた。
「珍しいわね。こんなに食べたの久しぶりね」
母は目を丸くする。「元気出た?」
「とっても」
「そう、よかった」
母は満面の笑みを見せた
「ごちそうさま、美味しかったあ……」
章乃は手を合わせた。「お母さん、ありがとう」
母は蕎麦を啜りながら満足げな表情だ。自分が元気を見せたからだ。
腹が膨れると、自ずと幸せな気分にもなるものだ。章乃は母の明るい顔を見て、全身で母の温もりに浸っていた。生んでくれた母に感謝でいっぱいだ。この幸福な団らんがずっと続けばいいのに、と切に願った。
窓に視線を向けると、外は夕闇が迫っていた。静かに立ち上がり、窓際へ歩み寄ると、サッシ窓を開け、西の空を見上げた。薄らと残照が闇に溶け込んで、昼と夜の境界を曖昧な色合いに染めていた。直に闇が今日を追い払うだろう。
章乃は別れの色だと感じた。
恐らく今夜は星空は見込めまい。次第に黒雲が垂れ込めつつある。真冬の澄んだ星空が望めないのは残念だ。章乃は夜空が好きだ。星々の遥か彼方、百数十億光年先まで広がる宇宙の果てを眺めていると、何もかもが取るに足りないものに思われる。人の寿命ですら悠久の時の中では一瞬に過ぎないのだから。
章乃は空を見上げたまま溜息をついた。
「章乃、風邪ひくわ」
優しい声である。母は章乃の肩にショールをかけてくれた。
章乃は母に微笑んで窓を閉めると、胸元でショールを合わせながら移動し炬燵に足を突っ込んだ。
母は石油ストーブに火を点け、また章乃の正面に座る。
「天気予報当たりそうね」
章乃は炬燵の中で手を揉む。
「予報はなんて?」
「雪になるんだって……」
「どうりで冷え込むはずね。初雪ね」
母は背を丸め、章乃と同様に炬燵の中で手を揉んでいる。
母の仕種に自ずと笑みが零れる。親子はやはり似るものだと思った。
「どうしたの?」
母もつられて笑う。
「私はお母さんの娘だってこと……」
母は笑いながら首を傾げた。
比較的温暖な山間のこの街にも本格的な冬将軍の到来だ。雪もまたよしとしよう、と章乃は初雪を待つことにした。
「お正月の準備も済んだのね、ご苦労様」
「味見してごらんなさい」
座布団に膝を突いて身を乗り出し、重箱を覗いたら、母はテーブルの中央に重箱を移動させ、三段重ねの最下段を真ん中に挟むように、二段目と最上段をそれぞれ横に並べた。二段目と三段目は何の変哲もない我が家の味だ。御煮しめや黒豆、出汁巻き玉子やらが所狭しとひしめき合っている。御節料理定番の顔ぶれである。母は最上段の蓋を開けた。鯛の尾頭付きと伊勢海老が居座っていた。
「お母さん、張り込んだのね……」
章乃は伊勢海老の巨大さに目を奪われた。「高かったでしょうに」
「摘まんでみる?」
台所へ向かいながら母が訊く。
「そうね……」
少し思案してみる。「来年まで待つことにするわ」
「まあ、気の長いこと、フフフ……」
炬燵に潜りながら母の様子をうかがう。母は台所から鍋を持って来た。
「年越しそば?」
「章乃の好きなコンソメスープもあるのよ。お昼にと思って……」
「お昼、抜いちゃったもんね。二階までいい匂いしてたわ。両方もらっていい?」
「ええ、ちょっと待ってなさい、温め直すから」
章乃が頷くと、母はまた台所へと立った。
待つ間、もう一度重箱の蓋を開けて中を覗いてみる。伊勢海老は今にも躍り出しそうな勢いで身構えていた。隣の鯛を襲うんじゃないかしら、海老で鯛を釣るなんて、と章乃はクスッと笑った。真鯛が貧相に見えるのが何とも滑稽である。
母はスープの入った鍋を持って来た。
「お腹減っちゃった。スープからにしようっと」
笑みを見せながら頷いた母はスープを装って章乃の前に皿を置いた。人参と玉ねぎの間をジャガイモと地鶏の肉団子がゴロゴロと転がりそうだ。
さっそくスプーンを取って、次から次へと口に運んだ。香りの高いジャガイモのとろけるような食感と肉団子の地鶏の味わい深い弾力が対照的に口の中で秩序立ち、濃くも薄くもない絶妙な濃度のスープに、玉ねぎの香りと人参の甘みがそれらの味を引き締める。
章乃はたちまち皿を空にした。
「食欲出たみたいね」
「やっぱり、お昼抜いたせいね、ペコペコだもの」
年越し蕎麦を啜ると、もう一杯お代わりをした。それにまたコンソメスープをさっきと同量だけ胃袋に流し込み、腹をさすりながら口を尖らせ、フウッと息を吐いた。
「珍しいわね。こんなに食べたの久しぶりね」
母は目を丸くする。「元気出た?」
「とっても」
「そう、よかった」
母は満面の笑みを見せた
「ごちそうさま、美味しかったあ……」
章乃は手を合わせた。「お母さん、ありがとう」
母は蕎麦を啜りながら満足げな表情だ。自分が元気を見せたからだ。
腹が膨れると、自ずと幸せな気分にもなるものだ。章乃は母の明るい顔を見て、全身で母の温もりに浸っていた。生んでくれた母に感謝でいっぱいだ。この幸福な団らんがずっと続けばいいのに、と切に願った。
窓に視線を向けると、外は夕闇が迫っていた。静かに立ち上がり、窓際へ歩み寄ると、サッシ窓を開け、西の空を見上げた。薄らと残照が闇に溶け込んで、昼と夜の境界を曖昧な色合いに染めていた。直に闇が今日を追い払うだろう。
章乃は別れの色だと感じた。
恐らく今夜は星空は見込めまい。次第に黒雲が垂れ込めつつある。真冬の澄んだ星空が望めないのは残念だ。章乃は夜空が好きだ。星々の遥か彼方、百数十億光年先まで広がる宇宙の果てを眺めていると、何もかもが取るに足りないものに思われる。人の寿命ですら悠久の時の中では一瞬に過ぎないのだから。
章乃は空を見上げたまま溜息をついた。
「章乃、風邪ひくわ」
優しい声である。母は章乃の肩にショールをかけてくれた。
章乃は母に微笑んで窓を閉めると、胸元でショールを合わせながら移動し炬燵に足を突っ込んだ。
母は石油ストーブに火を点け、また章乃の正面に座る。
「天気予報当たりそうね」
章乃は炬燵の中で手を揉む。
「予報はなんて?」
「雪になるんだって……」
「どうりで冷え込むはずね。初雪ね」
母は背を丸め、章乃と同様に炬燵の中で手を揉んでいる。
母の仕種に自ずと笑みが零れる。親子はやはり似るものだと思った。
「どうしたの?」
母もつられて笑う。
「私はお母さんの娘だってこと……」
母は笑いながら首を傾げた。
比較的温暖な山間のこの街にも本格的な冬将軍の到来だ。雪もまたよしとしよう、と章乃は初雪を待つことにした。