夏の日差しが眩しくて思わず手をかざした。
 辺り一面田んぼが広がっている。青々とまだ若い稲に実はついていない。葉を広げ、秋の収穫に備えて、日をいっぱいに吸収しているところだ。
 章乃は畦道を歩きながら両手をいっぱいに広げてみる。目を閉じ、天を仰ぐと、瞼の裏に明々と日は燃え立つ。夏の名残だ。もうじき秋は近いのだと章乃は感じた。
 目を開けると風が立ち、稲の葉ずれを聞いた。
 自分の名を呼ばれたような気がして、ふと振り返る。遥か彼方に健祐の影を認めて、章乃はなぜか隠れなければ、と田んぼに分け入って身を潜めた。
 健祐は目の前までやって来ると、辺りをキョロキョロと見渡している。自分を捜しているようだ。
 章乃は胸の高鳴りを手で押さえながら、いつ飛び出してやろうかと機会をうかがった。さぞ健祐は驚くだろう。その顔を思うと、愉快な気分になり、クスッと声を出して笑った。
 健祐がこちらに背を向けたとき、章乃は畦道に躍り出て健祐の肩に手をかけた。健祐は振り返り、笑みを見せた。だが、健祐ではなく自分だった。
「健ちゃんは、どこ?」
 章乃は自分に問いかけるが、自分は黙って首を横に振るばかりだ。しばらくその場に佇んでいると、眼前の自分が遠くを指差した。その方向を見ると、あの神社がある小山だ。
「あそこに健ちゃんが……」
 次に章乃が視線を戻したとき、既に自分は消えていた。
 章乃は神社を目指し、走った。ふわふわと足取りは軽く、あっという間に社殿の前に立っていた。
 誰かが社殿に向かって手を合わせている。女性だった。その人はしばらくすると、すがりつくようにうつ伏せに横たわった。
 章乃は歩み寄り、その人を見下ろした。ふと顔を上げると、雪が降っていた。雪は辺り一面を覆い尽くし、その人の上にも降り積もってゆく。章乃は穏やかな気分だ。もう何の苦痛もなく、心は自由だ。
「健ちゃん、そこにいるのね?」
 健祐の姿は見えなかったが、近くにいることは分かった。「心配しないで、私は自由になったの」
「アヤちゃん、今行くよ!」
 健祐の声が章乃の耳をつんざいた。
「いいの、来ないで!」
 章乃は健祐を制すると、ひとりその場を去った。
 また畦道に立っていた。目を閉じると、瞼の裏に健祐の笑顔が焼きついて、章乃も微笑みかけた。
「眩しい。健ちゃん、とても眩しい」
 章乃はゆっくりと目を開けた。
 日は大分傾き、淡い光となって西向きの小窓から差し込んでいた。顔に当たる日が眩しい。手をかざして日差しを遮った。
「夢か……」
 いつしか眠っていたらしい。
 妙な夢だ、と苦笑しながら章乃はベッドに身を起こすと、部屋の片隅を見つめた。章乃が宝箱と呼ぶ箱がベッドの足元の書棚の横に置いてある。三十センチメートル四方の正六面体の木箱だ。何の箱かは分からないが、河原を健祐と二人して歩きながら章乃の目に留まったのだ。
「私、これに宝物を入れるわ」
 健祐が一旦自宅に持ち帰り、薄い板を張り合わせ、蓋をつけて持って来てくれた。これに健祐がくれた物を全部おさめてある。
「アヤちゃんの宝物って、なに?」
「あのね……ヒ、ミ、ツ!」
 十歳の幼い二人を思い浮かべて章乃は笑った。ほんの昨日のことのようだ。健祐と歩んだ道程を辿れば、自ずと胸いっぱいの想い出が溢れそうになる。
「章乃、気分はどう?」
 不意に母の声がした。
「うん、大丈夫よ」
 母はドアを開け、入って来た。章乃の顔は綻んだままだ。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない、フフフ……」
「思い出し笑い? なにか面白いことあったのかしら……?」
「あのね……ヒ、ミ、ツ!」
 章乃は声高に笑った。
「おかしな子ね……夕食持って来る?」
 母も笑顔で訊く。
「もうそんな時間?」
 章乃は枕元の目覚まし時計を覗いた。まだ五時を回ったばかりだ。「まだ夕食には早くない?」
「お昼抜いたでしょ、だから早めがいいと思って……運んで来るわね」
「いいの」
 章乃は立ち去ろうとする母に断った。「しばらくして下りて行くわ」
 母は頷いて部屋を出た。
 章乃は伸びをしながら深く息を吸い込んで口から一気に吐いた。