章乃にとって健祐は兄であり、頼れる存在として子供時代を過ごしてきた。確かにずっと憧れ続けてはいたが、異性として意識し始めたのは十三歳の春だった。
 小高い山の頂に建つ街外れのあの神社の境内で、事ある毎に二人は語り合ってきた。放課後、眺望のきく社殿の石段に腰かけて街並みを見渡しながら、章乃はふと命の儚さ、自分の命の期限を口にしてしまった。
 健祐はいきなり章乃の手を取って握り締めた。
 章乃は「痛い」と小さく叫んで健祐を見ると、真剣な眼差しを向けていた。その怖いまでの迫力で(にら)(まなこ)に章乃は釘づけになった。
「アヤちゃんは僕が守る」
 穏やかな口調だったが、一語一語に健祐の熱情を悟った。
 章乃は息苦しくなって俯くと、健祐は静かに力を緩め、手を解いた。
 しばらくして健祐は立ち上がり、その場を去ろうとした。章乃は健祐のあとを追い、神社の階段を下りると、二人はひとことも言葉を交わさず帰途に就いたのだ。
 健祐を好きだという気持ちに変わりなかったが、そのとき何かが違うと感じた。何かに揺さぶられるかのように激しく心が波打った。あの、胸が締めつけられるような痛みにも似た感情が、章乃の体の奥底を突き上げ、自ずと体は嗚咽する。涙を流しながら何度となく健祐を受け入れたのだ。それ以来、章乃は健祐の顔をまともに見ることができない日々が続いた。健祐に見つめられると、身は強張り、胸は高鳴った。
 淡い恋心の終焉である。羽化したての蝶が飛び立つ準備を終え、初々しい旅立ちの季節(とき)を迎えたのだった。
 その後、別離が待っていようとは想像だにできなかった。七歳の頃より健祐に寄り添うように暮らしてきた。一日たりとも離れて過ごしたことはない。それが当たり前だったし、日々の習慣をこなすように健祐の存在も生活の一部だった。
 だのに、中学の卒業式当日、健祐はこの街を離れてしまった。健祐の母が急逝し、母方の祖母に引き取られることになったのだ。
 惜別の涙は止め処なく流れた。ふと気づくと、傍に健祐はいない。章乃は愕然とし、思わず涙ぐむ。そんな日々を過ごしてきた。
 今夏(こんか)、章乃は健祐の元へと列車に飛び乗った。夏休み初日の早朝、始発列車は健祐の住む里山へと滑り出した。
 目的の駅に到着した頃には既に日は高く、短い影を落としていた。ホームに健祐の姿を認めた瞬間、胸が熱くなり、声も出せなかった。必死に泣くまいとして奥歯を噛み締めていた。
 駅付近の食堂で共に昼食をとり、健祐の祖母に挨拶を済ませ、町を散策し、時を過ごした。楽しい時間は容赦なく過ぎ去る。正に夢の時間だった。
 日は大分傾いていた。章乃が去る時刻が迫る。
 二人、駅へとゆっくり歩を進めた。駅前の文房具店の看板が目に留まると、健祐を外で待たせ、ひとり入店した章乃は日記帳を購入して健祐に手渡した。
「交換日記しましょう……」
 年に一度だけの交換日記。章乃は十年続けたいと願った。健祐は章乃の提案に頷いてくれた。
 もう最初のページに綴っただろうか。健祐のことだ、たぶん既に郵送したに違いない。だが、章乃の元へは永遠に届かない。自分から言い出したことなのに。
「健ちゃん、ゴメンね……」
 章乃は机に頬杖を突いたまま、視線を窓外から逸らす。ゆっくりと立ち上がり、ベッドの縁に座って枕元の写真立てを見つめる。健祐が穏やかに微笑んでいる。
「アヤちゃん!」
 章乃が振り向くと、健祐がカメラを構えていた。いつ、どこで購入したのか使い捨てのカメラだ。
「健ちゃん、ひどいわ、不意打ちなんて」
「焼き増しして直ぐに送るから……その制服似合ってるよ」
「ありがとう。健ちゃんに見せたくて、わざわざ着て来たのよ」
 章乃は腰に手を当て、ポーズをとる。「いつ買ったの? 私、全然気づかなかった」
 健祐からカメラを奪い取ると、ファインダーを覗く。健祐の一番のショットを見つけ、シャッターを切った。
「十七歳の記念ね」
 このときに撮った写真だ。
 そして別れ際のホームで、思いもかけず、健祐は口づけた。
 章乃の胸は張り裂けんばかりに、最早堪え切れず、涙が堰を切って流れ落ちた。歓喜の涙に咽び、打ち震えた。
 ようやく落ち着いて顔を上げると、別れの使者に目が留まった。章乃を乗せて二人を引き裂く列車は速度を緩めず迫り来る。
 健祐も章乃の視線の方向を見る。
 その健祐の横顔を見つめながら問いかけた。返ってきた言葉に、章乃は愕然として立ち尽くしてしまった。健祐の放った言葉が胸に突き刺さり、怖かった。
 健祐の目を見れば分かる。本気だ。
 ──だから、自分はたったひとり、黙って……
 章乃は写真立てを手に取り、胸に押し当てながら涙する。健祐の温もりを感じ取りたいと思った。自分はこんなにも愛されている。それだけで十分だ。
「でもダメ、ダメなの!」
 章乃は激しく首を横に振る。健祐の愛の証があんな形だなんて許せない。
 写真立てを胸から引き離すと、枕元に伏せて置いた。手の甲で涙を拭い、もう一度窓外に視線を向け、微笑んだ。風は窓ガラスを叩き、冬を告げている。雲は風に行方を任せ、次第に空全体を覆い尽くそうと躍起になっているようだ。
「そんなに急かなくてもいいのに」
 章乃は、雲がもう少しゆっくりと流れることを望んだ。