残業を終え、社の門を出ようとしたとき、門の陰から文が健祐の正面に飛び出し、行く手を遮った。
 健祐はハッとして立ち止まり、目を見開いた。
「君、まだいたのか! どうしたの?」
 反射的に腕時計を見ると、九時半を少し回っていた。
「あのう、夕食でも、ご一緒にいかがかと思いまして」
「今まで待っていたの?」
「素敵なお店、見つけておいたんで」
 健祐は瞬きしながら視線を少しばかり落とした。
「ご迷惑かしら?」
 視線を上げると、文と目が合った。
「いや、そんなことはないけど……」
 そうは言ったものの、気が重かった。
「私、先輩にお伺いの儀がございまして」
 文はいつもと違っていた。かしこまった口調で、気のせいか幾分挑戦的にも思える。
「会社じゃ駄目だったの?」
「ちょっと個人的な問題なので」
 少し躊躇(ためら)ったが、文が真剣な眼差しを向けるので、ついに負けてしまった。
「そう……それなら行こうか」
 健祐が促すと、文はちょこんと首を折って頷いた。
 二人は門を出ると右に折れ、社の塀沿いの歩道を並んで歩いた。小柄な文の頭が丁度健祐の肩辺りで上下に揺れる。仄かな頭髪料の爽やかな香が健祐の鼻をくすぐった。
 しばらく真っ直ぐ行って前方を見ると、二区画目の交差点に立つ信号待ちの男が目に留まった。
 あの特徴ある後姿は、紛れもない、原田隆(はらだ たかし)だ。
 短髪で筋骨質の小柄な体躯に、少し左肩を上げて歩く癖がある。ガッシリとした印象だ。柔道三段の猛者である。健祐とは同期で、同い年の二十七歳。入社式当日に初めて出会って意気投合した仲だ。それ以来の親友である。原田は営業部で、人望もあり、見かけによらず理論派なのだ。直感型の健祐とはまるっきり正反対だが、却ってそれがいいのであろうと健祐は思っている。原田といると心地よく、安心できる。
 原田は辺りをキョロキョロと見渡している。後ろを向いたとき、こちらに気づいたらしく、手を振ってきた。
 健祐もそれに応え、手を振り返すと、原田は小走りにこちらに向かって来る。
「よう、お二人さん。これからデートかい? いいねえ」
 原田は健祐の横にピタリとついて、大股で歩調を合わせながら、一八〇センチ近い身長の健祐の右肩を左手で軽く叩いた。「お前、ついにやったな」
「なにがだ?」
「とぼけやがって、この野郎。俺も、どれだけ待ち望んだことか」
「なんのことだ?」
「やっとフミちゃんをものにしたな、こいつ」
 原田は文の傍から健祐を引き離すと、小声で健祐を突っついた。
「ちょっと待て。お前、なに勘違いしてるんだ」    
 原田は腑に落ちない表情だ。健祐と文の顔を交互に見ると、健祐の顔を覗き込んだ。
「違う……のか?」
「相談があるそうだ。食事しながら、ということになっただけだ。なあ、フミちゃん」
 健祐は文に同意を求めた。
 文は今の二人のやり取りに、聞き耳を立てていた様で、少しばかり顔を赤らめているのが健祐にも分かった。
「フミちゃん、本当か?」
 原田の唐突な声に文は少し驚いて頷いた。
「なーんだ、残念」
 原田は大袈裟な身振りで肩を落としながら吐き捨てると、健祐を肘で小突いてきた。
 二人の数歩先を歩いていた文が、赤信号で立ち止まると、振り向き様に遠くを指差した。
「原田さんもいかがかしら? あそこにオシャレなお店あるの」
「いいのか、俺も?」
 原田は健祐に同意を求める。
 健祐は文に訊こうと口を開きかけたが、文はそれを遮って叫んだ。
「いいんです! 原田さんにも聞いてほしいの。つ、い、で、に!」
「ついで……か?」
 原田はわざと不機嫌そうに手を腰に当て舌打ちをした。
 信号が変わった。と同時に文は先頭に立って大股で歩き出す。
 健祐と原田は文のあとに続いた。
「おい、どういうことだ?」
 原田は文に聞こえないように健祐に耳打ちする。
「さあな、変だな、フミちゃん」
「バカ! お前のことだ。かわいそうに、フミちゃん。変にもなるぜ」
「どうして?」
「女心を分からんヤツだな。お前を好きだぞ、フミちゃん。それとも、知らん振りをしてるのか、お前?」
「まさか!」
 健祐は咄嗟に小さく叫んだ。否定するしかなかった。文が自分に好意を寄せてくれているのは重々承知だ。有り難いとも思う。が、受け入れる気には到底なれないのだ。
「どうして、フミちゃんじゃ駄目なんだ。いい子だぜ。ほかにいるか、あんな子? 俺が奪いたいくらいだぜ」
「おいおい、細君に叱られるぞ」
 健祐は原田の冗談に微笑む。
「なあ、立花。いい歳の男がだ、上司からの縁談も断る。結婚もしたくない。女気もまるでないときてやがる。モテない訳でもないだろう? フミちゃんに好かれてるしな。まあ、この俺が言うのもなんだが、お前はいい男だぜ、俺の次にな」
 原田は自分でそう言いながら笑っている。
 健祐も無言で原田に調子を合わせ、笑うしかなかった。
「お前、もしかして……変な趣味あったりしてな?」
 原田は健祐を横目で見据えた。
「バカ、ないよ」
 健祐は苦笑する。
「なのに、なんでだ? ほかにいるのか、女が?」
「いいや」
 原田はまじまじと健祐の顔を下の方から覗き込むと、首を傾げ「分からん!」とだけひとこと吐き捨て、文を追って駆け出す。一旦文と歩調を合わせていたものの、何せ足が短い。文の歩くスピードに置いて行かれた。健祐は直ぐに原田に追いついた。
「なあ、立花。この辺にそんな店、あったか?」
 原田は辺りを探るように見渡す。
「いやあ、俺も気づかなかったよ。新しくできたんだろう」
 健祐も原田の向く方角へ首をなびかせながらボソッと呟いた。
「こんな、人通りの少ない場所にか?」
「そうだな……どこにあるんだろう?」
 二人がふと前方を見ると、文が次の曲がり角で立ち止まり、こちらを向いていた。右手の人差し指で路地を示している。
「ここです」
 健祐と原田は文の元へ歩み寄り、文の指差す方向を見た。お互い顔を見合わせ、殆ど同時に口を開いた。
「屋台か?」
 二人は大笑いした。
「立花、シャレてるな!」
「ああ、素敵だ!」
 二人は路地の屋台へと歩を進め、暖簾をくぐった。そのあとから文も暖簾を分ける。
「いらっしゃい。おっ、フミちゃん、久しぶり」
 白髪混じりの角刈りで、こけた頬の大将のだみ声が唸った。 
 原田を健祐と文が挟んで座った。が、原田は咄嗟に立ち上がって長椅子をまたぐと、気を利かせ、「君はここだよ」と言わんばかりに目配せして、文を健祐の傍に強引に寄せ、席を交代した。
 文は原田の行為に、耳まで赤くなっていた。
「おでんか、丁度いいぜ、冷え込んできたしな、立花」
「そうだなあ。フミちゃん、いい店を見つけたな」

   *

「こいつが、女子高生と!」
 文の言葉に原田が叫んだ。「つき合ってるだと!」
「そうなの、原田さん」
「まさか、こいつに限って、あるもんか」
 原田は笑って取り合わない。
「あら、どうして?」
「どうしてって、こんなクソ真面目なヤツだぜ」
「原田さん、分かってない。そんな人が、却って危ないのよ」
 文は澄まし顔で、抑揚のない声のトーンで言い放った。
「だってな、フミちゃん。こいつとはなん年つき合ってると思う?」
「じゃあ、原田さんは、先輩の全てを理解なさってるの?」
 急に原田に向き直った文のうなじに、健祐の視線は注がれる。
「そんなこと……」
 原田は口ごもった。
「そうでしょ? どんな清廉潔白な君子でも、大抵ひとつくらいは、人に言えない、恥ずかしい、とても恥ずかしい趣味ってあるもんじゃない?」
「趣味?」
 原田は健祐に訝しげな顔を向けてきた。健祐の視線が原田のそれとぶつかる。
「そうよ。先輩ったら、とても、とても、後生大事に持ってらっしゃるのよ」
「なにを?」
「セーラー服……」
「なにっ!」
 原田は文の言葉の途中でまた叫んだ。「着てるのか! 本当か? おい、立花!」
「原田さん、人の話は最後まで聞くものよ。違うわ。セーラー服姿の写真よ、シャ、シ、ン」
「なーんだ、ビックリするじゃないか、フミちゃん」
「あらっ、私のせい? 原田さんの早とちりでしょうに」
 健祐は二人の顔を交互に目で追っていた。
 文は俯いて横目で健祐を見ている。こちらの出方をうかがっているのだ。
「ねえ、原田さん。普通、女子高生の写真なんて、大の男が持ち歩くかしら? 原田さんもそんなご趣味あるの?」
「あるもんか」
「そうよねえ。セーラー服だなんて……。先輩って、ヘ、ン、タ、イ?」
 文は左手で頬杖を突くと、原田の方を向いて言い放った。小声だったが、当然健祐にも聞こえた。
「兄さん、いけませんや、年端もいかねえ娘を騙しちゃ」
 おでんの具を皿に取り分けながら屋台の大将が口を挟んだ。
「おじさんは黙ってて!」
 文は大将を睨んだ。
「へーい」
「そうか、そういう訳か。俺には変な趣味はないと言っておいて、陰でそんな悪いことを……」
 原田の声は震え出した。「情けねえ。俺は悲しい。実に不愉快だ。なんか言ってみろ」
 健祐は原田の顔を見て口を開きかけたが、そのまま一瞬固まってしまった。
「いけませんねえ、兄さん」
「黙ってよ、おじさん! 同じこと言わせないで!」
 大将がまた口を出すと、文は立ち上がって怒鳴った。
「へーい。こわい、こわい」
 しばらく沈黙が続き、場の空気が冷え切ったあと、健祐は原田と文の顔を交互に見比べると、右手の人差し指で首筋を掻いた。
「違うんだ」
 健祐の呟くような声の波動が、寒々とした空気の流れを乱した。
「なにが違う? この俺を、親友を騙しやがって! フミちゃんまで傷つけておいて、許さねえ!」
 原田は視線を真っ直ぐ向けたままだ。「まったく、お前は……」
 健祐は徐に背広の内ポケットに指を忍ばせると、手帳を取り出し、立ち上がった。挟んでおいた写真を手にすると、文越しに原田の目の前にそっと置いた。
 原田はそれを乱暴につかむと、不安げに見つめる。
 健祐はゆっくりと座り直した。
「幼馴染なんだ」

   *

「まだ、あどけない顔だ。だが、(しん)の強そうな表情してるな。そこが大人っぽい感じだ」
 セーラー服姿の少女は原田に微笑みかけている。「どんな子だ?」
「そうだな、お前の見立ては当たってるよ。幼いころから随分しっかりしてたよ。病気のせいかもな」
「病気……どんな?」
「生まれつき、心臓に欠陥があってな。でも十二のとき、治ったと聞いてる」
 健祐は章乃のことを語り始めた。

   *

 田代章乃と初めて会ったのは、故郷の街外れの小高い山の頂にある神社へと続く階段の下だった。七歳のときである。章乃とは同い年だった。
 小学校最初の夏休み。ある日の早朝、章乃は階段を見上げていた。
「上ってみようよ? きっと、いい眺めだよ」
 その姿を見た健祐は章乃を促して階段を上った。
 頂からは、街が一望できた。胸の空くような景色に心奪われ、それ以来、二人でよくここへ来るようになり、お互いに一番好きな場所になった。ここで二人は色々な話をした。話が尽きることはまずなかった。時間を忘れ、日暮れまで語り合うこともよくあった。
 健祐は章乃の境遇を自分に重ねていた。
 章乃の父、章は交通事故で他界している。章乃が二歳の時分で、章乃に父親の記憶はない。
 健祐も早くに父親を病で亡くしているが、健祐が四歳のときだったから、辛うじて父の面影は覚えている。
 健祐の父、健三は戦災孤児で、十二歳で親兄妹はおろか身内の殆どを空襲で失った。その後、遠い親類の農家に引き取られた。引き取られたと言えば聞こえはいいが、その実、労働の担い手としてだけの価値でしかなかった。血縁とは言え、赤の他人同然の健三をまともに人間扱いしてくれる程のお人好しはいない。朝から晩までこき使われたが、それでも生きて行けるだけの糧はある。健三は歯を喰いしばりながら、ひもじさにも耐え忍んだ。
 約三年その家で過ごし、中学を出るや、追い出されるようにそこを去った。勿論学校にもろくに通わせてはもらえなかった。
 父はその家を出た日の気持ちを、酔った勢いで幼い健祐にも吐露したことがある。
「空があげん青かっち知らんかったばい」
 健祐はその日の父をよく覚えていた。上機嫌でお猪口で一杯やりながら語っていた父の膝の温もりは、記憶から失せることはない。
 その後、父は職を転々とした挙句、運送会社で数年間働き、二十一歳のとき、タクシー会社に就職した。以来、母と所帯を持ったのちも乗務員として一家を支えてくれていた。傍目には屈強な肉体も病魔には敵わなかった。胃癌だった。病院へ行ったときには、既に手遅れで末期の状態だったのだ。
 父の死後、母の昌子(まさこ)が一家の大黒柱として、女手ひとつで健祐を養ってくれた。母は商店街の鮮魚店で働いていた。いつも生臭い臭気を体から放っていたが、健祐は全く気にならなかった。自分たちの誇りのような気さえしていた。
 自分にも母に染みついたにおいは移っていたし、たまにそのことで友達にからかわれたりもした。至って穏健な平和主義者で暴力嫌いの健祐も、あまりにも度を越した場合にはその拳に物を言わせたこともある。あからさまに母を侮辱されるのだけは許せなかった。九州人気質の一本気で真っ直ぐな荒々しい気性を父から譲り受けているのかもしれない。普段大人しい健祐が豹変したのを垣間見た連中は、恐れをなして二度とちょっかいは出さなくなる。
 章乃も出会った当初からこの母に纏わりついたり抱きついたりして、嫌な素振りなど一度もしたことがない。
「アヤちゃん、おばさん、生臭いでしょ?」
「ちーっとも。おさかな、おいしいよ。おばさん大好きだもの」
 二人とも母子家庭で育ってきた。お互い似た境遇だったから、自ずと親近感も湧いていったのは当然の成り行きだった。
 健祐は、この夏休みの終わり頃、章乃の病気を知った。
 章乃は全く走ろうとはしなかった。疲れ易かったし、少し体を動かしただけで異様な息遣いをする。それで、そのことを章乃の母、幸乃(ゆきの)に告げると、章乃の病気を詳しく教えてくれた。
 当時の健祐には全く理解できぬ病気だった。章乃の心臓には穴が開いているという、ただならぬことだけは子供の健祐でもよく分かった。
 それ以来、健祐は「自分が章乃を守るんだ」と固い決意をしたのだった。
 章乃とは小学校まで一緒で、中学は学区が違うため離れ離れになったが、毎日、放課後はこの神社の境内で待ち合わせたものだ。ときに工藤公子(くどう きみこ)を交えながら、同じ高校へ行こうと固く誓い合ってもいた。
 公子は章乃の幼稚園時代からの親友である。自ずと健祐も仲良くなっていった。三人は小学五、六年生のときはクラスメイトで、公子とは中学も一緒だった。
 公子と章乃は同じ高校に進学したが、健祐は中学卒業と同時に故郷の街を離れ、遠方の母の実家で祖母と暮らすことになる。長年の無理が祟り、過労とストレスからだったのかもしれない、くも膜下出血で母は急逝し、身寄りはこの祖母ひとりきりだった。
「発表したいことがあるの」
 小学六年生の五月も末頃。梅雨入り間際の放課後、公子と共に章乃に呼び出され、三人並んで神社の石段に腰かけ、街を眺めていたら、いきなり章乃は飛び跳ねるように石段を下り、こちらに向き直った。
「わたし、治ったのよ!」
 章乃は満面の笑みでそう告げたのだった。「お父さんの田舎の市民病院で検査したら、穴は塞がっていたの」
 三人は手を取り合って肩を組み、大喜びしたのだった。感激屋の公子だけがワンワン泣きじゃくりながら章乃に抱きついていた。
 あの日、胸に刻まれた幸福な気持ちは、新緑の芽吹くにおいと共に終生消えることはないだろう。
 高校二年生の夏休み初日、章乃は健祐の住む里山に遊びに来た。別れ際、年に一度だけ、年の瀬の交換日記の約束を交わし、章乃を見送った。それが章乃と会った最後だ。
 その年の秋に、章乃からの『最後の手紙』を受け取って返事を書いて送ったが、直ぐに返送されてきた。章乃は既に街を出たあとだった。電話も不通になっていた。転居先に落ち着けば連絡はあるはず、と疑念も抱かぬまま一報を待ち望んだ。徐々に不安が募る日常を送るうち、約束の暮になり、仕方なく旧住所宛に日記を郵送したが、それも戻ってきた。結局章乃からは梨の礫だった。日記は今でも健祐の手元に残されたままだ。
 年が明け、待ちに待った章乃からの年賀状が届いた。差出人の住所を確認するも、転居先の情報は何ひとつ記載がない。仕方なく健祐も年賀状を出してみたが、やはり結果は同じだ。
“あて所に尋ねあたりません”
 無機質な朱印の文字を眺めながら、健祐は悶々とした日々を過ごす。
 直ぐにでも章乃を捜しに行きたかったが、祖母との貧しい生活ゆえに旅費を工面することさえ叶わなかった。
 一年が経ち、年が明けるとまた賀状は届いた。相変わらず旧住所のみが記されていた。
 それから春が来て、健祐はもどかしさに耐え切れず、高校を卒業すると同時に章乃を捜す旅に出た。衝動に駆られ列車に飛び乗ったはいいが、捜す当てなどあろうはずもなかった。
 章乃の高校時代の同級生数人の家々を訪ね回ったものの、会えず仕舞いで、何とか当時の担任教師の所在を突き止め、訪ねても、既に転居したあとだった。結局、章乃の消息は依然不明のままだった。
 たったひとつの収穫といえば、章乃は高校二年生の夏以降、病気療養のため休学していたとのことだ。教えてくれたのは公子だった。公子の帰宅をその玄関先で待ち伏せ、ようやく再会できたものの、公子もその後の章乃の足取りまでは把握していなかった。健祐の期待もむなしく、最後の砦も崩れ去る。
 健祐には最早なす術もなく章乃の家の前に佇むと、近隣住民の家々を巡り、片っ端から呼鈴を押して回ったが、それも徒労に終わる。一軒家はことごとく取り壊され、アパートに建て替えられていたり、章乃母娘と親密なつき合いのあった隣家のひとり暮らしの老婆は既に故人となり、家には長男夫婦が住んでいて、章乃たちとは面識もない。町内の顔ぶれの殆どが既に入れ代わっていたのだ。誰ひとりとして章乃の行方を知る者はいない。それは三年の歳月が流れ去ったことを意味していた。ほんの一年早かったなら、あのとき直ぐに行動を起こしていたら、ひとつでも手掛かりがつかめたはずではないのか。時機を逸したことを後悔してもあとの祭りだ。何ともあと味の悪い結末に、やるせない憤りをどこにぶつけていいのかさえ分からない。
 せんなく帰路に就こうとして駅へ向かい、時刻表に目をやったとき、章乃の父方と母方の実家の町を訪ねてみようと思い至る。既に午後七時を回っていた。所持金を確認し、健祐は祖母の待つ里山に背を向け、逆方向の鈍行列車に飛び乗った。
 途中、この私鉄の鈍行からJRの在来線の急行に乗り換え、F駅へ到着し、章乃の父方の実家の町に入った頃には既に日をまたいでいた。
 F市はこの地方の中核都市で、交通の便もよく、大都市ではあるが程よく緑にも恵まれ、海も臨まれる。健祐も小学六年生の修学旅行で一度だけ訪れたことがある。もっとも、そのときは名所旧跡といった、お決まりのコースばかりを辿ったのみだ。それでも章乃から幾度となくこの街の様子を聞かされていたこともあり、章乃の父、章の実家がある町までの道程に迷うことはなかった。
 その町に入った健祐は、日が昇るまで何とか人目を避け、やり過ごすと、幼い時分に聞き知った記憶を頼りに章の実家を探した。
 実家には章の兄夫婦とその家族が住むはずだった。なのに、その家が建つはずの土地は更地になっており、結局住民も章乃の消息も分からず仕舞いだった。健祐は幻を追いかけて遥々やって来たという訳だ。
 途方に暮れた健祐は、そのまま夕刻まで手掛かりを求めつつ辺りを彷徨い歩いたのち、JRのF駅へ戻り、所持金も底を突きかけていたので仕方なく下りの鈍行列車に飛び乗った。その足で今度は幸乃が育ったという町にも足を踏み入れてみたものの、結果は同じだった。
 春まだ浅く、身を切るような大気の冷たさが、疲労と空腹と絶望で萎えた健祐の胸を容赦なくえぐった。もどかしさと章乃への抑え難い思慕を胸におさめ、二日間の捜索の旅から戻ったのだった。
 これまで事ある毎に章乃の消息を捜したが、今の今まで手掛かりひとつつかめない。唯一の頼みの綱は公子なのだ。ところが、公子との連絡もいつしか年賀状のやり取りのみになり、健祐が大学二年のときにはその年賀状すら公子からは途絶えてしまった。一方通行ではあるが、健祐は今でも年賀状だけは欠かさずに出している。必ず末尾に、章乃の消息が判明すれば知らせるよう書き添えて。
 章乃からの年賀状は毎年欠かさず届く。ただ、やはり旧住所のままだ。
 今年の年賀状は健祐にとって気掛かりな内容のものだった。これまでとは明らかに違っていた。

明けましておめでとう
幸せになってね
さようなら 健ちゃん
さようなら わたしの青春……   

       十一月二十五日 十七才の晩秋  田代章乃

 もしや、と健祐は訝った。章乃は既に自分から心が離れてしまったのではないか。
“さようなら” 
の文字に健祐は打ちのめされた。それに末尾に
“十七才の晩秋”
とあるのも気にかかる。『最後の手紙』と同じだ。日付も腑に落ちない。これはどういうことなのか。健祐の頭は混乱する一方だ。

   *

 健祐は章乃のことを語りながら『最後の手紙』を上着の内ポケットから出して見つめ続け、ふと視線を文の横顔に向けると、俯き加減で自分の話に聞き入っていた。
「いくつのときの写真なんだ?」
 文の背中越しに原田がこちらに顔を向けた。
「十七だ。アヤちゃんが、一度だけ祖母の家に遊びに来たときに、俺が撮った」
「丁度十年前か」
 原田は丁寧に写真を健祐に返してくれた。「名前は?」
「タシロアヤノ。それっきり会ってないんだ」
「一度もか?」
「ああ、一度も」
「どうして?」
「もう故郷にはいない。この最後の手紙には、別の所で暮らすと書いてあった」
 健祐は手にした手紙を見て首を傾げる。「直ぐに返事を書いたんだが、送り返されてきた。向こうからの年賀状以外、いまだに音信不通だ」
「どこにいるか、分からんのか?」
「分からん」
 首を横に振りながら健祐は手紙を上着の内ポケットに戻す。
「こっちこそ、分からんぞ!」
 原田の怒号に似た声に、一瞬そちらに目を向けた。健祐の顔を見つめる文しか目に映らなかった。
「俺も、随分捜し回った……」
「そんなに思い合ってる仲なら、なんでお前に知らせん?」
 原田は腕組みをすると、そっと文を覗き込んだ。「お前の一方通行じゃないのか? 向こうはお前のことなんて、とっくに……」
「原田さん、やめて! そんな言い方」
 文は体ごと原田の方を向くと、原田を制した。
「フミちゃん、いいんだ。原田の言う通りかもな」
 こちらを向いた文に、健祐は笑いながら小さく頷く。「この前、中学の同窓会の通知が届いてな。迷ってる」
「どうして?」
「あれから、一度も帰ってない」
「そんなに辛いか、故郷が?」
「もう誰もいないしな。帰っても仕方ない」
「行ってみろよ。アヤちゃんの行方知ってるヤツもいるだろう」
「さあ、どうだろう? 心当たりは全て当たってみた……」
「いつなんだ?」
「土曜日だ」
「明後日か?」
「いや、来週だ」
「一泊できるな。丁度いい。日曜日まで羽伸ばして来い。お前は働き過ぎだぞ」
 文は二人のやり取りを、俯いて聞いている。
 三人の間に沈黙が続いた。しばらくして、唐突に口を開いたのは原田だった。
「だがな、立花。きっと、もう……」
「嫁に行ってるかもな」
 健祐は自分に言い聞かせるように、自ら原田の言葉を続けた。
「なあ、立花」
「なんだ?」
 健祐は、俯き加減の文越しに原田を見た。
「諦め切れんのか?」
 原田の顔は健祐に向いていたが、視線は文を見ている。「アヤちゃんが特別なのは分かる。だがな……」
「分かってる」
 健祐はきっぱりと言った。
 またしばらく沈黙が続いた。
「お前が、誰ともつき合おうともしないのは、この子のせいだったのか」
「いや、そういう訳でもないが……」
「ずっと思い続けてきたじゃないか」
 健祐は視線を落として小さく頷いた。
 健祐にもよく分からなかった。あのときはまだ子供だったし。だが、健祐はひとりぼっちになった。家族を全て失ったのだ。天涯孤独という訳だ。別段それが寂しいというのではないが、長年ひとりで暮らしていると、幻聴を聞くことがある。いつも章乃の声だ。自分がどこにいるのか、何をしているのかさえ分からなくなるような錯覚に襲われたりもする。単に疲労のせいかもしれないが。そんなとき、つい章乃からの手紙を読み返したり、アルバムを開いては章乃を懐かしむのだ。章乃に会いたくて堪らなくなる。
「初恋なんてのは……実らねえぞ……」
 今の原田の言葉は、自分に向けたのではないことは健祐も承知している。原田は文を慰めたつもりだ。
「原田さん、そんな言い方しないで。私たち応援してあげましょうよ、先輩の純愛を」
 文は健祐に背を向けると、強い口調で原田をたしなめた。
 有無も言わせぬ文の迫力に原田は押され、次の言葉を放とうとして口を開いたまま顎をさすった。そのまま原田はゆっくり顔を背け、視線を落とした。
 また三人の間に沈黙が訪れた。
 健祐の目は文を見つめていたが、見ていたのは章乃の面影だった。

   *

 章乃は美人という訳ではなかった。どこにでもいる普通の女の子だった。ただ明らかに、何かしら人を引きつけるものを兼ね備えていた。魅力、とひとことで片づけてしまえばそれまでだが、かもし出すしっとりとした雰囲気の中に知性と優しさと強さをさりげなく滲ませていたように思う。作為はなく天性のものだった。ゆえに嫌みな感じは微塵もなく、自然と章乃の周囲には人が集まってきた。
 章乃は誰ひとりとして分け隔てなく接するし、よく冗談を言って人を笑わせてもいた。クラスの男子生徒は次第に章乃に引かれていったものだ。異性、同性関係なく誰からも好かれた。
 物静かの反面、章乃も快活な性格でよく笑った。文のように天真爛漫という訳ではなかったが。いや、人並みの健康体であれば、もっと行動的に振舞ったのかもしれない。健祐は文を見て、ふとそう思った。
 章乃はどこまでも前向きな性格で、否定的な考えは全く持ち合わせていなかった。健祐も章乃のそんな性格に時折慰められもした。
 健祐の章乃に対する気持ちはクラスメイトの男どものそれとは違う。少々複雑である。確かに初恋の相手に変わりないが、別の感情が根づいている。それは健祐にも上手く説明しきれない。おそらく肉親に対する愛情のようなものだろうと思う。
 健祐はひとりっ子で兄弟姉妹に憧れを持っていた。それは章乃とて同等なはずだ。幼い頃より十五歳までの九年弱の間、兄、妹のように接してきたし、健祐が祖母に引き取られ、故郷を離れる日まで章乃の傍に寄り添うように過ごした。一日たりとも離れて暮らしたことはない。肉親同然の感情を抱くのは至極当然の成り行きだった。傍にいるべき者、いなければならない者だ。細胞が組織を、組織が各器官を形成するように、健祐の体の重要な一部を成すようなものだ。それを失うことは、即ち生命の灯火(ともしび)を消し去ることにほかならない。
 その反面、成長するに従って、異性として意識する章乃が健祐の胸に同居し始める。思春期を迎えたあたりの健祐は、妄想の中で章乃の裸体を何度となく貪った。自分を満足させるためだけの愛を章乃に求めていた。それは今でも何ら変わらないような気がする。利己的な愛だ。
 章乃だけを心の奥底で一途に求めながらも、魅惑的な女性を前にすると、心惹かれる。そんな場面に出くわしたとき、果たして抑制できるものなのか、健祐は自問してみる。やはり自分はただの男でしかない、と健祐は結論づけた。

   *

 ──純愛……
 ──そんな上等なものじゃないんだよ、フミちゃん。
 健祐は文の横顔をそっとうかがった。
 原田は落ち着きなく顎をしきりにさすりながら、チラリと何度か文の顔を覗き見る。
「フミちゃん、それで……いいの?」
 長い沈黙のあと、原田はぼそっと呟いた。
「どうして? 私、嬉しいの。やっぱり先輩は先輩よ、私たちが知ってる……原田さんも、そう思うでしょう?」
「フミちゃん……」
 健祐は背を向けた文のうなじを見つめた。
「先輩、これまでのこと、ごめんなさい」
 文はクルリと健祐に向き直った。
「いいんだよ、フミちゃん。僕の方こそなにも話さなくて、ごめんね」
「いいえ、それは当然だわ。私こそ、先輩の心を土足で踏みにじるような真似して……」
「もういいよ、そんなこと言わないで」
 健祐は文に優しく微笑んだ。
「そうさ、フミちゃん。そんなと、こいつが気にする訳ないよ」
「ありがとう、原田さん」
 文は原田に笑顔を見せると、急に立ち上がった。「私、そろそろ、おいとまするわ。おじさん、お勘定……」
「いいよ、フミちゃん、おごるよ」
「そうさ。今日はこいつ持ちさ。こんなに心配かけたしな」
「まあ、原田さんったら、でも……そうよね。こんなに、やきもきしたんだもの」
「そういうこと」
 原田はおどけながら、文にウインクをした。
「じゃあ、私……これで失礼します。原田さん、そこ通してくださるかしら?」
「お安い御用で」
 原田は立ち上がると、文を通してやった。「フミちゃん、送ろうか?」
「ありがとう。でも、いいの。直ぐそこが大通りだから、タクシー拾って帰るわ」
「そうか……じゃあ、気をつけてな」
「ありがとう」
 文は頷いて原田に礼を言うと、一度も健祐の方を見ないまま去って行った。
「やっぱり、そこまで送るよ」
 原田は文のあとを追いかけた。

   *

 原田は文を大通りでタクシーに乗せると、戻って来た。健祐が顔を向けると、口元に薄ら笑みを湛え、柔らかな眼差しを一瞬だけ注いで隣に座り直す。
「フミちゃん、泣いてたぞ」
 健祐は小さく溜息をつくと、腕組みをして視線を落とした。
「へーい、どうぞ、お二人さん」
 大将は二人の前に燗のついたコップ酒を置いた。
「大将、頼んでないぜ」
「おごりですよ、おごり」
「ありがてえ。冷えてきたからな」
「フミちゃんは、いい仲間を持ってるね。これからも頼みますよ。いい子だからさ」
「もちろん。大将、ご馳走さん」
「はいよ」
「飲もうや。せっかくだからな」
 原田はコップを置いたままで口の方を近づけ、ひと口啜って白い息を吐いた。「決着、つけてこいよ」
「ああ……」
 健祐も、並々と酒が注がれたコップの縁を摘まむと、慎重に目の高さまで上げ、大将に感謝の意を表した。
「さあ、兄さんもやってくれ」 
 健祐はコップを口元に運んで縁に唇を当てる。一度口を湿らせ、熱さを確認したあと、ゆっくり喉に流し込むと、ひと息に飲み干した。
「ふうっ、効くねえ」
「立花! お前、大丈夫か? 酒、弱いだろうが……」
「そうだった、な」
 今だけは、何もかも忘れて、友との一献(いっこん)に興じようと健祐は思った。