日が落ちてきて、肌寒い風が吹いてきた。
そろそろ文化祭も終盤。閉会式の時間だ。
早く新聞部の片付けをして閉会式を見ないと。
私が廊下を急いでいると、急に誰かから呼び止められた。
「――五十鈴さん、ちょっといいかしら?」
顔を上げると、そこに居たのはアユ先生だった。
「アユ先生」
どうしてアユ先生がここに?
私が思わず後ずさりをすると、アユ先生はニッコリと笑う。
「五十鈴さん、今いいかしら。そこの空き教室で少し話さない?」
ギクリと心臓が鳴る。
私はゴクリとつばを飲みこんでうなずいた。
「はい」
私たち二人は、空き教室で向かいあって座った。
アユ先生、何だろ。
もしかして「港人は私のものだから近づかないで!」……ってことだろうか。
私がもんもんと考えていると、アユ先生がゆっくりと口を開いた。
「今日あなたを呼びとめたのは、例の記事のことで、あなたと少しお話したいなって思ったからよ」
「は、はい」
私は背筋をピンと伸ばした。
き……来たっ。
私がドキドキしながらアユ先生を見つめていると、アユ先生は小さくため息をついた。
「どうも勘違いしているみたいだけど、私と白浜くんはそういう関係じゃないの」
困ったように首を横に振るアユ先生。
「で、でも」
私はぐっと唇をかみ締め、思い切って聞いてみた。
「私、見ちゃったんです。アユ先生と白夜くんが二人で会って『今日の放課後もよろしく』って言っているところ」
アユ先生は一瞬キョトンとしたあとで、小さく笑った。
「ああ。聞かれていたのね。それはね……」
それは?
私が緊張していると、アユ先生はこんなことを言い出した。
「詳しいことは言えないけれど文化祭の閉会式の演出がらみで相談を受けていたの」
えっ? 文化祭の演出?
「で、でもあの抱き合っている画像は――」
「ああ、あれは白浜くんが文化祭の準備で頑張りすぎて倒れちゃった時の写真ね。上手く撮るものだわ」
アユ先生が眉間にシワを寄せて腕を組む。
「……白浜くん、また倒れちゃったんですか⁉︎」
「ええ。幸い、私がすぐに車で病院に連れて行ったし、大したことなかったみたいだけど――あの子、他の人には内緒にしてほしいって言ってたけど、実は生まれつき体がそんなに強くないみたいなの」
「えっ」
白浜くんの体が?
そうだったの?
白浜くんって生まれつき体が弱かったんだ。
私は白浜くんと初めて会った時のことを思い出した。
あの時は単にお腹が空いて倒れているだけだと思ってた。
だけどよく考えたら貧血だって言ってた気もする。薬があるとも。
二人でお母さんの病院に行った時も妙に落ち着いてた。
あれは白浜くんがしっかりしてるからだと思っていたけど、ひょっとしたら小さいころから体が弱かったから病院に行くのに慣れているからだったのかもしれない。
じゃあもしかして、最近顔色があまり良くなかったのも――。
私は下を向き、ぎゅっとこぶしを握り締めた。
「……それで私にも内緒にしてたんですね」
私が言うと、アユ先生は真剣な顔でうなずいた。
「ああ、あなたには特に心配かけたくなかったみたい」
そっか。そうだったんだ。
お腹の中に、何かがストンと落ちたような気がした。
「教えてくれてありがとうございました」
私はペコリと頭を下げて体育館に戻った。
白浜くん、そうだったんだ。
「……バカ。何で黙ってたのよ」
私は小さい声で嚙みしめるようにつぶやいた。
体が弱いくらいで私が幻滅するとでも思った?
完璧生徒会長以外の面を見せるのは嫌だと思った?
残念。私は今さら何があってももうとっくの昔に白浜くんのことが好きなんだよ。
……いや、馬鹿は私だ。
白浜くんを信じてあげられなかった。
白浜くんはあんなにも頑張っていたのに。
「まもなく閉会式が始まります。体育館に集まってください」
遠くからアナウンスの声が聞こえる。
もうすぐ文化祭もフィナーレだ。
私はスカートを翻し体育館へと急いだ。
いつものようにカメラを構えてステージの近くで待ち構える。
「みなさんこんにちは。いよいよ文化祭も終わりですね。まずは、最優秀模擬店賞の発表をしたいと思います」
ステージ上では綾瀬さんが司会をつとめている。
白浜くんの出番はまだなのかな?
まさかまた具合が悪くて倒れているんじゃ――。
そんなことを思いながら綾瀬さんの写真を撮っていると、ステージ横に、何やらピアノが運び込まれてきた。
誰かピアノでも弾くのかな。
そう思っていると、綾瀬さんがニッコリと笑って紹介を始めた。
「続いては、生徒会長によるスペシャルパフォーマンスをお見せしたいと思います」
白浜くんのパフォーマンス?
私があっけに取られていると、綾瀬さんはマイクを手にこう言った。
「生徒会長は、それまで楽譜も読めなかったそうですが、この日のために頑張ってピアノの練習をしてきたそうです。それではお聞きください」
小さく呼吸の声がして。優しいピアノのメロディーが流れ出す。
あ。
この曲――。
私の部屋にあるオルゴールの曲。
パパが結婚式の時にママのために弾いた曲だ。
そっか。アユ先生の言ってた閉会式の特別な演出って、これだったんだ。
白浜くん、私の話を覚えていてわざわざこの曲を選んでくれたんだ。
白浜くんの指が鍵盤を走る。
澄み切った、だけれども力強い音が私の心の中を満たしていく。
心の中には、今までの白浜くんとの様々な思い出が走馬灯のようによみがえって来る。
白浜くんと初めてお隣同士になった日のこと。
初めて取材をした日のこと。
お母さんの病院にお見舞いに行った日のこと。
二人で映画館デートをしたこと。
二人で食べた何気ない日々のご飯。
二人で過ごした日々が、頭の中に次々と浮かんでくる。
気がついたら、目頭がじんと熱くなっていた。
白浜くん――。
「白浜くんはね、あなたのために、毎日音楽室に来て夜遅くまでこの曲を練習していたのよ」
アユ先生が私の横にやってきてハンカチを差し出してくれる。
「そうだったんですか?」
私は鼻声になりながら答えた。
そっか。閉会式の演出ってこれだったんだ。
それで白浜くんは毎日帰りが遅かったんだ。それで必死に練習して倒れて……ほんとバカみたい。
「ええ。愛するあなたのためにね」
「で、でも」
私たちはしょせん偽物のカップルだ。
白浜くんは私のことなんて何とも思っていないはずなのに――。
そんなことを考えていると、白浜くんのピアノが終わった。
体育館が大きな拍手と歓声に包まれる。
もちろん私も、手が居たくなるほど大きな拍手をした。
白浜くんはピアノの椅子から立ち上がり、綾瀬さんからマイクを受け取った。
「この曲は、五十鈴花さんのお父さんが、結婚する時にお母さんにささげた曲だそうです。なので僕もこの曲を花さんにささげたいと思いこの曲を練習しました」
綾瀬さんが感激したようにうなずく。
「なるほど、彼女に捧げた曲だったんですね。素敵な演奏ありがとうございました」
白浜くんは、盛大な拍手に包まれながらステージを下りた。
閉会式が終わると、私は急いで白浜くんの元へと向かった。
「白浜くん!」
息を切らし、人混みに阻まれ、足元がふらつきそうになりながらも白浜くんを目指した。
白浜くん――どこ⁉
必死で目を凝らし、ステージ横で一人、後片づけをしている白浜くんを見つける。
いた。あそこだ。
私は見慣れた長身の後ろ姿に一目散に駆け寄った。
「――白浜くん!」
私が声をかけると、白夜くんは大きく目を見開いて振り返った。
「花。どうしたの?」
「あのね、白浜くん」
私は白浜くんが何かを言おうとしたのを遮り、きっぱりと言った。
「私、白浜くんのことが好き」
自分でもびっくりするぐらい、はっきりとした声だった。
「だからこれからも、白浜くんと一緒にいたいの。だから――フリじゃなくて本当に付き合ってほしい」
言い終わり、チラリと白浜くんの顔を見る。
白浜くんはというと、びっくりしたような顔で固まっていた。
「あの、駄目? 私、告白してるんだけど……」
私が不安になり問い直すと、白浜くんはようやくハッと我に返った。
「……いや、駄目じゃないよ。俺も花のことが好き」
「本当?」
「うん。好きじゃなきゃわざわざ文化祭であんな演出しないよ。でも――」
白浜くんが下を向き、考えこむ。
「俺と付き合ったら、花に色々と迷惑をかけるかもしれない。言ってなかったけど、俺は体が弱くて――」
「そのことなら、アユ先生に聞いた。文化祭の準備中に倒れたって」
私が言うと、白浜くんは小さくうなずいた。
「そっか、聞いてたんだ」
「でも、そんなの関係ない。どんなに大変なことがあっても、私は白浜くんの側にいたい。そんなことぐらいで好きになることはやめられないの。だから――」
私は白浜くんの顔を真正面から見据えて言った。
「だから私、ずっと白浜くんの側にいたい」
白浜くんは少しの間私を見つめた後、そっと微笑んでうなずいた。
「うん。俺も花の側にいたい」
体育館の外では、文化祭の終わりを告げる花火が鳴り響いていた。
「行こうか」
「うん」
私たちは、手をつないでグラウンドに出た。
二人で夜空を彩る光の花を見上げる。
偽のカップルではなく、本当の彼氏と彼女として。
「この花火を二人で見るといつまでも幸せになれるらしいよ」
白浜くんが微笑む。
「私、もうとっくに幸せだよ」
私の小さな声は、花火の揚がる音でかき消された。
薄暗くなってきた空に浮かぶ大輪の菊。
鼻をかすめる煙の臭い。
花火が上がるほんのわずかな数分間。
私はとても幸せで、まるで夢みたいな時間だった。
次々と大輪の花を咲かせては儚く消えていく花火。
私は満足そうに花火を見上げる白浜くんの美しい横顔を見つめた。
どんなことがあっても、ずっと白浜くんの側にいたい。
二人一緒に時を刻んでいきたい。
いつまでも、いつまでも――。
文化祭は大盛り上がりのうちに幕を閉じた。
私と白浜くんはというと、誰にも知られずひっそりと偽のカップルから本物のカップルへと昇格した。
最近では、二人歩いていてもヒソヒソと噂をする人はいないし、日報が何を書こうが以前ほどの盛り上がりはなくなった。
ありていに言うならば、私たちにようやく日常が戻ってきたというところだろうか。
「はあ、やっぱり家は落ち着くなあ」
白浜くんが私の部屋の絨毯に横になる。
私は白浜くんの足をわざと踏んずけながら言った。
「白浜くんの家じゃないでしょ」
「そうでした」
冗談だか本気だか分からない口調で白浜くんが笑い、私に寄りかかって来る。
さらり。
少し伸びた白浜くんの前髪が私の肩にかかる。
甘酸っぱいようなくすぐったいような不思議な気持ち。
全くもう。
タイマーの音が鳴って、私はぐいと白浜くんの体を押し返した。
「あ、お鍋できたみたい。白浜くん、鍋敷きそこに置いて」
私が言うと、白浜くんはまな板の横に置いてあったコルク製の鍋敷きを取った。
「これでいい?」
「うん」
私は白浜くんの敷いた鍋敷きの上に、ぐつぐつと湯気を上げる土鍋を置いた。
「じゃーん、今日の晩ご飯はキムチ鍋でーす」
私が土鍋の蓋を開けると、白浜くんが嬉しそうに拍手をした。
「やった。俺キムチ鍋大好き」
「それじゃあ食べよっか」
「いただきまーす」
二人でテレビを見ながらダラダラと鍋をつつく。
湯気の向こう、小さな画面の中でお笑い芸人がくだらない漫才をしているのを、私はぼんやりと見つめた。
「白浜くん、辛いものは大丈夫なの?」
あつあつの白菜を口に入れながら私は尋ねた。
「俺は大丈夫。でも実家にいた時は、あまりキムチって食べなかったんだよね。父さんが辛いもの嫌いでさ」
「へー、そうなんだ」
「うん。母さんは辛いの好きなんだけどさ」
へえ、白浜くんのお母さん、辛いものが好きなんだ。
と、ここで私はいい案を思いついた。
「そうだ。今度、白浜くんのお母さんも一緒にこの家に招待したらどうかな。お母さん一緒に鍋をつついたら楽しそう」
私が言うと、白浜くんは少し不機嫌そうな顔になった。
「えっ、三人で?」
白浜くんの嫌そうな顔を見て、私は少しドキッとしてしまった。
もしかして白浜くんとお母さんの間に、何かわだかまりがあったりするのかな?
一人暮らしをしているのも、まさかそのせいだったりするのだろうか。
「だめ?」
恐る恐る聞いてみると、白浜くんは少し照れたように笑った。
「……だって、せっかく彼女と一緒なのにお母さん同伴じゃちょっとさ」
「そっか、そうだよね」
納得しかけた私の肩に、白浜くんはそっと手を回して耳元でささやいた。
「ほら、母さんがいたら彼女とイチャイチャもできないし」
「えっ……!?」
い……イチャイチャ!?
イチャイチャって何!?
私がパニックになっていると、白浜くんはプッと噴き出した。
「相変わらず可愛いね、花」
「もう、人のことをあまりからかうんじゃありません」
私は白浜くんの手の甲をペチリと叩いた。
でもまあ、人をからかってこんなに楽しそうに笑うだなんて、少し前の白浜くんじゃ考えられなかったな。
私は真っ白な湯気とキムチの香り越しに白浜くんを見つめた。
最近の白浜くんは、妙に私にべたべたしてる。
私に気を許しているからっていうのもあるかもしれないけど、どうもそういう理由だけじゃないようにも思える。
なんとなくだけど、私と漫画やドラマで見るような理想のカップル像を演じようとしているんじゃないかと思えてならない。
白浜くんがそれまで理想の生徒会彫像を演じてきたように――。
私が見たいのは本当の白浜くんなのに、本当の白浜くんはいつまでたっても触れそうで触れない。
この白い湯気の奥にいるような気がしてならなかった。
「あ、そうだ」
……なーんて、私の考えすぎかもしれないけどね。