「ルネ」

耳元で低く囁くような声がしてルネはそっと瞼を開いた。
「君は女の子?」
その問いにルネは息を吸い込んだ。
「少し前までは自分でも男だと思ってた。でも違ったんだ」
「そうか」
それからルネは病気のこと手術のことを少しずつ話していった。
そのたびにウィリアムの腕に力がこもるのが伝わってきた。
「視力も良くない。治療を続けても良くなるのかわからない。見えなくなるかもしれない。それはあと何年後? そして見えなくなったら私はあと何年生き続ける? そんなとき私はきっとひとりなんだ」
ルネはウィリアムの上着をぎゅっと掴んだ。
「それが私を襲う可能性が怖い。それがやって来たあとの空白が怖い」
掴んだ手を離そうと思うとさらに手に力がこもった。
「私はこれからひとりで生きていかなくてはならない。そう思うと押しつぶされそうになる時がある……」
「うん」
「それを忘れることができるのが本を読んでいるときなんだ。私には今しかない。犠牲にするもの、限界というものがみえたとき、私はもっと知りたいと思った」
ルネの声が震えた。
するとウィリアムの手が軽く背中を叩いた。
「代償を払わずに恐れて何もしないで無知でいることのほうが、たとえ見えなくなったとしても私はよほど怖い」
そこまで言って背中に手の温もりを感じたとき、込めていた力がすっと抜けていき、ルネは顔を上げた。
「そうやって生きることがきっと私の空虚を満たしてこの先を耐えていける糧になる気がするから」

遠くに鐘の音がきこえた。
「すまない、授業へ行ってくれ」
ルネがそう言うとウィリアムは大きなため息を吐いた。
「行くわけないだろう。それより服をちゃんと着よう」
ウィリアムがくるりと背を向けると、ルネは落ちていた残りの服を拾って急いで身に着けた。
「君はあのとき僕の本心を知って、幻滅した? 嫌いになった?」
ウィリアムがきいた。
「なってない。むしろ君のこと、もっと知りたいと思った」
「だったら同じだ。僕も君のことを知りたい」

風がふわりと舞い込んできた。
ルネは窓際のウィリアムの隣に立った。
火照った顔にあたる風はひんやりとして心地良かった。
「ルネは自分はひとりだって言ったけど君はひとりじゃないよ」
「わかってる。私の周りにいる人たちのこと。でも最後はひとりだ」
「それはみんなそうだよ」
「そうだね……」
ルネは目を閉じた。
泣いたせいで頭がぼんやりとしていた。
「でも君を愛する人はきっと君をひとりにはさせない、最後まで」
隣からきこえてきた言葉にルネはうつむいた。
「こんな不自由になっていく体で、自分でも認められないでいる自分を誰が好きになる? オカノにさえ憎まれた私を」
「オカノって?」
「私の養父だった人。血は繋がっていないがそれでも私には最も親しく、家族と呼べる存在だった」
「そうなんだ。でも憎むって、君をどうして?」
「はっきりとはわからない。でもそうでもしないとやりきれなかったのかもしれない。理不尽であっても、不合理であっても人の心は止められないんだ」
ルネがそう言うと一陣の風とともに葉擦れの音が通り過ぎていった。
同時に頭の中の靄が晴れたように視界が澄み渡り、緑の匂いが体を通り抜けた。
「私は人工授精で生まれたらしい。養父が私を生み出したんだ。でもその種となった親がわからない」
ルネはオカノからきいたユージェニック政策の研究について語った。
ウィリアムはそれを黙ってきいていた。
「欠陥だらけで、得体のしれないこの体、気味悪いだろ?」
ルネは自嘲するように笑った。
「僕はそう思わない」
ウィリアムはあっさりとした口調で否定した。
「驚きはしたけど、君は辛いことがあってもこうやって生きてきた。強くて、温かくて、美しいよ」
ルネが隣を見るとそこにはやわらかな笑みがあった。


資料室を出るとルネは手洗い場の前で立ち止まった。
「先に君の授業に行ってくれ。顔を洗ってくるから」
男子用の手洗い場に入ろうとした瞬間、ルネは腕を掴まれた。
「待って、まさかいつもそっちを使ってるのか?」
ルネはその質問に窮して黙り込んだ。
「女子用は抵抗あるんだろうけど誰か来たらどうするんだ?」
「個室に入るから問題ない」
「いや、じゃあ誰かが来て用を足しはじめたらどうするんだ」
「以前私にも似たものが付いていたから私は気にしない」
ルネがそう言うと今度はウィリアムが黙り込んだ。
「じゃあ、また後で」
ルネは何も言わないウィリアムをそのままにして中に入った。
そして顔を洗って出てくると、同じ場所にウィリアムの姿があった。
「今度から僕が外で見張ってるよ」
その言葉にルネは目を丸くしたあと首を振った。
「いや、結構」