資料室の中は相変わらず雑然として、奥の棚の通路は剥がされた床を囲むように柵がされていた。
「入れないな」
「君はまた入りたかった?」
ルネがきいた。
「いや」
ウィリアムは首を振った。
あの日あの地下で、歩いても歩いても出口にたどり着けなかった。
(あのとき僕はいったいどこを彷徨ってたんだろう)
そしてあの暗闇でのサルとのやりとりが蘇り、急に悪寒がした。
「なんだかもう一度見たくなったんだ」
ウィリアムはじっと前方を見つめた。
「前に僕が地下で何か見たのかってきいたよな?」
ルネは頷いた。
「何を見た?」
「怪物だよ。かなり不気味でおぞましかった。醜く、目をそらしたくなるくらい。深く暗いところに閉じ込められていて、出してはいけなかったはずなのに」
「それは……」
「僕はそれに喰われそうになってた」
ウィリアムは手に力を込めた。
あれはどこにいるだろうと未だに考えてしまうことがあった。
「あそこにいたとき僕はもう地上へは上がれないと思っていたんだ。でも」
そこまで言ってウィリアムは隣を見た。
「そんなとき君が来て僕を連れ出してくれた」
真っ暗闇の中、光とともにやって来た。
「あのときだけじゃない。君は僕がひどい事を言っても傍にいてくれた。ここに来れたのも君がいるからだ」
ウィリアムはルネの肩に触れた。
「ありがとう」
少し間をおいてその肩が小さく揺れた。

「戻ろう」
ルネが立ち上がりドアの方へと歩きだした。
ウィリアムは思わず手を伸ばした。
「待って。やっぱり話してくれないか?」
「話すって、何を?」
振り向いたルネの表情は暗かった。
「君が僕に隠していること」
「話したくない」
ルネは少しうんざりしたように首を振った。
その様子にウィリアムの胸の中では何かがユラリと揺らめいた。
「僕には話せないって、なんで僕には無理でドイはいいんだ? やっぱりドイとつきあってるんだろ?」
ルネは首を振った。
「ドイは私を好きだと言ってくれた。私も好きだ。でも友人だ」
ルネはきっぱりと言った。
「彼女は私のことを受け入れて、いろいろと気遣ってくれる。そんな人に私が私をさらけ出すことは変か?」
「君が話してくれないから僕は受け止めようがないじゃないか。それに僕は君が病気じゃないかって心配なんだ。じゃあ、僕が君を好きだと言ったら話してくれる?」
ウィリアムの最後の言葉にルネの眉がピクリと動いた。
「なんだ、それ」
その低い声にウィリアムはあっと口を手で塞いだ。
「そんな好意は嬉しくもなんともない」
「違う、そういうつもりじゃなくて……」
ウィリアムは取り繕おうとしたが遅かった。
ルネの瞳は暗く静かに揺らめいていた。
「君は以前私にいろいろ打ち明けたね。おそらく知られたくないことも。だから対等でいたいだけだろ。だからそんなにこだわるんだ。私に何を言わせたい? 何を引きずり出したい?」
その声はそれはこれまできいたことのない冷たさを持っていた。
「ごめん、言い方を間違えた。……というよりやっぱり僕を嫌ってるだろう。別に隠さなくていい。君は僕が触れた手をふり払った。嫌ならあのときみたいに正直に示してくれていい」
「いつの話だ? それに手を振り払ったって、それは君の方じゃないか!」
ルネの声は震え、息遣いも荒くなっていた。
「君の方こそ私が君の秘密を知って嫌だったろう? 人に知られたくない部分を知られたことが悔しい。だから私の弱みを握って上に立ちたいんだ。だから私の秘密も知って優越感に浸りたいんだ!」
ウィリアムは自分の血の気が引いていくのを感じた。
そのまま呆然としているとルネがドアへ向かって歩きはじめた。
ウィリアムはとっさにルネの手を取った。
「僕は、君にいろいろ話したじゃないか」
「それは君が勝手に話したんだろ!」
二人の間に沈黙が流れた。
「わかった」
ウィリアムはそう言うと掴んでいた手を離した。
「ならもう君には何も話さないし、話しかけない。そんなに僕と話したくないならもう近づかない」
ウィリアムは妙に冷静な自分の声をきいた。
「さよなら」
そう言ってルネの横を通り過ぎた。

(なぜこんなことを言われなくちゃいけないんだろう)
自分に非があるのはわかっていた。
ルネは頑ななまでに話すことを拒否していたのに何度もきこうとしたからだ。
しかし知りたかった。
いつも思ってもみない反応をする彼が気になって、いつの間にか距離の取り方を見誤っていた。
(でも、もうこれで終わりだ)
出口まで半分ほど進んだときだった。
「……たいか?」
絞り出すような悲痛な声音にウィリアムは足を止めた。
「そんなに知りたいか!? 歪んだ欠陥だらけの私を、そんなに知りたいか!?」
後ろからぶつけられたその言葉にウィリアムは息をとめた。
「なら見たらいい!」
ルネは上着を脱いでシャツのボタンをひとつひとつ外しはじめた。
振り返ったウィリアムはその動作を呆然と見つめていた。
そしてついにその上半身が露わになり、白い肌が曝け出された。
「これで君は満足か?」
その言葉にウィリアムはようやく我に返った。
「あの出血はただの生理現象だ!」
ルネは下を向いていたが、その顔からポタリと雫が落ちた。
「下も見てみるか?」
そう言ってルネはズボンのベルトに手をかけた。
「待て!」
ウィリアムは駆け寄ってその手を掴んだ。
「ごめん、悪かった……」
そして落ちていたシャツを拾い上げ、ルネの肩にかけた。
「……嫌われたくなくて、幻滅されたくなくって、言いたくなかった」
ウィリアムはその途切れそうな言葉に耳をすませた。
「君とは男として気軽に話せる友人でいたかった。なのにもう話しかけないとか、近づかないって、なんで、どうしてそんなこと言うんだよ!」
そう言って顔を上げたルネは涙に濡れ、その潤んだ瞳は光をめいっぱい反射してウィリアムの中心を刺し貫いた。
突然痛みが襲い、ウィリアムは息ができなくなって胸を押さえた。
「私は欠陥だらけで、色がないと言われて、化け物みたいと言われたこともあって、本当の親も知らない、自認できる性もない、視力もどんどんなくなっていく!」
ルネはそう言うと眼鏡を外して自分の頬を伝う涙を拭った。
「寂しい……」
ぽつりと零された言葉をきいて、ウィリアムの手が動いた。
「私の世界がどんどんなくなっていく」
目の前のルネは白い光に包まれてこのまま粒となって消えてしまいそうだった。
その光景にウィリアムを襲う痛みは増していき、そしてその痛みをもたらすものに、気がつくと触れていた。
恐る恐る包み込んでみるとそれはふんわりと柔らかで確かな感触があった。