——本日、本暦三〇二三年七月十七日、これから記録を開始します。
私の名前はマリ。
はじめに私がこの記録をはじめるに至った経緯を記します。
これは私の身に起こった実際の出来事です。
事実であり私にとっての真実です。
しかし真実は場合によって事実に反することが多々あります。
なぜならそこには各人の主観が入ってくるからです。
私にとっては悪でも、ある人にとっては善であるかもしれません。
私にとっては真であっても、ある人にとっては偽であるかもしれません。
そのため、これを目にするあなたにはこれは私の主観による記述だということをふまえて受け取って欲しいのです。
私がどのように物事を考え受けとめた結果の真実なのかを。


それはほんの数日前のことでした。
工場の地下へ続く階段の先に光がありました。
光は階段を降りた先の部屋のドアの隙間から漏れていました。
私はそっと中を覗き、驚きました。
奥の方に人がいたのです。
工場は一年前から閉鎖しており鍵もかけられていたため、誰も入れるはずがありませんでした。
私は経営者であった父から引き継いだ工場の視察に訪れていましたが、思わぬ事態に恐怖を覚えました。

中にいたのは白いシャツに黒いズボンをはいた青年で革の鞄を背負っていました。
私はよく見ようと前に身を乗りだしましたが、うっかりドアに頭をぶつけて音を立ててしまいました。
気づいた青年がこちらへやってきて私たちは対峙しました。
青年は黒い髪と瞳をしていて肌は青白く少し不健康そうに見えました。

「ここで何をしているの?」
私は気丈に振る舞いつつ尋ねました。
「君は誰?」
青年は私の問いには答えずそう言いました。
「私はこの工場の持ち主よ」
「そうか、ごめん。間違って入り込んでしまったんだ。出口を教えてくれないか?」
青年はそう言うと私を観察するように上から下へと視線を移動させました。
違和感を覚えましたが、青年の口調や仕草に悪意や敵意がないことが読みとれたので出口まで案内することにしました。
「どこから来たの?」
「遠くから来たんだ」
出口に着くと青年はさよならと言って遠ざかっていきました。
私もこのまま工場を閉めて帰ることにしました。

家に帰る前に街へ寄り、食材を買って店を出たとき、道端に立つ人物が私の目に留まりました。
こちらに背を向けていましたがその背格好から先ほど地下で会った青年だとわかりました。
近づいて声をかけようとしましたがその前に向こうが振り返り、私は息をのみました。
青年の顔が先ほどと同一人物とは思えないくらい険しかったのです。
そしてもう一つ私を驚かせたのが、青年が手にしていたものです。
それは両手のひらに乗るくらいの楕円形の球体でした。
「爆弾よ!」
私は反射的に球体を奪い取ろうと手を伸ばしましたが青年は決して離そうとしませんでした。
「早くそれを離して逃げるわよ!」
しかし青年は首を振り拒否しました。
「これが爆弾だと気がついたなら僕がどういう奴かもわかるだろ? 君は地下に逃げるんだ、早く!」
その通り私はこのとき青年がテロリストであることに気がついていました。
ここ数年、世界中でテロが頻発しテロリストたちが爆弾や未知の兵器を使い次々と人々を襲っていました。
未知の兵器については詳しいことはわかってはいませんでしたが、それは広範囲で人の脳に重大な損傷を与え死に至らしめました。
そしてテロリストたちが去ったあとには同様の楕円形の球体のカプセルが発見されていたため、各地で起こるテロは同一の集団によるものと思われました。
正体の知れないテロ集団に各国の政府は互いに疑心暗鬼になり核兵器で牽制しあうまでに発展しました。
そしてある国でとうとう核兵器の誤爆が起こり近隣国にまで重大な被害をもたらしました。

そんな世界に不安と恐怖をまき散らすテロ集団の一人に私は取るべき行動とは真逆のことをしました。
「それをここに置いて、早く逃げるのよ!」
そんなことをしては街は大惨事になります。
私は街の人々を犠牲にしてでも青年を救おうとしたのです。
たった一人のため、それも街を脅かそうとしている人物に対して私はなんて愚かなことをしようとしていたのでしょう。
私は荷物を放り出し、青年の腕を掴み、強く引きましたが、彼の力は思った以上に強くびくともしませんでした。
「離れないか!」
「嫌よ」
「なぜ!?」
「あなたこのままじゃ死んじゃうじゃない」
私がそう言うと青年は空を見上げました。
空は快晴でした。
「くそ、めちゃくちゃだ! もう間に合わない」
青年は球体を地面に置きました。
ようやく思い直してくれたかと私がホッとしたのも束の間、青年は背負っていた鞄を下ろし、中を探りはじめました。
そして取り出した真っ白なマントで私をグルグルと包み込んだのです。
「何するの!?」
「いいから、このままじっとして」
青年は微かに笑いました。
そしてマントの余った部分で唯一晒されていた私の顔を覆い隠しました。
このまま拉致監禁でもされるのかと思いましたが、青年はただ私が倒れてしまわないように体を支えただけでした。

何も起こりませんでした。
そう、私には何も起こりませんでした。

顔からマントがハラリと落ちて視界が明るくなりました。
街の様子は何も変わっていませんでした。
青年も青い顔をしていましたが無事でした。
私はあの球体を爆弾だと早とちりしていたのだと思い安堵しました。
しかし青年は焦っていました。
「もう時間がない。君に話さなければならないことがある」
青年は人気のない場所まで私を連れて行きました。
「君に頼みたいことがある。断ってくれてもいい。けど一度話をきいて考えてほしい」
私が頷くと青年は話しはじめました。

内容はこうでした。
青年は施設で育ち、八歳のときにある裕福な夫婦に引き取られました。
そして十三歳になったある日、養父に世界平和を掲げる団体を紹介されました。
実は養父はそこの幹部だったのです。
青年は団体の理念に賛同し、活動を始めました。
当初は争いをなくそう、化学兵器を撤廃しよう、自然環境を良くしようという訴えの活動が主流でしたが、しだいに活動内容に変化が表れはじめました。
それは団体内部において、話し合いで解決を目指す穏健派と実力行使で目的を果たそうとする過激派に分かれ対立するようになったためです。
みんなそれぞれに一向に出口の見えない現状に対する焦りがあったのです。
温暖化による異常気象での自然災害の頻発、原子力発電による核廃棄物処理問題や核戦争の脅威――。
テクノロジーの発展が招いたこれらの問題解決のためにどんなに呼びかけても一度手に入れた便利さを私たちは手放そうとしませんでした。

青年は当初の団体の理念や思想に共感して活動に参加していましたが、だんだんと歪んだ方向へ進むにつれ不信感を抱くようになりました。
「地球環境に害を与えない兵器により人口を半減させる」
「過度な化学開発やテクノロジー発展を防ぐための知識の抹消」
「核保有国への集中攻撃」
そういった過激な思想を持つ者が団体の半数を占めるようになっていきました。

そして青年はここで話を切り、私に尋ねました。
「君の名前はマリだろう?」
私はまだ名乗っていなかったので驚きました。
「君の工場だけど、あの地下は団体の基地につながっている。君のお父さんはこの団体のメンバーだったんだ」
私は耳を疑いました。
父がそんな団体の活動に参加していたなんて知りませんでした。
「彼はこのことは家族に秘密にしていると言っていた。ところで君の父親はどうして亡くなったか知ってる?」
「自殺よ」
「本当に?」
確かに間違いないはずでした。
父はビルから飛び降り、遺書も見つかっていましたから。
理由は工場の経営不振により追い詰められてのことでした。
「君の父親は団体に反抗した者の一人だった。だから粛清された」
青年は私の父のその出来事で、このまま団体にいてはいけないと思いはじめました。
そんなとき与えられたのが今回の任務だったのです。
それは団体の開発した装置を使ってある強力な兵器を至る所から世界中に拡散させることでした。
そして何度か兵器の威力が試されたあと作戦が伝えられました。
「今日はその作戦決行日だ。すでに兵器は各地で一斉にばら撒かれた」
その兵器は壁をすり抜け広範囲に影響を与えますが人にのみ作用し、攻撃を受けた者ははじめは自覚症状がなく、徐々に数日をかけて肉体が崩壊し死に至るというものでした。
もし生き延びたとしても脳にダメージを受け、人としての根幹を成すものから順に崩壊を起こすそうです。
徐々に脳が萎縮し、言葉が不自由になり、意志を持つことも思考することも放棄していくようになるのだそうです。
団体はそうやって人々を虐殺し、傀儡にすることで平和が訪れると考えたのです。
考えることをやめた人間は無駄な生産と消費をしなくなるだろう。
そうなれば自然と淘汰され数は調整されていくだろうと。

この考えをきいて青年は悟ったのです。
団体の語る世界平和の対象に人はいないのだと。
「これまでのいきさつとこれからのことを記録して、いつかまた栄えるだろう未来に伝えたい。本当は団体への抵抗として僕自身がやるつもりだったんだ」
青年はそう言いました。
「おそらくこれからさらなる虐殺が始まる。それは今まで人類が経験してこなかった方法で行われる。だから君は記録者になってほしい」
それが青年が私に託したい願いでした。
兵器の攻撃を直に受けた青年は、自分はもう一日ともたないだろうと言いました。
私を包んだマントはその兵器の影響を防ぐ防具でした。
「どうして私を守ったの? マントはあなたが被ればよかったのに。そうしたら私にこんなことを託す必要がなかったじゃない」
「それは、君に死んでほしくなかったんだ」
「なぜ?」
「君は僕の手を取って逃げようと言ってくれたあのとき、泣いただろう?」
私は自分の頬に手をやりました。
「僕はそのとき初めて見た。僕のために流された涙を」
青年は私の手の上に自分の手を重ねました。
「そのとき、この世界にはまだ存在してほしいものがあるって思ったんだ。それだけだよ、理由なんて」

私はさいごまで青年のそばにいました。
青年は私に球体を渡しました。
「これ特殊なカプセルだ。ある条件で自動的に開封する。開封するまでは何の影響も受けず入れた当時のまま保存され、どんなものでも閉じ込めることができる。君は記録したものをこの中に入れて団体から隠すんだ」
私は青年からカプセルの開き方をきき、鞄ごと受け取りました。
鞄にはもうひとつ空のカプセルがありました。

私は青年の死を見届けると一度家に戻りました。
家の中では母が亡くなっていました。
隣人の幼馴染もその家族も同じようになっていました。
街は閑散とし、交通機関は機能しておらず私は父の自動車で都市へ向かいました。
都市は混乱していました。
至る所で人が倒れ、動ける者は病院に殺到していました。

青年の言った通り、すでに兵器は世界の至る所で解き放たれたのです。
私は歴史の傍観者となり記録者となることを決意しました。
今まさに起こりつつあるこの現状を私は止められない、変えられない。
だからせめて記録するのです。