「左目の視力がだいぶ下がりましたね」
学校の帰りに寄った病院で医師が言った言葉にルネは小さく返事をして俯いた。
違和感に気づいたのが先月の二月末だった。
暦や時計の数字がぼやけて滲み、それが日に日に悪化していった。
「おかしいと思ったら予約日前でも病院に来てください」
医師が小さくため息を吐いた。
「右が見えていない分、負担がかかっているんでしょう。あまり酷使しないように」
ルネは淡くぼんやりとした視界のまま病院を出た。
日はすでに傾き、地平線の彼方に沈みこもうとしていた。
そしてほどなくしてバスが目の前に止まると、ルネはそのままそれに乗り込んだ。
進みはじめて少し経った頃だった。
ふと外に目をやったルネは何か様子がおかしいことに気がついた。
(いつもと風景が違うような)
そう思った瞬間、ルネはとっさに窓にすがりついた。
「しまった……」
次の停留所でバスが止まると急いで降りて辺りを見まわした。
目を凝らして反対車線のバス停がすぐ向かい側にあるのがわかるとルネは一歩足を踏み出した。
「危ない!」
その声とともに強く腕を引かれてルネの体は後ろに傾いだ。
それと同時に目の前を自動車が通り過ぎていった。
「よく見ないと」
その声にルネは振り返って驚いた。
「ウィリアム!」
「こんな時間にここで何してるんだ? 君の家はこっちじゃないだろ?」
「……乗るバスを間違えた。君こそまだ帰ってないみたいだけど家はこの辺りか?」
ルネは制服姿のウィリアムに視線を向けた。
「違うよ。ちょっと用があって。じゃあ、気をつけて」
ウィリアムはそう言うと手を上げてくるりと背を向けた。
「ちょっと、待って」
ルネは離れていこうとするウィリアムの袖を引いた。
「え?」
「どこ行くんだ? それからここはどこ?」
「北区だよ」
それをきいてルネは改めて周囲を見まわした。
街の中心部にしか行き来がなかったため、この地区に来るのははじめてだった。
北区は商店や飲食店でにぎわう街中に対して業務施設が多く飲食店はまばらにあるだけだった。
「人通りが少ないな」
「店が開くのが遅いからこれから増えてくるんだ。じゃあね」
そう言うとウィリアムはまた離れていこうとした。
「待て、どこ行くんだ?」
ルネは再び袖を引いた。
ウィリアムは引かれた袖を見たあと観念したように言った。
「クラブ、君も来る?」
着いたのは二階建ての長方形の建物だった。
「学生は平日無料で利用できるんだ」
「何するんだ?」
「入ればわかるよ」
ルネはウィリアムについて建物に入った。
受付でウィリアムは学生証を取り出して見せ、ルネも同じように提示すると奥へ行くよう言われた。
「スイミング、ヨガ、ダンス、外ではバスケにサッカーもできる。ルネは何にする?」
ウィリアムが階段前に掲示された案内を見て言った。
「君は何するんだ?」
「僕はいつもスイミングだよ。一緒に泳ぐ?」
「いや、やめておく。それよりこのヨガってなんだ?」
案内には「初心者歓迎、気軽にどうぞ」と書いてあった。
「さあ、僕もやったことないから」
「ふうん、じゃあ私はこちらに行ってみる」
「じゃあ君は二階だね。僕はこっちだから」
そう言ってウィリアムは奥の方へ歩いていった。
それを見送ってルネも階段を上がった。
案内にあった番号の部屋を覗くと中にはすでに人が数人入っていた。
「あら、あなた参加者?」
ルネに気づいた一人の女が話しかけてきた。
「入ってもいいですか?」
「もちろんよ。今から始めるから」
髪を後ろで一つにまとめたその女はルネの前に手を差し出した。
「インストラクターのカホリよ」
「ルネです」
部屋の照明が少し暗くなり、ルネは制服の上着だけを脱いで部屋の隅に立った。
「私がする動作を真似してください。まず足の裏を合わせて座りましょう」
部屋の中にいる全員が一番前のカホリの動きに合わせて体を伸ばしたり折り曲げたりして様々な姿勢をとっていった。
「……次は足を伸ばして手をつま先の方にもっていきましょう」
ルネは思いきり前に手を伸ばした。
「あら、体が柔らやかいわね」
カホリがルネの後ろにやって来て背中を押すと、指先がつま先を超えて伸びていった。
「痛くない?」
「大丈夫です」
「すごいわ!」
カホリの声に周りにいた参加者もルネの方を見て驚きの声を漏らした。
「では深呼吸して今日は終わりましょう」
終わった頃には睡魔が襲ってきてルネはうとうととした。
「リラックスできたみたいね。あなた、よかったらまた来てね」
ルネが部屋を出て階段を降りていると、途中でウィリアムに出くわした。
「ルネ、もう帰るよ。僕たちは八時までしかいられないから」
それをきいてルネの眠気が一気に吹き飛んだ。
「八時!?」
「もしかして家の人に言ってなかった?」
「ああ」
病院に寄ることはジョンに伝えてあったがこの時間は遅すぎた。
「電話してくる」
ルネは受付の横の公衆電話を使い家に電話をかけた。
数回の呼び出し音のあと受話器が取られた。
「ジョンですか? ルネです」
「あなた、今どこにいるんです!?」
受話器の向こうでジョンの声が響いた。
「いっこうに帰ってこないので一度病院に電話をかけたんですよ! そうしたらもう帰ったはずだと言われて」
「すみません、少し寄り道をしてました。すぐに帰ります」
ルネが電話を切ると隣にウィリアムがやって来た。
「家の人、厳しいの?」
「ジョンは優しいよ。心配してくれたんだ」
ルネはそう言うと急いで外に出た。
「ルネ、バス停はこっちだ」
追ってきたウィリアムが通りの向こうを指さした。
「ありがとう。ウィリアム、君はどうやって帰るんだ?」
「僕は歩いて帰る。また明日」
そう言うとウィリアムは夜道の中に消えていった。
家に着いたルネをジョンは玄関前で待っていた。
「申し訳ありません。バスを乗り違えて、それで友人と偶然会って……」
ジョンはルネの話をきいたあと息を吐いた。
「無事で安心しました。でも夜道は危険ですからこれからは暗くなる前に帰るように」
学校の帰りに寄った病院で医師が言った言葉にルネは小さく返事をして俯いた。
違和感に気づいたのが先月の二月末だった。
暦や時計の数字がぼやけて滲み、それが日に日に悪化していった。
「おかしいと思ったら予約日前でも病院に来てください」
医師が小さくため息を吐いた。
「右が見えていない分、負担がかかっているんでしょう。あまり酷使しないように」
ルネは淡くぼんやりとした視界のまま病院を出た。
日はすでに傾き、地平線の彼方に沈みこもうとしていた。
そしてほどなくしてバスが目の前に止まると、ルネはそのままそれに乗り込んだ。
進みはじめて少し経った頃だった。
ふと外に目をやったルネは何か様子がおかしいことに気がついた。
(いつもと風景が違うような)
そう思った瞬間、ルネはとっさに窓にすがりついた。
「しまった……」
次の停留所でバスが止まると急いで降りて辺りを見まわした。
目を凝らして反対車線のバス停がすぐ向かい側にあるのがわかるとルネは一歩足を踏み出した。
「危ない!」
その声とともに強く腕を引かれてルネの体は後ろに傾いだ。
それと同時に目の前を自動車が通り過ぎていった。
「よく見ないと」
その声にルネは振り返って驚いた。
「ウィリアム!」
「こんな時間にここで何してるんだ? 君の家はこっちじゃないだろ?」
「……乗るバスを間違えた。君こそまだ帰ってないみたいだけど家はこの辺りか?」
ルネは制服姿のウィリアムに視線を向けた。
「違うよ。ちょっと用があって。じゃあ、気をつけて」
ウィリアムはそう言うと手を上げてくるりと背を向けた。
「ちょっと、待って」
ルネは離れていこうとするウィリアムの袖を引いた。
「え?」
「どこ行くんだ? それからここはどこ?」
「北区だよ」
それをきいてルネは改めて周囲を見まわした。
街の中心部にしか行き来がなかったため、この地区に来るのははじめてだった。
北区は商店や飲食店でにぎわう街中に対して業務施設が多く飲食店はまばらにあるだけだった。
「人通りが少ないな」
「店が開くのが遅いからこれから増えてくるんだ。じゃあね」
そう言うとウィリアムはまた離れていこうとした。
「待て、どこ行くんだ?」
ルネは再び袖を引いた。
ウィリアムは引かれた袖を見たあと観念したように言った。
「クラブ、君も来る?」
着いたのは二階建ての長方形の建物だった。
「学生は平日無料で利用できるんだ」
「何するんだ?」
「入ればわかるよ」
ルネはウィリアムについて建物に入った。
受付でウィリアムは学生証を取り出して見せ、ルネも同じように提示すると奥へ行くよう言われた。
「スイミング、ヨガ、ダンス、外ではバスケにサッカーもできる。ルネは何にする?」
ウィリアムが階段前に掲示された案内を見て言った。
「君は何するんだ?」
「僕はいつもスイミングだよ。一緒に泳ぐ?」
「いや、やめておく。それよりこのヨガってなんだ?」
案内には「初心者歓迎、気軽にどうぞ」と書いてあった。
「さあ、僕もやったことないから」
「ふうん、じゃあ私はこちらに行ってみる」
「じゃあ君は二階だね。僕はこっちだから」
そう言ってウィリアムは奥の方へ歩いていった。
それを見送ってルネも階段を上がった。
案内にあった番号の部屋を覗くと中にはすでに人が数人入っていた。
「あら、あなた参加者?」
ルネに気づいた一人の女が話しかけてきた。
「入ってもいいですか?」
「もちろんよ。今から始めるから」
髪を後ろで一つにまとめたその女はルネの前に手を差し出した。
「インストラクターのカホリよ」
「ルネです」
部屋の照明が少し暗くなり、ルネは制服の上着だけを脱いで部屋の隅に立った。
「私がする動作を真似してください。まず足の裏を合わせて座りましょう」
部屋の中にいる全員が一番前のカホリの動きに合わせて体を伸ばしたり折り曲げたりして様々な姿勢をとっていった。
「……次は足を伸ばして手をつま先の方にもっていきましょう」
ルネは思いきり前に手を伸ばした。
「あら、体が柔らやかいわね」
カホリがルネの後ろにやって来て背中を押すと、指先がつま先を超えて伸びていった。
「痛くない?」
「大丈夫です」
「すごいわ!」
カホリの声に周りにいた参加者もルネの方を見て驚きの声を漏らした。
「では深呼吸して今日は終わりましょう」
終わった頃には睡魔が襲ってきてルネはうとうととした。
「リラックスできたみたいね。あなた、よかったらまた来てね」
ルネが部屋を出て階段を降りていると、途中でウィリアムに出くわした。
「ルネ、もう帰るよ。僕たちは八時までしかいられないから」
それをきいてルネの眠気が一気に吹き飛んだ。
「八時!?」
「もしかして家の人に言ってなかった?」
「ああ」
病院に寄ることはジョンに伝えてあったがこの時間は遅すぎた。
「電話してくる」
ルネは受付の横の公衆電話を使い家に電話をかけた。
数回の呼び出し音のあと受話器が取られた。
「ジョンですか? ルネです」
「あなた、今どこにいるんです!?」
受話器の向こうでジョンの声が響いた。
「いっこうに帰ってこないので一度病院に電話をかけたんですよ! そうしたらもう帰ったはずだと言われて」
「すみません、少し寄り道をしてました。すぐに帰ります」
ルネが電話を切ると隣にウィリアムがやって来た。
「家の人、厳しいの?」
「ジョンは優しいよ。心配してくれたんだ」
ルネはそう言うと急いで外に出た。
「ルネ、バス停はこっちだ」
追ってきたウィリアムが通りの向こうを指さした。
「ありがとう。ウィリアム、君はどうやって帰るんだ?」
「僕は歩いて帰る。また明日」
そう言うとウィリアムは夜道の中に消えていった。
家に着いたルネをジョンは玄関前で待っていた。
「申し訳ありません。バスを乗り違えて、それで友人と偶然会って……」
ジョンはルネの話をきいたあと息を吐いた。
「無事で安心しました。でも夜道は危険ですからこれからは暗くなる前に帰るように」