昼過ぎに雪が降りはじめた。
雪は音もなく舞い落ち、回廊に囲まれた中庭の地面に吸い込まれて消えた。
校舎の各教室ではすでに授業が始まっており、ウィリアムとその後ろを歩く一人を除き周囲に生徒の姿はなかった。
「積もるかな?」
ウィリアムが立ち止まって振り返ると、声をかけられた生徒も足を止めて中庭に向けていた視線を前へと戻した。
「さあ?」
首をかしげたその生徒は大きな瞳でウィリアムを見つめた。
ウィリアムは自分の背丈を超える大きな巻物を抱えなおし、また歩きだした。
「すまない、手伝わせて」
先ほどの素っ気ない返事と打って変わってその言葉には気遣いがうかがわれた。
「いいよ。君は来たばかりで資料室の場所を知らなかったんだから」
ウィリアムはまた振り返り、ニコリと微笑んだ。
このウィリアムの後ろを歩く生徒は高等学校であるここマンソーン校に先日転入してきたばかりだった。
海を隔てた隣国から渡って来たという。
「ランスから来たんだよね。言葉は大丈夫?」
「問題ない。こちらに来てもうすぐ二年になる」
「そうなんだ。じゃあこっちで学校に通ってたんだ?」
「いや、通ってない」
「え、じゃあどうやってこの学校に入ったの? それもこんな半端な時期に?」
季節は冬に入り、もうすぐ一学期が終わろうとしていた。
「ランスの基準で義務教育は終えている」
「独学で試験を受けたの?」
「悪いか?」
「いや、悪くないけど……」
そこで会話は途切れてしまった。
ウィリアムは肩を落とした。
(そういえば初日もこんな感じだったな)
——「ルネです」
朝礼で前に立った転入生はそれだけ言うとすぐに空いていたウィリアムの斜め前に座った。
白い肌、透きとおるような白銀の髪は光のあたり具合によっては境界線がなくなって、日に溶けていってしまいそうで、制服の黒い上着とズボンのおかげでなんとか体の輪郭を保っているようだった。
「よろしく」
ウィリアムは斜め前のルネに声をかけた。
しかしルネは返事どころか微動だにしなかった。
ウィリアムは次に彼の肩を軽く叩いてみた。
すると今度こそルネは振り返ったが、すぐにウィリアムはその伸ばした手を引っ込めることになった。
ルネは眉間にシワを寄せ、顔を引きつらせていた。
「何か?」
ルネのキラリと光る瞳は棘のようにウィリアムの胸に突き刺さった。
「挨拶しただけだよ……」
「二人ともご苦労でした」
歴史教師のスミスが教室に戻ってきたウィリアムとルネに声をかけた。
スミスは髪を高く結い上げ、そのせいか目元もキリリとつり上がってしまっている。
背筋をピンと伸ばした歩き方も加わり、少し神経質な印象を周囲に与えた。
「世界史を学ぶ上で地理は重要です」
これがスミスの口癖だった。
こんな調子で授業の度に重い巻物を取りに資料室に行かされる生徒達はみんなうんざりしていた。
「今日は前回の古代史の続きです」
スミスは巻物の紐を天井の鉤に引っかけて巨大な世界地図を広げた。
「大昔、地図でいうとこの辺りから最初の文明は起こりました……」
指示棒で指し示された一か所を見ていたウィリアムは突然腕を突かれて隣を見た。
「ねえ、ルネと何か話した?」
ドイが口元に手をあてて囁いた。
「少し」
ウィリアムは視線を前に戻して頷いた。
「ほんと!?」
ドイの声は思いのほか室内に響き渡り、スミスは咳払いをした。
「あとで教えてね」
ドイはそれだけ言うとすぐに前を見た。
「歴史を学ぶ意義とはなんですか? ドイ」
名指しされたドイはビクリと硬直して目を丸くした。
「ええと、か、過去を知ることにあると思います」
「過去を知ってどうするのです?」
青ざめるドイにさらにスミスは質問した。
「ええと、今の平和に感謝する……のだと思います」
ドイがそう言うと、スミスは黙ってしまい、教室は静寂に包まれた。
しかしドイがまた口を開きかけたとき、ようやくスミスが小さく息を吐いた。
「それもまあいいでしょう。しかし他にもあります。歴史を知ることは人を知ることです。歴史を見れば人がどんなふうに思考し行動するのかが見えてきます。そして先人達の行動の結果を今の私たちは経験することなく知ることができるのです。これらは私たちが未来を考えようとするとき、きっと道しるべとなってくれるでしょう」
スミスは次に教科書の頁を指定し見るように言った。
そこには白黒の写真が一枚載っていて、直線と曲線の入り混じった古代文字が写っていた。
「歴史というのは文字による記録です。文字が使われはじめる前の時代や文字を持たない民族の世界支配の例のように、記録がない又は少ないとそれだけわからないことが多くなるのです」
スミスの言葉をきいて不意にウィリアムは教科書を裏返した。
裏表紙には一枚の写真が載っていた。
写っているのはランス国にある遺跡で、砂漠にポツンポツンと鉄骨がまばらに集まっているだけの写真だった。
遺跡どころか廃墟とも呼べないような様相を呈しているそれには地下も存在するというが、その地下の内部も傷んで崩れ落ち、半分以上が埋もれてしまっているという。
そのため今なお発掘作業が続いていた。
「今日はここまでにします。ドイ、地図を資料室に戻すように」
指名されたドイは自分を指さして目を丸くした。
「ああ」
ドイが悲しそうにウィリアムを見た。
「自業自得だよ」
「一緒に運んでくれないの?」
「いいけど」
ドイはニッコリと微笑んだ。
もちろんウィリアムが断るはずがないとわかっていたのもそうだが他にも何かありそうにドイは笑みを維持していた。
「で?」
「何が?」
ウィリアムはさっぱりわからず首をひねったが、ドイは呆れたように口を開けた。
「言ったじゃない! ルネと何話したのか教えてって」
今度はウィリアムが呆れる番だった。
「そんなに知りたいの?」
「だって、女子のあいだで話題なのよ。あのミステリアスな感じ、気にならない?」
ならない、とウィリアムは言いかけたがやめた。
「実は彼、ここに来てもう二年になるらしいよ」
「そうなの!? で、それから?」
「それから? 他にええと、あ、僕たち何話したんだっけ?」
ウィリアムはちょうど机の脇を歩いてきたルネの腕を捕まえた。
「わっ」
ルネは短く叫んで、掴まれた手を振り払った。
「あ、ごめん……」
ルネの顔は穏やかではなかった。
この不穏な流れを変えようとウィリアムは笑みをつくった。
しかしルネの視線は変わらず冷たかった。
「何?」
「えっと、授業中に地図を運んできたとき君と何の話をしたかと思って」
「……忘れた」
「そっか、呼び止めてごめん」
ウィリアムがそう言うとルネは足早に教室を出ていった。
「なんか気難しいね」
二人のやりとりを見ていたドイは天を仰いだ。
雪は音もなく舞い落ち、回廊に囲まれた中庭の地面に吸い込まれて消えた。
校舎の各教室ではすでに授業が始まっており、ウィリアムとその後ろを歩く一人を除き周囲に生徒の姿はなかった。
「積もるかな?」
ウィリアムが立ち止まって振り返ると、声をかけられた生徒も足を止めて中庭に向けていた視線を前へと戻した。
「さあ?」
首をかしげたその生徒は大きな瞳でウィリアムを見つめた。
ウィリアムは自分の背丈を超える大きな巻物を抱えなおし、また歩きだした。
「すまない、手伝わせて」
先ほどの素っ気ない返事と打って変わってその言葉には気遣いがうかがわれた。
「いいよ。君は来たばかりで資料室の場所を知らなかったんだから」
ウィリアムはまた振り返り、ニコリと微笑んだ。
このウィリアムの後ろを歩く生徒は高等学校であるここマンソーン校に先日転入してきたばかりだった。
海を隔てた隣国から渡って来たという。
「ランスから来たんだよね。言葉は大丈夫?」
「問題ない。こちらに来てもうすぐ二年になる」
「そうなんだ。じゃあこっちで学校に通ってたんだ?」
「いや、通ってない」
「え、じゃあどうやってこの学校に入ったの? それもこんな半端な時期に?」
季節は冬に入り、もうすぐ一学期が終わろうとしていた。
「ランスの基準で義務教育は終えている」
「独学で試験を受けたの?」
「悪いか?」
「いや、悪くないけど……」
そこで会話は途切れてしまった。
ウィリアムは肩を落とした。
(そういえば初日もこんな感じだったな)
——「ルネです」
朝礼で前に立った転入生はそれだけ言うとすぐに空いていたウィリアムの斜め前に座った。
白い肌、透きとおるような白銀の髪は光のあたり具合によっては境界線がなくなって、日に溶けていってしまいそうで、制服の黒い上着とズボンのおかげでなんとか体の輪郭を保っているようだった。
「よろしく」
ウィリアムは斜め前のルネに声をかけた。
しかしルネは返事どころか微動だにしなかった。
ウィリアムは次に彼の肩を軽く叩いてみた。
すると今度こそルネは振り返ったが、すぐにウィリアムはその伸ばした手を引っ込めることになった。
ルネは眉間にシワを寄せ、顔を引きつらせていた。
「何か?」
ルネのキラリと光る瞳は棘のようにウィリアムの胸に突き刺さった。
「挨拶しただけだよ……」
「二人ともご苦労でした」
歴史教師のスミスが教室に戻ってきたウィリアムとルネに声をかけた。
スミスは髪を高く結い上げ、そのせいか目元もキリリとつり上がってしまっている。
背筋をピンと伸ばした歩き方も加わり、少し神経質な印象を周囲に与えた。
「世界史を学ぶ上で地理は重要です」
これがスミスの口癖だった。
こんな調子で授業の度に重い巻物を取りに資料室に行かされる生徒達はみんなうんざりしていた。
「今日は前回の古代史の続きです」
スミスは巻物の紐を天井の鉤に引っかけて巨大な世界地図を広げた。
「大昔、地図でいうとこの辺りから最初の文明は起こりました……」
指示棒で指し示された一か所を見ていたウィリアムは突然腕を突かれて隣を見た。
「ねえ、ルネと何か話した?」
ドイが口元に手をあてて囁いた。
「少し」
ウィリアムは視線を前に戻して頷いた。
「ほんと!?」
ドイの声は思いのほか室内に響き渡り、スミスは咳払いをした。
「あとで教えてね」
ドイはそれだけ言うとすぐに前を見た。
「歴史を学ぶ意義とはなんですか? ドイ」
名指しされたドイはビクリと硬直して目を丸くした。
「ええと、か、過去を知ることにあると思います」
「過去を知ってどうするのです?」
青ざめるドイにさらにスミスは質問した。
「ええと、今の平和に感謝する……のだと思います」
ドイがそう言うと、スミスは黙ってしまい、教室は静寂に包まれた。
しかしドイがまた口を開きかけたとき、ようやくスミスが小さく息を吐いた。
「それもまあいいでしょう。しかし他にもあります。歴史を知ることは人を知ることです。歴史を見れば人がどんなふうに思考し行動するのかが見えてきます。そして先人達の行動の結果を今の私たちは経験することなく知ることができるのです。これらは私たちが未来を考えようとするとき、きっと道しるべとなってくれるでしょう」
スミスは次に教科書の頁を指定し見るように言った。
そこには白黒の写真が一枚載っていて、直線と曲線の入り混じった古代文字が写っていた。
「歴史というのは文字による記録です。文字が使われはじめる前の時代や文字を持たない民族の世界支配の例のように、記録がない又は少ないとそれだけわからないことが多くなるのです」
スミスの言葉をきいて不意にウィリアムは教科書を裏返した。
裏表紙には一枚の写真が載っていた。
写っているのはランス国にある遺跡で、砂漠にポツンポツンと鉄骨がまばらに集まっているだけの写真だった。
遺跡どころか廃墟とも呼べないような様相を呈しているそれには地下も存在するというが、その地下の内部も傷んで崩れ落ち、半分以上が埋もれてしまっているという。
そのため今なお発掘作業が続いていた。
「今日はここまでにします。ドイ、地図を資料室に戻すように」
指名されたドイは自分を指さして目を丸くした。
「ああ」
ドイが悲しそうにウィリアムを見た。
「自業自得だよ」
「一緒に運んでくれないの?」
「いいけど」
ドイはニッコリと微笑んだ。
もちろんウィリアムが断るはずがないとわかっていたのもそうだが他にも何かありそうにドイは笑みを維持していた。
「で?」
「何が?」
ウィリアムはさっぱりわからず首をひねったが、ドイは呆れたように口を開けた。
「言ったじゃない! ルネと何話したのか教えてって」
今度はウィリアムが呆れる番だった。
「そんなに知りたいの?」
「だって、女子のあいだで話題なのよ。あのミステリアスな感じ、気にならない?」
ならない、とウィリアムは言いかけたがやめた。
「実は彼、ここに来てもう二年になるらしいよ」
「そうなの!? で、それから?」
「それから? 他にええと、あ、僕たち何話したんだっけ?」
ウィリアムはちょうど机の脇を歩いてきたルネの腕を捕まえた。
「わっ」
ルネは短く叫んで、掴まれた手を振り払った。
「あ、ごめん……」
ルネの顔は穏やかではなかった。
この不穏な流れを変えようとウィリアムは笑みをつくった。
しかしルネの視線は変わらず冷たかった。
「何?」
「えっと、授業中に地図を運んできたとき君と何の話をしたかと思って」
「……忘れた」
「そっか、呼び止めてごめん」
ウィリアムがそう言うとルネは足早に教室を出ていった。
「なんか気難しいね」
二人のやりとりを見ていたドイは天を仰いだ。