「この記号的な文字は人名や物といった固有名詞や名称に使われるんじゃないか?」
イオが「ある女の手記」の一節を指して言った。
「ほら、主語にあたるこの位置、個人名の場合によくこの文字が使われている」
「うん」
ルネとリーはイオが開いている頁を覗き込んだ。
「丸文字は規則性が分からないがこの記号的な文字は使われるパターンが決まっている」
「個人名は原文と翻訳、どちらも同じ発音をすると仮定すると人名であるこの『マリ』はそのまま『ma-ri』と読む。とすると【マ】は『ma』、【リ】は『ri』。これは音節文字かな? じゃあ他も同じようにやってみよう」
「待って。だとするとここに固有名詞の主語がくるのは文法が翻訳の言語とは異なることになる。目的語を置く場所も違う……」
「とりあえずわかったものから発音の比較表を作ろう」
ルネはイオとリーのやり取りを黙ってきいていた。
これまでルネはオカノ以外に互いに同じ目線に立って議論し語り合うということをしたことがなく、この研究室では自分から意見を伝えることに躊躇することがあった。
しかしこうした場に戸惑いを覚えつつもこれまでに味わったことのないような昂ぶりも感じるようになっていた。

「ところでこの本、誰がいつ書いたんだろう?」
イオが今度は「ある女の手記」の白紙の巻末を指して言った。
「図書館にあったんだっけ? 少なくとも訳者は島国の言語を知っていたということだよね」
リーがルネに尋ねた。
「施設のマダムのおばあさまが本にしたそうです」
「そうなのか!? じゃあその人は翻訳できるのか?」
イオが身を乗り出した。
「えと、亡くなられているそうなのでそれはわかりませんが、おばあさまの遠いご先祖さまの召使いの日記だそうです」
「そうか」
「そうじゃルネ、オカノは大丈夫かの?」
少し離れた机からルミエルが声をかけた。
「……はい」

ルミエルはアンナの葬儀に出ていた。
そのときオカノに何か話しかけていたが、オカノは呆然としていて誰の言葉も耳に入っていないようだった。
「まさかアンナ夫人がそんな状態だったとは。オカノはさぞ落ち込んでいるじゃろう。君も辛いじゃろうがどうか支えてやってくれ」
「もちろんです」


「父さん、帰ったよ」
室内は暗くシンとしていた。
オカノはアンナの死以来、外に出なくなった。
仕事にも行かなくなった。
はじめの頃はオカノの職場の研究所から電話がかかってきていたが、今はそれももうなくなってしまった。

ルネは掃除、洗濯といった家事をこなしたが食事は相変わらず質素なものだった。
「父さん、ご飯買ってきたから食べてね」
オカノの自室をノックして声をかけたが、返事はなかった。
ドアを開けるとオカノはこちらに背を向けて座り、机に突っ伏して身動きしなかった。
「父さん?」
ルネは訝しく思い、部屋に入って近くに寄った。
部屋はアルコールの匂いがした。
ルネは目眩を感じたが返事がなかったためオカノの肩を軽くゆすった。
「父さん?」
するとオカノは腕を勢いよく引いてルネの手を振り払った。
「うるさい、飯はいらん!」
ルネはビクリと体を硬直させ、伸ばしていた手を縮めた。
「ごめんなさい」


リビングに行ってなんとなくつけたテレビは映像が途切れがちで雑音も多かった。
たまにザアザアと流れる砂嵐はルネを落ち着かなくさせた。
「母さん、ラジオが好きだったな」
ルネもアンナと一緒にラジオをきいた。
そのあいだアンナは家事をしたりお茶をしたりして、ルネはそんなアンナを眺めているのが好きだった。

それを思い出した瞬間、ルネの頬を涙が伝った。
同時に胸に心臓を貫くような痛みが走った。
生まれたときから両親を知らず、施設では世話を焼いてくれる者はいても無条件に甘えられるような相手はいなかった。
オカノとアンナのもとに来てから、二人は我が子のようにルネを育てた。
ルネも二人を「父さん」「母さん」と呼んで、まるで本当の親子のようであった。
しかしそれが幻想であったことを今のこの状況が物語っていた。
「僕はオカノの慰めにはならない。そしてアンナを失った悲しみを僕と共有してはくれない」

涙をぬぐってテレビの画面に意識を向けた時だった。
ルネは目をみはった。
そこに映る映像が歪んでいた。
それはテレビだけでなく、視界に入るもの全てがそうだった。
ルネはそのまま目眩を起してソファーに倒れ込んだ。