研究室のドアを開けると芳ばしい匂いがルネの鼻腔をくすぐった。
柔らかく馴染み深いその匂いは最近忘れかけていたものだった。
「カフェ好きなんですか?」
ルネが声をかけるとイオは手を止めて振り向いた。
奥の流し台の前に置かれたカップからは湯気が立ちのぼっていた。
「君も飲むか?」
「いえ……」
「おい、見てくれ」
突然、ドアが開き後ろから声が響いた。
ルネが振り向くとリーが首から小型のカメラをぶら下げ、大事そうに持ち上げていた。
「それがどうしたんだ」
「デジタルカメラだよ。オートフォーカス機能付きで撮影後すぐに画像確認もできるんだ」
「へえ」
イオが気のない返事をした。
「せっかくだから撮ろうよ」
普段感情を出すことのないリーが珍しく興奮していた。
「そういうの好きだよな、お前」
イオはおかしそうにフッと息を吐いた。
「みんな揃ってるよね」
ルネが室内を見まわすと資料が積み上げられた机からルミエルが顔を出した。

「この辺りかな」
リーはカメラを机に置いて角度の調節を済ませるとルネの後ろに並んだ。
ルネの横にはルミエル、その後ろにイオが並んだ。
数秒後にカシャリと音がしてシャッターが切られた。
「どうだ?」
「ほら、いい感じだ」
ルネがリーの手元を覗き込むとデジタル画像が液晶パネルに表示されていた。
「これが撮れた画像だよ。今度プリントしてくるよ」
ルネに説明するリーは楽しそうだった。
「あいつ新製品とか新技術とかってのに弱いんだ」
イオがこっそりルネに耳打ちした。
「この研究に加わったのもそうだ。本の解読から始まった技術革新をまた起こしたいのさ」



一方でアンナの容体は安定していたが依然として目を覚まさず、オカノはまた元気をなくしていった。
しかしそれに反してルネは精力的だった。
手に入れた「ある女の手記」をイオ、リー、ルミエルに見せると、やはりそこに掲載されていた文字と遺跡で見つかった本の文字は同一のものであると皆の意見が一致した。
それによりルネはさらに解読に没頭していった。


「目、どうかしたのか?」
ルネは資料を見ながら考え事をしていたため、急に間近に声がきこえてビクリとした。
机の向かいに様子を窺うイオの顔があった。
「え?」
「右目だけ充血している」
「あ、ずっと触ってたからかな。和感があって」
「どんな?」
「かすむんです。ゴミが入ったわけではなさそうなんですけど変な感じがして」
「やたらと触るな。あと病院に行け」
「……はい」
イオが離れたあとルネは自分の腹部に手をやった。
違和感は右目だけではなかった。
今は痛みは引いているが、たまに腹部を圧迫されるような痛みが襲うことがあった。
「ちゃんと食べてるか?」
後ろから声がしたと同時にルネの肩が掴まれた。
ルネはまたビクリとして肩を縮めた。
「……はい」
かすれた声でルネが答えるとイオはポンと軽く肩を叩いて離れていった。
これまで食事はすべてアンナが作っていた。
オカノは一向に家には帰らず、ルネが料理をするわけもなく、食事は買ってきたパンを少し食べるくらいだった。
「僕は大したことない……」
ルネは小さく息をもらして自分に言いきかせた。



アンナが倒れてひと月が経った。
ルネは毎日病院を訪れアンナを見舞った。
オカノは依然として目を覚まさないアンナにつきそって病院で寝起きしていた。
そんな中、ルネには一つ気になることがあった。
最近オカノのルネに対する態度がおかしかった。
ルネの顔を見ると少し怯えたような表情をするようになったのだ。
「父さんどうかした?」
「いや」
きいてみてもオカノは首を振るだけだった。

それから一週間が過ぎ、この日、ルネが病室を訪れると中から言い争うような声がきこえてきた。
ただならぬその声音に、ルネの胃がぎゅっと絞られた。
ドアを開けて中に入ると今度ははっきりときこえた。
「数ヶ月は生きられるんじゃなかったのか!」
オカノが青い顔で医師に怒鳴りつけていた。
オカノの怒りと発せられた言葉にルネは混乱した。
そしてベッドの上の光景はそれを吹き飛ばした。
アンナはピタリと静止し彼女の時を止めていた。

アンナが死んだ。
「主よ、慈しみ深き我らが神よ——」