「アンナは!?」
その声にルネは顔を上げた。
オカノが真っ青な顔をしてルネを見下ろしていた。
「ご家族の方ですか?」
ルネが何か言う前に病室から出てきた看護師がオカノに声をかけた。
その看護師に案内され二人は医師のいる診察室で話をきいた。
「詳しく調べる必要がありますが、奥さんはひどい貧血で、脳に出血も起こしています」
「助かるんですか!?」
オカノは前のめりになって医師に尋ねた。
「予断を許さない状態です」
「そんな!」
そう言ってオカノは医師の白衣の袖をつかんだ。
「全力は尽くします」

診察室を出るとルネは通路のベンチにオカノを連れていった。
「父さん、大丈夫?」
「ああ」
そう返事をしたもののオカノは目を見開き微動だにせず、何も見ていないようだった。
ルネはまた口を開こうとしたがやめて、そこからしばらくオカノの傍でじっとしていた。


家に着いてドアを開けると室内はひんやりとして真っ暗闇だった。
ルネは手探りで自分の部屋まで行くとそのままベッドにもぐり込んだ。
病院ではあのあとしばらくすると看護師がやって来て面会の許可を伝えた。
アンナは依然として目は覚めないままだったが、オカノはほっとしたように息を吐いた。
「ルネは家に帰りなさい」
「父さんは?」
「僕はここに泊まるよ。タクシーで帰って戸締りはしっかりするんだよ」
そう言うとオカノはルネから視線を外しアンナの手を握った。

ルネがこの家に来てからこれまで、家の中がこんなに暗いことはなかった。
いつもアンナがいて、夜はオカノも帰ってきて、明かりが灯って、確かな温もりがあった。
しかし今この家の中は暗くひんやりとしてまるで本で読んだ地下の洞窟のようだとルネは思った。


翌朝、ルネはタオルや着替えを詰めた大きな鞄を抱えて病院へ向かった。
そして三階の昨日と同じ病室のドアを開けた。
「父さん、荷物を持ってきたよ」
中ではオカノが未だ目を覚まさないアンナを見つめていた。
その顔は彫像のように固く、くっきりとした影を落としていた。
いつものあのやわらかな笑みを浮かべたオカノとは全くの別人のようだった。
「父さん、今日は僕がつき添うから一度家に帰って休んで?」
しかしルネの言葉にオカノは首を振った。
「いや、帰らない。僕はいいから君は研究所に行ってきなさい。せっかくチームに入れたんだから」
「……わかった」

ルネは病院の広間に降りると受付と反対側の壁のへこみへ向かった。
人ひとりが入れる程度の天井まで伸びた縦型のそのへこみの中には銀色の箱型の電話機が設置されていた。
ルネは硬貨を入れてボタンを押すとある所へ電話をかけた。
「はい」
電話に出たのは女性で、ルネが用件を伝えると少し待たされたあとにまた女性の声がきこえてきた。
「明日はどうですか?」
「えと、では明日でお願いします」
電話を切るとルネはふうと息を吐いた。

翌日も同じように病院を訪れると今度はオカノの顔色が違った。
「見てくれ、ルネ」
オカノは嬉しそうにニコニコしていた。
アンナはまだ目を覚ましていなかったが、前日に比べると少しだけ赤みが差して顔色が良くなっていた。
「本当だ。母さんもうすぐ目を覚ますんじゃないかな」
ルネもニコニコと笑顔を浮かべた。

昼過ぎにルネは研究所を出て、バスに乗って家とは別方向へ向かった。
一時間ほどするとあるのどかな田舎町にたどり着きそこでルネはバスを降りた。
地図を頼りにしばらく歩くと民家から離れたある一角に見覚えのある塀が見えてきた。
門の前で立ち止まると塀の外まで生い茂った木々の枝が風になびいてざあっとルネの鼓膜を通り過ぎていった。
「久しぶりね、ルネ」
出迎えてくれたのはマダムだった。
「お久しぶりです、マダム」
ルネが施設を出てから数年が経っていたがその間にマダムの髪には白いものが増え、顔の皺は深くなっていた。
「元気にしていた? オカノから様子はきいていたけど気にしていたのよ」
「はい。あの、閉鎖になるんですってね。寂しいです」
「そう思ってくれてありがとう」
マダムは口角を少し上げて笑みを作った。
「でも私はね、この施設がようやくなくなることにほっとしているの」
「なぜです?」
思いもよらない言葉にルネは目を見開いた。
マダムはルネの問いには答えず、なんでもないわと小さく首を振った。
「そうだわ、図書室の本だったわね。案内するわ」
久しぶりに訪れた施設はルネの記憶に対して小さく色褪せて見えた。
事務棟から児童棟に入りさらに進むと吹き抜けの渡り廊下に出た。
日差しは日に日に柔らかくなっていた。
今日は風が吹いていて木々のざわめきや鳥のさえずり、風が草花の匂いを運んできた。
そこを抜けた先の別棟に図書室はあった。

「よかったら好きな本を持っていきなさい。返却は不要よ」
図書室の前に着くとマダムが言った。
「いいんですか?」
「ええ、ここの本はすべて寄付する予定なの。数冊なら構わないわ」
「ありがとうございます」
ルネは中に入ると記憶を頼りに本を探した。
しかし探すまでもなく、目的の本はルネが返却した場所にそのまま差してあった。
そのあと数冊の本を選ぶと外を眺めていたマダムのもとへ戻った。
「あら、その本を選んだのね」
振り返ってマダムはルネの持っている本に目をとめた。
「その手記はもともと私の私物だったのよ」
「え!?」
ルネは驚いて手元のえんじ色の本に目を落とした。
「私の亡くなった祖母が先祖の残した遺品をまとめて本にしたのよ。遠い遠いご先祖様の召し使いがつけていた日記らしいわ」
「そうなんですか。独特の表現がおもしろくて覚えていたんです」
「私もそう思ったわ」
「あ、あのお返しします?」
ルネがそう言うとマダムは吹きだした。
「……いいのよ。あなたが気に入ってくれて嬉しいわ。大事にしてね」
マダムの顔は傾きかけた日に照らされて淡いオレンジ色をしていた。
ルネが大きくコクリと頷くとマダムは上げた口角を元に戻した。
「そうだわ、体はなんともない?」
「はい。僕は元気です」
「そう」
ルネの返事に反してマダムは浮かない顔をした。
「あの、兄弟たちはどうしていますか?」
兄弟とはルネとともに施設で育った子どもたちのことで、同じ場所で過ごす中で互いにそう呼びあっていた。
施設を出たときルネには数人の弟妹と数十人の兄姉がいた。
「今どこに?」
「施設を出ていったわ、みんな」

門に着くとすでに夕闇が迫っていた。
「気をつけて帰るのよ。これからのあなたの幸せを祈っているわ」
「はい、マダムもお元気で」
歩きはじめたルネが途中で後ろを振り返ると、マダムはまだ門の前にいた。
ルネは最後に小さく手を振った。