人通りの少ない郊外の通りに巨大な影が落ちていた。
バスを降りたルネは目の前の建物を見上げて息をのんだ。
斜め掛けの鞄からオカノに渡された銀色のカードを取り出し、代りに被っていた帽子を鞄に詰めこむと、入口の硝子扉を抜けた。
そしてエレベーターで五階に上がり、まっすぐに延びる通路に沿って歩いた。
両側に部屋がずらりと並ぶ中、部屋番号を確認しながら、ルネは「512」の表札のドアの前で立ち止まった。
そして改めて渡されたカードを確認しドアノブの上にくっついているこぶし大の箱型の装置を見つめた。
ルネがその装置の差しこみ口にカードを通そうとしたとき、目の前のドアが突然開いた。
ドアを開けた人物は、部屋の奥に顔を向けて誰かに話しかけていたため目の前にルネがいることに気づいていなかった。
「ちょっと見てくる——」
そう言いかけて顔を正面に戻した人物はようやくルネに気がついたがすでに遅いと思われた。
ルネは衝撃を覚悟して目をつぶった。
しかしいつまでたってもルネの予期した衝撃はやってこなかった。
閉じていた目をゆっくり開けるとそこには誰もいなかった。
「驚いた」
声がして振り返るとそこに男が立っていた。
「もしかして君がルネ?」
名前を呼ばれてルネは男の顔を見上げた。
男は黒のタートルネックの上に白衣をまとい金色の長い髪を後ろでひとつにまとめていた。
見下ろす眼光は鋭く、ルネは目が合ってすぐに顔をそらした。
「何してるの?」
また後ろから声がした。
今度は部屋の中から別の男が現れた。
こちらは黒髪に黒い瞳の痩せた男だった。
「ぶつかりそうになって避けたんだよ。ドアを開けたらいた」
金髪の男がルネを指さして言った。
「じゃあこの子がオカノの子どもか?」
「似てないな」
その言葉にルネは顔をしかめた。
「父さんの同僚の方ですか?」
「いや、俺たちじゃない」
「移動しようか」
黒髪の男が部屋から出てきてドアを閉めた。
「ここじゃないんですか?」
「ここはルミエルの研究室だ。この地下に共同研究室がある」

ルネは二人のあとについてエレベータに乗った。
「あの、あなたたちは研究所の方ですか?」
「そうだ。あ、俺はイオ、こっちはリーだ」
ブロンドの男が言った。
「イオ、ここに遺跡で見つかった本があるんですか?」
「コピーがな。それにしてもここはなんでもありなんだな」
「ほんとに。異国民にも子どもにも関係なくこんなチャンスをくれる」
「俺たち連合国から来てるんだよ」
二人が同時にルネにかすかな笑みを見せた。


エレベーターのデジタルパネルが地下一階を指して止まると三人はそこで降りた。
うす暗い通路を歩いて研究室のドアの前まで来るとイオがカードキーを取り出してそれを差しこみ口に差してキーボードに数字を打ち込んでいった。
ピピっと音がして鍵が解除されドアが開いた。
「いつも平日の十時から十七時まで、ここで研究している。君のカードでも開くから次からはそれで入るといい。暗証番号は……」
「さっき打ち込んでいた番号なら覚えました」
「そうか」
部屋の中には机がいくつかと鍵付きの書類棚と本棚があった。
机の上にはもれなく本や書類の山ができていた。
その光景にルネは妙な居心地の良さを覚えた。
「誰じゃ?」
部屋のどこからか声がした。
奥の机のひときわ本が積み上がっている辺りが少し揺れ、ルネが目を凝らすとその横からピョコリと人の顔が現れた。
「遅くなりました。ルミエル、新しい子ですよ」
「ああ、そうじゃったな」
そう言って席を立って近づいてきたのは背の低い初老の男だった。
口髭を蓄え、白髪の混じる若干心もとない髪は七三に分けられていた。
ルミエルはルネを上から下まで検分するように頭を動かした。
「そうか、君がオカノの……」
「僕は養子なんです」
「知っとるよ。アンナ夫人はさぞ喜んだだろう。ところで君、失われた文字を解読するには何が必要だと思うかね?」
「失われた文字?」
突然の問いかけにルネはルミエルをまじまじと見つめた。
「今はもう使われておらん古代の文字じゃ」
ルネは少し首を傾げてから口を開いた。
「その後継となる言語との比較によって可能になると思います。語彙、文法、発音。それからピエールロゼットのような……」
「解読可能な文字と一緒にその古代文字が表記されているもの、だね」
リーが補足した。
「はい」
「ふむ、ではさっそく試してみよう、イオ」
ルミエルの呼びかけにイオが奥の鍵付き棚から紐で綴じられた紙の束を取り出してきた。
「見つかった書物を手分けして数チームに分かれて解読しているんだが、今俺たちが行き詰っているのがこれだ」
イオがそう言って机に空けられたわずかな場所にドサリと紙の束を置いた。
「見てみろよ」
ルネは促されるままにその紙の束の表紙をめくった。
「これは……」
そこには紙面いっぱいに絵が描かれていた。
「おもしろいだろ。一般的な本とは違う。おそらく絵本かなんかだろうが風変わりな構成になっている。そしてそれ以上に奇妙なのがこの文字だ」
イオが指し示したのは絵の横の丸枠に収まっている文字だった。
ルネはその文字を見て目を見開いた。
「この文字は大昔に海に沈んだとされるある島国の文字だと思われる」
「そこまではなんとか突き止められたんだけど島国が消滅してからその言語は使われなくなって、後継となる言語もなければ話せる者も解読できる者もいなくて手がかりがないんだ」
「まともな文献が見つからんし、解読が難航しとる」
「……知ってる」
ルネがそうこぼすと三人はポカンとした。
そしてイオが理解したように頷いた。
「ああ、その島国のことは知っていたか」
「ええ、でもそれだけじゃなくてこの文字を本で読んだことがあります」
「読んだ?」
「どこで?」
「どんな本じゃ?」
イオ、リー、ルミエルの矢継ぎ早の質問にルネは思わず一歩身を引いた。
「『ある女の手記』という本です」
「そんな本知らないな」
「もしそうならなぜ僕たちが知らないんだ? くまなく資料をさらったのに」
リーが首を傾げた。
「いや、まずどんな内容なんじゃ? 君、その文字を読めたのかね?」
「いえ、僕は翻訳を読んだだけです。誰かの日記を訳したもののようでした。施設の図書室にあったんです」
「図書室に? 施設ってどこだ?」
イオが眉間に皺をつくった。
「僕が前に住んでいた施設です。訳の隣に一緒にオリジナルの写しも載っていて、これがその文字にそっくりなんです」