七月になり、学校は夏季休暇に入った。
ルネがオカノの家に来て一年が過ぎようとしていた。
日差しの強い夏は肌の弱いルネにとって注意が必要な季節ではあったが、同時に一番好きな季節でもあった。
長時間外に出ていられないため、施設にいた頃はよく外での授業を免除されて、室内で好きな本を読むことができた。
虫や鳥の歌声、葉をめいっぱい広げた木々のざわめき、遠くからきこえる人々の笑い声。
生命を持ったものたちがみんな歓喜して跳ねまわっているようでルネも心がはずんだ。
自分は参加しなくてもこれらの賑やかな声を遠くから眺めてきいていると心が晴れやかになるのだった。
これは夏特有に感じるもので、日頃の陰鬱とは反転してみせるそれがルネには不思議でたまらなかった。
休暇初日、ルネは二階にある自分の部屋の掃除を始めた。
部屋には読みかけの本の山や書き散らかした用紙が乱雑に散らばっていた。
「これはまだ読みかけで、こっちは書きかけで、こっちはまた使うから……」
箱を用意してまずは使うものと使わないもの、要るものと要らないものの仕分けをしたが一方に物が積み重なっていくだけで一向に片づかない。
ルネはひとまず今散らばっているものをすべて机に積み上げ、床を箒で掃き、そこで片づけを一時中断した。
ルネが台所に降りていくとアンナがせわしなく動き回っていた。
流し台には器や鍋、小麦粉や卵、野菜や果物でいっぱいで、火にかけられた鍋からは湯気がモクモクと立っていた。
「何か手伝うよ」
ルネの声にアンナはハッと顔を上げて手を止めた。
「あなた、部屋の掃除をしていたでしょう?」
「お、おわったよ」
「そう、でも大丈夫よ。好きなことをしてなさい」
その言葉にルネは首をかしげた。
いつもであればアンナは快くルネの申し出を受け入れてなにかしら用事を言いつけていたが、今回は違っていた。
仕方なくルネは大きな麦わら帽子を被って庭に出た。
庭は日差しによく映える緑でいっぱいだった。
ルネは蛇口をひねりアンナの育てている花やハーブにひとつずつシャワーをかけていった。
「ブルエにマルグリット」
今は緑の葉が生い茂っているだけだが、ここにきちんと花が咲くことをルネは知っている。
「隣に空きがある」
(そうだ、僕も何か育てよう!)
素晴らしい思いつきにルネは浮き立った。
(何がいいかな。この庭に何かを添えるとしたら……)
いろいろと考えた末にルネは頷いた。
長い休暇の予定が一つ決まったことに満足しながらルネが家の中に入ると、台所の方から甘い匂いが漂ってきた。
クンクンとつられて中に入ろうとした時だった。
「こっちに来ちゃダメよ!」
アンナが慌てたように声を上げ、ルネはビクリとして立ち止まった。
「ご、ごめんなさい」
ルネが身を引いて体の向きを変えるとアンナは胸に手を置いてホッと息を吐いた。
先ほどからアンナの様子がどうも変だった。
ルネが台所に入るのを止めようとしているし、普段穏やかなアンナが慌てているのは珍しかった。
しかしその理由は夕食時に判明した。
食卓には見たこともないような純白のクリームと果物がふんだんに盛られたケーキが載っていた。
ケーキに立てられた蝋燭には火が灯っていた。
「ルネ、誕生日おめでとう」
「誕生日?」
自分には縁のないと思っていた言葉にルネは耳を疑った。
「そうよ」
「僕にもあったの?」
「あたりまえじゃない! 今日はあなたを驚かせたくてこっそり準備していたのよ。施設ではお祝いしてなかったのね」
「仕方がないさ。記録がすべて持っていかれたんだから」
オカノが残念そうに言った。
「記録?」
ルネがオカノに尋ねるとアンナが慌てた様子で手で制した。
「とにかく、今日はあなたの誕生日なのよ。これからは毎年お祝いしましょう。願いを込めて吹き消して」
「うん!」
ルネはこの日はじめて自分のために灯された蝋燭の火を吹き消した。
(二人がいつまでも元気でいますように)
目をつむって心の中でそう祈った。
「そうだわ、何か欲しいものはない?」
「そうだね、プレゼントは何がいいかな?」
ルネの頭の中にすぐに浮かんだものがあった。
「トマトの種!」
「トマト、植えたいの?」
アンナがおかしそうに笑った。
「今年はもう遅いよ」
オカノも困ったように笑った。
「来年、植えるから……」
少し残念に思ったルネだったが二人の笑顔がそれを吹き飛ばした。