父親が差し出した真っ白な球体をウィリアムは受け取った。
それはピンポン玉くらいの大きさで彼の小さな手のひらにひとつコロリと転がった。
父は優しく微笑み、「食べていいよ」と言った。
少しだけひんやりとしたその菓子は口の中ですぐにホロホロと崩れて、とけてなくなった。
父はウィリアムに教えた。
「これはね——」

その記憶を思い出したウィリアムは広がる光景にまた意識を向けた。
一面真っ白な氷の世界だった。
(ここはどこだろう?)
すべてが凍結し、沈黙していた。
生きものはどこにもいない。
人も獣も昆虫も、植物さえも。
ウィリアム自身でさえもこの場では生きていなかった。
世界はすべてを跳ね返し、何者も侵入させまいと自己を固く閉ざしていた。
光がすべてを照らしていたが、それによってさらに世界は凍りついた。

ウィリアムは考えた。
あのテストの問題を、もう一度。

全国一斉テストが行われたのは色づいた落ち葉の舞う秋だった。

問題は特に難しくはなかった。
学力試験とは違い、答えに明確な正誤のあるものというより、感覚で答えるような問題ばかりだった。
例えば、「下の図形の中で『夢』を表していると思うのはどれですか?」という問題があった。
「下」には〇、△、◆、■、☆、といった記号が並んでいた。
(正解はあるのかな?)
もしかしたらあるのかもしれない。
しかし「夢」を表す記号をウィリアムはこれまで誰にも教わらなかったし、きいたこともなかった。
だから回答欄には思い浮かんだものに近い図形を選んで丸を書いた。
またこういう問題もあった。
「下の模様は何に見えますか」
「一本の木を描きなさい」
「この場合どのような思考があなたに近いですか」
そしてそういう問題が延々と続いた。

それからこんな問題もあった。
「下の図の続きを自由に記入しなさい」というものだった。
図はこんなものだった。
「・→〇⇒◦+◗」
これもさっぱりだったが「自由に」ということはやはり正解はないのだろう。
ウィリアムは回答欄に「・」や「:」といった記号を書き加えた。

試験が終わって少し経った頃だった。
国の研究所から迎えが来てウィリアムは連れて行かれカプセルに入った。
カプセルは卵のような不思議な形をしていた。

春の聖夜祭の日に近所に住んでいる幼馴染のドイがウィリアムを迎えに来た。
一つ年下のその女の子は肩までの髪をピョンピョンなびかせながらウィリアムの手を引いた。
「早く! もう始まるのよ」
満月の夜、タマゴを供えて蝋燭に火を灯して、みんなで一年の豊作を祈った。
そのタマゴがコロコロと転がって落ちた。
しかしペシャリとひしゃげる直前に地面がグラグラと揺れ、地に亀裂が走り、割れた大地の隙間から蒸気が吹き出した。
(タマゴ!)
しかし見失ってしまった。
タマゴも自身も吹き上げられ宙を舞ったからだ。
そしてそのまま落下し、水中に潜りゆっくりと沈んでいった。
あるのはこの現象を眺める意識だけで、抗う術もなくのまれながら下へ下へ、暗い水底へとぐんぐん落ちていった。

底には闇が広がっていたが恐怖はなかった。
闇の先にはいつも光があったからだ。
蝋燭の明かり、ガス灯、電灯、そしてどんなに真っ暗な夜でも必ず光差す朝はやって来た。
しかしここにはいつまでもいつまでも暗闇しかなかった。
目に見えるものがなく、きこえる音もなく、前後左右上下の感覚もなくなった。

長い時が過ぎた。
感覚を失い、起きているのか眠っているのか、目を開いているのか閉じているのか、判断がつかなくなっていた。

いつまでそうしていただろう、あるときポッと点が現れた。
次の瞬間その小さな点が爆発し種が溢れた。
混沌と混濁が空間を満たし、なにものもそれに抗うことはできず、すべてがプログラムの意思に身をゆだね、流れに身を任せた。

目の前に何かがいた。
見覚えのあるそれはジッと動かなかった。
(ウロコ?)
海底には大きな蛇がいた。
それは世界の端から端までをぐるりと一周し、取り巻いていた。
鋭い目が開かれた。
蛇は頭をもたげてゆっくりと上昇していった。
それは大きな柱となり天高く伸びていった。
その先には太陽があり、光が降りそそぎ、影が降りてきた。
一人の女性だった。
やわらかな笑みをたたえ、背丈ほどもある大きな杖を使い、世界をかき回しはじめた。
するとグルグルと渦を巻いたその中心にひとつの塊ができた。
そこに吸い込まれて地下の洞窟に降り立つと、中にはたくさんの人が同じ方向を向いて立ち並び、ひしめいていた。
と、そのとき一人だけクルリと逆を向いた顔があった。
その者は自分を見つけ、こちらを見据えたまま向かってきた。
とっさに瞳を閉じようと意識に力をこめるとポツリと点が落ちた。
すべてを収束させる、小さな小さな空白だった。
それは徐々に大きな丸になり、広がって、やがてすべてをのみ込んでいった。

――サラサラと音がした。
閉ざされた視界の中で突然風を感じ、髪がなびいているのがわかった。
それとともに緑の匂いもした。
瞼があることに気がついてゆっくりとそれを開けると、少し強い風に揺すられて鳴る葉擦れの音の満ちる小道に立っていた。
(いい天気だ)
近くを流れる川は日にきらめき、心地よい水音を立てていた。
ひだまりの中を歩いていくと楽しそうにさえずる鳥の鳴き声もきこえてきた。
ふと見上げた木の枝にどこからかやって来た鳥がちょうどとまった。
(カササギかな)
鳥はギャギャギャとひと声鳴くと一呼吸おいて今度は続けざまに何度も声を上げはじめた。
その声はしだいに大きくなり、金属音に似た響きに変わった。
空には暗雲がたちこめ、閃光と雷鳴とともに激しく雨が降りだした。
どこかに雨宿りをしようと駆けだしたそのとき、突然地面が消えて、ポッカリと開いた黒い穴に吸い込まれた。
(落ちてばかりだなあ)
衝撃はなく、気がつくと真っ白な部屋に横たわっていた。
光が満ち満ちて溢れんばかりだった。
(眩しい)
コンコン
突然どこからか音がした。
(これは何の音だろう? 部屋を叩く音、訪問者?)
目を動かして辺りをよく見ると、少し離れた所にノブのついたドアがあった。
音はそのドアの外からきこえてきた。
起き上がって近くに行きたいのに動けない。
カンカン
先ほどの軽く明るい響きから金属音に変わった。
(誰?)
カンカンガンガン、ガンッ
次第に音は大きくなりまた響きが変化した。
勢いも増した。
(違う、これは)
ガンッ ガンッ
リズムはゆっくりと、それだけ力強さが増していった。
バンッ
ドアが揺れ、打ち破るような激しさにゾワリと冷たいものが走った。
(侵略者だ!)
「やめて!」
そう叫ぶと音は止み、世界は色づきはじめた。