ヤマトタケル様は無事岸に渡ることが出来ましたが、幾日か魂がお抜けになったかのように日が昇り沈むまで、ずっと来た海を眺めておいででした。私がいつか戻ってこないものか。……戻ってこないにしろ、遺体をこの手に抱けぬものか。私の願望や妄想でなく、確かにそう考えて下さってのことだったのです。嬉しく思いましたが、そう言ってばかりはいられません。従者の方の声も最低限の反応しかおみせにならないのです。食事も睡眠も満足にとられず、そんな状態で1日潮風に当たっておられるのですからこのままでは衰弱してしまいます。しかし、ヤマトタケル様の元に私の身体をやろうとも、身体は既に常世国にありましたので、私が手に入れた神としての力を持ってしても叶いません。ただ、狼狽える神と、消沈する人を哀れに思ってか、神が慈悲を下さいました。一つ気泡と共に浮上するものがあったのです。私の櫛です。櫛には神代より霊力または魂が宿るもの。黄泉比良坂にてイザナミノミコトが仕向けたヨモツシコメやヨモツイクサにイザナギノミコトが追われたときも、今にも八岐の大蛇に差し出される羽目になりそうだったクシナダヒメがスサノオノミコトに救われたときも、櫛というものは大いなる力を発揮してきたものです。
これは良い形見になると、私はその櫛をヤマトタケル様の手元に届くよう風を操り、海面を揺らしたのです。ヤマトタケル様は流れてくる櫛に気づかれた瞬間波間を割って海に入り、泳いでその櫛を手に取られたのです。
「これは……違いない、オトタチバナの……あぁっ!!」
ヤマトタケル様はその後、神々に対して恐れ畏む気持ちを忘れてしまいました。
そして伊吹山の白猪神の毒にあてられ、一人ジワリジワリと身体を蝕まれながら、足が三重に曲がり歩けなくなってしまいました。
私は必死に、少しでも毒のまわりを遅らせようとしましたが、ヤマトタケル様の容態が変わることはありませんでした。
「オトタチバナ……オトタチバナ、いるのか。」
ヤマトタケル様は息も絶え絶えに、私の名をお呼びになりました。
「もしも神となり、我を守ろうと四苦八苦してくれておるのなら、もう良い。どうか、もう、そなたの側に行かせてくれ」
「オトタチバナだけではない。父上にも、ヤマトヒメ様にも、昔は仲の良かった大碓命兄様にも、ミヤズヒメにも、民にも、我はあいたい。あいたいぞ……。」
しかし、ヤマトタケル様はそう言いながら山の麓に向かうでなく、登っておられました。このとき既にもう上や下やの感覚が無くなっておいででしたのです。ただ、ヤマトタケル様の思う大和国の方向へおぼつかない足取りを向かわせていたのです。
「大和国へ帰りたい……、皆がおる、大和国へ……」
そう言って、足を何とかあげたヤマトタケル様の眼に映ったのは、山頂で開けた先の美しい山々でした。遠くには大和国も見えます。
「大和は 国のまほろば たたなずく 青垣山隠れる 倭しうるわし」
――大和国は国ぐにの中心をなす すぐれてことに美しい国 かさなりめぐる山やまは さながら青い垣のよう その山脈にまもられた 大和よ美しい わがふるさとよ――
そう涙をポロポロ流しながら仰られました。
なんと麗しく哀しい歌でしょうか。その声を持って紡がれる全ての音が私にとって心地よいものでしたが、その歌は格別でした。
そうして暫くの間じっと、故郷を眺めておられたヤマトタケル様はその内立ってもいられなくなり、一つの巨木にドサリともたれかかりズルズルと腰をおろしたのでございます。
ゲホ、ゲホと咳を手で押さえてみれば、ヤマトタケル様の掌には血がついておりました。
「命の 全けむ人は たたみこも 平群の山の くまかしが葉を 髻華(うず)に挿せ その子」
――おまえたち ともにたたかってきたものよ 命あって大和国に帰ることができたら 平群の山の 美しい樫の葉を頭にかざし 楽しくいわってくれ 楽しく生きてくれ かわいい家来よ――
それは長らく苦労をともにした従者の方へ向けての言葉の花束でした。
「ゲホ、ゴホッ」
「……愛しけやし 我家の方よ 雲居立ち来も」
――なつかしい大和の 我の家のあたりから もくもくと雲が立ちはじめた――
そこまで歌われて、もう座ってもいられずヤマトタケル様はコテン、と横に倒れられました。もう見ていられません。見ていられませんが、彼の最期を見とれるのは私だけです。大和国のもっとも強き夫を看取るのは、私の役目なのだ、と勝手にそう思っていました。
「をとめの 床の辺に 我が置きし 剣の太刀 その太刀はや」
――ミヤズヒメのもとに 我がおいてきた太刀よ 大切な太刀よ どうなっただろうか あの太刀は――
「……頭が、ぐわんぐわんする。死ぬのか、一人で死ぬのか。大和国のもっとも強き者は一人で死ぬのか。人間は結局生まれてから死ぬまで真の意味では一人なのか。誰か、誰か、ぎゅっとしてくれ……………………」
こうしてヤマトタケル様は薨去されました。
最後まであまり神を信じられない方でした。私はこうして、ずっと抱きしめていましたけれど、見えないものはヤマトタケル様にとって、無いも同然なのでした。こんなに近くにいて、よもや触れてまでいますが、ヤマトタケル様がオウスノミコト様であった頃、狩りに行かれる御姿をじっと見ていたあの時と同じような気持ちになりました。
ですから、彼は神になれるだけのお力がおありになりますのに、神にはなられませんでした。精神的にしろ物理的にしろ幾度もたぎたぎしい道を行かれたヤマトタケル様、彼はそういったものから開放されたかったのでしょう。ヤマトタケル様の魂は一点の汚れも無い麗しい白鳥となり、大空に舞い上がったのです。
これは良い形見になると、私はその櫛をヤマトタケル様の手元に届くよう風を操り、海面を揺らしたのです。ヤマトタケル様は流れてくる櫛に気づかれた瞬間波間を割って海に入り、泳いでその櫛を手に取られたのです。
「これは……違いない、オトタチバナの……あぁっ!!」
ヤマトタケル様はその後、神々に対して恐れ畏む気持ちを忘れてしまいました。
そして伊吹山の白猪神の毒にあてられ、一人ジワリジワリと身体を蝕まれながら、足が三重に曲がり歩けなくなってしまいました。
私は必死に、少しでも毒のまわりを遅らせようとしましたが、ヤマトタケル様の容態が変わることはありませんでした。
「オトタチバナ……オトタチバナ、いるのか。」
ヤマトタケル様は息も絶え絶えに、私の名をお呼びになりました。
「もしも神となり、我を守ろうと四苦八苦してくれておるのなら、もう良い。どうか、もう、そなたの側に行かせてくれ」
「オトタチバナだけではない。父上にも、ヤマトヒメ様にも、昔は仲の良かった大碓命兄様にも、ミヤズヒメにも、民にも、我はあいたい。あいたいぞ……。」
しかし、ヤマトタケル様はそう言いながら山の麓に向かうでなく、登っておられました。このとき既にもう上や下やの感覚が無くなっておいででしたのです。ただ、ヤマトタケル様の思う大和国の方向へおぼつかない足取りを向かわせていたのです。
「大和国へ帰りたい……、皆がおる、大和国へ……」
そう言って、足を何とかあげたヤマトタケル様の眼に映ったのは、山頂で開けた先の美しい山々でした。遠くには大和国も見えます。
「大和は 国のまほろば たたなずく 青垣山隠れる 倭しうるわし」
――大和国は国ぐにの中心をなす すぐれてことに美しい国 かさなりめぐる山やまは さながら青い垣のよう その山脈にまもられた 大和よ美しい わがふるさとよ――
そう涙をポロポロ流しながら仰られました。
なんと麗しく哀しい歌でしょうか。その声を持って紡がれる全ての音が私にとって心地よいものでしたが、その歌は格別でした。
そうして暫くの間じっと、故郷を眺めておられたヤマトタケル様はその内立ってもいられなくなり、一つの巨木にドサリともたれかかりズルズルと腰をおろしたのでございます。
ゲホ、ゲホと咳を手で押さえてみれば、ヤマトタケル様の掌には血がついておりました。
「命の 全けむ人は たたみこも 平群の山の くまかしが葉を 髻華(うず)に挿せ その子」
――おまえたち ともにたたかってきたものよ 命あって大和国に帰ることができたら 平群の山の 美しい樫の葉を頭にかざし 楽しくいわってくれ 楽しく生きてくれ かわいい家来よ――
それは長らく苦労をともにした従者の方へ向けての言葉の花束でした。
「ゲホ、ゴホッ」
「……愛しけやし 我家の方よ 雲居立ち来も」
――なつかしい大和の 我の家のあたりから もくもくと雲が立ちはじめた――
そこまで歌われて、もう座ってもいられずヤマトタケル様はコテン、と横に倒れられました。もう見ていられません。見ていられませんが、彼の最期を見とれるのは私だけです。大和国のもっとも強き夫を看取るのは、私の役目なのだ、と勝手にそう思っていました。
「をとめの 床の辺に 我が置きし 剣の太刀 その太刀はや」
――ミヤズヒメのもとに 我がおいてきた太刀よ 大切な太刀よ どうなっただろうか あの太刀は――
「……頭が、ぐわんぐわんする。死ぬのか、一人で死ぬのか。大和国のもっとも強き者は一人で死ぬのか。人間は結局生まれてから死ぬまで真の意味では一人なのか。誰か、誰か、ぎゅっとしてくれ……………………」
こうしてヤマトタケル様は薨去されました。
最後まであまり神を信じられない方でした。私はこうして、ずっと抱きしめていましたけれど、見えないものはヤマトタケル様にとって、無いも同然なのでした。こんなに近くにいて、よもや触れてまでいますが、ヤマトタケル様がオウスノミコト様であった頃、狩りに行かれる御姿をじっと見ていたあの時と同じような気持ちになりました。
ですから、彼は神になれるだけのお力がおありになりますのに、神にはなられませんでした。精神的にしろ物理的にしろ幾度もたぎたぎしい道を行かれたヤマトタケル様、彼はそういったものから開放されたかったのでしょう。ヤマトタケル様の魂は一点の汚れも無い麗しい白鳥となり、大空に舞い上がったのです。