あの日は、梅雨入り直後の土曜日の昼下がりだった。
外出先から帰宅し、ひとり昼食をとっていると、突然、地面を叩きつける雨音がした。食べ終え、空模様をしばらく確認して母の帰宅する時刻が迫ると、母の傘を手に迎えに出た。
母を待ちながらバス停の前に佇んでいた。傘を打つ雨粒のリズムを聴くうちに、鼻歌で自分の旋律を奏でていた。
「シェルブールの雨傘だね」
一瞬全身の神経が膠着して反射的に声のほうを向いた。
「ピッタリの曲だね」
こうもり傘の下から腕が伸びて、左掌で雨粒を受けながら傍へ歩み寄り、微笑みかける。横に立った少年は私より首ひとつも高かった。
私は顔が熱くなっていた。傘を少しだけ傾け、顔を隠す。
「あっ、ごめんね、ビックリさせて。僕もお気に入りの曲だったから……」
ドギマギしながら赤面したことを悟られまいと取り繕おうとして必死に声を振り絞った。が、どうしてもうまく発声できない。結局無駄な抵抗は途中で諦めて、傘の陰から少し気取って笑みを返した。
「その映画好きなの? ドヌーヴがいいね」
──映画?
少年を一瞥して目を泳がせる。映画の曲だったのか。一度ラジオから流れてきたのを聴いただけだった。
──ドヌーブって何だろう?
「ぼく、サトウイチロウっていいます」
傘の陰から見え隠れする少年の顔を、幾分うつむいたまま上目遣いでまた一瞥してすぐに視線を落とした。少年の声は甲高くはなく、声変わりの途中なのか少し掠れているようだった。なのに、淀みなどなく、乾いた砂地に雨垂れが緩やかな一筋の流れを形成するように、優しく私の鼓膜へと浸み込んだ。
「わ、わたし、石川弘美といいます」
慌てて自己紹介をして、軽くお辞儀をする。顔を上げながら、少年の足元から順番に服装が目に焼きついた。白のスニーカー、ブルージーンズ、純白のTシャツ。若干大人びた感じで私よりも年上に思えた。清潔感にあふれていた。白や青というのはそう感じさせる色なんだと私の思考にはすり込まれている。実際、少年のTシャツからは洗剤の匂いしかしなかった。汗臭さは微塵もなく、少年が動く度に仄かなシャンプーの爽やかな香も漂ってくる。気が遠くなるかのようにシルエットはぼやけ、一層顔が熱くなる。
ひと通りの儀礼を済ませて目の焦点を戻しながらまた下を向く。表情を悟られまいと必死に赤い傘で身をやつした。傘の色が保護色になってくれることを期待する。相手の視線を酷く意識しながら身を強張らせ、思わず唾を飲み込んだ。
「君、どこの学校なの?」
「わたし、玉川小学校です」
嫌味な印象を植えつけまい、と仕種と声音で己自身を純白に装った。
「何年生?」
「六年です」
少年は急に体ごとこちらに向き直り、まっすぐ私を見た。私ときたら、足は車道を向いたまま時折上半身をほんの少しだけ相手に向けるだけで、決して面と向かって対することはできないでいた。
「同じ学校だったんだね。ぼく、六年一組なんだ。君は?」
私は大きく目を見開いて、視線を辛うじて左斜め上方の少年の顔に向けて固まってしまった。すぐには声が出なかった。同い年だとわかって少しだけ気分は楽にはなっていた。早速小さくため息をついて気を取り直し、質問に対する答えを用意する。
「三組」
今度は『です』『ます』調はやめた。
「そうか、校舎が違うもんね」
そうなのだ。一組と二組は去年増築された新校舎で、三組から五組までが旧校舎だったのだ。だからこの少年に見覚えがないのも当然なんだと一瞬思ったが、すぐにおかしいと気づいた。
「でも、あなたのこと見かけたことないんだけど……全校朝礼のときにも。転校生?」
「そう、先月、転校してきたんだ」
「そうなの」
「でもね、一年生のときはこの学校にいたんだよ」
「そうなの! 何組だった? わたし、五組だったけど……」
「四組だよ」
「隣の教室だったの?」
記憶の片隅から少年の面影をさがしてみる。ひと欠片も転がってない。
「覚えてなくて当然かも。今よりずっとチビで全然目立たなかったから……」
私の悩む表情を見て悟ったらしく、すぐに返答してくれた。
「ごめんなさい……」
「父の仕事の都合でね、いったりきたりさ。ホント嫌になるよ」
そう言い放ったときの表情の崩れ様とぐったり肩を落とす仕種が余りにも大袈裟で、それが何とも滑稽だった。思わず声を出して笑ってしまった。気づけばいつしか私もまっすぐに少年と向かい合っていた。
「そうなの?」
快活に聞き返した直後、少し自分にがっかりした。肯定するときも、質問するときも『そうなの』のひと言しか出ない稚拙さに腹が立った。
「そして、また明日にはここを離れるんだよ」
少年は大きくため息をつくと、残念そうに首を横に振る仕種をした。
「転校してきたばかりなのに?」
転校の経験がない私は少し驚いて語気を強めた。
「うん。友達と別れるのは辛いなあ」
「友達作る暇もないんじゃないの?」
「普通はね。こんなに頻繁だと、そうかもね。でも一年のときからの友達がぼくにはいるしね」
「ああ、そうね……」
同情のトーンで頷いてみせる。
私には友達が大勢いる。入学して以来努めて友達作りに励んできたから。仲のいい友達と離ればなれになるなんて想像もできないし、自分には耐えられそうにない。きっと泣き暮らすだろう。
「それで、今度はどこに転校するの?」
「アメリカ」
「外国の?」
真顔で聞き返した。しまった、と苦笑いでごまかす。
少年も今の私の表情を見て、唇を緩めた。それは嫌味っぽい笑みではなく、私に対しての礼儀をわきまえた優しさにあふれていた。この目が捉えた少年の色彩が心に塗り重ねられる。しっとりと濡れたまま織り成す暖色に、乾いた我が胸は潤った。
初めてだ。男の子が自分に対してこんな表情や仕種を見せるなんて。女の子にこんな思いやりを示す男子など皆無だった。せいぜい照れ隠しにおどけたり馬鹿な顔するだけだ。少しばかり憧れの眼差しを向けていたクラスメイトの男の子だってそうだ。今、突然その子の顔が浮かんだ。大層幼い印象が、私の心からその面影を弾き飛ばしてしまった。
──サトウイチロウ……
そう、今、目の前に立っている人物の名だ。私の目はいつしかサトウイチロウに釘づけになっていた。そしたらお互いの視線が直線上に結ばれた。一瞬息が止まり、慌てて二度続けて息を吸い込んだ。喉が鳴り、ヒクヒクと小さく胸がけいれんを起こした。
彼も察してくれたらしく、笑顔のまま静かに視線を自らの足元に落とした。
「遠いよねえ……」
彼の声が私の耳に余韻を残して周りの空気に溶け込んで消えた。「遠いよねえ……」頭の中に何度も木霊する。
しばらく沈黙が続いた。ほんの十数秒だったに違いない。だが、こんなときはかなり長い時間に感じるものなのだ。とても耐え切れずに私は口を開いた。
「いつまで? いつ、戻るの?」
「たぶん、大学まで向こうだと思う」
彼は私に顔を向けると、ゆっくりと首を横に振る。
「そうなの……」
しっかり発音したつもりが、声は口元だけに漂うばかりだった。自分に納得させるだけの儀式に過ぎなかった。
ぼんやりと想像してみる。大学までということは、今から十年も先。二十二歳までということになる。それまで、一度も会えないのだろうか。二人はこのまま一生会えないで終わるってこともあり得るのだ、今日を限りに。
──何て残酷なんだろう!
──出会ったばかりなのに!
何者かが冷たい手を胸の深部に突っ込み、鷲づかみに体温を奪い去ろうとする。何とか声を発して抵抗を試みるものの叶わず、さっきまで温かな潤いを保っていた胸は凍てつき、鈍痛が走る。着氷した心は重みに萎れ、引きずられるように伏目がちに私の視線も自ずと地面に吸い込まれた。
二人の間に長い沈黙が訪れた。話しかけたくても喉元は相変わらず凍えてばかりで通り道は細く塞がれ、ひと言も循環できない。
沈黙を破ったのはイチロウだった。それをきっかけに、言葉は少しずつだが解され、私のほうも次第に話題が広がってゆき、私たちは色々なことを話した。永遠に会えないと思ったら、恥ずかしさと臆病は大胆さと勇気に変わった。何を話したのか、全く記憶にない。ただ、胸の奥がむず痒さを伴って痛く、それが幸福感を誘うものなんだと魂に刻まれている。
夢そのものだった。同い年の異性とあれほど真剣に語り合ったことは初めてだったし、自分も彼によって大人へと一歩引き上げられた気がする。今でも疑わない。自分を大人にしてくれるのは、親でも同性の友人でもない。異性だけが良きにつけ、悪しきにつけ、高みへと導いてくれるのだと。
私たち、少なくとも私は夢中だった。語り合う二人の間にも時は流れる。気づけば一時間以上も経っていた。その間、数台のバスが通り過ぎた。雨もいつしかやみ、雲間から日も差していた。路面に落ちた二人の長い影が夕刻を告げている。
お互いどちらからともなく傘を畳んだ。彼は私を見る。夕日を正面から浴びた彼の瞳がさざ波の反射のように煌いて眩しく、凍てついた胸は解氷され再び濡れ始めた。温もりは緩やかに全身を巡り、この眼までをも潤ませる。魂は彼の瞳の奥底に溶け込んだ。
三度の沈黙が訪れた。今度は視線を決して逸らさずにまっすぐ彼の目を見つめた。彼も唇に笑みをたたえたまま、瞳には私の姿がくっきりと映し出されていた。
「もういかないと……」
甘美な声だった。だが、その声に私はこちらの世界へと引き戻された。
「そう、なの……?」
私は悟った。夢から覚めるときがきたのだ。
「ねえ、それ、僕にくれない?」
彼は軽く頷いたあとで、目を輝かせた。急に、私の髪に手を伸ばしかけたが、途中でやめ、自分の後ろ髪を束ねる振りをしてから私の後頭部を指差した。そしてジーンズのポケットから鍵を取り出すと、自分の目線の高さに摘まみ上げた。
「これと交換しよう?」
ずいぶんと古めかしい鍵だった。時代劇に出てきそうな錠前の鍵みたいな。それとも洋館の鍵なのか。たぶんそうだ。大邸宅なんだ。外国にゆくんだもの、そうに決まってるわ。
「カギ? でも……」
私は口ごもる。
「大丈夫。もう戻らないし……」
そうか。やっぱりその家には帰らないんだ、永遠に。私は勝手に大邸宅だと決めつけた。
私は大きく頷くと、髪を束ねていた輪ゴムに赤い二つの玉のついた髪留めを急いで外し、彼と同じように自分の目線に掲げた。目配せして、ほぼ同時にお互いの贈り物を相手に差し出す。私の掌にズシリとした重みが伝わった。
「記念ね」
「そう。二人が初めて出会った記念だよ」
──初めての出会い……
私は彼の言葉に酔った。
私たちはもう一度記念品をお互いの目線に掲げると、見つめ合い笑った。突然、彼の視線が私を飛び越えて後方へ注がれた。私もその視線の先を追う。振り向くと、遠くのバスが次第に近づいていた。「来ないで!」心の中で叫びながら胸が高鳴る。急いで私は視線を彼に戻した。もうすぐ、恐らく何年も、彼の顔を見られなくなる。そう思った私の顔はどんなだったか自分では知る由もないが、胸は張り裂けんばかりに疼いた。私は胸いっぱいに息を吸い込み、言葉もろとも一気に吐き出した。
「もう、いってしまうの?」
振り絞って放った声は震えた。唇も心も怯えに共鳴した。
「また会おうね。ゼッタイに!」
力強い彼の声だった。そのとき私は悟った。彼はやっぱりこのバスに乗るんだと。私は深呼吸をして息を整え、腹部に力を込める。
「ゼッタイよ!」
バスの音が近づいてくる。私は振り向かない。一秒でも彼の顔から目を逸らすまいと思った。彼の面影を焼きつけておくのだ。
「ああ、約束だよ!」
「会いましょうね!」
「そうだ! 十年後の今日、今のこの時間に、僕はここにいるよ。必ずいるよ!」
彼の強い口調に私は思わず涙ぐんでしまった。彼はやはり静かに微笑んでいる。
バスは轟音を立てて停まった。扉が開く音が聞こえる。彼はゆっくりと私の前から消えようとした。バスに乗り込むと、ステップで一旦体ごとこちらに向き直り私を見つめる。私はどうしても声が出ない。涙で彼の顔が歪んでくる。彼は笑っているのに。私も必死に笑顔をつくろうとするが、かえって悲しさが込み上げてくる。どうすればいいのかもわからない。咄嗟に右手に握り締めていた鍵をまた掲げた。彼も同じことをしてくれた。
「忘れない。ゼッタイに……」
彼が言い終わらないうちに突然ドアが閉まって、バスは発車した。
私は彼の姿をさがした。彼は車内を移動して、走り去ろうとするバスの後部座席の窓から顔を出し、大きく手を振った。私の目から大粒の雫が止め処なく流れ落ちる。彼の手には私の髪留めの二つの赤い玉が揺らめいていた。
──十年後の今日、私もここにいる!
私は心の中で叫んだ。
*
彼が乗ったバスを見送ったあと、バスの軌跡を追いながら泣き続けていた。なぜか涙は止まらなかった。あまり人通りのない場所だったが、それでもたまに通りすがりの人に声をかけられた。首を横に振って見せるだけが精一杯で、人目も憚らず泣いたのだ。胸の奥からそこはかとなく突き上げるような、そして何かに押し潰されるような痛みに似たもの。それが何なのかわかるはずもなかった。泣くことでしか波のように押し寄せる初めての感情の表現をまだ知らなかったから。
そのうち母の乗ったバスが到着した。バスから降りた母は血相を変えて駆け寄ってきた。青ざめた顔で私を問いただす。私は途切れ途切れに、たった今、友達が転校していったとだけ告げた。母は納得し、私の肩を抱きかかえてくれた。そしてそのまま母と帰途に就いたのだ。
雨のあとに残ったものは、真っ赤な夕映えだった。それは悲しみの色として長らく私の意識の底に沈められたのだった。
*
数日後、ミスを犯したことに気づいた。なぜ彼の転校先の住所を聞かなかったのか、と。お互いに教え合えばよかったのに。彼がアメリカの住所をまだ知らなくても、こちらの住所と電話番号を告げてさえいれば、連絡の取りようもあるではないか。私はずいぶん後悔したものだった。そして、ひと月余りが過ぎようとしたとき、ひとつの名案が浮かんだ。一組の担任なら当然連絡先を知っているに違いない。
夏休み直前のある日の放課後、職員室を訪ねた。一組の担任の席へ進み、傍に立って一度唾を飲み込む。ひと通りの儀礼を済ませ、本題を切り出した。大勢の教員の視線が一斉に注がれる。鼓動は激しく打ち、顔に全身の血が集中し、顔面が腫れ上がった感覚に襲われた。こめかみの血管がズキズキと痛み出す。
だが、捨て身の策も結局無駄骨だった。在学中は事ある毎に、この先生の元を訪ねたが、彼からの連絡は梨の礫だった。卒業式当日、何か少しでも手掛かりがあれば教えてくれるように頼んで私は校門をあとにした。
初恋ではなかった。それはもうとっくに済ませていた。サトウイチロウは何かが違っていた。それまでの淡い恋とは明らかに何かが。それが何であったのかは、思春期を待たねばわかりはしなかった。答えを知ったとき、あれもやはり初恋だと悟ったけれど。
外出先から帰宅し、ひとり昼食をとっていると、突然、地面を叩きつける雨音がした。食べ終え、空模様をしばらく確認して母の帰宅する時刻が迫ると、母の傘を手に迎えに出た。
母を待ちながらバス停の前に佇んでいた。傘を打つ雨粒のリズムを聴くうちに、鼻歌で自分の旋律を奏でていた。
「シェルブールの雨傘だね」
一瞬全身の神経が膠着して反射的に声のほうを向いた。
「ピッタリの曲だね」
こうもり傘の下から腕が伸びて、左掌で雨粒を受けながら傍へ歩み寄り、微笑みかける。横に立った少年は私より首ひとつも高かった。
私は顔が熱くなっていた。傘を少しだけ傾け、顔を隠す。
「あっ、ごめんね、ビックリさせて。僕もお気に入りの曲だったから……」
ドギマギしながら赤面したことを悟られまいと取り繕おうとして必死に声を振り絞った。が、どうしてもうまく発声できない。結局無駄な抵抗は途中で諦めて、傘の陰から少し気取って笑みを返した。
「その映画好きなの? ドヌーヴがいいね」
──映画?
少年を一瞥して目を泳がせる。映画の曲だったのか。一度ラジオから流れてきたのを聴いただけだった。
──ドヌーブって何だろう?
「ぼく、サトウイチロウっていいます」
傘の陰から見え隠れする少年の顔を、幾分うつむいたまま上目遣いでまた一瞥してすぐに視線を落とした。少年の声は甲高くはなく、声変わりの途中なのか少し掠れているようだった。なのに、淀みなどなく、乾いた砂地に雨垂れが緩やかな一筋の流れを形成するように、優しく私の鼓膜へと浸み込んだ。
「わ、わたし、石川弘美といいます」
慌てて自己紹介をして、軽くお辞儀をする。顔を上げながら、少年の足元から順番に服装が目に焼きついた。白のスニーカー、ブルージーンズ、純白のTシャツ。若干大人びた感じで私よりも年上に思えた。清潔感にあふれていた。白や青というのはそう感じさせる色なんだと私の思考にはすり込まれている。実際、少年のTシャツからは洗剤の匂いしかしなかった。汗臭さは微塵もなく、少年が動く度に仄かなシャンプーの爽やかな香も漂ってくる。気が遠くなるかのようにシルエットはぼやけ、一層顔が熱くなる。
ひと通りの儀礼を済ませて目の焦点を戻しながらまた下を向く。表情を悟られまいと必死に赤い傘で身をやつした。傘の色が保護色になってくれることを期待する。相手の視線を酷く意識しながら身を強張らせ、思わず唾を飲み込んだ。
「君、どこの学校なの?」
「わたし、玉川小学校です」
嫌味な印象を植えつけまい、と仕種と声音で己自身を純白に装った。
「何年生?」
「六年です」
少年は急に体ごとこちらに向き直り、まっすぐ私を見た。私ときたら、足は車道を向いたまま時折上半身をほんの少しだけ相手に向けるだけで、決して面と向かって対することはできないでいた。
「同じ学校だったんだね。ぼく、六年一組なんだ。君は?」
私は大きく目を見開いて、視線を辛うじて左斜め上方の少年の顔に向けて固まってしまった。すぐには声が出なかった。同い年だとわかって少しだけ気分は楽にはなっていた。早速小さくため息をついて気を取り直し、質問に対する答えを用意する。
「三組」
今度は『です』『ます』調はやめた。
「そうか、校舎が違うもんね」
そうなのだ。一組と二組は去年増築された新校舎で、三組から五組までが旧校舎だったのだ。だからこの少年に見覚えがないのも当然なんだと一瞬思ったが、すぐにおかしいと気づいた。
「でも、あなたのこと見かけたことないんだけど……全校朝礼のときにも。転校生?」
「そう、先月、転校してきたんだ」
「そうなの」
「でもね、一年生のときはこの学校にいたんだよ」
「そうなの! 何組だった? わたし、五組だったけど……」
「四組だよ」
「隣の教室だったの?」
記憶の片隅から少年の面影をさがしてみる。ひと欠片も転がってない。
「覚えてなくて当然かも。今よりずっとチビで全然目立たなかったから……」
私の悩む表情を見て悟ったらしく、すぐに返答してくれた。
「ごめんなさい……」
「父の仕事の都合でね、いったりきたりさ。ホント嫌になるよ」
そう言い放ったときの表情の崩れ様とぐったり肩を落とす仕種が余りにも大袈裟で、それが何とも滑稽だった。思わず声を出して笑ってしまった。気づけばいつしか私もまっすぐに少年と向かい合っていた。
「そうなの?」
快活に聞き返した直後、少し自分にがっかりした。肯定するときも、質問するときも『そうなの』のひと言しか出ない稚拙さに腹が立った。
「そして、また明日にはここを離れるんだよ」
少年は大きくため息をつくと、残念そうに首を横に振る仕種をした。
「転校してきたばかりなのに?」
転校の経験がない私は少し驚いて語気を強めた。
「うん。友達と別れるのは辛いなあ」
「友達作る暇もないんじゃないの?」
「普通はね。こんなに頻繁だと、そうかもね。でも一年のときからの友達がぼくにはいるしね」
「ああ、そうね……」
同情のトーンで頷いてみせる。
私には友達が大勢いる。入学して以来努めて友達作りに励んできたから。仲のいい友達と離ればなれになるなんて想像もできないし、自分には耐えられそうにない。きっと泣き暮らすだろう。
「それで、今度はどこに転校するの?」
「アメリカ」
「外国の?」
真顔で聞き返した。しまった、と苦笑いでごまかす。
少年も今の私の表情を見て、唇を緩めた。それは嫌味っぽい笑みではなく、私に対しての礼儀をわきまえた優しさにあふれていた。この目が捉えた少年の色彩が心に塗り重ねられる。しっとりと濡れたまま織り成す暖色に、乾いた我が胸は潤った。
初めてだ。男の子が自分に対してこんな表情や仕種を見せるなんて。女の子にこんな思いやりを示す男子など皆無だった。せいぜい照れ隠しにおどけたり馬鹿な顔するだけだ。少しばかり憧れの眼差しを向けていたクラスメイトの男の子だってそうだ。今、突然その子の顔が浮かんだ。大層幼い印象が、私の心からその面影を弾き飛ばしてしまった。
──サトウイチロウ……
そう、今、目の前に立っている人物の名だ。私の目はいつしかサトウイチロウに釘づけになっていた。そしたらお互いの視線が直線上に結ばれた。一瞬息が止まり、慌てて二度続けて息を吸い込んだ。喉が鳴り、ヒクヒクと小さく胸がけいれんを起こした。
彼も察してくれたらしく、笑顔のまま静かに視線を自らの足元に落とした。
「遠いよねえ……」
彼の声が私の耳に余韻を残して周りの空気に溶け込んで消えた。「遠いよねえ……」頭の中に何度も木霊する。
しばらく沈黙が続いた。ほんの十数秒だったに違いない。だが、こんなときはかなり長い時間に感じるものなのだ。とても耐え切れずに私は口を開いた。
「いつまで? いつ、戻るの?」
「たぶん、大学まで向こうだと思う」
彼は私に顔を向けると、ゆっくりと首を横に振る。
「そうなの……」
しっかり発音したつもりが、声は口元だけに漂うばかりだった。自分に納得させるだけの儀式に過ぎなかった。
ぼんやりと想像してみる。大学までということは、今から十年も先。二十二歳までということになる。それまで、一度も会えないのだろうか。二人はこのまま一生会えないで終わるってこともあり得るのだ、今日を限りに。
──何て残酷なんだろう!
──出会ったばかりなのに!
何者かが冷たい手を胸の深部に突っ込み、鷲づかみに体温を奪い去ろうとする。何とか声を発して抵抗を試みるものの叶わず、さっきまで温かな潤いを保っていた胸は凍てつき、鈍痛が走る。着氷した心は重みに萎れ、引きずられるように伏目がちに私の視線も自ずと地面に吸い込まれた。
二人の間に長い沈黙が訪れた。話しかけたくても喉元は相変わらず凍えてばかりで通り道は細く塞がれ、ひと言も循環できない。
沈黙を破ったのはイチロウだった。それをきっかけに、言葉は少しずつだが解され、私のほうも次第に話題が広がってゆき、私たちは色々なことを話した。永遠に会えないと思ったら、恥ずかしさと臆病は大胆さと勇気に変わった。何を話したのか、全く記憶にない。ただ、胸の奥がむず痒さを伴って痛く、それが幸福感を誘うものなんだと魂に刻まれている。
夢そのものだった。同い年の異性とあれほど真剣に語り合ったことは初めてだったし、自分も彼によって大人へと一歩引き上げられた気がする。今でも疑わない。自分を大人にしてくれるのは、親でも同性の友人でもない。異性だけが良きにつけ、悪しきにつけ、高みへと導いてくれるのだと。
私たち、少なくとも私は夢中だった。語り合う二人の間にも時は流れる。気づけば一時間以上も経っていた。その間、数台のバスが通り過ぎた。雨もいつしかやみ、雲間から日も差していた。路面に落ちた二人の長い影が夕刻を告げている。
お互いどちらからともなく傘を畳んだ。彼は私を見る。夕日を正面から浴びた彼の瞳がさざ波の反射のように煌いて眩しく、凍てついた胸は解氷され再び濡れ始めた。温もりは緩やかに全身を巡り、この眼までをも潤ませる。魂は彼の瞳の奥底に溶け込んだ。
三度の沈黙が訪れた。今度は視線を決して逸らさずにまっすぐ彼の目を見つめた。彼も唇に笑みをたたえたまま、瞳には私の姿がくっきりと映し出されていた。
「もういかないと……」
甘美な声だった。だが、その声に私はこちらの世界へと引き戻された。
「そう、なの……?」
私は悟った。夢から覚めるときがきたのだ。
「ねえ、それ、僕にくれない?」
彼は軽く頷いたあとで、目を輝かせた。急に、私の髪に手を伸ばしかけたが、途中でやめ、自分の後ろ髪を束ねる振りをしてから私の後頭部を指差した。そしてジーンズのポケットから鍵を取り出すと、自分の目線の高さに摘まみ上げた。
「これと交換しよう?」
ずいぶんと古めかしい鍵だった。時代劇に出てきそうな錠前の鍵みたいな。それとも洋館の鍵なのか。たぶんそうだ。大邸宅なんだ。外国にゆくんだもの、そうに決まってるわ。
「カギ? でも……」
私は口ごもる。
「大丈夫。もう戻らないし……」
そうか。やっぱりその家には帰らないんだ、永遠に。私は勝手に大邸宅だと決めつけた。
私は大きく頷くと、髪を束ねていた輪ゴムに赤い二つの玉のついた髪留めを急いで外し、彼と同じように自分の目線に掲げた。目配せして、ほぼ同時にお互いの贈り物を相手に差し出す。私の掌にズシリとした重みが伝わった。
「記念ね」
「そう。二人が初めて出会った記念だよ」
──初めての出会い……
私は彼の言葉に酔った。
私たちはもう一度記念品をお互いの目線に掲げると、見つめ合い笑った。突然、彼の視線が私を飛び越えて後方へ注がれた。私もその視線の先を追う。振り向くと、遠くのバスが次第に近づいていた。「来ないで!」心の中で叫びながら胸が高鳴る。急いで私は視線を彼に戻した。もうすぐ、恐らく何年も、彼の顔を見られなくなる。そう思った私の顔はどんなだったか自分では知る由もないが、胸は張り裂けんばかりに疼いた。私は胸いっぱいに息を吸い込み、言葉もろとも一気に吐き出した。
「もう、いってしまうの?」
振り絞って放った声は震えた。唇も心も怯えに共鳴した。
「また会おうね。ゼッタイに!」
力強い彼の声だった。そのとき私は悟った。彼はやっぱりこのバスに乗るんだと。私は深呼吸をして息を整え、腹部に力を込める。
「ゼッタイよ!」
バスの音が近づいてくる。私は振り向かない。一秒でも彼の顔から目を逸らすまいと思った。彼の面影を焼きつけておくのだ。
「ああ、約束だよ!」
「会いましょうね!」
「そうだ! 十年後の今日、今のこの時間に、僕はここにいるよ。必ずいるよ!」
彼の強い口調に私は思わず涙ぐんでしまった。彼はやはり静かに微笑んでいる。
バスは轟音を立てて停まった。扉が開く音が聞こえる。彼はゆっくりと私の前から消えようとした。バスに乗り込むと、ステップで一旦体ごとこちらに向き直り私を見つめる。私はどうしても声が出ない。涙で彼の顔が歪んでくる。彼は笑っているのに。私も必死に笑顔をつくろうとするが、かえって悲しさが込み上げてくる。どうすればいいのかもわからない。咄嗟に右手に握り締めていた鍵をまた掲げた。彼も同じことをしてくれた。
「忘れない。ゼッタイに……」
彼が言い終わらないうちに突然ドアが閉まって、バスは発車した。
私は彼の姿をさがした。彼は車内を移動して、走り去ろうとするバスの後部座席の窓から顔を出し、大きく手を振った。私の目から大粒の雫が止め処なく流れ落ちる。彼の手には私の髪留めの二つの赤い玉が揺らめいていた。
──十年後の今日、私もここにいる!
私は心の中で叫んだ。
*
彼が乗ったバスを見送ったあと、バスの軌跡を追いながら泣き続けていた。なぜか涙は止まらなかった。あまり人通りのない場所だったが、それでもたまに通りすがりの人に声をかけられた。首を横に振って見せるだけが精一杯で、人目も憚らず泣いたのだ。胸の奥からそこはかとなく突き上げるような、そして何かに押し潰されるような痛みに似たもの。それが何なのかわかるはずもなかった。泣くことでしか波のように押し寄せる初めての感情の表現をまだ知らなかったから。
そのうち母の乗ったバスが到着した。バスから降りた母は血相を変えて駆け寄ってきた。青ざめた顔で私を問いただす。私は途切れ途切れに、たった今、友達が転校していったとだけ告げた。母は納得し、私の肩を抱きかかえてくれた。そしてそのまま母と帰途に就いたのだ。
雨のあとに残ったものは、真っ赤な夕映えだった。それは悲しみの色として長らく私の意識の底に沈められたのだった。
*
数日後、ミスを犯したことに気づいた。なぜ彼の転校先の住所を聞かなかったのか、と。お互いに教え合えばよかったのに。彼がアメリカの住所をまだ知らなくても、こちらの住所と電話番号を告げてさえいれば、連絡の取りようもあるではないか。私はずいぶん後悔したものだった。そして、ひと月余りが過ぎようとしたとき、ひとつの名案が浮かんだ。一組の担任なら当然連絡先を知っているに違いない。
夏休み直前のある日の放課後、職員室を訪ねた。一組の担任の席へ進み、傍に立って一度唾を飲み込む。ひと通りの儀礼を済ませ、本題を切り出した。大勢の教員の視線が一斉に注がれる。鼓動は激しく打ち、顔に全身の血が集中し、顔面が腫れ上がった感覚に襲われた。こめかみの血管がズキズキと痛み出す。
だが、捨て身の策も結局無駄骨だった。在学中は事ある毎に、この先生の元を訪ねたが、彼からの連絡は梨の礫だった。卒業式当日、何か少しでも手掛かりがあれば教えてくれるように頼んで私は校門をあとにした。
初恋ではなかった。それはもうとっくに済ませていた。サトウイチロウは何かが違っていた。それまでの淡い恋とは明らかに何かが。それが何であったのかは、思春期を待たねばわかりはしなかった。答えを知ったとき、あれもやはり初恋だと悟ったけれど。