ぼんやりと故郷の(かばね)の上に構築された向かいのビル群を見回す。
 色同士が乱舞している。我も我もとひとつの原色が()を押し退けて争っているようにしか見えない。取り澄まし、着飾れば裏の顔は(けが)れにまみれているように思える。それがこの街の表情だ。
 自分の生まれ育った場所は当然いつまでも変わらぬものだと決めつけていた。だが、永遠などありはしないのだ。
 そっと目を閉じる。脳裏に浮かぶ風景は最早セピア色と化してしまったが、寒々しさはない。モノクロームだが、どこか温もりのある当時の風情がいい。センチメンタリズムなどと揶揄(やゆ)されようと、少なくとも寂しさはなかった。
 目を開けると、正面には、ビルの谷間から高架線が(わず)かに覗いている。数十メートル先に私鉄の駅がある。高架になって、駅は数百メートル移動してきた。沿線には徐々にマンションが建ち並び、今では商業ビルや遊興施設も駅を囲むようにひしめき合っている。昼夜を問わず賑わうようになり、眠らぬ街が完成した。これが発展なのか、といつも首を傾げたくなる。人口の増加と引きかえに、大袈裟にいえば、『慈悲』や『寛容』だとかいう感情は『我』にのみ向けられるのだろう。古きを破壊してまで折角、見映えのする利便性で包み込まれたというのに、なぜか街に漂うのは寂寥(せきりょう)感だけだ。これが都会化という意味なら、なるほどこの街には哀しい気配があふれてしまったわけだ。
 足が痛い。うつむいて足元を覗き込んだ。履き慣れないハイヒールのせいだ。今は少し後悔している。だが、誰しも背伸びしたいとき、どうしてもすべき瞬間はあるものだ。あの日から数えて今日が丁度十年目なのだから。