私たちは商店街入り口のうどん屋に入った。丁度昼時とあって込み合う店内でどうにか二人分の席を確保してかけうどんを注文した。
「こげな暑か日に、熱かうどんとは、あんた、なかなかの(つう)たいねえ」
 彼女は手扇で己の顔を扇ぎながら、博多弁を炸裂させた。
「ねえ、ちょっとお伺いいたしますが……?」
「なんね?」
「この半月、あんたのヘンテコな博多弁、耳について離れんのよ……」
「それで?」
「あんた、博多出身だっけ?」
「うんにゃ」
 彼女は大きく首を横に振る。
「それじゃ、ご両親のどちらかが……?」
「うんにゃ」
「親戚いたっけ?」
「うんにゃ」
「だったら、何で博多弁なのよ?」
「聞きたい?」
「聞きたい」
「聞く?」
「聞く」
 彼女は突如顔をクシャクシャにして両手で覆った。指の隙間から不気味な笑い声が漏れる。
「な、何なのよ、気色悪い……」
「あのね……」
 覆っていた両手で今度はテーブルに頬杖を突くと、顔を紅潮させたニヤケ妖怪が出没した。何とおどろおどろしい風貌なのだ。
 ──百年の恋も冷めるというもんだ……
 彼女は語り出した。

   *

 梅雨真っただ中の六月某日の午後、大学近くのファーストフード店に入って椅子に腰かけ、チーズバーガーをひと口かじったとき、不意に男が声をかけた。
「ここ、()いとう?」
「はい」
 何気なく答えて見上げたら、自分より明らかに長身の男性が微笑みかけ、正面に座った。同年代で大学生風の彫の深い顔つきと今の言葉遣いから直感的に九州男児だ、と彼女は決めつけた。
 彼女の胸は高鳴る。頬張った挽肉とパンとチーズの混じり合った塊が喉元をゴクリと落ち、むせ返りそうになる。慌ててコーヒーで胃袋へと導いて事なきを得る。
 彼も腰を下ろすや否や、チーズバーガーにかぶりつく。その野性味あふれる豪快な姿に見とれてしまった。両手でバーガーを握っていたことすら忘れ、体は硬直して最早動けない。
「君も、これ好き?」
 彼女を見てまた微笑むと、自分のバーガーを目線にかざしながら問う。
「好いとう……」
「君の博多弁、可愛いかねえ」
 彼の口から漏れたのは、まさしく博多弁と思い込んだ彼女は、『好きか?』と聞かれ、本来なら『はい』と答えれば済むはずなのに、どういうわけか、それでは不適切な返答に思えて、『好き』という言葉を入れて返すべきと咄嗟に判断した。可愛さを強調するため、身を縮こまらせたせいで、いつもは野太いハスキーボイスも脆弱(ぜいじゃく)となり、口先だけに声は(こも)り、『好きです』が脳ミソから口元に伝わる間に、

 『好き』+『です』
=『好き』+『どす』
=『好きぃ』+『どう』
=『好ぃ』+『どう』
=『好いとう』

といった具合に、「京都弁から博多弁へといつしか変換されてしまったようだ」なぞと、彼女は自らの学説を堂々と唱えた。
 京都とて、彼女には縁もゆかりもない地であるのに、何で“京ことば”が出てくるのよ、と『?』だらけの映像が私の脳内の領域を殆ど占領した。彼女の独創的な思考回路に感心しながら「へえ」と喉元から口先へと漏れ出たが、ただの反射に過ぎない。
 思いがけなく、『可愛い』なぞと称賛されて有頂天となった彼女は、「この人の色に染まろう」なんて健気な前時代的な乙女心から必死に博多弁のお勉強に(いそ)しんだというわけだ。いつか願いが叶うその日のために。

   *

「へえ、そんなことが……。で、その人、どこの学生?」
「わからん」
「名前は?」
「さあ……」
「向かい合って、食事したのよね?」
「うん」
「自己紹介……?」
「してない」
「あんた、バッカじゃない!」
「何で?」
「あんた、いつも私のこと、トンマってけなすくせに、私と同類じゃん! いんや、それ以下、最低! あんた、十三歳の少女か? まるで子供じゃないの! 呆れて物も言えない!」
 このときとばかりに、普段の鬱憤(うっぷん)を晴らしてやった。
「まあまあ、トキメキ過ぎちゃってさ、なーんも言えんじゃったのよ。この切ない乙女心、わかってちょ」
「わかるか! このトンマ!」
 声を荒げて(ののし)ってやる。「それで……その人のことさがしたの?」
「まだ……でも、何度か見かけた。こないだ、擦れ違ったとき、手振ってくれたんで、こっちも振り返した」
「それだけ?」
「それだけ」
「何やってんのさ! ちゃんとつかまえとかなきゃ、すぐに誰かに持ってかれるよ!」
「えっ! どうしよう……」
 彼女の顔に動揺の色が差した。
「よっしゃ、今度、私もつき合ってあげる。見届けてあげるわよ、あんたの恋路を」
 私の好奇心が(うず)き出した。
「ええーっ! ちょっと恥ずかしい。フラれたらどうしよう。見られたくない」
「へえ、いざとなったら、とんだ臆病風が吹くのね。いつもは自信たっぷりに私の世話焼いてくれてるくせに」
「まあまあ、あれは私の趣味みたいなものだから……」
「趣味……だと?」
「そう。あんたは私を飽きさせないから」
「チェッ! 何て失礼な! やっぱ、あんたって『いけ好かねえ』ヤツだわ」
「お()めの言葉、痛み入り(たてまつ)りまする。あんがとさん」
「あーあ、あんたにも、とうとうロマンスの兆候が訪れたんだね?」
「うん」
「まあ、チョットだけ安心したけど……その恋、叶うといいね」
「うん。ウッシッシッ……恥ずかしかー!」
 彼女はまた両手で顔を覆った。耳まで真っ赤だ。
 心からこの恋の成就を祈るばかりだ。
「ところで……モンチッチ君はどうすんの?」
「何で?」
「あんた、(いま)だに気づいてないの?」
「何を気づくんだ?」
「モンチッチ君の恋心」
「あいつ、恋してんのか! やっと、あいつも誰かに恋する年頃になったか。子供だとばかり思っていたが、大人になったもんだぜまったくよお。応援してやろうじゃねえか、な?」
「彼の六年越しの純情も報われないのか……ご愁傷様」
 私は心の中でそっと両手を合わせて(とむら)ってやった。
 二人の前に丼が置かれると、彼女はワリバシを割って(すす)り始める。無邪気な幸福そうな面持ちである。