月曜の放課後、軽音部の部室である多目的室の中には、息が苦しくなるほど重い空気が漂っていた。
 昼休みに久郎君から「今日の放課後、部室に来てくれ」と呼ばれたものの、部室には私と久郎君しか居ない。よく聞けば、今日は軽音部は活動日ではないらしく、誰も来ないとのことだった。

 じゃあ、何のために私は呼び出されたんだろう……?

 そんな問いを気軽に投げかけることが出来ないのは、仁王立ちした久郎君がずっと私に鋭い視線を投げかけているからだ。
 そういえば今日は昼に声を掛けられた時から様子がおかしかった。
 ようやく久郎君が重い口を開いたのは、気まずい沈黙の時間が十分ほど続いてからのことだった。

「萌奈、お守りはどうしたんだ」
「えっ」
「いつも鞄に付いてたビーズのストラップだよ、俺とお揃いだって言ってただろ。なんで今日は付いてないんだよ」
「えっとそれは……土曜に落としちゃって……」
「『落とした』だと?」
「違うの! 大切にしてなかったわけじゃなくて、その……ライブハウスに行った時にどこかで落としたんだと思う」
「俺に嘘をつくのか」
「嘘じゃないよ!」

 久郎君はしばらく黙っていたが、大きく息をついて、意を決したように低く唸った。
 
「……今朝、あのお守りを木屋が持ってるのを見た。お前が渡したんだろ。前に俺にそうしたように」
「えっ」
「俺は、あの時屋上でアレをもらった時めちゃくちゃ嬉しかったんだよ。こんな俺でも特別気に掛けてくれる人が居たんだって舞い上がった。でも思い違いだったんだな。萌奈は可哀想な人に施すのが好きなだけだったのを、俺が勘違いしたってことか。馬鹿みてえ」
「そんな、違う! 誤解だよ!」
「じゃあ何だ? 手作りのビーズ飾りと全く同じものを偶然木屋も作ったって言いたいのか? そんなわけねえだろ。じゃあお前の分はどこにあるんだよ。俺はさっきからそれを聞いてんだ」
「それは……」

 人が変わったように荒れ狂う久郎君に、私は何も言う事ができなかった。
 私、久郎君が怖い。
 何か大きなすれ違いがあるようなのに、絡まった糸をどうやったらほどけるのか全くイメージできない。
 何も言えない私を見て、久郎君はそれを肯定と受け取ってしまったらしかった。
 荒っぽくギターケースを持ち上げると、
「もううんざりだ! こんなもの!」
 叫ぶと同時に、ギターケースのビーズ飾りを力一杯引きちぎった。ビーズはバラバラになって空中に飛び散り、一粒一粒がスローモーションみたいに窓からの夕日を受けてキラキラと反射した。
 ショックのあまり泣くこともできない私の代わりに涙となってこぼれ落ちていくかのようだった。
「ひどいよ、久郎君……」
 
 その時、多目的室のドアが音を立てて開き、真理亜と藍吾君が飛び込んできた。
「どうしたの?! 怒鳴り声が聞こえたよ?」
 真っ青な私の顔を見た真理亜は即座に異常を察したらしく、私に駆けよってくれた。藍吾君は私と久郎の顔、そして飛び散ったビーズを見比べる。
「何かあったようだね」

 久郎君はビーズの残骸が残ったままのギターケースを机に叩きつけ、吐き捨てた。

「自分の目で見たものを信じることにしたんだよ」
「何を信じるって?」藍吾君が静かに尋ねる。
「萌奈が、木屋と浮気してるってことをだよ」
「小瀬、あんた何を言ってるの?」真理亜の声はほとんど泣いているみたいだった。
 久郎君はそんなことに気も留めず、額に手を当てて苦しそうに呻いた。
 
「木屋がお守りを持ってたんだ。萌奈が渡したんだ。それしか考えられない」

 誰も何も言わなかった。真理亜が息を飲む音だけが、部屋の中に響いた。
 
 沈黙を破ったのは真理亜だった。
「違う! 小瀬あんた誤解してる! だってビーズなら私が拾って返したはずでしょ!」
「えっ」私は思わず叫ぶ。「返してもらってないよ!」
「嘘?!」
 真理亜は私の言葉にハッとして、
「だって、だって! あの日の帰りに私が萌奈が落としたストラップを拾って、それを『返しておくよ』って言われて預けたはず……」
 そう言って振り返った先には――
「うん、預かったね」
 ――藍吾君がいつも通りの優しい微笑みを浮かべていた。

「じゃあなんでそれを木屋が持ってたんだよ」
「そんなの、僕が木屋に渡したからに決まってるじゃないか」
 藍吾君はさも当然といった風に、久郎君の隣に腰掛け肩に手を回した。表情こそいつもの藍吾君だが、その様子はまるで化けの皮が剥がれたような、意地の悪さが滲み出たものだった。優しい藍吾君の激変ぶりに、私と真理亜は揃って息をのむ。久郎君もショックを受けたように硬直して、首だけを藍吾君の方に向け引く唸るような声を絞り出した。
 
「じゃあ……萌奈が木屋と浮気してるって話はお前の嘘か」
「今頃気づいたの? 次期生徒会長がそんな事で大丈夫?」
「なんでそんなくだらない事したんだよ」久郎君の声は怒りに満ちていたが、その表情は泣き出す寸前のようだった。
「面白半分とか答えたらぶっ飛ばすからな」
「面白半分だって? 馬鹿にするなよ」
 藍吾君の表情がさっと怒りに満ちたものに変わった。その迫力に私の背筋も寒くなる。
「入学してからお前らが好き勝手な事やってた間、僕がどれだけ努力してきたか分かる? 成績も上げて、楽しくもない委員会に入って、軽音部の悪評に弁明して回って。それがいざ二年に上がったらこれだよ。暴君の小瀬は彼女にほだされて改心しちゃってさ、木屋と二人で『俺たち学校の人気者でござい』って顔しちゃって。そんなの都合が良すぎるよ」
「木屋が第二高と喧嘩した時のもお前が唆したのか。あいつ怪我までしたんだぞ」
「木屋が単純なんだよ。ちょっと揉めてくれたらそれでよかったのに、殴りかかっちゃうんだから」
「藍吾……俺はお前の事信頼してたんだぜ。それなのに、なんでこんな事」
「僕は、君たちの引き立て役じゃないんだ」
「クソっ!」
 久郎君はギターケースを床に叩きつけようとして――飛び散ったビーズに気がついて、ガックリと肩を落とした。
「……もう何も信じられねえよ」
 そして、誰とも視線を合わせる事なく部屋を出て行った。

 音楽室には私と真理亜、そして藍吾君が残された。
「飯井君……どうして」
「理由はもう説明した通りだよ。でも、こんな暴露大会になる予定じゃなかった。全然気分が晴れないや」
 藍吾君はひょいと楽器ケースを担ぐと、飛び散ったビーズをざっとかき集め、私に手渡した。

「追いなよ。今なら間に合うさ。僕ひとりが悪者なんだから、俺が消えればめでたしめでたし。これがおとぎ話なら『本当の愛に気付いた二人は、それから幸せに暮らしましたとさ』でハッピーエンドだ」
「でも……」
「伊豆出さんは優しいね。でも、その優しさを誰にでも向けちゃ駄目だ。本当に大切な人が誰なのかよく考えな。答えは自分で出すんだ」

 藍吾君の行いは確かに悪い。だけど、努力が報われない辛さは私にもわかる。受験に失敗した時と同じ胸の痛みが、思い出したように私の心を圧迫した。
 それでも、私が寄り添うべき人は――
 
「ごめん、藍吾君」
「君が謝る事じゃないよ」
 そう言って、藍吾君はくるりと背を向けた。もう話すことはないという意思表示だと受け取って、私は走り出す。
 
 屋上で空を見上げる大きな背中を思い浮かべながら。
 大切な人のところへ。
 
 この恋を悲劇で終わらせないために。