息を切らして構内を走れば、先輩のいるE棟に辿り着く。
ベンチの横に立っている姿を見つけて呼びかければ手を挙げてくれて、愛おしさにそのままの勢いで飛びついた。
「うおー、びっくりした。ごめん、次講義だったのに急に呼び出して」
「ううん、別にいらないコマだからいいよ。先輩の方が大事だし」
「…ほんと可愛いな、知恵は」
軽く顔が傾いて、目を閉じるとやさしいキスをする。
当たり前だ。メイクも、服も、髪色もピアスのデザイン一つすら、先輩の好みに全部合わせたんだもん。これ可愛いね、とキスの合間に明るいオレンジベージュに染めた髪を褒められてピアスの付いた耳朶を撫でられれば、それだけで心が満たされる。
大学4年の春目前、こんな服をして構内を歩く私を周りは好奇の目で見ることもあるけれど、大丈夫。
先輩がいるから、何もかも怖くない。
その日サボった2コマのあとは必修科目で、それを受けなければ卒業も危ぶまれるものだったのだけど、先輩が「今日このあとフリーだからお茶しよ」って誘ってくれたから、黙っておくことにした。
最近オープンして、私が前に気になると話していたお店に連れてってくれるらしい。やさしい先輩のことだから本当のことを言ったら少ししょんぼりした顔を隠して、それでも「それなら仕方ないね」って背中を押してくれるだろうから。そのときの先輩のがっかりした顔を私は見たくないし、そんな顔をさせるくらいなら、卒業が少し延びるくらい、どうってことはない。
「最近、那由多くんの話しないね」
お店に向かう道すがら、先輩の腕に甘えていたらそう言われた。短いスカートからはみ出た素肌をさらう風はまだ冬で、信号待ち、脚を交差させたりして寒さを凌ぐ。
「…うん」
「大丈夫なの?」
「知らない。てかやめてよ、せっかくふたりなのに那由多なんかの話」
那由多を切り離した今、世界は見違えるほどに色とりどりだった。窮屈で、伸ばせなかった羽を全て広げられたようで、私は人間開花したのだ。これからもっともっと知らない世界に出逢うだろう。先輩はその皮切りだ。
それでも心にずっと消えないしこりはあって、ちょうどその信号待ちをしていた街角が、那由多の働く花屋の角だった。それとなく視線を向ければ、店の中から主婦と思しき女性が現れる。
「とっても素敵なお花が選べて大満足よ。那由多くん、ありがとう」
「また来てください」
「来る来る、またね」
「ありがとうございました」
ヒールを鳴らして歩いていく女性を店先に出て見送って、片手を振る。
久しぶりに見るその姿を何の気無しに目で追って。那由多が振り向いたところで、さっと目を逸らす。