※※

「ついた……っ」

私は琢磨と別れたのを最後に一度も来たことがなかった湖の前に立った。あたりを見渡すが、淡い期待とは裏腹にあたりには誰もいない。

まだ雪は降り出したばかりだが、この程度の雪ならあの日みたいに積もることはないのだろう。

ただそれでも、冬の匂いと一緒にあの時と同じ小さな雪が夜空から降り注いでいるのをみると自然と涙が溢れ出す。

「……っ……」

分かっていたことだ。
琢磨は来ない。


──『ねぇ、琢磨。もし恋人の誕生日に初雪が降ったら……思い出の場所で待ち合わせするとずっと一緒に居られるんだって』

本好きな私のお気に入りの恋愛小説の一説だ。

その時、確か琢磨は煙草をふかしながら『へぇ』と気のない返事をしていた。

──『約束。初雪が降ったら私に会いに来て?』

そのあと琢磨はなんて言ったんだっけ?大事なことなのに私が覚えてないということはポーカーフェイスの琢磨にうまくはぐらかされたのだろう。

あの頃はそれでも良かったのに。強面の見た目と違って不器用で口下手な琢磨から返事がなくても好きだという言葉が貰えなくても。その頃は何の理由もなく琢磨とただずっと一緒に居られると信じていたから。

「嫌い……っ……大嫌い……」

冬は嫌い。
煙草も嫌い。
雪も嫌い。
琢磨なんて大嫌い。

どうしていつまでたっても私の中から雪のように溶けて居なくなってくれないんだろう。

でも一番嫌いなのは私自身だ。

わざわざ自分の誕生日にこんな場所にきて、全部を雪と琢磨のせいにして。

琢磨からまた突き放されるのが怖くて傷つくのを恐れて、自分からは電話ひとつかける勇気もでないくせに。

そんな私を笑うかのように丸い小さな雪玉が空から遠慮なく舞い降りて、私の涙と一緒に心にしんしんと哀しみとなって降り積もっていく。 


「……会いたいよ……っ」

もうずっと会いたい。声がききたい。叶うはずのない願いと届かない想いだけが心の中を埋め尽くして苦しくてたまらない。

「琢磨……っ」

掠れた声でその名を言葉に吐いた時だった。

ふいに煙草の匂いが鼻を掠める。そして土を踏み締めながら近づいてくる足音に鼓動が高鳴る。


ゆっくりと振り返ろうすれば──私の体は大きな両腕に包み込まれた。


「……栞菜……おまたせ」

遅れてごめんも連絡しなくてごめんも何にもなしに、ただ私を抱きしめるだけで全てを帳消しにしてしまう琢磨はズルい。

それでもこうやってちゃんと約束を覚えていてくれたことに、私の涙は雪よりも早い速度で落下していく。

「遅いよ……っ」

私は身体ごと振り返ると煙草の匂いのする、彼の大きな背中をぎゅっと抱きしめた。

そして、琢磨の懐かしい優しい匂いに顔を埋めながら、これが夢だったらどうしようとすぐに不安になって、私は背の高い琢磨をそっと見上げた。

琢磨はまだ何も言わない。

ただ私の涙を何度も指先で拭って困ったような顔をしているだけだ。

「……なんで……きたの?」

聞きたいことも話したいことも沢山あるのにうまく言葉が出てこない。

琢磨にずっとずっと会いたかったのに口をついて出た可愛くない質問に嫌気がさしてくる。

それでも琢磨は私の髪をそっとすくように撫でるとようやく口を開いた。

「栞菜との……約束だったから。初雪が降ったら会いに行くって」

あっという間に目の奥が熱くなって琢磨が滲む。

「……ばか……」

「ほんと、馬鹿だよな。カッコつけて……栞菜の将来のためとか思って。栞菜にずっとそばにいて欲しかったくせに……バーテンダーっていう自分の夢優先してさ。栞菜の将来を背負う自信がなかったんだ……ごめん」

本当に琢磨は大馬鹿者だ。そもそも、私の将来を背負うなんて考えが間違っている。お金がなくたっていい、一生働きづめだっていい。

私は琢磨の隣じゃないと幸せになれないのに。琢磨の隣でしかきっとちゃんと呼吸(いき)もできないのに。

「一生……許してあげないから……」

「うん……」

「でも……これからはずっと……琢磨の隣にいさせてよね」

私の言葉に琢磨が一瞬驚いてから、綺麗な二重の目をふっと細めた。

「もう離さない」 

琢磨が私の顎を持ち上げる。

そして私が琢磨の首に両腕を回せば、真っ白な雪と一緒に琢磨のキスが降ってくる。

「琢磨、大好きだよ」  

私は空からの白い粒がぼたん雪に変わったのを見つめながら、もう二度と離すことがない、雪の匂いのするキミとの恋をぎゅっと強く抱きしめた。




おしまい⛄️

2023.12.29 遊野煌

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