真夜中のアトリエで、私は久しぶりにキャンバスの前に立った。その絵は、すでに完成に近い状態にあった。そこに描かれているのは、椅子に腰かけてポーズを取り、微かに笑みを浮かべている妻、杏子の美しい裸体だ。
 キャンバスの正面には、今もその椅子が置かれていたが、その椅子に腰を降ろす杏子の姿はなかった。約二月前、杏子は交通事故であっけなく世を去った。まだ、二十七歳の若さだった。
 僕と杏子は高校のクラスメートだった。杏子の父親は美術関係の会社の経営者だった。そのおかげで、杏子は絵に興味があり、絵を見る目もそれなりに肥えていた。文化祭で展示した私の絵が、杏子の目に留まったのが付き合うきっかけだった。
 私たちは大学を出るとすぐに結婚した。私は、学生時代にすでに大きな賞を取り、絵もそれなりには売れていた。しかし、画家として生計を立てているとは言い難かった。一流企業に勤める杏子に、経済的には依存していたというのが実情だった。
 杏子が亡くなった後、私は何度か杏子の絵を完成させようと試みた。絵は、すでにほとんど完成していたので、画家の常識からすれば、モデルがいなくなっても絵を完成させるのは難しくないはずだった。
 しかし、私は絵を完成させることができなかった。その絵は、妻の杏子が、モデルとして私の目の前にいなければ描けない絵だったのだ。
 高校時代から、私は何度も杏子にモデルの依頼を繰り返していた。裸体を描かせてほしいと言ったことは一度も無いのに、杏子は決して首を縦に振らなかった。恥ずかしいからいやだ、というのがいつもの言い訳だった。
 ところが少し前に、当然、杏子の方から自分の裸体を描いて欲しいと頼まれたのだから、私の驚きは大きなものだった。子供を産む前の、一番美しい自分の姿を残しておきたいというのが杏子の望みだった。もちろん、私は大喜びで制作に取り掛かった。
 私は、杏子が最も美しく見える構図を必死に考えた。まず、杏子には椅子に座ってもらうことにした。その椅子選びにも、かなり時間を費やした。杏子にどのようなポーズをとってもらうか、それが一番の問題だった。私は、杏子を椅子に座らせた後、何度も試行錯誤を繰り返した。
 そして、ポーズが決まった瞬間、杏子のいる構図の美しさに胸がドキンとした。あまりにも子供じみた表現だが、それ以外に、その時の気持ちを表す言葉が見つからなかった。自分で作った構図にときめいているなど、馬鹿だとしか思われそうになかったが、そうだったのだ。私は、子供の頃からずっと絵を描き続けてきたが、それは正に初めての経験だった。
 杏子の裸体は確かに美しかったが、私は決して自分の妻の裸体に酔いしれていたわけではなかった。夫婦だから当然、杏子の裸体など見慣れたものだった。
 裸婦を描くのも、もちろん初めてではなかった。裸婦を描くのに、性的興奮を覚えることなど当然なかった。画家にとってモデルの裸体は、花や花瓶のような静物と変わらない。ただ、描くべき対象に過ぎないのだ。
 しかし、自分が作り上げた杏子のいる構図は、もはや単なる裸婦の構図とは明らかに一線を画していた。杏子は決して静物などではなかった。それは愛する妻の、今までで一番美しい姿だった。
 
 杏子の絵の制作は正に狂気的だった。それまでとは比べ物にならない程の集中力と情熱で、驚くほど筆がはかどった。そして、それは美しいものを描こうという純粋な画家の姿勢と、性的な興奮の微妙なバランスの上に成り立っていた。その微妙さゆえに、バランスは何度も崩壊した。画家にはあるまじきことだったが、制作の途中に絵筆を放り出して、行為に及んでしまったこともしばしばだった。
 だから、絵が完成に近づいていても、杏子がいなくなってからは、絵の制作はまったく先に進まなくなってしまったのだ。
 
 私は、とりあえず、杏子の絵の制作は後回しにして、他の作品に取り掛かることにした。しかし、私は他の絵も全く描けなくなっていた。私は、完全なスランプに陥っていた。
 やはり、杏子の絵を完成させない限り、先へは進めないのかと思い、もう一度、杏子の絵の前に立ってみたものの、絵筆を取る気にもなれなかった。画家としての自分は、もう死んでしまったのかもしれないと思った。
 今にして思えば、自分の裸体を描いて欲しいと言ったのは、杏子の最後の賭けだったような気がした。私が昔から描きたいと言っていた杏子の絵を描いても、世間に高く評価されなかったら、私に画業を諦めさせるつもりだったのではと思った。
 杏子は一人娘だった。口には出さなかったが、義父が、私に跡を継いでほしいと望んでいたことは容易に想像がついた。画家としてものになるかどうかも分からない男に娘をくれたのは、そうした心づもりもあってのことだと感じていた。
 子供を産む前の五年。杏子もそう決めていたのではないか。そんな気がした。しかし、結局、杏子の賭けは成立しないままに終わってしまった。
 潮時かもしれないと思った。義父は、杏子が亡くなったからと言って、手のひらを返すような人ではなかった。義父の会社に入ろうとは思えなかったが、頭を下げて頼めば、つてをたどって、それなりの会社を紹介してもらえるだろうとも思った。
 しかし、杏子と子供の暮らしを守るためならともかく、杏子もいない今、そんな風に割り切ることもできなかった。かといってこのままならば、早々に食えなくなることも明らかだった。ならばいっそのこと、杏子の後を追って死のうか、そんな考えさえ頭をよぎった。
 様々なことが頭の中で渦を巻いているうちに、私は杏子の絵を描くのを諦めていた。諦めた途端、物凄い疲れが襲ってきた。仮眠用にアトリエの隅に置いていたマットレスに横たわると、あっと言う間に眠りに落ちた。
 
「起きて、あなた、起きて」
 杏子の声を聞いて、私は目を覚ました。マットレスの脇に立った杏子が、私を見下ろしていた。杏子は見たことのない黒い服を着ていた。杏子の肩越しにアトリエの時計が見えた。眠りに落ちてから、まだ数分しか経っていなかった。それが夢でないことが、私には、なぜかはっきりとわかっていた。瞬時に抱きしめたいという感情が芽生え、立ち上がろうとしたかが、私の体はピクリとも動かなかった。これが金縛りというやつかと私は思った。
 私を見下ろす杏子の目は、感情を読み取ることができないような不思議な色をしていた。
「ごめんなさいね、残念だけど、死んだ妻との感動の再会っていう訳じゃないの」
 杏子の目に、少し冷たい色が濃くなったような気がした。
「私ね、あなたに死期を伝えに来たの。つまり、死神の役を仰せつかったって訳」
 死神という言葉に、まさかという思いが浮かんだが、それを口にすることはできなかった。
「ごめんね。その、まさかなの」
 杏子は私の心を読んでいるようだった。
「あなたはね、夜明け前に死ぬの。だから、それを伝えに来たの」
 杏子の顔は夫に余命宣告を告げる辛さに歪んでいるようにも見えた。
 死ぬと言われても、なぜと思った。自分は体はいたって健康だったし、まだ、自殺の決意を固めたわけでもなかった。そう思った次の瞬間に、杏子は、もう口を開いていた。
「あなたはね、いわゆる突然死というのを迎えるの。原因がほとんど特定できない奴ね。若くて健康な人が、突然、何の前触れもなく亡くなったって話は、あなたも聞いたことがあるでしょう」
 そうだ、そういう記事を新聞で読んだことがあると、私は思い出した。
「そうなの、その記事と同じことがあなたにも起こるの」
 杏子はまるで事務的な説明をするような口調で、私の悲惨な運命を淡々と語った。しかし、伝えるべき悲しい事実を伝え終わったせいか、杏子の表情が少し緩んだ。
「私の絵、まだ完成してなかったのね」
 杏子は絵の方に視線を向けて寂し気につぶやいた。
「夜明けまで、まだ時間が有るんだから完成させてみたら。私も、このままじゃ、なんか気分が悪いし。あなただって未完のままで死んでしまうのは心残りでしょう」
 確かにその通りだった。杏子がまたモデルになってくれれば、描けるだろうと私は思った。その思いはすぐに杏子に読まれた。
「ごめんなさい。モデルになってあげたいところなんだけど、そうもいかないの。絵はほとんど完成してるんだから、後は私がいなくても描けるでしょう。じゃあ、頑張って」
 杏子は私を突き放すように言うと姿を消した。そして、その瞬間に金縛りが解けた。
 
 そして、私は再びキャンバスの前に立った。完成させる時間はあったが、迷っている時間はなかった。私は腹を決めて杏子の絵を仕上げる準備に入った。

 失われた美しい構図を再生するのは容易ではなかった。私は、杏子が座っていたその椅子の上に、杏子の姿を呼び戻そうとした。時には椅子を見つめ、時には目を閉じて、かつてあった美しいものを再び手にしようと必死になった。
 しかし、いざ絵筆を取ってみると、描けなかった日々が嘘のように筆が進んだ。もうすぐ死ぬと言われたのに、その言葉は私の心に影を落とさなかった。私の心は、再び杏子を描くことができる喜びに満ち溢れていた。まもなく消えるなどとは想像もできない程、生きる力が体中にみなぎっていた。それが、?燭が消える前の最後の輝きかもしれないと思うことすらなかった。
 私の筆は冴えた。絵は、杏子が生きていた場合にたどり着いたであろう完成度を遥かに超えるものになろうとしていた。
 私は休みなく描き続けた。そうして夜明けが近づいた頃、絵は完成した。私はキャンバスの少し後ろに置かれていた別の椅子に腰を降ろすと、下を向き、大きく安堵のため息をついた。

「できたのね」
 杏子の声がした。顔を上げると杏子が絵の前に立っていた。
 私は立ち上がると杏子の右側に回った。
 杏子は黙って完成した絵を見つめていた。杏子は、絵の中にいるのが自分だとは信じられないというような顔をしていた。感想を求めるのもためらわれる程、杏子は絵に見入っていた。杏子の横に突っ立ったまま、私はそんな杏子の横顔をぼんやりと見つめていた。
 しばらくして、ついに耐えきれなくなった私は、杏子に感想を求めた。
「どうだろう、これなら世間も高く評価してくれるかな?」
 今までの作品など足元にも及ばない程の自分の最高傑作であるという自信があった。
私は、杏子が賭けに勝ったのだと確信していた。
「世間の評価なんてどうだっていいわ」
 私には、それは意外な言葉だった。私の反応には構わずに杏子はその言葉の真意を語った。
「この絵は、私が生きた証として、あなたが私を愛してくれた証として、これからもずっと残ってゆく。私はそれが嬉しいの」
 一度言葉を切ると、杏子の表情が少し寂し気なものに変わった。
「もっとたくさん、あなたに私を描いてもらえば良かったな」
 杏子の横顔に涙がつたった。
 その横顔は絵の中の杏子と同じくらい、あるいはそれ以上に美しいと思った。この横顔を描いてみたい、私は強く思った。しかし、すぐに自分には、もうその時間がないことを思い出した。杏子の絵を完成させた喜びの方が大きかったが、その横顔が描けなかったことは少し残念な気がした。

「お疲れ様でした。じゃあ、ご褒美ね」
 杏子はそう言うと、私の手を取って歩き出し、私をアトリエの隅に置かれたマットレスの方に導いていった。

 私の体は、杏子の絵を描き終えた喜びで満ち溢れていた。それはそのまま、杏子を愛する力に変わった。そうして、私たちは、今まで達したことのない高みまで上りつめた。

 目が覚めると、アトリエには朝の光が満ち溢れていた。それは、今までで一番美しい朝だった。朝日に包まれた杏子の絵は、正に輝いていた。
「嘘ついてゴメンね」
 絵の中の杏子が、そうつぶやいたような気がした。
「いいよ、ありがとう。お礼に今度は、君の横顔を描いてあげるよ」
 限りなく優しいその笑顔に向けて、私はそう答えた。