大好物を食べてエネルギーが満タンになったところで、夏休みの宿題に取り組む。

 持ってきたのは、英語と化学のプリントと、自由研究用のメモ帳とノート。そして日記帳。静かな環境を活かして一気に進める作戦だ。

 祖父母の部屋を借り、ちゃぶ台の上に宿題を広げた。髪の毛をお団子にまとめ、前髪も留め直す。

 晩ご飯の準備時間まで、あと3時間弱。まずは英語から始めるか。

「あ、いたいた」

 気合いを入れた直後、突然ドアが開いて、宿題を抱えた智が現れた。

「俺も入れてー」
「……どうぞ」

 あぁビックリした。自分の家じゃないんだからノックくらいしてよ。もし着替えてたらどうするの!

 溜め息をつき、広げた宿題を片づけて場所を空ける。

「ん? 何これ」

 すると、智が1冊のノートを手に取った。

「【8月3日 今日は久しぶりに、中学時代の友達と電話した】もしかして絵日記? ハハハッ、小学生かよ」
「ちょっと! 返してよ!」

 ケラケラ笑いながらページをめくる智。

 勝手に見るな! 読み上げるな! プライバシーの侵害だぞ!

 立ち上がって上から強引に奪い返した。

「もう! やめてよ!」
「わりぃわりぃ。でもお前、絵上手いな。よっ! 偏差値70の優等生!」

 反省の色ゼロの軽々しい謝罪。馬鹿にしたような口調で褒められても全然嬉しくないし。逆に不快だっての。

 その後、数時間奮闘し、目標の量をクリア。
 昼食の残りを含めた夕食を食べ、一息ついた夜の8時過ぎ──。

「智くん、一花ちゃん、準備はできたかい?」
「オッケー!」
「うん! バッチリ!」

 薄暗い玄関扉の前で祖父に返事をした。
 食後の運動も兼ねて、ジョニーの散歩に同行することにしたのだ。

「えっ、毎日2時間散歩してるの⁉」
「大型犬だからねぇ。その分運動量も多いんだよ」

 真っ暗になった住宅街を4人(正しくは3人と1匹)で歩いていく。

 祖父によると、朝晩それぞれ1時間程度。これをほぼ毎日続けているらしい。

「だからテーブルも軽々運べたのか。他にも何か運動してるの?」
「週に数回スクワットをしているよ。時間がある時は、おばあちゃんと一緒にラジオ体操もするかな」
「おおーっ。めちゃめちゃ健康的!」

 祖父母に向けられた褒め言葉が自身の胸にグサッと突き刺さる。

 10代の私より、70代のおじいちゃん達のほうが何倍も運動してるだなんて……。

 そっか。若々しいと感じたのは、定期的に運動していたからだったんだ。

「……毎日散歩したら、痩せるかな」
「おや、ダイエットかい?」
「うん。最近ちょっとお腹が出てきちゃって。このままだと服が入らなくなりそうだから」
「えっ、そんなに⁉ ヤバッ! 今もパツパツしてんの?」

 祖父を挟んだ右側から、無神経で失礼な質問が飛んできた。

 はぁ……どうして私の周りの男子はデリカシーがないのだろう。そんな無神経だから彼女と喧嘩したんじゃないの?

 反応したら負けだと思い、のどから出かけていた声を抑える。

 30分ほど歩いていると、風に乗って潮の香りが漂ってきた。

「もしかして、海に行くの?」
「まぁ、行くには行くが、中には入らないよ。ジョニーの足が汚れるから」

 期待したのも束の間、わずか2秒で撃沈。
 ……そうだよね。洗うの大変だし、夜だし。仕事増やしたくないよね。

「行きたいのかい?」
「……自由研究用に、写真が撮りたくて」

 だけど、今日の天気は雲1つない快晴。夜空に月が綺麗に出ている。せっかくなら建物が少ない開けた場所で観察したい。

「そうか。だが、暗い中1人で出歩かせるわけには……智くん、着いていってあげてくれないかい?」
「えー、なんで俺が」
「お願いします!」

 手を合わせて懇願するも、案の定渋っている。

 面倒なのは分かってる。けど、今頼れるのは智しかいないんだ。

 粘りに粘った結果、明日の朝、好物のだし巻き卵を作るという条件で了承してもらった。

 スマホのライトで足元を照らし、階段を下りて海岸へ。

「わぁ、綺麗……!」

 見上げると、視界いっぱいに満天の星空が広がっていた。小さな星も肉眼でハッキリと確認できる。

 海と同様、地元だったら絶対見られない景色。眺めれば眺めるほど、神秘的でとても美しい。

「はいもしもし。……時間? うん、大丈夫だよ」

 恍惚とした表情で撮影していると、隣から先ほどとは打って変わった優しい声が聞こえてきた。

 声色違いすぎ……あと顔も。一瞬で彼女って分かっちゃった。

 今耳元で、「この人、さっきデブいじりしてきたんですよ!」って暴露してやりたい。

 けど、多分仲直りしようとして電話をかけてきたはずだから。ここは彼女の気持ちを優先しよう。

 邪魔にならないよう、少し離れて撮影再開した。

 うーん、綺麗だけどなんかイマイチだなぁ。ライト消して撮ってみるか。

「わわっ、冷たっ」

 突然、足元にヒヤッと刺激が走った。ありゃりゃ、いつの間にか波打ち際に来ちゃってたのか。

 顔を正面に戻し、不規則に繰り返す波の音に耳を澄ます。

 こう眺めると、夜の海も綺麗だな。ゆらゆら揺れる水面が月明かりに照らされて、星空とはまた違った魅力がある。

「そうだ、せっかくなら……」

 パンツの裾をふくらはぎまでめくり、波が引いた砂浜の上を一歩ずつ進んでいく。

 今日はサンダルだし、智もまだ電話してるみたいだし、夜の海を撮ってみよう。

 足全体が波に覆われたところで止まり、カメラのレンズを海面に近づける。

 祖父いわく、日中は透き通っていてとても綺麗とのこと。昼間に比べたらかなり暗いけど、ライトを点ければ中まで見えるかもしれない。

 ピントを合わせてシャッターを押したその時。

「やめろーっ! 早まるなーっ!」

 後方から制止しようとする声が聞こえた。
 振り向くと、1人の男性がこっちに向かって走ってきている。

 えっ……もしかして私のこと⁉

「うわっ」
「っだ、大丈夫ですか⁉」

 目を丸くした直後、彼がバシャンと水音を立てて転倒した。

 慌てて駆け寄るも、反応がない。というより、全然微動だにしない。

 まさか、打ちどころが悪くて気を失ってしまったんじゃ……。

「あの……」
「……ぷはっ」

 再度声をかけると、ガバッと顔を上げて咳き込みだした。良かった。意識はあったみたい。

「大丈夫ですか……?」
「はい……」

 落ち着きを取り戻し、ゆっくり起き上がる彼。

 話を聞くと、私が自死しようとしているのではと思い、急いで呼び止めたのだそう。

「紛らわしいことをしてすみませんでした……っ!」

 海岸に戻り、つむじが見えるくらいに深く頭を下げた。

「いえ、こちらこそ。お楽しみのところ、邪魔してしまってすみません。足は大丈夫ですか? 何かに刺されてはない?」
「はいっ。大丈夫ですっ」
「そうですか。なら良かった」

 顔を上げると、安堵に満ちた表情が。

「もし入るのであれば、誰かに付き添ってもらってくださいね。暗いと、何かあった時に分かりづらいので」
「……はい」

 優しい口調で注意を受け、消え入るような声で返事をした。

 ……申し訳なさすぎる。

 頭からつま先まで全身びしょ濡れで、綺麗なお顔と髪の毛に至っては砂まみれ。

 対して私は、足と手が少し濡れただけ。謝罪1つでは足りないくらいだ。

「一花……っ!」

 せめてものお詫びをと思ったその瞬間、後ろで私の名を呼ぶ声が聞こえた。

「いたいたっ、どこ行ってたんだよ」
「ごめん。夢中になってて」
「ったく、そろそろ帰るぞ」
「う、うんっ」

 智が前を歩き出した後、チラッと隣を見る。

 何も言われなかったなと思ったら……いつの間に。

 辺りを見回しながら海岸を後にしたものの、彼らしき姿は見当たらず。心残りを抱えたまま帰路に就いたのだった。