◇
大好物を食べてエネルギーが満タンになったところで、夏休みの宿題に取り組む。
持ってきたのは、英語と化学のプリントと、自由研究用のメモ帳とノート。そして日記帳。静かな環境を活かして一気に進める作戦だ。
祖父母の部屋を借り、ちゃぶ台の上に宿題を広げた。髪の毛をお団子にまとめ、前髪も留め直す。
晩ご飯の準備時間まで、あと3時間弱。まずは英語から始めるか。
「あ、いたいた」
気合いを入れた直後、突然ドアが開いて、宿題を抱えた智が現れた。
「俺も入れてー」
「……どうぞ」
あぁビックリした。自分の家じゃないんだからノックくらいしてよ。もし着替えてたらどうするの!
溜め息をつき、広げた宿題を片づけて場所を空ける。
「ん? 何これ」
すると、智が1冊のノートを手に取った。
「【8月3日 今日は久しぶりに、中学時代の友達と電話した】もしかして絵日記? ハハハッ、小学生かよ」
「ちょっと! 返してよ!」
ケラケラ笑いながらページをめくる智。
勝手に見るな! 読み上げるな! プライバシーの侵害だぞ!
立ち上がって上から強引に奪い返した。
「もう! やめてよ!」
「わりぃわりぃ。でもお前、絵上手いな。よっ! 偏差値70の優等生!」
反省の色ゼロの軽々しい謝罪。馬鹿にしたような口調で褒められても全然嬉しくないし。逆に不快だっての。
その後、数時間奮闘し、目標の量をクリア。
昼食の残りを含めた夕食を食べ、一息ついた夜の8時過ぎ──。
「智くん、一花ちゃん、準備はできたかい?」
「オッケー!」
「うん! バッチリ!」
薄暗い玄関扉の前で祖父に返事をした。
食後の運動も兼ねて、ジョニーの散歩に同行することにしたのだ。
「えっ、毎日2時間散歩してるの⁉」
「大型犬だからねぇ。その分運動量も多いんだよ」
真っ暗になった住宅街を4人(正しくは3人と1匹)で歩いていく。
祖父によると、朝晩それぞれ1時間程度。これをほぼ毎日続けているらしい。
「だからテーブルも軽々運べたのか。他にも何か運動してるの?」
「週に数回スクワットをしているよ。時間がある時は、おばあちゃんと一緒にラジオ体操もするかな」
「おおーっ。めちゃめちゃ健康的!」
祖父母に向けられた褒め言葉が自身の胸にグサッと突き刺さる。
10代の私より、70代のおじいちゃん達のほうが何倍も運動してるだなんて……。
そっか。若々しいと感じたのは、定期的に運動していたからだったんだ。
「……毎日散歩したら、痩せるかな」
「おや、ダイエットかい?」
「うん。最近ちょっとお腹が出てきちゃって。このままだと服が入らなくなりそうだから」
「えっ、そんなに⁉ ヤバッ! 今もパツパツしてんの?」
祖父を挟んだ右側から、無神経で失礼な質問が飛んできた。
はぁ……どうして私の周りの男子はデリカシーがないのだろう。そんな無神経だから彼女と喧嘩したんじゃないの?
反応したら負けだと思い、のどから出かけていた声を抑える。
30分ほど歩いていると、風に乗って潮の香りが漂ってきた。
「もしかして、海に行くの?」
「まぁ、行くには行くが、中には入らないよ。ジョニーの足が汚れるから」
期待したのも束の間、わずか2秒で撃沈。
……そうだよね。洗うの大変だし、夜だし。仕事増やしたくないよね。
「行きたいのかい?」
「……自由研究用に、写真が撮りたくて」
だけど、今日の天気は雲1つない快晴。夜空に月が綺麗に出ている。せっかくなら建物が少ない開けた場所で観察したい。
「そうか。だが、暗い中1人で出歩かせるわけには……智くん、着いていってあげてくれないかい?」
「えー、なんで俺が」
「お願いします!」
手を合わせて懇願するも、案の定渋っている。
面倒なのは分かってる。けど、今頼れるのは智しかいないんだ。
粘りに粘った結果、明日の朝、好物のだし巻き卵を作るという条件で了承してもらった。
スマホのライトで足元を照らし、階段を下りて海岸へ。
「わぁ、綺麗……!」
見上げると、視界いっぱいに満天の星空が広がっていた。小さな星も肉眼でハッキリと確認できる。
海と同様、地元だったら絶対見られない景色。眺めれば眺めるほど、神秘的でとても美しい。
「はいもしもし。……時間? うん、大丈夫だよ」
恍惚とした表情で撮影していると、隣から先ほどとは打って変わった優しい声が聞こえてきた。
声色違いすぎ……あと顔も。一瞬で彼女って分かっちゃった。
今耳元で、「この人、さっきデブいじりしてきたんですよ!」って暴露してやりたい。
けど、多分仲直りしようとして電話をかけてきたはずだから。ここは彼女の気持ちを優先しよう。
邪魔にならないよう、少し離れて撮影再開した。
うーん、綺麗だけどなんかイマイチだなぁ。ライト消して撮ってみるか。
「わわっ、冷たっ」
突然、足元にヒヤッと刺激が走った。ありゃりゃ、いつの間にか波打ち際に来ちゃってたのか。
顔を正面に戻し、不規則に繰り返す波の音に耳を澄ます。
こう眺めると、夜の海も綺麗だな。ゆらゆら揺れる水面が月明かりに照らされて、星空とはまた違った魅力がある。
「そうだ、せっかくなら……」
パンツの裾をふくらはぎまでめくり、波が引いた砂浜の上を一歩ずつ進んでいく。
今日はサンダルだし、智もまだ電話してるみたいだし、夜の海を撮ってみよう。
足全体が波に覆われたところで止まり、カメラのレンズを海面に近づける。
祖父いわく、日中は透き通っていてとても綺麗とのこと。昼間に比べたらかなり暗いけど、ライトを点ければ中まで見えるかもしれない。
ピントを合わせてシャッターを押したその時。
「やめろーっ! 早まるなーっ!」
後方から制止しようとする声が聞こえた。
振り向くと、1人の男性がこっちに向かって走ってきている。
えっ……もしかして私のこと⁉
「うわっ」
「っだ、大丈夫ですか⁉」
目を丸くした直後、彼がバシャンと水音を立てて転倒した。
慌てて駆け寄るも、反応がない。というより、全然微動だにしない。
まさか、打ちどころが悪くて気を失ってしまったんじゃ……。
「あの……」
「……ぷはっ」
再度声をかけると、ガバッと顔を上げて咳き込みだした。良かった。意識はあったみたい。
「大丈夫ですか……?」
「はい……」
落ち着きを取り戻し、ゆっくり起き上がる彼。
話を聞くと、私が自死しようとしているのではと思い、急いで呼び止めたのだそう。
「紛らわしいことをしてすみませんでした……っ!」
海岸に戻り、つむじが見えるくらいに深く頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。お楽しみのところ、邪魔してしまってすみません。足は大丈夫ですか? 何かに刺されてはない?」
「はいっ。大丈夫ですっ」
「そうですか。なら良かった」
顔を上げると、安堵に満ちた表情が。
「もし入るのであれば、誰かに付き添ってもらってくださいね。暗いと、何かあった時に分かりづらいので」
「……はい」
優しい口調で注意を受け、消え入るような声で返事をした。
……申し訳なさすぎる。
頭からつま先まで全身びしょ濡れで、綺麗なお顔と髪の毛に至っては砂まみれ。
対して私は、足と手が少し濡れただけ。謝罪1つでは足りないくらいだ。
「一花……っ!」
せめてものお詫びをと思ったその瞬間、後ろで私の名を呼ぶ声が聞こえた。
「いたいたっ、どこ行ってたんだよ」
「ごめん。夢中になってて」
「ったく、そろそろ帰るぞ」
「う、うんっ」
智が前を歩き出した後、チラッと隣を見る。
何も言われなかったなと思ったら……いつの間に。
辺りを見回しながら海岸を後にしたものの、彼らしき姿は見当たらず。心残りを抱えたまま帰路に就いたのだった。
大好物を食べてエネルギーが満タンになったところで、夏休みの宿題に取り組む。
持ってきたのは、英語と化学のプリントと、自由研究用のメモ帳とノート。そして日記帳。静かな環境を活かして一気に進める作戦だ。
祖父母の部屋を借り、ちゃぶ台の上に宿題を広げた。髪の毛をお団子にまとめ、前髪も留め直す。
晩ご飯の準備時間まで、あと3時間弱。まずは英語から始めるか。
「あ、いたいた」
気合いを入れた直後、突然ドアが開いて、宿題を抱えた智が現れた。
「俺も入れてー」
「……どうぞ」
あぁビックリした。自分の家じゃないんだからノックくらいしてよ。もし着替えてたらどうするの!
溜め息をつき、広げた宿題を片づけて場所を空ける。
「ん? 何これ」
すると、智が1冊のノートを手に取った。
「【8月3日 今日は久しぶりに、中学時代の友達と電話した】もしかして絵日記? ハハハッ、小学生かよ」
「ちょっと! 返してよ!」
ケラケラ笑いながらページをめくる智。
勝手に見るな! 読み上げるな! プライバシーの侵害だぞ!
立ち上がって上から強引に奪い返した。
「もう! やめてよ!」
「わりぃわりぃ。でもお前、絵上手いな。よっ! 偏差値70の優等生!」
反省の色ゼロの軽々しい謝罪。馬鹿にしたような口調で褒められても全然嬉しくないし。逆に不快だっての。
その後、数時間奮闘し、目標の量をクリア。
昼食の残りを含めた夕食を食べ、一息ついた夜の8時過ぎ──。
「智くん、一花ちゃん、準備はできたかい?」
「オッケー!」
「うん! バッチリ!」
薄暗い玄関扉の前で祖父に返事をした。
食後の運動も兼ねて、ジョニーの散歩に同行することにしたのだ。
「えっ、毎日2時間散歩してるの⁉」
「大型犬だからねぇ。その分運動量も多いんだよ」
真っ暗になった住宅街を4人(正しくは3人と1匹)で歩いていく。
祖父によると、朝晩それぞれ1時間程度。これをほぼ毎日続けているらしい。
「だからテーブルも軽々運べたのか。他にも何か運動してるの?」
「週に数回スクワットをしているよ。時間がある時は、おばあちゃんと一緒にラジオ体操もするかな」
「おおーっ。めちゃめちゃ健康的!」
祖父母に向けられた褒め言葉が自身の胸にグサッと突き刺さる。
10代の私より、70代のおじいちゃん達のほうが何倍も運動してるだなんて……。
そっか。若々しいと感じたのは、定期的に運動していたからだったんだ。
「……毎日散歩したら、痩せるかな」
「おや、ダイエットかい?」
「うん。最近ちょっとお腹が出てきちゃって。このままだと服が入らなくなりそうだから」
「えっ、そんなに⁉ ヤバッ! 今もパツパツしてんの?」
祖父を挟んだ右側から、無神経で失礼な質問が飛んできた。
はぁ……どうして私の周りの男子はデリカシーがないのだろう。そんな無神経だから彼女と喧嘩したんじゃないの?
反応したら負けだと思い、のどから出かけていた声を抑える。
30分ほど歩いていると、風に乗って潮の香りが漂ってきた。
「もしかして、海に行くの?」
「まぁ、行くには行くが、中には入らないよ。ジョニーの足が汚れるから」
期待したのも束の間、わずか2秒で撃沈。
……そうだよね。洗うの大変だし、夜だし。仕事増やしたくないよね。
「行きたいのかい?」
「……自由研究用に、写真が撮りたくて」
だけど、今日の天気は雲1つない快晴。夜空に月が綺麗に出ている。せっかくなら建物が少ない開けた場所で観察したい。
「そうか。だが、暗い中1人で出歩かせるわけには……智くん、着いていってあげてくれないかい?」
「えー、なんで俺が」
「お願いします!」
手を合わせて懇願するも、案の定渋っている。
面倒なのは分かってる。けど、今頼れるのは智しかいないんだ。
粘りに粘った結果、明日の朝、好物のだし巻き卵を作るという条件で了承してもらった。
スマホのライトで足元を照らし、階段を下りて海岸へ。
「わぁ、綺麗……!」
見上げると、視界いっぱいに満天の星空が広がっていた。小さな星も肉眼でハッキリと確認できる。
海と同様、地元だったら絶対見られない景色。眺めれば眺めるほど、神秘的でとても美しい。
「はいもしもし。……時間? うん、大丈夫だよ」
恍惚とした表情で撮影していると、隣から先ほどとは打って変わった優しい声が聞こえてきた。
声色違いすぎ……あと顔も。一瞬で彼女って分かっちゃった。
今耳元で、「この人、さっきデブいじりしてきたんですよ!」って暴露してやりたい。
けど、多分仲直りしようとして電話をかけてきたはずだから。ここは彼女の気持ちを優先しよう。
邪魔にならないよう、少し離れて撮影再開した。
うーん、綺麗だけどなんかイマイチだなぁ。ライト消して撮ってみるか。
「わわっ、冷たっ」
突然、足元にヒヤッと刺激が走った。ありゃりゃ、いつの間にか波打ち際に来ちゃってたのか。
顔を正面に戻し、不規則に繰り返す波の音に耳を澄ます。
こう眺めると、夜の海も綺麗だな。ゆらゆら揺れる水面が月明かりに照らされて、星空とはまた違った魅力がある。
「そうだ、せっかくなら……」
パンツの裾をふくらはぎまでめくり、波が引いた砂浜の上を一歩ずつ進んでいく。
今日はサンダルだし、智もまだ電話してるみたいだし、夜の海を撮ってみよう。
足全体が波に覆われたところで止まり、カメラのレンズを海面に近づける。
祖父いわく、日中は透き通っていてとても綺麗とのこと。昼間に比べたらかなり暗いけど、ライトを点ければ中まで見えるかもしれない。
ピントを合わせてシャッターを押したその時。
「やめろーっ! 早まるなーっ!」
後方から制止しようとする声が聞こえた。
振り向くと、1人の男性がこっちに向かって走ってきている。
えっ……もしかして私のこと⁉
「うわっ」
「っだ、大丈夫ですか⁉」
目を丸くした直後、彼がバシャンと水音を立てて転倒した。
慌てて駆け寄るも、反応がない。というより、全然微動だにしない。
まさか、打ちどころが悪くて気を失ってしまったんじゃ……。
「あの……」
「……ぷはっ」
再度声をかけると、ガバッと顔を上げて咳き込みだした。良かった。意識はあったみたい。
「大丈夫ですか……?」
「はい……」
落ち着きを取り戻し、ゆっくり起き上がる彼。
話を聞くと、私が自死しようとしているのではと思い、急いで呼び止めたのだそう。
「紛らわしいことをしてすみませんでした……っ!」
海岸に戻り、つむじが見えるくらいに深く頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。お楽しみのところ、邪魔してしまってすみません。足は大丈夫ですか? 何かに刺されてはない?」
「はいっ。大丈夫ですっ」
「そうですか。なら良かった」
顔を上げると、安堵に満ちた表情が。
「もし入るのであれば、誰かに付き添ってもらってくださいね。暗いと、何かあった時に分かりづらいので」
「……はい」
優しい口調で注意を受け、消え入るような声で返事をした。
……申し訳なさすぎる。
頭からつま先まで全身びしょ濡れで、綺麗なお顔と髪の毛に至っては砂まみれ。
対して私は、足と手が少し濡れただけ。謝罪1つでは足りないくらいだ。
「一花……っ!」
せめてものお詫びをと思ったその瞬間、後ろで私の名を呼ぶ声が聞こえた。
「いたいたっ、どこ行ってたんだよ」
「ごめん。夢中になってて」
「ったく、そろそろ帰るぞ」
「う、うんっ」
智が前を歩き出した後、チラッと隣を見る。
何も言われなかったなと思ったら……いつの間に。
辺りを見回しながら海岸を後にしたものの、彼らしき姿は見当たらず。心残りを抱えたまま帰路に就いたのだった。