あっかんべーと舌を出し、海岸に逃走。
 理桜め……これじゃ写真撮れねーじゃねーか。

 溜め息をつき、全部塗り終えたところで腰を上げて海岸に下りる。

 桃士と鋼太郎には悪いけど、写真が撮れないならかなり時間持て余すだろうし。

「スケッチしてくる」と伝えて、単独行動することに。人気のない場所へ向かい、地べたに座ってスケッチブックに鉛筆を走らせる。

 水分補給もしつつ、描き写すこと1時間半。


 ブーッ、ブーッ。


 ポケットに入れたスマホが振動し始めた。

 あいつ、マナーモードにまでしやがったのか……。

 いたずら好きな友人に呆れながら、鋼太郎からの電話に出た。

「はい、もしもし」
【浅浜っ! 早く来てくれ! さくっ……佐倉が──】





「鋼太郎!」
「浅浜! こっち!」

 血相を変えて手を振る鋼太郎の元へ全速力で走る。

「理桜‼ 聞こえるか⁉ 理桜‼」

 海面で浮き沈みする理桜に大声で呼びかけた。

 鋼太郎の話によると、水分補給しようと岸に戻る途中、海面から顔を出しては引っ込めていたようで。

 最初はふざけているのかと思ったのだが、呼びかけても返事がなく、慌てて電話したのだと。

「桃士は⁉」
「他の人を呼びに行ってる。けっ、警察には電話したからっ」
「分かった。分かったから落ち着け」
「おーい!」

 顔を真っ青にする鋼太郎の背中を擦っていると、桃士が数人の大人を連れて戻ってきた。

 紐を繋ぎ合わせて長くするように、手首を掴み合って、波が押し寄せる海に入っていく。

「理桜、待ってろ。今行くからな」

 溺れている彼に声をかけつつ、人間ロープを伝い、先頭に立つ。

 あと少し、あと少し。

 鋼太郎の手首を掴んで手を伸ばしたが──大きな波が理桜に覆いかぶさった。

「浅浜! 大丈夫か⁉」
「うん……」

 水しぶきに怯み、眉をひそめながら閉じた目を開ける。

「あれ……?」

 目の前に広がる青々とした海。ついさっきまで顔を出していたはずの理桜の姿がどこにも見当たらない。

「理桜⁉ どこいった⁉ 理桜っ⁉」
「浅浜っ! 落ち着け!」

 取り乱した俺に鋼太郎が後ろから何度も声をかける。

 だけど、目の前で友人が忽然と姿を消して、平常心を保てるわけがない。

 まさか、あいつ……っ。

 絶望の淵に立たされた瞬間、遥か遠くの海面に人の顔が浮かんでいるのが見えた。

「理桜……っ!」
「馬鹿っ! 浅浜! 戻れ!」

 鋼太郎の腕を乱暴に振り払い、バシャバシャと水しぶきを立てて駆け出す。

 ふざけるな。言い出しっぺがなんで溺れてるんだよ。

 勝手に写真撮りやがって。パスワードも設定も変えやがって。

 チャラいとか、女顔だとか、散々俺のこと馬鹿にして貶しやがって。

『俺ら、ユニセックスネーム同盟だろ?』
『だだっ広い海を見て癒やされようぜ!』

 じわじわと涙で視界が滲んでいく。

 黙って先にいくなんて絶対に許さない。

 俺──まだお前に何も返せていないのに。

 後方から呼び止める声が何度も聞こえてくるが、無視してクロールで理桜の元へ向かう。

 理桜はサッカー部だけど、俺は水泳部。
 着衣泳の講習は水泳教室と部活で何度も受けてきたし、これまで大会で何度も賞を取ってきた。だから大丈夫。

 そう確信していたけれど……俺は、自分の力を過信していた。

「うぐっ」

 自然の力は予想以上に凄まじかった。

 地面を蹴って進もうとしても、足場がなくて。ここでようやく自分が沖にまで来ていたことに気づいた。

「理桜っ、もう大丈夫っ」

 押し寄せる波を避け続け、やっとの思いでたどり着いた。

 しかし、パニックに陥っている人間を運ぶのはそう簡単にいかず。理桜は俺に全体重を乗せるように必死でしがみついてきた。

 振り向くと、岸には豆サイズの友人達と大人達。
 正確な距離は分からないが、確実に50メートルは流されている。

 このまま救助を待つか? だけど、いくらサッカー部のエースでも、あれだけもがけば体力を消耗しきっているはず。

 どう動けばいいのかと考えていると、背後から波が襲いかかってきた。一瞬にして上半身が呑まれ、海水が口の中に流れ込む。

 ──怖い。

 クラゲに刺された時とは比にならないほどの恐怖が全身を駆け巡る。

 ダメだ。ここにいたら助けが来る前に沈んでしまう。早く逃げないと。

 水を掻いて進もうとしたその時、力尽きたのか、理桜がずるりと背中から落ちた。

 理桜……っ!

 心の中で叫んで手を伸ばしたが、再び波が襲いかかり、避ける暇もなく、大きな衝撃が俺達を包み込んだ。





 誰かのすすり泣く声で目を覚ました。

 病室のような場所。だけど、薄暗く、天井も壁一面も真っ白。

「どうして……っ」

 顔を左に向けると、声を詰まらせながら母が泣いていた。……オレンジ色の巾着袋を握りしめて。

 母の隣には、リュックサックを抱きしめる姉と、帽子を抱きしめる兄。右には、嗚咽を漏らす祖父の肩を優しく擦る父の姿が。

 違和感に気づき、慌てて起き上がって後ろを向くと──青白い顔をした自分がベッドの上で眠っていた。

 そんな……嘘だろ? 俺……。

 すると、コンコンコンとノック音が聞こえてドアが開いた。

「お義兄さん……」

 入ってきた人物を見た瞬間、充血した祖父の目から再び涙がこぼれ落ちた。

 ヒロマサさんと、ヒロコさんと……ひいばあちゃん。

「ごめん、俺が炎天下の中を歩かせたばかりに……っ」
「違う、叔父さんは悪くない。叔父さんのせいじゃないって……っ」

 自分を責め始めた大叔父を、父が首を横に振って宥める。

 その隣で、涙目の大叔母が曾祖母を連れて枕元にやってきた。

「タダシさんとユキエのところに行ったか……2人によろしくねぇ」

 しわしわの手で俺の頬を撫でる曾祖母。

 涙は流れていないけど、瞳はどことなく悲しい色に染まっていた。

 それもそうだ。ばあちゃん……実の娘が亡くなって、まだ3年も経っていないんだから。

 ごめんね。また来るねって、約束したのに。

 親不孝で、祖父母不孝で、曾祖母不孝で……馬鹿な子孫でごめんなさい。


 悲痛に満ちた家族と親戚の姿に心を痛めたが、現実は残酷で。2日後、追い打ちをかけるように葬儀が行われた。

「浅浜っ、ごめん! 俺が、俺があの時手を離したから……っ」

 棺にしがみついて泣き崩れる鋼太郎の背中を、桃士が涙目で擦っている。

 違う。お前はパニックになった俺を何度も呼び戻そうとしてくれた。

 悪いのは取り乱した俺。勝手に手を振りほどいて海に突っ込んでいった俺なんだよ。

 俺のために忙しい中時間作ってくれたのに。朝早くから来てくれたのに。

 高校最後の夏の思い出も作れなくて、撮った写真も渡せなくてごめん。

 ──理桜のことも、助けられなくて本当にごめん。

 そう声をかけても、何度も謝っても、届くことはなく。抱きしめることも、涙を拭うこともできない。

 直視できなくて顔を背けると、その光景を少し離れた場所から眺める祖父を見つけた。一昨日と同様に目が充血していて、今にも泣き出しそう。

「おじさん!」

 すると、凛々しい顔立ちをした中年男性が祖父の元に駆け寄った。

「これ、使って」
「ありがとう……」

 ヒロマサさんと顔の系統が似ている。親戚だろうか。

 ハンカチを受け取った祖父は、身内らしき彼に背中を擦られながら涙を拭っていた。