恐怖を紛らわそうと、帽子を深く被り直したその時。
「うわぁぁっっ!」
突然真横を黒い物体がブーンと通過した。目の前の背中にしがみつく。
「おおっ、どうしたの?」
「あそこ、変なやつがいるぅぅ」
顔を背中にくっつけたまま前方を指差す。
「あー、カブトムシね。この季節ならいてもおかしくはないか」
「いやぁぁ、名前出さないでぇぇ」
セミ事件以来、虫全般が苦手になったが、中でも飛行するタイプの虫は、名前を聞くだけでもゾワゾワと鳥肌が立つ。特に夏場は活動のピークに当たる時期だから、なお怖い。
「もうやだよぉぉ、帰りたいぃぃ」
「帰りたいなら離れて。これじゃ動けないよ」
「分かってる。でも離れたら、あいつが、視界に入る」
「あいつって……。お昼食べに行くんじゃなかったの? せっかく走ったのに、これじゃ間に合わなくなるよ?」
「ううっ、それも嫌だぁぁ」
大好物が待っているのに、大嫌いなやつに足止めされて動けない。
しがみつく力を強めていると、「もう、しょうがないなぁ」と呆れた声が聞こえて、体を離された。
「これで我慢してくれる?」
代わりにこっちを掴めと言わんばかりに、私の手を左腕に。
「いいの?」
「動けなくなるよりかはマシだから」
「ありがとう……っ!」
嬉しくなって、さっき以上にギュッとしがみついた。
「ちょ、ちょっと! 近すぎるよ!」
「ご、ごめん! これくらいならいい?」
「うーん、それもちょっと……とりあえず、胸離してもらえる?」
たどたどしくお願いしてきた凪くん。
顔を覗き込むと、茹でダコ並みに真っ赤。耳に至っては、熟れすぎたりんごみたいな濃い赤に染まっている。
「……凪くんもちゃんと男の子だったんだね」
「そうだよ。健全な男子高校生なんだから……って、何押しつけてんの」
「あははっ、照れてる〜。可愛い〜」
「馬鹿っ。年上をからかうんじゃないっ」
「うわっ」
調子に乗ってリズムを取るように押しつけていたら、デコピンで反撃された。
「ファンに向かって馬鹿って言うなんて。しかも暴力まで」
「そっちだって。俺のこと散々貶したでしょ。帽子でも叩いたくせに」
「っ……でも、年上なのを利用して沢山からかってきたのは凪くんだよっ」
ムスッと頬を膨らませ、もう1度腕に抱きつく。
縁側で私を真っ赤にさせたお返しだよっ。そもそも先に腕を回したのは凪くんなんだからねっ。
照れた顔を隠すように背けて歩く凪くんに、「言葉には気をつけるんだよ!」と心の中で偉そうに物申した。
坂を下り終えると、開けた場所に出た。
変わらず木々が生い茂っているけれど、この辺りは数が少なく、先ほどよりもほんの僅かだが明るい。
出口が近づいているのを感じてホッとする反面、お別れの時間も迫ってきているのも感じ、一気に寂しさが襲ってきた。
お肉は食べたいけど……もう少しだけ一緒にいたいな。
「──……かー!」
淡い思いを抱いた瞬間、どこからか誰かの叫ぶ声が聞こえてきた。
「一花ぁーっ! 戻ってこーい!」
「チキンステーキ食いに行くんだろー!」
連続で耳に届いた声に、ドキッと心臓が音を立てる。
──お父さんと、智だ。
ということは……。
「……あとはここを道なりに進めば着くから。だから……」
「いやだっ!」
遮るように叫んで、腕にしがみつく力を強めた。
「まだ、お別れしたくない……っ」
込み上げた涙が溢れ出し、両頬を伝う。
わがままだなぁ私。またすぐ声が聞けるからと、大好物を優先させていたのに。
心の準備が完了していない間に、いきなりお別れの時間が来たからって……本当、親に似て自分勝手すぎる。
だけど──。
「チキンステーキじゃなくて、凪くんがいいっ……」
凪くんとは今日を逃したらしばらく会えなくなるって、気づいてしまったんだ。
確かにスマホを解除できて連絡が取れるようになったら、時間さえ合えばどこにいても交流できる。
でもそれは画面越し。こうやって直接顔を合わせて話せる日が来るのは、いつになるか分からない。
“次も必ず会える”って、確信できる未来がないって気づいちゃったんだよ……。
「……俺だっていやだよっ!」
再び涙が流れると、私の何倍もの強い力で抱きしめられた。
「まだ離れたくない、もっと一緒にいたい、このまま帰したくないよ……っ!」
思いを叫び、腕に力を込めて抱き寄せる凪くん。
水泳で鍛え上げられた背中に自分も腕を回し、ぶつけられた気持ちに全身で応える。
「だけど……一花はここにいちゃいけない。帰らなきゃいけない」
震える声で言葉が紡がれた後、私を捕らえていた腕の力が弱まった。
「だって……お父さんとジョニーくんに、ごめんねって謝る約束があるからね」
「うわぁぁっっ!」
突然真横を黒い物体がブーンと通過した。目の前の背中にしがみつく。
「おおっ、どうしたの?」
「あそこ、変なやつがいるぅぅ」
顔を背中にくっつけたまま前方を指差す。
「あー、カブトムシね。この季節ならいてもおかしくはないか」
「いやぁぁ、名前出さないでぇぇ」
セミ事件以来、虫全般が苦手になったが、中でも飛行するタイプの虫は、名前を聞くだけでもゾワゾワと鳥肌が立つ。特に夏場は活動のピークに当たる時期だから、なお怖い。
「もうやだよぉぉ、帰りたいぃぃ」
「帰りたいなら離れて。これじゃ動けないよ」
「分かってる。でも離れたら、あいつが、視界に入る」
「あいつって……。お昼食べに行くんじゃなかったの? せっかく走ったのに、これじゃ間に合わなくなるよ?」
「ううっ、それも嫌だぁぁ」
大好物が待っているのに、大嫌いなやつに足止めされて動けない。
しがみつく力を強めていると、「もう、しょうがないなぁ」と呆れた声が聞こえて、体を離された。
「これで我慢してくれる?」
代わりにこっちを掴めと言わんばかりに、私の手を左腕に。
「いいの?」
「動けなくなるよりかはマシだから」
「ありがとう……っ!」
嬉しくなって、さっき以上にギュッとしがみついた。
「ちょ、ちょっと! 近すぎるよ!」
「ご、ごめん! これくらいならいい?」
「うーん、それもちょっと……とりあえず、胸離してもらえる?」
たどたどしくお願いしてきた凪くん。
顔を覗き込むと、茹でダコ並みに真っ赤。耳に至っては、熟れすぎたりんごみたいな濃い赤に染まっている。
「……凪くんもちゃんと男の子だったんだね」
「そうだよ。健全な男子高校生なんだから……って、何押しつけてんの」
「あははっ、照れてる〜。可愛い〜」
「馬鹿っ。年上をからかうんじゃないっ」
「うわっ」
調子に乗ってリズムを取るように押しつけていたら、デコピンで反撃された。
「ファンに向かって馬鹿って言うなんて。しかも暴力まで」
「そっちだって。俺のこと散々貶したでしょ。帽子でも叩いたくせに」
「っ……でも、年上なのを利用して沢山からかってきたのは凪くんだよっ」
ムスッと頬を膨らませ、もう1度腕に抱きつく。
縁側で私を真っ赤にさせたお返しだよっ。そもそも先に腕を回したのは凪くんなんだからねっ。
照れた顔を隠すように背けて歩く凪くんに、「言葉には気をつけるんだよ!」と心の中で偉そうに物申した。
坂を下り終えると、開けた場所に出た。
変わらず木々が生い茂っているけれど、この辺りは数が少なく、先ほどよりもほんの僅かだが明るい。
出口が近づいているのを感じてホッとする反面、お別れの時間も迫ってきているのも感じ、一気に寂しさが襲ってきた。
お肉は食べたいけど……もう少しだけ一緒にいたいな。
「──……かー!」
淡い思いを抱いた瞬間、どこからか誰かの叫ぶ声が聞こえてきた。
「一花ぁーっ! 戻ってこーい!」
「チキンステーキ食いに行くんだろー!」
連続で耳に届いた声に、ドキッと心臓が音を立てる。
──お父さんと、智だ。
ということは……。
「……あとはここを道なりに進めば着くから。だから……」
「いやだっ!」
遮るように叫んで、腕にしがみつく力を強めた。
「まだ、お別れしたくない……っ」
込み上げた涙が溢れ出し、両頬を伝う。
わがままだなぁ私。またすぐ声が聞けるからと、大好物を優先させていたのに。
心の準備が完了していない間に、いきなりお別れの時間が来たからって……本当、親に似て自分勝手すぎる。
だけど──。
「チキンステーキじゃなくて、凪くんがいいっ……」
凪くんとは今日を逃したらしばらく会えなくなるって、気づいてしまったんだ。
確かにスマホを解除できて連絡が取れるようになったら、時間さえ合えばどこにいても交流できる。
でもそれは画面越し。こうやって直接顔を合わせて話せる日が来るのは、いつになるか分からない。
“次も必ず会える”って、確信できる未来がないって気づいちゃったんだよ……。
「……俺だっていやだよっ!」
再び涙が流れると、私の何倍もの強い力で抱きしめられた。
「まだ離れたくない、もっと一緒にいたい、このまま帰したくないよ……っ!」
思いを叫び、腕に力を込めて抱き寄せる凪くん。
水泳で鍛え上げられた背中に自分も腕を回し、ぶつけられた気持ちに全身で応える。
「だけど……一花はここにいちゃいけない。帰らなきゃいけない」
震える声で言葉が紡がれた後、私を捕らえていた腕の力が弱まった。
「だって……お父さんとジョニーくんに、ごめんねって謝る約束があるからね」