砂浜に描いたうたかたの夢

 朝食を済ませた日曜の朝。台所で食器を洗う祖母と伯母のお手伝いをする。

「おばあちゃん、これはどこに入れるの?」
「ん? あぁ、その大きい器なら1番下」
「ええ? 下? どこ?」
「奥。ちょっと見えづらいけど、同じのが重ねてあるから」
「あぁ! あったあった!」

 棚の引き出しを全開にして、胸に抱えた大きめの器を1つずつ丁寧にしまう。

「この1週間、一花ちゃんには沢山お世話になったわね〜」
「お母さんが言った通り、百人力だったね」

 流し台でお皿を洗ってはすすぐ2人。その後ろで顔をニヤニヤさせながら、作業台に積まれていくお皿を布巾で拭いて棚に戻す。

 帰省してから、毎日のように感謝の言葉と褒め言葉をもらった。

 それだけでも嬉しいのに、アイスをはじめ、大好物が大量に入ったオードブルまでも買ってくれた。

 お手伝いする者の特権なのだろうけど、私にとって料理は大好きなことだから全然苦ではなかった。

 大好きなことをして、大好きな物を食べることができて……この1週間、好きなものに囲まれて最高に幸せだったな。

「一花ちゃん、本当にありがとう。今日のお昼は特別に、一花ちゃんの食べたい物をごちそうしようかな」
「本当⁉ やったぁ!」

 嬉しさのあまり、その場でピョンと小さく跳びはねた。

「甘々だねぇ。孫は目に入れても痛くないってやつか」
「ええ。何人入れても痛くないわよ。それより一花ちゃん、何食べたい?」
「んー……鶏肉がいいな!」

 苦笑いする伯母をよそに話を進める私達。食べたい物は山ほどあるけれど、私だけ特別なら大好物が食べたい。

 焼き鳥にしようか、唐揚げにしようか。他にも、照り焼きチキンとかフライドチキンもいいなぁ。

「鶏肉かぁ。それなら、隣町のレストランに行かない?」

 脳内に鶏肉料理を浮かべていると、思いついたように祖母が口を開いた。

「隣町? 遠いなぁ。まさか私が送迎係やるの?」
「あらバレちゃった。でも香織にもお世話になったから特別にごちそうするわよ」
「そうこなくっちゃ。で、どこにあるの?」
「ショッピングモールの近く。6月にオープンしたばかりの新しいお店よ。今朝のチラシに、今月から新メニューでチキンステーキが登場したって書いてあったから、ピッタリだと思ってね」
「なるほど。じゃあおばあちゃんのお世話はお父さん達に任せるのね」
「何言ってるの、おばあちゃんも一緒に連れて行くわよ」
「ええっ⁉ 4人で行くの⁉」
「あんな男だらけの中で女1人は寂しいじゃない。今日で最後なんだし、思いっきり楽しみましょ! 題して、松川家の女子会!」
「いや、私もう松川じゃないんだけど……」

 呆然とする私を置いて、どんどん話が展開されていく。

 女子会やら、ひいおばあちゃんも連れて行くやら、気になるワードだらけ。

 だけど、それよりも私がまず反応したのは……。

「あの、そのレストランには、何時頃に行く予定なの?」
「そうねぇ、オープンから2ヶ月経ってるけど、夏休みで多いと思うから……11時台かしら」
「お盆だもんね。それに今日は日曜だから、ランチタイムでも多そう。待ち時間も考えると、11時半には着いておきたいかな」

 早急に鶏肉料理を消し去り、丸いアナログ時計を思い浮かべる。

 ショッピングモールがある町の中心部までは、車でおよそ20分。11時半に到着だとすると、遅くても11時10分にはここを出発しないといけない。

「……あ、何か、予定あった?」
「……はい」

 あからさまに沈む顔色を見た伯母が気まずそうに尋ねてきた。

 今日の午前は、凪くんとの海水浴の予定がある。
時間は9時から11時で、昨日と同じ2時間。

 ここから海まで何分かかるか計ったことがないから詳しい時間は分からないけど、この10分間で、帰宅とシャワーと着替えと準備は、さすがに無理がある。

 仮に猛ダッシュしたとしても、信号に引っかからずスムーズに帰れたとしても、間に合う気がしない。

「でも、早めに帰ってくるので! みんなで行きましょう!」

 だが、今日は帰省最終日。この日を逃せば、しばらく伯母にも祖母にも、曾祖母にも会えない。

 それにチキンステーキなんて、最終日にはもってこいのごちそう。絵日記に描くのにピッタリ。

 10分、いや5分ほど早く切り上げてもらえるようお願いすれば、ギリギリ間に合うかもしれない。

 ごめんね。せっかく時間作ってくれたのに。

 でも凪くんとは、夏休みが終わって友達にパスワードを聞くことができたら、いつでも連絡が取れるようになるから。

 電話番号も交換したら、テレビ電話で話すことだってできるから。

「そう? なら、ひいおばあちゃんにも話しておくね。で、道は知ってるの?」
「大丈夫。チラシに住所書いてあったから。ナビは付いてるのよね?」
「もちろん。最初から付いてるわよ」

 行くことが決まり、伯母と祖母はくるりと背を向けた。安堵すると同時に手を合わせる。
 いつも自分勝手でごめんなさい。いつも年下らしからぬ失礼なことを言って本当にごめんなさい。

 この分の借りは必ず返しますので、どうかお許しください。

 ペコペコと頭を下げながら、海のある方角に向かって謝罪の念を飛ばした。

「料理係がいないなら、お留守番する人達のご飯を考えなきゃね」
「そうね。何がいいかしら」

 話し合いを再開した2人の後ろで、自分も作業を再開する。

 お留守番……おじいちゃんとお父さんと智のことだよね? あとジョニーも。

 毎食私達が作ってはいるけれど、冷蔵庫に食材はあるし、朝炊いたご飯もまだ残ってる。わざわざ作り置きしなくてもいいんじゃ……。

「おじいちゃん達、料理できないの?」

 聞き流していたが、どうしても気になり、質問を投げかけた。

「ううん。全くできないわけじゃないの。むしろ昔は、一花ちゃんみたいによく作ってたほう。ね、お母さん」
「ええ。ただちょっと、加減が分からないだけなの」

 苦笑いする2人。過去に作った料理で何かあったのだと見て取れた。

「昔、私達2人とも熱を出して寝込んだことがあってね。おじいちゃんが仕事を休んでお粥を作ってくれたのよ。だけど、塩を入れすぎたみたいで、ものすごく辛かったの」
「あったあった。あの時は辛すぎて1度戻したなぁ。懐かしい」

 伯母の口から出た単語に目を丸くする。

 戻した……⁉ 唐辛子を使った激辛料理で吐くのはバラエティ番組で何度か観たことはあるけど、お粥で吐くパターンは初めて聞いたよ⁉

「それ、味見してなかったんじゃない⁉」
「そう思うでしょ? だけどね、ちゃんと確認したそうなのよ。本当お粥とは考えられないくらい辛かったもんだから、しばらく観察して。そしたらようやく原因が分かったの」
「一体何だったの⁉」
「元から私達と味覚が違ったの」

 原因を探るため、平日の朝と夜、土日は朝昼夜、食事するところを毎日観察し、メニューとともに記録していたという祖母。1週間観察を続けた結果、調味料を使う量が多いということに気づいた。

 白ご飯やお刺身、豆腐、サラダなど、元から味付けされていない物に対してふんだんにかけていたらしい。

「何回も注意したんだけど、なかなか減らなくてね。結局健康診断で引っかかるまで治らなかったわ」
「そんなに濃い味が好きだったんだね」
「ええ。お医者さんからも厳しく言われて、それからは健康的な食事をするようになったの」

 ここ1週間の祖父の食事中の様子を思い出す。

 確かに、あまり揚げ物とかは食べず、私や智に譲ってくれてたな。台所にも、おばあちゃんを呼ぶ時以外はほとんど入ってなかった気がする。

 つまり、本当はみんなに振る舞いたいけど、被害者を出してしまうから、我慢するためにあえて台所に近寄らないようにしていたのか。

 家族のために作っても、自分しか楽しめなかったのはちょっと気の毒だな。

「大変だったんだね。でも、料理ならお父さんが得意だから、作り置きはしなくて大丈夫だよ!」
「「ええっ⁉」」

 口にした途端、驚愕に満ちた声で返された。

「お父さんって、一昨日ベロンベロンに酔っぱらってたクニユキよね?」
「はい」
「グラスを割って、一花ちゃんお手製の料理までひっくり返した、暴れん坊のクニユキよね?」
「は、はい」
「次の日二日酔いで寝坊して、先祖に情けない姿を晒した、あのクニユキよね?」
「はい、そうですけど……」

 逐一確認するように尋ねる伯母に気圧されて、徐々に声が小さくなっていく。

 ジリジリと迫ってくるその顔には「嘘でしょ⁉」と書かれており、まるで信じられないという反応。

 智にも似たようなことを話して驚かれたけど、ここまで血眼になっていない。

「一花ちゃん……本当なの?」
「本当だよっ。最近はあまりしないけど、お母さんの代わりにお弁当作ってくれた時もあったんだよ」

 祖母も、お皿を持ったまま目を見開いて立ち尽くしている。

「そっか……あのクニユキが、お弁当を……」

 丸くなった目にじわじわと涙が溜まり、溢れて頬を伝った。

 男子組の昼食の心配はしなくていいって言っただけなのに。なぜか台所には、子の成長を喜ぶ感動のムードが漂っている。

 お父さんも、おじいちゃんみたいに料理が苦手だったのかな。だけど、今も涙を流してしまうくらい酷いありさまだったの……?

 ティッシュで涙を拭う祖母を眺めていると、後方で曇りガラスの引き戸が開いた。

「母さーん、麦茶あるー? ……って、どうしたの」

 やってきたのは、ほんのついさっきまで話題の中心になっていた父だった。

 噂をすれば影がさす、という言葉があるけれど、まさか本当に来るなんて。廊下に聞こえてたのかな……。

「クニユキ……あなた頑張ったのね……」
「は? 何を?」
「なんでもない! 料理できるのすごいねって話してただけ!」
「え、おいちょっと、俺は麦茶を……」
「後で持ってくるから!」

 頼むから空気を読んで。今はそっとしておいてあげて。

 そう言わんばかりに父の背中を押して台所から退出させたのだった。





 誰もいない荷物部屋で、祖父母と曾祖母に借りた全身鏡の前で首を動かし、頭部全体を確認する。

 みつあみにした髪の毛をくるんとまとめた耳下お団子ヘア。水に濡れて崩れないよう、持参したヘアピンを全部使ってしっかり固定した。

 まだ少し時間は残ってるけど、凪くんが先に到着している可能性も考えて、今日は早めに出発しよう。
 リュックサックを背負ってドアをそっと開け、廊下に誰もいないことを確認し、忍び足で玄関へ向かった。

 スニーカーの靴紐を結び直して立ち上がり、曇りガラスの引き戸をゆっくり開ける。

「お、一花」

 外に出た瞬間、思わず心の中で舌打ちしてしまった。

「今日は早いんだな」
「う、うん。お昼から雨降るみたいだから」

 小さなプールの中で嬉しそうに尻尾を振るジョニー。

 その隣で……父が小さな折りたたみ椅子に座っている。

 黙って立ち去りたいところだけど、呼ばれたので無視するわけにもいかず、一声かける。

「何してるの?」
「見ての通り水遊びだよ。ペット用のプールがあるって教えてもらって、最後に一緒に遊ぼうと思ってな」

 目を細めてジョニーの頭を撫で始めた父。気持ちいいのか、ジョニーも父と同じように目を細めている。

 犬ってすごいなぁ。

 怒鳴り散らしている人間に突進して全身で止めに入って。至近距離で暴言を吐かれても、次の日は何もなかったかのように駆け寄って挨拶をして。

 そして今、父の思い出作りに協力してくれている。

 どうしてこんなに強くて健気なんだろう。その小さな頭に乗っている手をどけて、優しく抱きしめてあげたいよ。

「一花もこれから水浴びか?」

 いってきますと一言言い残して立ち去ろうとしたが、一歩踏み出したところで足止めされた。

「えっ、なんで」
「違うのか? 水着着てるからてっきり海に行くのかと」
「いや……合ってるけど」

 心臓がドクンドクンと荒ぶり始め、帽子の中で冷や汗が額を伝う。

 どうして……⁉ みんながお風呂を終えた後にこっそり洗って朝イチで回収したのに。水着を買ったことも、口外してないから誰も知らないはず……。

「なんだ、やっぱりそうじゃないか。でも、そんな派手なやつ持ってたっけ?」
「いや。こないだショッピングモールに行った時に買った。ご飯作り手伝ったお礼に、おばあちゃん達がお小遣いくれて」

 追及される前に説明した。

 今朝はひいおばあちゃんが先に起きていたけれど、老眼だから、仮に見たとしても水着だとは判別できない。

 他に考えられるとしたら……夜中に洗面所に寄った時、ドアの隙間から見えた、とか。二日酔いならトイレに行く回数も多かっただろうし。

「あー、だからデカい袋持ってたのか」
「うん」

 短く返事をしてそそくさと退散する。せっかく早く準備が終わったのに、道草食ってたら意味がない。

「そっか。良かったな、早めに宿題終わって」

 しかし、昨日の智と同様、今回もそう簡単には解放させてもらえなかった。

「絵日記はまだ残ってるみたいだが、持ってきたやつはもう全部終わったんだろう?」
「…………いや」

 数秒沈黙を置いた後、包み隠さず答える。

「え……まだ残ってるのか?」
「……化学のプリントが、2ページだけ」

 聞こえなかったふりをして逃げようかとも思ったのだけど、それはあからさますぎて怪しまれるのがオチ。嘘をついても、今日も午後から部屋を借りる予定なので、終わったと思い込んだ父が祖父母を呼びに来るかもしれない。

 残されたのは、正直に白状する道しかなかったのだ。

「でも、お昼にするから大丈夫」

 サボって遊びに行くわけではないと伝えるも、父の口から、はぁ……と溜め息が漏れた。

 この呆れた様子の溜め息は、合流した時にも耳にしている。

 恐らくこの次に発せられる言葉は……。

「そうやってお前は大事なことを後回しにするのか」
「違う! 本当は朝やろうと思ってたんだよ! でもお昼から雨だっていうから午後に変えただけ!」
「それを後回しと言うんだよ。それに、たった2ページならすぐ終わらせられるだろう。そんなシャレた頭にする時間があったら」

 説教モードに入った父が私の髪の毛を顎で差した。

 たった2ページ、されど2ページ。そりゃあ数だけ見たら少ないよね。集中すれば1時間もかからないだろうって。

 でもね……私が通っているのは地元で1番の進学校。問題自体は少なくても、内容はすごく複雑で難しいの。

 特に最終章は応用問題がほとんど。教科書とノートを見直しながらじゃないと解けないんだよ。

 込み上げる感情を抑え、右の拳に力を入れる。

「そこまで言うなら解いてみてよ。20分で」
「は? なんで」
「さっき『シャレた頭にする時間があったら』って言ったよね? これ、20分で作ったからさ」

 爪を手のひらに食い込ませつつ、左手でお団子を指差した。

 この髪型は20分で完成させた。器用な人からしたら遅いと感じるのだろうけど、20分は50分授業の半分よりも短い時間。

 テストの時でさえ、裏表に印刷されたプリントを50分近くかけて解くんだ。半分以下の時間で全問題を解くのは、いくらなんでも無理難題すぎる。

「20分じゃ無理に決まってるだろう」
「え? たった2ページだよ? 人に偉そうに言うわりにできないの?」
「お前……っ」
 煽り口調で返すと、ジョニーの頭から手を離して立ち上がった。

 親に向かって口答えするなんて。反抗期だからって生意気すぎる。そんな声が聞こえてきそうなほど、険しい表情を浮かべている。

 だけど、私達子どもも頑張ってるんだよ。

 宿題の量に頭がパンクしそうになっても、苦手な問題や難しい問題にぶち当たっても、乗り越えようと毎日試行錯誤してるんだよ。

 それを、大人の目線で「たった」の3文字で片づけないでほしい。

 というか……親ならそこは、「よく頑張ったな!」って、努力を褒め称えるところだよね?

「……お父さんっていつもそうだよね。人の都合も考えないで、好き勝手言って」
「おい、話を逸らすな」
「この帰省もそうだよね。私の意見丸無視で勝手に話進めて。どこかに連れて行ってとは言ったけど、自分は仕事があるからって、10年近く帰ってない家に普通子供1人で行かせる?」

 冷静を保っていたが、我慢の限界に達してしまった。怒りが声に表れていたのか、空気を察知したジョニーがクゥーンクゥーンと不安そうに鳴き始めた。

「高校生だからもう大丈夫だろうと思ったのかもしれないけど……私、伯母さんに会うまですごく不安だったんだよ?」

 乗り場と時間をブツブツ唱えて。切符と電光掲示板をしつこく照らし合わせて。無事に乗ることができてホッとしたけれど、油断はできなかった。

 降りる駅を間違えるといけないから、停車する度に駅の名前を確認して。乗り過ごしてしまうかもしれないからと、宿題で眠気を飛ばした。

「絵日記のことだって、こっちに来る前に、既に1回計画立て直してたんだよ⁉ なのに、そっちが勝手に決めるから、結局2回も立て直した……っ」
「えっ、そうだったのか?」
「そうだよ! あと、1週間も空いてたじゃないかって言ってたけど、じゃあそれが仕事の時だったらどうなの⁉」
「それは……」

 早口でまくしたてると、バツが悪そうに黙り込んだ。

 自分のことは棚に上げて偉そうに物を言う。これだから大人は理不尽で嫌なんだ。

 そりゃあ、私自身もそこまで出来た人間じゃないから、偉そうなことは言えないけど……普通親は、子供のお手本にならなきゃいけない存在だよね?

 あれこれ口出しする以前に、自分自身の言動は見直さないの⁉

「それなら、提案した時にすぐ言えば良かったじゃないか。嫌がってる様子じゃなかったから、てっきりいいのかと……」
「うるさい! 言い訳すんな! この呑んだくれの暴れん坊親父が!」

 乱暴に吐き捨てた後、近くに転がっていたボールを拾い、父の顔めがけて投げて走り去った。

「たった」で済ませてほしくないとは言ったものの、そこは「ごめん」って、“たった一言”でもいいから謝ってほしかった。

 あぁ、本当イライラする。朝から説教しやがって。しかもおでかけ前に。

 そもそも、毎日の勉強で疲れきった心を癒やすために帰省したのに。疲れの元凶になった話題をここで出すか⁉

「お父さんのバカヤローーっ‼ クソ親父ーーっ‼」

 止まることなく走り抜けて高台に登り、誰もいない閑静な海に向かって叫んだ。

「朝から元気だね」

 すぐ後ろで声がして振り向くと、昨日と同じ格好をした凪くんが立っていた。

「なに、また喧嘩したの?」
「……聞いてくれる?」
「もちろん」

 優しさに包まれた笑顔が現れ、燃え盛っていた怒りの炎が一瞬にして鎮火した。

 はぁ……この安心感溢れる笑顔、癒やされる。

 推しだから、顔がいいからとかは関係なく、元から凪くんの笑顔には、精神を安定させる不思議な力があるのかも。

 そのままお決まりの場所に移動し、叫んだ理由を話した。

「確かに朝から説教はテンション下がるね」
「でしょ? 大人だって同じことされたら気分下がるくせに。何様だよ」

 砂浜に座ってブツブツと鬱憤を漏らす。

 だいぶ落ち着きは取り戻したが、思い出したらまた腹が立ってきた。

 足を伸ばして波に当たり、火照った体の温度を下げる。

「すごく分かるよ。俺も似たようなことあったから。けど……物は投げちゃダメだよ」

 共感してくれて嬉しいと喜んだのも束の間、穏やかな口調で指摘された。

「そのボールさ、多分ジョニーくんのおもちゃだよね? 大切な物を乱暴に扱われたら誰だって悲しむよ」
「……ですね」

 途端にいたたまれない気持ちになり、視線を落とす。

 いきなり怒り出して、ボール投げて、ビックリさせたよね。もし軌道がずれていたら、隣にいたジョニーに当たっていたかもしれない。

 うなだれて顔を両膝に埋める。

 最低だ。私も結局親と同じで、物に当たっているじゃないか。

「ごめんねジョニー……」
「いや、今ここで謝られても。とにかく、家に帰ったらお父さんにもちゃんと謝るんだよ」
「ええー……」
「ええーじゃない。たとえ相手が悪かったとしても、1割でも自分にも非があるなら謝って。文句を言っていいのは、相手が10割悪い時だよ」

 その体勢のままチラッと顔を横に向けると、真剣な目つきと視線がぶつかった。

 顔は全然似てないのに、説教する父の顔が重なって見えて、眉をひそめる。

 確かにボールを投げたのは悪かった。それは認める。けど、先に謝るのはあっちじゃない?

 空気を読まず余計な口出しをして、子の心に寄り添わないで言い訳した。充分私が触発する原因は作ってる。だからお父さんが先に謝るべきだ。

 諭してきた彼に反抗するようにそっぽを向くと、突風が吹いた。

「ああっ! 帽子が!」

 風に乗って飛んだ帽子は海の上へ。そんなっ、あの帽子お気に入りなのに……!

「取ってくる!」
「ええっ⁉ ちょっと待っ……」

 制止する彼を無視して浅瀬に入り、平泳ぎで帽子を取りに向かう。

 あれは凪くんが褒めてくれた花飾りが付いている特別な帽子。手放したくない。

 波を横切りながら泳ぎ、帽子の元にたどり着いた。

「一花ちゃーん! 大丈夫ー⁉」
「うん!」

 掴んだ帽子を高く上げ、保護したことを知らせた。手を振る凪くんの近くには、昨日見た赤い灯台が立っている。

 わわっ、夢中になってたらこんなところまで来てたなんて。早く戻らなきゃ。

 腕と足を使って方向転換。しかし、ここで、あるはずのものがないことに気づく。

 ……足場が、ない。

 その時、右足の裏に張り裂けそうな痛みが走った。

 嘘、つった……⁉

「凪く……っ」

 右足を動かせないと判断し、咄嗟に名前を呼ぶも、背後から来た波に呑まれ、口の中に水が入った。

「っ……はっ」

 息ができないっ、苦しいっ、助けてっ。

 一瞬にして頭が真っ白になり、もがいて酸素を体内に取り込む。

「一花っ‼」

 すると、上下に揺れる視界の端で、凪くんが防波堤から海に飛び込むのが見えた。綺麗なフォームで入水し、クロールで泳いでくる。

 凪くん、ダメ。またクラゲに刺されちゃう。また苦しい思いしちゃうよ。

 来ちゃダメだと心では言いながらも、腕と左足を必死に動かして耐える。しかし、負担をかけすぎたのか、最悪なことに左足までつってしまった。

 その瞬間、再び背後から波が襲い、今度はのどの奥に水が流れ込んだ。

 足裏に感じた時の何倍もの強烈な痛みが、のど全体に広がる。

 その感覚が胸に移動すると、視界がぼやけ、青一色の世界に落ちた。

 お母さん、毎日騒いでごめんなさい。

 おじいちゃん、おばあちゃん、伯母さん、智、最後まで迷惑かけてごめんなさい。

 楓も、お土産買ったのに持って帰れなくてごめん。

 そして、お父さんも──。

 走馬灯を見終えてまぶたを閉じると、冷たくなった体が何かに包まれた。

 音が遮断された真っ暗な世界の中。誰かが私を引っ張っている……?

「一花っ! しっかりしろ!」

 顔に蒸し暑い空気が触れた。

 けれど、もう意識が薄れていて確認する気力も残っておらず。

 最後に唇に温もりを感じて意識を手放した。
 ──ミーンミンミンミンミーン……。

「んん……?」

 夏を感じさせる鳴き声が耳に入り、眉間にシワを寄せながら目を開けた。

 視界に入った、鉢植えの花と盆栽。

 曾祖母の家の庭と構造が似てるけれど、飾ってある種類が少し違う。だとしたら、ここは誰かの家の庭……?

「あ、起きた?」

 見慣れない場所に戸惑っていると、頭上から声が聞こえた。

「おはよう。よく眠れた?」

 仰向けになり、まばたきを繰り返しながら、寝起き数秒の頭を起動させる。

 前髪から覗く涼しげな目元、派手さはないが全体的に整った品のある顔立ち。

「……うえぇぇっっ⁉」

 視界いっぱいに広がる顔が鮮明になり、慌てて起き上がった。

「おおっ。寝起きなのに元気いっぱいだなぁ。具合はどう? どこも痛くない?」
「う、うん。ピンピン、してます」
「なら良かった」

 優しく笑う凪くんにぎこちなく返事をし、辺りを確認する。

 左側には障子、右側には庭。どうやらここは縁側らしい。

「岸まで運んだんだけど、ぐったりしてたから家に連れて帰ったんだ」
「そう、なんだ。助けてくれてありがとう」
「いえいえ。あ、帽子あるから持ってくるね」

 そう言って立ち上がり、凪くんは障子を開けて部屋に入っていった。

 手のひらで頬をそっと包み込む。

 溺れて、沈んで、走馬灯を見て。

 私の人生もう終わりなのかなって死を覚悟してたけど……無事だったんだ。生きて帰ってこれたんだ。

「ただいま。はいどうぞ」
「ありがとう」

 戻ってきた彼から帽子を受け取った。良かった。花飾りも無事だったみたい。

 海水を含んで少し柔らかくなった帽子をギュッと抱きしめる。

「本当驚いたよ。こっち見て返事してたのに、次の瞬間溺れてるんだもん。クラゲか何かに刺されてひるんだ?」
「ううん。足がつって動けなかっただけ。それに、足場もなかったから……」

 回想しながら帽子を抱きしめる力を強めた。

 いつ波が来るか予測できない恐怖、のどと肺が水に埋め尽くされていく感覚。

 何度足掻いても、状況は良くなるどころか、体力が失われていくだけ。

 生きたいという希望が一瞬にして消え去り、絶望に塗り替えられた。

 心臓が激しく音を立て始め、顔が青ざめていく。すると、背中に手が回り、そっと抱き寄せられた。

「……怖かったよね。でももう大丈夫」

 小さな子どもをあやすように、背中をトントンしつつ擦ってくれた。

 高台で号泣した時は壊れ物を扱うみたいな手つきだったけど、今はしっかり擦られていて、手のひらの温かさがハッキリと伝わってくる。

 じわじわと涙が込み上げてきて、こぼれ落ちないように唇を噛みしめた。

「……あっ、ごめん」

 その優しさに甘えたくなって自分も背中に手を回そうとしたのだけれど、惜しくも体が離れてしまった。

「いきなり、嫌だったよね」
「ううんっ。全然……」

 そんなことないよ。そう小さな声で付け足すも、視線は彼ではなく帽子に。

 おかしいな。高台で見つめられた時は安心感で満たされていたのに。今は胸がドキドキしてて、顔を合わせないで済むハグのほうがマシだと感じてしまっている。

 とはいえ、ずっと俯いたままなのは失礼なので、恐る恐る顔を上げた。

「あの、助かったってことは、何か措置したんだよね?」
「うん。心肺蘇生して、水吐き出させたよ」

 叱られた子供が親に向けるような眼差しでぎこちなく尋ねた私に、凪くんはすんなり答えた。

 全く動揺しない堂々とした姿。いかに自分が自意識過剰で異性慣れしていないということを思い知る。

 心肺蘇生って、心臓マッサージをして人工呼吸をするやつだったよね。

 意識が飛ぶ直前、唇に何か温かいものが触れていたような気がしたから、もしかして……。

「……ちょっと、どこ触ってるの」

 ハッと我に返り、口元に当てていた手を急いで離した。

「もう、こっちは必死で救助してたっていうのに」
「ううっ、すみませんっ」

 ジリジリと凪くんとの距離が縮まる。近づいてくるジト目から逃れようと、帽子でガードするも……。

「そんな純情乙女みたいな反応されるとは思わなかったよ」

 あっけなくひょいと取り上げられてしまい、熱くなった頬を両手で挟まれた。

「本当にピュアだねぇ、一花ちゃんは。もう笑っちゃうくらいピュアだよ」
「は、放してよっ」
「将来悪い男に引っかからないか心配だなぁ」
「かからないよっ。弟いるし、男の性質には詳しいほうなんだからっ」
「へぇ〜。じゃあどうして今お顔がりんごみたいに真っ赤なんですかー?」
「うっ、それは……」

 指先を当てたままくるくる回して感触を楽しむ凪くん。海辺でからかってきた時と同じ、いたずらっ子みたいな笑顔を浮かべている。

 何が『引っかからないか心配だなぁ』だ!

 年上の余裕をこれでもかってほど見せつけて、人生経験が少ない年下の心を弄んで! 凪くんが現時点で1番悪い男だよ!

「答えられないってことは、つまり」
「違う! 別に凪くんにドキドキしてるわけじゃないから!」
「……俺まだ何も言ってないんだけど」
「…………」

 黙り込むと、目の前の彼からふふふっと笑い声が漏れた。

 焦ったがゆえに墓穴を掘ってしまった……。
「凪くんの馬鹿! 意地悪! チャラ男! ズルズルの男!」
「わぁ、酷い言われよう。ってかズルズルの男って何」
「女の子をドキドキさせるのが上手い、ズルい男ってことだよ!」
「ふはっ、とうとう開き直ったな」

 両頬から手を離したかと思えば、「素直でよろしい」と笑い、頭の上に。

 至近距離で頭をポンポンされて、顔の熱はさらに上昇。完全に凪くんのペースに呑まれている。

 凪くんって、こんなに積極的だったっけ。

 大人っぽい外見とは裏腹にお茶目な部分はあるけれど、こんなふうに迫ってきたり、スキンシップを取ってくることは滅多になかった。

 家にいるから素の自分を出しているだけ? もしそうだとしたら、根はかなりの女たらし……⁉

「うわぁ、睨むねぇ。『凪くーん!』って満面の笑みで駆け寄ってきてた最初の頃と大違い。いつそんな小生意気になったの?」
「元から私は生意気なんですぅ」
「ふーん、じゃあ今まで猫被ってたんだ」
「いや、そういうわけじゃ」
「マジかぁ。ショックだなぁ。さっきまでは俺の上で気持ち良さそうに寝てたのに」
「だから違うって言っ……え?」

 わざとらしく口を尖らせる彼に目を見開く。

 今お尻の下に広がっているのは、冷たくて硬い床。だけど、寝ていた時、特に仰向けになった時は、そこまで硬さはなく。むしろ、ほどよい柔らかさと温かさを感じた。

 ……ということは、私が寝ていたのは、凪くんのひ、膝の……。

「凪くんの馬鹿っ! 変態!」
「ごめんって! 悪かったから勘弁してっ」

 頭に乗っている手を払い、帽子でペシペシと叩いて反撃。

 勝手に膝枕するなんて! もう悪いを通り越して危険な男だよ!

 最後に思いっきり叩こうとしたら、家の奥からポーンポーンと音が聞こえてきた。

「これ……時計の音、だよね? 今何時?」
「多分11時じゃないかな。帰ってきたのは9時台だったけど、ここで1時間以上寝てたから」

 時刻を知り、再びサーッと顔が青ざめる。

「そんな……今日おばあちゃん達と一緒にお昼ご飯食べに行く予定だったのに……」
「マジ? 何時から?」
「11時半にはお店に着いておきたいって言ってたから……今日は少し早く解散できないかって言おうと思ってたの」

 出発予定時間まで残り10分。この家がどこにあるのかは不明だが、今急いで帰ったとしても、既に全員準備を終わらせて車に乗り込んでいるかもしれない。

 約束したのに、破ってごめんなさい……。

「分かった。リュック持ってくるから待ってて」
「えっ、まさか今から行くつもり? 無理だよ、間に合わないよ」

 立ち上がった凪くんに即答したら、なぜかデコピンを食らった。

「いったぁ……何するの!」
「やってもないのに無理って決めつけない。大丈夫、見慣れない場所だけど、裏道使えばすぐ着くから」

 顔をしかめる私の額に触れて「ごめんね」と言い残し、障子を開けて荷物を取りに行った。

 すぐ……? なら、意外と近所なの? でも、さすがに10分以内は難しいんじゃ……。

「うわぁ! なんで出てるの⁉」

 すると、障子の向こうから驚く声が上がった。

「ポチ! ハウス! ほらっ、お願いだから入って!」

 耳を近づけて様子をうかがうと、ドタバタと走り回る足音に混じって唸り声が聞こえた。

 これは恐らく、ワンちゃんがケージから脱走したんだな。にしても、定番中の定番すぎる名前……。

 付ける名前の種類が増えている現代でも、お年寄りの人にとっては、犬=ポチが定着しているみたい。

 苦笑いしていたら、足音が近づいてきて障子が開いた。

「ただいま。はいどうぞ」
「ありがとう。大丈夫だった? さっきの、ワンちゃんの声だよね?」
「うん。鍵が最後までかかってなかったみたいで……ちょっと格闘してた」

 笑顔で答える凪くんだけど、髪の毛が乱れてボサボサになっている。

 ワンちゃんと暮らし始めて3週間。多少は慣れてきたとはいえども、やっぱり1人で3匹のお世話は大変だよね。昨日少し元気がなさげだったのも、疲れが溜まっていたからなのかな。

「あら、凪くん」

 心の中で労いの言葉をかけ、靴を履いていると、庭の端に大きな荷物を持った女の人が現れた。

 年齢は私の祖母と同じ70代前半くらい。上品で綺麗めの顔立ちをしている。

「ただいま」
「ばあちゃ、なんで……」

 目を丸く見開いて固まる凪くん。凪くんのおばあさんだったようだ。

「早くない⁉ 早退したの⁉」
「ううん。今日この子のシャンプーの日だったの、すっかり忘れててね。今帰ってきたところなの」

 うふふと笑うと、左手に持った荷物に視線を落とした。

 話で聞いていた通り、笑い方が凪くんにそっくり。優しさをまとう柔らかな笑顔だ。

「どうりで1匹いないなと思ったら……先に言ってよ。ケージも空いてたから、逃げたか隠れてるのか分からなくてマジで焦ってたんだよ」
「ごめんね。それより……お客さん連れてきてたの?」

 微笑ましく眺めていたら、彼に向いていた眼差しが私に向いた。

「こんにちは! はじめまして! 凪の祖母です」
「こちらこそはじめましてっ。凪くんのお友達をやらせていただいております、一花です。勝手にお邪魔してすみません」
「やだぁ、いいのよ! 凪くんと仲良くしてくれて本当にありがとね」
 愛犬が入ったバッグを下に置いて私の両手を包み込むように握った。

 素敵な人だなぁ。表情からも手のひらからも人柄が伝わってくる。凪くんは顔立ちだけじゃなくて、性格も受け継いでいるようだ。

「あの、その子ってワンちゃんですか?」
「ええ。あ、凪くんから話聞いてた?」
「はい。犬が3匹いると聞きました。この子は何の種類ですか?」
「日本スピッツよ。今ちょっと寝てて見えにくいんだけど、全身真っ白でふわふわしてるの。名前はね──」

 おばあさんの手がバッグに伸びたその時、突如バッグがモゾモゾと動き出した。

 私の声に反応して起きちゃったのかな。お休み中のところ邪魔してごめんね。

 そう言わんばかりにしゃがんで顔を近づけると、キャンキャンキャン! と甲高い声が耳を貫いた。

「こらっ! シーくん! お客さんの前よ!」

 叱る声が聞こえてくるけれど、あまりにも大きくて、耳に響くのはワンちゃんの吠える声のみ。

 これがスピッツ……⁉ うるさっっ! 改良したんじゃなかったの⁉ それともこの子の性格が元気なだけ⁉

「一花、そろそろ行こう。時間なくなる」

 眉をひそめたまま立ち上がると、凪くんに腕を掴まれた。愛犬を宥めるおばあさんに会釈し、植物でいっぱいの庭を後にする。

「ごめん、ちょっと走るよ」
「う、うんっ」

 住宅街を全速力で駆け抜ける。

 車が通っていない閑静な道路を通り過ぎると、のどかな田園風景が見えてきた。

 右折してあぜ道に入ったところで、ようやくペースダウン。1度立ち止まり、膝に手をついて酸素を取り込む。

「急にごめんっ。うちのばあちゃん、おしゃべり好きだから、長引くと思ってさ」
「そう、なんだ……っ」

 ゼエハアと呼吸を繰り返す私達。

 生還したばかりなのに……とは思ったけど、瞳がキラキラ輝いてたし、声も弾んでた。スピッツくんが吠えなかったら、根掘り葉掘り聞かれて質問責めに遭っていたかもしれない。ありがとう、白き警報のワンちゃん。

 休憩を終え、田んぼに囲まれたあぜ道を進むこと数分。

「ねぇ……裏道って、まさかここ通るの……?」

 先導する彼の背中に恐る恐る問いかけた。

 視線の先にそびえ立つ、草木が生い茂った山。
 左右を見渡しても通れそうな道は1本もなく、真っ直ぐ続いている。

「うん。道路沿いだと遠回りになるから。ここが1番の近道なんだよ」
「えええ……」

 小さく悲鳴を漏らすも、聞く耳持たず。「さ、行くよ」と言って、凪くんは山の中へ。

 ううっ、そんなぁ。もっと明るくて地面が安定してる道はないの?

 不満をこぼしたかったが、他に行く道もないため、意を決して後を追うことに。

「足元、気をつけてね」
「う、うん」

 枯れ葉が散らばる土の道を、一歩一歩感触を確かめて進んでいく。

 田舎の山といえば、鹿とか猪とかの野生動物が住み着いていて、気軽に立ち入れない印象がある。

 けど……ここはそういう危険を示す看板が一切立っておらず、生き物が住み着いているとは到底思えないくらい静か。

 響くのは枯れ葉を踏みしめる私達の足音だけで、まだ昼前なのに、すごく不気味に感じる。

「そういえばさ、さっきの自己紹介、『お友達をやらせていただいております』って何。シンプルに友達って言えば良かったのに」
「だって、画面越しでしか話したことなかったから。それに、推しを友達って言っていいのかなって」
「え、俺、推しなの?」
「そうだよ! 中2の頃からずっと推してる! 今年の夏で2年を迎える古参ファンなんだからっ」
「うわぁ、古参アピールって。地雷のにおいがプンプンするなー」

 前を歩く彼の肩が小刻みに揺れている。

 顔は見えないが、ふふふと笑い声が漏れていて、どんな表情をしているのか大体想像がつく。

「もう、失礼だなぁ! これでも一応、ネットリテラシーは勉強してるんだからね⁉」
「ごめん、冗談だよ。応援してくれてありがとね」

 くるっと振り向いて、頭をポンポンと撫でてきた。

 また子ども扱いして……と思ったけど、もしかして、恐怖心を和らげようとして……?

 優しい意図に気づき、反撃しようと上げた手を引っ込めた。

「ここから少し下り坂だから、気をつけてね」
「分かった」

 注意喚起を受け、安全性を高めるために歩幅を小さくした。足裏の感触を念入りに確かめながら進む。

「ねぇ、本当にこの道で合ってるの?」
「うん。いつもこの辺りは暗いから。怖がらなくても大丈夫だよ」

 またも心を読まれてしまい、赤面した。

 帰省民とはいえ、グイグイ進むのなら土地勘ありそうだし、抜け道にも詳しいんだろうけど……。

 すると、道を照らしていた太陽の光が雲によって遮られた。

 お昼から雨の予報だからかな。雲の色が濃くなってきてる。

 夜じゃないけど、気持ち悪いくらい静かだから、より一層不気味度が増していて怖い。

 それに……なんだかどんどん道が狭くなっている気がする。
 恐怖を紛らわそうと、帽子を深く被り直したその時。

「うわぁぁっっ!」

 突然真横を黒い物体がブーンと通過した。目の前の背中にしがみつく。

「おおっ、どうしたの?」
「あそこ、変なやつがいるぅぅ」

 顔を背中にくっつけたまま前方を指差す。

「あー、カブトムシね。この季節ならいてもおかしくはないか」
「いやぁぁ、名前出さないでぇぇ」

 セミ事件以来、虫全般が苦手になったが、中でも飛行するタイプの虫は、名前を聞くだけでもゾワゾワと鳥肌が立つ。特に夏場は活動のピークに当たる時期だから、なお怖い。

「もうやだよぉぉ、帰りたいぃぃ」
「帰りたいなら離れて。これじゃ動けないよ」
「分かってる。でも離れたら、あいつが、視界に入る」
「あいつって……。お昼食べに行くんじゃなかったの? せっかく走ったのに、これじゃ間に合わなくなるよ?」
「ううっ、それも嫌だぁぁ」

 大好物が待っているのに、大嫌いなやつに足止めされて動けない。

 しがみつく力を強めていると、「もう、しょうがないなぁ」と呆れた声が聞こえて、体を離された。

「これで我慢してくれる?」

 代わりにこっちを掴めと言わんばかりに、私の手を左腕に。

「いいの?」
「動けなくなるよりかはマシだから」
「ありがとう……っ!」

 嬉しくなって、さっき以上にギュッとしがみついた。

「ちょ、ちょっと! 近すぎるよ!」
「ご、ごめん! これくらいならいい?」
「うーん、それもちょっと……とりあえず、胸離してもらえる?」

 たどたどしくお願いしてきた凪くん。

 顔を覗き込むと、茹でダコ並みに真っ赤。耳に至っては、熟れすぎたりんごみたいな濃い赤に染まっている。

「……凪くんもちゃんと男の子だったんだね」
「そうだよ。健全な男子高校生なんだから……って、何押しつけてんの」
「あははっ、照れてる〜。可愛い〜」
「馬鹿っ。年上をからかうんじゃないっ」
「うわっ」

 調子に乗ってリズムを取るように押しつけていたら、デコピンで反撃された。

「ファンに向かって馬鹿って言うなんて。しかも暴力まで」
「そっちだって。俺のこと散々貶したでしょ。帽子でも叩いたくせに」
「っ……でも、年上なのを利用して沢山からかってきたのは凪くんだよっ」

 ムスッと頬を膨らませ、もう1度腕に抱きつく。

 縁側で私を真っ赤にさせたお返しだよっ。そもそも先に腕を回したのは凪くんなんだからねっ。

 照れた顔を隠すように背けて歩く凪くんに、「言葉には気をつけるんだよ!」と心の中で偉そうに物申した。

 坂を下り終えると、開けた場所に出た。

 変わらず木々が生い茂っているけれど、この辺りは数が少なく、先ほどよりもほんの僅かだが明るい。

 出口が近づいているのを感じてホッとする反面、お別れの時間も迫ってきているのも感じ、一気に寂しさが襲ってきた。

 お肉は食べたいけど……もう少しだけ一緒にいたいな。

「──……かー!」

 淡い思いを抱いた瞬間、どこからか誰かの叫ぶ声が聞こえてきた。

「一花ぁーっ! 戻ってこーい!」
「チキンステーキ食いに行くんだろー!」

 連続で耳に届いた声に、ドキッと心臓が音を立てる。

 ──お父さんと、智だ。

 ということは……。

「……あとはここを道なりに進めば着くから。だから……」
「いやだっ!」

 遮るように叫んで、腕にしがみつく力を強めた。

「まだ、お別れしたくない……っ」

 込み上げた涙が溢れ出し、両頬を伝う。

 わがままだなぁ私。またすぐ声が聞けるからと、大好物を優先させていたのに。

 心の準備が完了していない間に、いきなりお別れの時間が来たからって……本当、親に似て自分勝手すぎる。

 だけど──。

「チキンステーキじゃなくて、凪くんがいいっ……」

 凪くんとは今日を逃したらしばらく会えなくなるって、気づいてしまったんだ。

 確かにスマホを解除できて連絡が取れるようになったら、時間さえ合えばどこにいても交流できる。

 でもそれは画面越し。こうやって直接顔を合わせて話せる日が来るのは、いつになるか分からない。

“次も必ず会える”って、確信できる未来がないって気づいちゃったんだよ……。

「……俺だっていやだよっ!」

 再び涙が流れると、私の何倍もの強い力で抱きしめられた。

「まだ離れたくない、もっと一緒にいたい、このまま帰したくないよ……っ!」

 思いを叫び、腕に力を込めて抱き寄せる凪くん。

 水泳で鍛え上げられた背中に自分も腕を回し、ぶつけられた気持ちに全身で応える。

「だけど……一花はここにいちゃいけない。帰らなきゃいけない」

 震える声で言葉が紡がれた後、私を捕らえていた腕の力が弱まった。

「だって……お父さんとジョニーくんに、ごめんねって謝る約束があるからね」
 下がった眉尻と悲しみの色で埋め尽くされた瞳。それは、昨日よりも酷く、濃く。

 顔と耳のように赤く潤んだ目は、今にも涙がこぼれ落ちてしまいそうだった。

「でも……怖いよ……っ」
「だよな。怖いよな。でもね一花」

 細長い指先でそっと涙を拭うと、コツンとおでこをくっつけてきて。

「いなくなったら、喧嘩することも、笑い合うことも、一緒にご飯を食べることも、こうやって触れ合うこともできなくなるんだよ」

 目を瞑ったまま。1つ1つ言い聞かせるように。

 私に向けられた言葉だけど、なぜか凪くん自身に言い聞かせているようにも感じた。

「お願い一花、仲直りして。怖いのは分かる。けど、ここで逃げたら絶対後悔するから」

 額を離し、真っ直ぐな目で諭してきた。

 ズルいね凪くんは。また年上の権力を振りかざしてきたね。

 呼び捨てで命令されたら……もう「はい」以外選べなくなるじゃない。

「……また会える?」
「うん」
「本当に? 画面越しじゃないよ? 三次元でだよ?」
「会えるよ。約束する」

 差し出された小指に自身の小指を絡める。

 と──視界いっぱいに、目が閉じられた端正な顔が現れて、唇に柔らかな感触が広がった。

 それは、意識を手放す直前に感じたのと同じ、とても優しい温もりだった。

「……馬鹿で意地悪でチャラくて、ズルい男でごめんね」
「本当だよ……っ」

 自分も人のことは言えないけど、私よりも遥かに、凪くんは大馬鹿者だった。

 こんなことしたら、ますます離れるのが辛くなるっていうのに……っ。

「ほらっ、早く行って。このままじゃ俺、ひいじいちゃんとばあちゃんに雷落とされる」

 体が半回転すると、ポンと背中を押された。

「凪く……っ」

 涙にまみれた顔で振り向きながら山道を下る。

 名残惜しそうに手を振る彼の姿。

 自分も手を振り返すと、よそ見したせいか、足を滑らせた。膝がガクンと曲がり、バランスが崩れてよろめく。

 回る視界の中で最後に見たのは、大好きな人の頬に伝い落ちた一筋の涙だった。





 ──ミーンミンミンミンミンミーン……。

「ん……?」

 夏を感じさせる鳴き声で目が覚めた。

 視線の先には、鉢植えの花と盆栽……ではなく、真っ白な天井。

 あれ? 私、さっきまで凪くんの家にいて、一緒に山道を歩いたはず……。

 まさか、夢を見てたの?

「一花……?」

 ぼんやりした頭を急いで起動させていると、左隣から名前を呼ばれた。目だけを動かして声の正体を探る。

「おとう、さん……?」

 真っ赤に充血した目。顔中涙と鼻水だらけでいっぱいになった父が、点滴に繋がれた私の手を握りしめていた。

「あぁ良かった……っ、本当に良かったっ、一花ぁぁぁ……」

 返事をしたら、手を強く握られて、しゃくり上げるように泣き始めた。目を凝らすと、額がほんのり赤くなっている。

「ごめんなっ、一花の気持ち、全然考えないで……っ、毎日頑張ってるのに、労いもせず、酷いことを……っ」
「ううん、私こそ。逆ギレして、生意気な口利いてっ、ボール投げて……っ、ごめんなさい……っ」

 ボロボロと涙を流す父につられたのか、言葉を紡ぐにつれて、自分も涙が込み上げてきた。親子揃って病室でしゃくり泣く。

「一花……?」

 すると今度は、右側から名前を呼ばれた。顔を動かすと、ついさっきまでベッドに突っ伏していたであろう智が目をこすっていた。

「一花……! お前っ、やっと起きたのか!」
「うるさいっ……それより、なんでチキンステーキのこと知ってるの……っ」

 号泣する父に比べて目は赤くないし、涙は一滴も流れていない。けど、頬にうっすら涙の跡が見えて。

 もしかして泣き疲れて寝てたのかなって思ったら、また涙が溢れ出してきた。

「ごめん、廊下で盗み聞きした」
「サイテー……っ」

 毒を吐く私を笑って受け止めた智。「母さんに連絡してくる」と言い残すと、ナースコールを押して病室を出ていった。

 だだっ広くて殺風景な病室に、私と父の2人だけが残された。

「ねぇ、一体何があったの……?」

 ズズーッとティッシュで鼻をすする父に尋ねた。

 もしあれが夢だとしたら、私はどうやってここまで運ばれたのか。

 真相を探るべく、まずは海で溺れた後の話を聞く。

「なんだ、覚えてないのか? お前、浜辺で倒れてたんだぞ」
「そうなんだ……。じゃあ、誰がここに運んだの? お父さん? 智?」
「いや、救急隊員の人。だけど……一花が倒れてるのを最初に見つけたのは、ジョニーなんだよ」

 全く予想していなかった人物が登場して、目を点にする。

 ジョニーが……? じゃあ、助けてくれた凪くんは一体どこに行ったの?

「一花が出ていった後、智くんが来て、一緒に遊んでたんだ。そしたら、突然道路を見つめ始めてな」
「道路って、家の前の?」
「あぁ。何かいるのかと思って見てみたら、いきなり飛び出していって。それで2人で追ってたら……」