リュックサックを背負ってドアをそっと開け、廊下に誰もいないことを確認し、忍び足で玄関へ向かった。
スニーカーの靴紐を結び直して立ち上がり、曇りガラスの引き戸をゆっくり開ける。
「お、一花」
外に出た瞬間、思わず心の中で舌打ちしてしまった。
「今日は早いんだな」
「う、うん。お昼から雨降るみたいだから」
小さなプールの中で嬉しそうに尻尾を振るジョニー。
その隣で……父が小さな折りたたみ椅子に座っている。
黙って立ち去りたいところだけど、呼ばれたので無視するわけにもいかず、一声かける。
「何してるの?」
「見ての通り水遊びだよ。ペット用のプールがあるって教えてもらって、最後に一緒に遊ぼうと思ってな」
目を細めてジョニーの頭を撫で始めた父。気持ちいいのか、ジョニーも父と同じように目を細めている。
犬ってすごいなぁ。
怒鳴り散らしている人間に突進して全身で止めに入って。至近距離で暴言を吐かれても、次の日は何もなかったかのように駆け寄って挨拶をして。
そして今、父の思い出作りに協力してくれている。
どうしてこんなに強くて健気なんだろう。その小さな頭に乗っている手をどけて、優しく抱きしめてあげたいよ。
「一花もこれから水浴びか?」
いってきますと一言言い残して立ち去ろうとしたが、一歩踏み出したところで足止めされた。
「えっ、なんで」
「違うのか? 水着着てるからてっきり海に行くのかと」
「いや……合ってるけど」
心臓がドクンドクンと荒ぶり始め、帽子の中で冷や汗が額を伝う。
どうして……⁉ みんながお風呂を終えた後にこっそり洗って朝イチで回収したのに。水着を買ったことも、口外してないから誰も知らないはず……。
「なんだ、やっぱりそうじゃないか。でも、そんな派手なやつ持ってたっけ?」
「いや。こないだショッピングモールに行った時に買った。ご飯作り手伝ったお礼に、おばあちゃん達がお小遣いくれて」
追及される前に説明した。
今朝はひいおばあちゃんが先に起きていたけれど、老眼だから、仮に見たとしても水着だとは判別できない。
他に考えられるとしたら……夜中に洗面所に寄った時、ドアの隙間から見えた、とか。二日酔いならトイレに行く回数も多かっただろうし。
「あー、だからデカい袋持ってたのか」
「うん」
短く返事をしてそそくさと退散する。せっかく早く準備が終わったのに、道草食ってたら意味がない。
「そっか。良かったな、早めに宿題終わって」
しかし、昨日の智と同様、今回もそう簡単には解放させてもらえなかった。
「絵日記はまだ残ってるみたいだが、持ってきたやつはもう全部終わったんだろう?」
「…………いや」
数秒沈黙を置いた後、包み隠さず答える。
「え……まだ残ってるのか?」
「……化学のプリントが、2ページだけ」
聞こえなかったふりをして逃げようかとも思ったのだけど、それはあからさますぎて怪しまれるのがオチ。嘘をついても、今日も午後から部屋を借りる予定なので、終わったと思い込んだ父が祖父母を呼びに来るかもしれない。
残されたのは、正直に白状する道しかなかったのだ。
「でも、お昼にするから大丈夫」
サボって遊びに行くわけではないと伝えるも、父の口から、はぁ……と溜め息が漏れた。
この呆れた様子の溜め息は、合流した時にも耳にしている。
恐らくこの次に発せられる言葉は……。
「そうやってお前は大事なことを後回しにするのか」
「違う! 本当は朝やろうと思ってたんだよ! でもお昼から雨だっていうから午後に変えただけ!」
「それを後回しと言うんだよ。それに、たった2ページならすぐ終わらせられるだろう。そんなシャレた頭にする時間があったら」
説教モードに入った父が私の髪の毛を顎で差した。
たった2ページ、されど2ページ。そりゃあ数だけ見たら少ないよね。集中すれば1時間もかからないだろうって。
でもね……私が通っているのは地元で1番の進学校。問題自体は少なくても、内容はすごく複雑で難しいの。
特に最終章は応用問題がほとんど。教科書とノートを見直しながらじゃないと解けないんだよ。
込み上げる感情を抑え、右の拳に力を入れる。
「そこまで言うなら解いてみてよ。20分で」
「は? なんで」
「さっき『シャレた頭にする時間があったら』って言ったよね? これ、20分で作ったからさ」
爪を手のひらに食い込ませつつ、左手でお団子を指差した。
この髪型は20分で完成させた。器用な人からしたら遅いと感じるのだろうけど、20分は50分授業の半分よりも短い時間。
テストの時でさえ、裏表に印刷されたプリントを50分近くかけて解くんだ。半分以下の時間で全問題を解くのは、いくらなんでも無理難題すぎる。
「20分じゃ無理に決まってるだろう」
「え? たった2ページだよ? 人に偉そうに言うわりにできないの?」
「お前……っ」
スニーカーの靴紐を結び直して立ち上がり、曇りガラスの引き戸をゆっくり開ける。
「お、一花」
外に出た瞬間、思わず心の中で舌打ちしてしまった。
「今日は早いんだな」
「う、うん。お昼から雨降るみたいだから」
小さなプールの中で嬉しそうに尻尾を振るジョニー。
その隣で……父が小さな折りたたみ椅子に座っている。
黙って立ち去りたいところだけど、呼ばれたので無視するわけにもいかず、一声かける。
「何してるの?」
「見ての通り水遊びだよ。ペット用のプールがあるって教えてもらって、最後に一緒に遊ぼうと思ってな」
目を細めてジョニーの頭を撫で始めた父。気持ちいいのか、ジョニーも父と同じように目を細めている。
犬ってすごいなぁ。
怒鳴り散らしている人間に突進して全身で止めに入って。至近距離で暴言を吐かれても、次の日は何もなかったかのように駆け寄って挨拶をして。
そして今、父の思い出作りに協力してくれている。
どうしてこんなに強くて健気なんだろう。その小さな頭に乗っている手をどけて、優しく抱きしめてあげたいよ。
「一花もこれから水浴びか?」
いってきますと一言言い残して立ち去ろうとしたが、一歩踏み出したところで足止めされた。
「えっ、なんで」
「違うのか? 水着着てるからてっきり海に行くのかと」
「いや……合ってるけど」
心臓がドクンドクンと荒ぶり始め、帽子の中で冷や汗が額を伝う。
どうして……⁉ みんながお風呂を終えた後にこっそり洗って朝イチで回収したのに。水着を買ったことも、口外してないから誰も知らないはず……。
「なんだ、やっぱりそうじゃないか。でも、そんな派手なやつ持ってたっけ?」
「いや。こないだショッピングモールに行った時に買った。ご飯作り手伝ったお礼に、おばあちゃん達がお小遣いくれて」
追及される前に説明した。
今朝はひいおばあちゃんが先に起きていたけれど、老眼だから、仮に見たとしても水着だとは判別できない。
他に考えられるとしたら……夜中に洗面所に寄った時、ドアの隙間から見えた、とか。二日酔いならトイレに行く回数も多かっただろうし。
「あー、だからデカい袋持ってたのか」
「うん」
短く返事をしてそそくさと退散する。せっかく早く準備が終わったのに、道草食ってたら意味がない。
「そっか。良かったな、早めに宿題終わって」
しかし、昨日の智と同様、今回もそう簡単には解放させてもらえなかった。
「絵日記はまだ残ってるみたいだが、持ってきたやつはもう全部終わったんだろう?」
「…………いや」
数秒沈黙を置いた後、包み隠さず答える。
「え……まだ残ってるのか?」
「……化学のプリントが、2ページだけ」
聞こえなかったふりをして逃げようかとも思ったのだけど、それはあからさますぎて怪しまれるのがオチ。嘘をついても、今日も午後から部屋を借りる予定なので、終わったと思い込んだ父が祖父母を呼びに来るかもしれない。
残されたのは、正直に白状する道しかなかったのだ。
「でも、お昼にするから大丈夫」
サボって遊びに行くわけではないと伝えるも、父の口から、はぁ……と溜め息が漏れた。
この呆れた様子の溜め息は、合流した時にも耳にしている。
恐らくこの次に発せられる言葉は……。
「そうやってお前は大事なことを後回しにするのか」
「違う! 本当は朝やろうと思ってたんだよ! でもお昼から雨だっていうから午後に変えただけ!」
「それを後回しと言うんだよ。それに、たった2ページならすぐ終わらせられるだろう。そんなシャレた頭にする時間があったら」
説教モードに入った父が私の髪の毛を顎で差した。
たった2ページ、されど2ページ。そりゃあ数だけ見たら少ないよね。集中すれば1時間もかからないだろうって。
でもね……私が通っているのは地元で1番の進学校。問題自体は少なくても、内容はすごく複雑で難しいの。
特に最終章は応用問題がほとんど。教科書とノートを見直しながらじゃないと解けないんだよ。
込み上げる感情を抑え、右の拳に力を入れる。
「そこまで言うなら解いてみてよ。20分で」
「は? なんで」
「さっき『シャレた頭にする時間があったら』って言ったよね? これ、20分で作ったからさ」
爪を手のひらに食い込ませつつ、左手でお団子を指差した。
この髪型は20分で完成させた。器用な人からしたら遅いと感じるのだろうけど、20分は50分授業の半分よりも短い時間。
テストの時でさえ、裏表に印刷されたプリントを50分近くかけて解くんだ。半分以下の時間で全問題を解くのは、いくらなんでも無理難題すぎる。
「20分じゃ無理に決まってるだろう」
「え? たった2ページだよ? 人に偉そうに言うわりにできないの?」
「お前……っ」