「アンタ、今朝は凄かったわね」
場所は変わって今は辰の刻。
いつも着ている着物から矢絣模様の袴姿へと着替えた時雨が自室を後にしようとしたところをお翠がそう言って引き止めた。
「アンタもあんな声を出すとはね。ま、何があったかなんて聞かなくても予想はつくけど」
「うぅ…言わないで下さい」
半ば俯き加減にノロノロを歩く時雨。
そんな様子を呆れ顔でお翠は見つめれば、二人は長く続く廊下を進んで行く。
この時間、時雨は家庭教師のもと勉学へと励んでいた。
隠世に嫁入りした身とはいえ、時雨もまだ高校生。
卒業は叶わなくとも、せめて必要な知識ぐらいは最後まで身に付けたかった。
そこで今まで学校で習っていた勉強を鬼頭家で習う作法やお稽古の他にも新しくお願いし加えて貰ったのだ。
「これでは今日の勉学に身が入りません」
「ぷっ、アンタってほんと初心なのね。そんなんじゃ先が思いやられてよ。でも腐っても術家の人間、加えて鬼頭家に嫁いだ身というのなら本来の役目を忘れた訳ではないでしょ?」
「それは…」
花嫁の役目はあくまで邪気浄化と夫となる者の妖力強化。隠世にいるだけでその役目は担えているとはいえ花嫁はとても貴重な存在。
嫁げば安易に家の外にも出ることさえ許されない。
妖側からすれば花嫁は現世の人間。
いつ興味本位で食われてもおかしくはない。
だが妖家は王家との契約を守る為にも異能の花嫁を殺してはならない。結果、彼女達は強い監視下の元で囲われてしまうのだ。
そして花嫁のもう一つの役目とは、夫との間に強い子を宿すことだった。備わる自身の異能力を糧に強い妖力を宿す妖との間に子を宿す。そして隠世を引っ張る三大妖家へ最後まで貢献しなければならなかった。
鬼頭家は三大妖家の一つ。
王家の親戚という立場からも隠世では最も恐れられ注目されている家系だ。そんな鬼頭家がそこへ追い打ちをかけるようにして生み出した存在。
「白夜様も嫁いだ女がこれでは相当苦労なさることね」
「う、」
鬼頭白夜。
鬼頭家が産み出した隠世を騒がす異端児にして純血の最高傑作。
始まりの妖、白鬼の鬼神。
彼はその昔、多くの妖を生み出しこの世界を築きあげた。今では数々の伝説を作り出した神秘的な象徴として崇められており、その身には莫大な妖力と権力を持ち合わせる美しき神とされている。
そんな神が生まれ変わるかのように誕生したことで隠世は大きく揺れた。妖達は驚きつつも、彼の誕生を名誉であり隠世の新たな期待の星と崇め讃えた。
逆に言えば彼の誕生は脅威にもなった。
下級の妖達からすれば、これで好きに世界を動かすことができなくなったからだ。
だがどんな形であれ、彼に存在は大きすぎたのだ。
彼が死ぬことは世界の均衡が崩れるということ。
それだけはどうしても避けたかった。
「アンタも分かっている通り、あの方は特別よ。妖とも言えない神に近い存在。まあでも、アンタ達人間が私達の存在に良く思わないのは重々承知だし。妖側からしても人間を受け入れがたい存在に捉える者なんて未だ大勢いるんだから仕方ないけど」
花嫁達は隠世での生活に嫌気を示し夫を毛嫌いすることよりも、実は現世に帰りたい思いの方が強かったりする。
術家の人間はとにかくプライドが高い。
人間とは言えない妖の元へ嫁入りし、知らぬ間に邪気によって命を削られてしまうだなんて。
自分達は他の人間とは違う。
そんな特別な存在として裏では国へと貢献する立場で生きているのだ。現世で術師との間に子を成し、術家の力と異能力の存続に貢献すること。
それこそが術師である彼女らの誇りなのだ。
それなのに邪気を放つ元凶とも言える忌み嫌う妖の側で妖の子を宿し、妖家に貢献しなければならない身なんて。
自分の血に穢わらしい妖の血が混ざる。
それこそ邪気を浄化する側の彼女達にとっては、今まで築き上げてきた誇るべき自分への価値とプライドを蔑む行為とも言えたのだった。