【第1章 始まりの季節】


 四月、はじまりの季節と言われる春。

 これから何が始まるんだろう?

 私にはどんなことが起こるんだろう?

 そんな期待と不安が胸いっぱいに広がる、新学期初日の朝。

 「いただきます!」

 大きな声でそう言ってお母さんが作ってくれたご飯を食べ始める。

 今朝は、ご飯・お味噌汁・玉子焼き・焼き魚の純和風メニューだ。

 「優羽(ゆう)もついに受験生だね」

 お母さんに早速そう言われて、一瞬気分が沈む。

 「受験のことはあまり考えたくないけどね」

 私がそう言うと、

 「ついこの前高校に入学したばかりだと思ったら、もう3年生だもんな」

 向かいの席に座っているお父さんがしみじみとつぶやいた。

 「クラス替え、友達と同じクラスになれるといいな」

 「うん。陽依(ひより)ちゃんも同じクラスだといいな」

 お父さん、お母さんと話しながら食事をしていると、あっという間に時間が過ぎていく。

 「おっ、もうこんな時間か」

 時計を見て、お父さんが慌てて仕度を始めた。

 「じゃ、行ってきます!」

 元気よく家を出たお父さんを見送ったあと、少し遅れて私も仕度を済ませて学校へ向かった。

 一歩外に出ると、春らしい甘い香りがする。

 今日は朝からとてもいい天気で、雲ひとつないきれいな青空。

 桜の花びらが暖かい春風に吹かれて舞っている。

 水色の空に、桜の淡いピンク色が映えて、とても綺麗な風景。

 こんなきれいな景色を見ると、日本に生まれて良かったなって心から思う。

 穏やかな春の陽射しに照らされて、みんなの笑顔が輝いている。

 学校に着いて昇降口に向かうと、すごい人だかりができていた。

 みんなプリントを手にしながら、喜んだり残念がったりしている。

 私もなんとか人だかりの中を通って、先生が配っているクラス分け表のプリントをもらった。

 プリントを凝視して自分の名前を探したら、私は3年2組だった。

 早速教室に行くと、すでにほとんどの人が来ていた。

 みんなあちこちでそれぞれにお喋りしている。

 「優羽ちゃん!」

 とりあえず自分の席に着いて鞄を置いたとき、聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。

 顔を上げると、去年からの友達の陽依ちゃんが立っていた。

 「あ、陽依ちゃん。今年も同じクラスだね。よろしくね」

 「うん、よろしくね」

 そう言って、陽依ちゃんが微笑んだ。

 春日(かすが)陽依ちゃんは、去年同じクラスになって仲良くなった友達。

 肩まであるキレイな黒髪に、二重の目で、身長150センチの小柄で可愛らしい女の子。

 性格は、おとなしくておっとりしてて、気が利いて優しい。

 なんとなく雰囲気が自分に似ていて、最初に話したときから気が合いそうって思っていた。

 「わたしたちもついに最上級生なんだね」

 「そうだね。なんかあっというまだよね」

 「ついこの前入学したばかりのような気がするのにね」

 「来年の3月には卒業だもんね」

 「その前に受験だよ」

 「優羽ちゃんは、大学どこ受けるか決めてる?」

 「まだはっきりとは決めてないよ」

 私と陽依ちゃんが話していると、

 「はい、席に着きなさい」
 
 担任の氷上(ひかみ)先生が教室に入ってきた。

 生活指導担当で、かなり厳しいことで有名な
 先生だ。

 先生の言葉に、席を立っていた子たちが慌てて自分の席に着いた。

 「それじゃ、出欠確認します」

 みんなが席に着いたことを確認すると、先生はひとりずつ名前を呼び始めた。

 「日向(ひゅうが)くん。日向 彼方(かなた)くん」

 「…………」

 それまで順調に進んでいたのに返事がなくて、先生が私の隣の席を見た。

 私の隣の席は、このクラスで唯一まだ空席のまま。

 「……休みかしら」

 先生が呆れたように言った瞬間、少しざわついてる教室にドアの開く音が響いて、誰かが入ってきた。

 艶のある綺麗な黒髪に耳にはピアスをしていて、制服を着崩して気怠そうな雰囲気を漂わせている男の子がなんのためらいもなく歩いてきて、私の隣の席に座った。

 「日向くん、新学期早々遅刻なんてだらしないわよ」

 先生がきつい口調で言うと、日向くんは聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で「すいません」とつぶやいた。

 日向くんとは去年も同じクラスだったから、何回か隣の席になったこともある。

 明らかな不良系ではないものの、なんとなく “近寄るなオーラ” が出ている気がして少し怖い雰囲気がするからか、いつもひとりでいる一匹狼的存在だ。

 学校には来るけど、いつも遅刻だし、授業もほとんど出ない。

 だからまともに話したことはないけれど、今年も同じクラスなんだ。



 【親友の片思い】



 4月も終わりに近づいてきたある日の昼休み。

 お弁当を食べ終えた私と陽依ちゃんは、廊下の窓から外の景色を眺めていた。

 桜の花はだいぶ散って、そろそろ葉桜の季節。

 若葉の緑が太陽の光を浴びて輝いて、眩しい。

 さわやかな風が、新緑のみずみずしい香りを運んでくる。

 気持ちのいい、穏やかな午後。

 「優羽ちゃんは、ゴールデンウィーク何か予定ある?」

 「私は塾かな」

 「塾? 優羽ちゃん、充分成績いいのに」

 「そんなことないよ。理数系は点数あまり良くないし」

 「そっか」

 ふたりでぼんやり外を見ながらそんな話をしていたら、中庭で男子たちがサッカーを始めるのが見えた。

 「……あ、霧谷(きりや)くん」

 陽依ちゃんがつぶやいた。

 「どこ?」

 「ほら、あの背の高い男の子の隣」

 陽依ちゃんが指差した方を見ると、確かに霧谷くんがいた。

 私は高1の時に同じクラスだったけど、ほとんど話したことはなかった。

 サッカー部に入っていて、レギュラーメンバーで頑張っていることは知っていたけど。

 「陽依ちゃん、すぐにわかるんだね」

 ここは3階だから、よく見ないとすぐに誰かはわからない距離なのに。

 「やっぱり恋の力?」

 「えっ!?」

 私の言葉に顔を真っ赤にしてうつむいた陽依ちゃんは、まさに恋する乙女という言葉がピッタリだ。

 陽依ちゃんは高1の頃から霧谷くんのことが好きで、今もずっと片思いしている。

 私がそのことを知ったのは、去年の秋頃だった。

 それ以来、私は放課後のサッカー部の練習を見るのにつきあったり相談に乗ったりしている。

 「でも、陽依ちゃんすごいよね。高1の頃からずっと霧谷くんが好きなんて」

 「え……そうかな……」

 「うん。それだけ好きな人がいるってすごいよ。私はそういうことないから」

 「それは人それぞれだから、気にすることないんじゃないかな。私だって、気がついたら好きになってたって感じだし」

 「そうなの?」

 「うん。なんかね、サッカーしてる時のすごく楽しそうな笑顔を見て、何かに夢中になってる姿っていいなって思って、それからいつのまにか好きになってたの」

 「そうなんだ」

 「でも、優羽ちゃんは結構男子に告白されてるでしょ? いつも断っちゃうのはなんで?」

 そう、実は私、高校に入学してから男子に告白されたことが度々ある。

 自分ではよくわからないけど、男子からは “美少女優等生” と言われているらしい。

 私自身は自分が特別可愛いだなんて思っていないし、成績だって勉強が苦手じゃないからテストの点数が良いだけで、「いい子でいなくちゃ」と思っているわけでもない。

 それに、恋愛に関しては正直まだ “好き” という気持ちがよくわからないから、告白されても一度も受け入れたことがないんだ。

 「告白してきてくれる人には申し訳ないけど、私は誰でもいいから彼氏がほしいわけじゃないし、本当に好きな人とつきあうのが一番だと思うから」

 「そうだよね。やっぱり自分が好きな人に好かれたいよね。私も、今年は頑張ろうかな」

 「え?」

 「卒業したら、もう会えなくなるかもしれないもんね。だから告白しようかな」

 そう言った陽依ちゃんは、今までとは少し違う強い意志を持った瞳をしていた。

 「うまくいくといいね」

 陽依ちゃんが本当に霧谷くんのことを好きで真剣に片思いしていることは誰よりも知っているから、私は陽依ちゃんの恋がうまくいくように心から願っていた。


 【すれ違う友情】

 
 5月の連休が明けてから、授業も本格的に進み始めて、みんな少しずつ進路について考えるようになってきた。

 そして、ついに高3になって最初の進路調査が始まった。

 「二者面談はこの進路調査表をもとに中間試験後に行います。まだ5月だからそんなに具体的じゃなくてもいいけど、真剣に考えるように。提出期限まで2週間あるから、ご両親ともよく話し合ってじっくり考えてください」

 帰りのホームルームの時間、進路調査表を配りながら先生が言って、クラス中がざわついた。

 進路なんて今まできちんと考えたことがなかったけれど、特にどうしてもなりたいものや、やりたいことがあるわけじゃない。

 私は成績的には文系の方がいいし文系の勉強は好きだけど、将来文系の仕事がしたいわけじゃない。

 とりあえず好きだから学ぶっていうのは、良くないのかな。

 やっぱり就職のことも考えなければいけないのかな。

 なんだか気が重くなってきたから、帰ったら両親にも相談してみよう。


 * * *


 放課後、昇降口へ行くと後ろから誰かに「天音さん」と声をかけられた。

 振り向くと、そこにいたのは霧谷くんだった。

 「少し話したいことがあるんだけど、ちょっといいかな?」

 なんとなく緊張した様子で言った霧谷くんを見て一瞬不安が過りつつも、特に急ぎの用事もない私は「うん」と頷いた。

 場所を変えようと言われてたどり着いたのは、人気(ひとけ)のない校舎の裏庭だった。

 「急に呼び出してごめん。これから受験で色々忙しくなるから、その前に言った方がいいと思ったんだ。天音さんとは、高1のときしか同じクラスになったことないけど……」

 その後の言葉を言い淀んだ霧谷くんに、やっぱり最初に感じた不安は的中したと感じた。

 「俺は天音さんのことが好きだから、もし良かったらつきあってくれないかな?」

 「……気持ちは嬉しいんだけど、ごめんなさい」

 “まさか” という驚きと “やっぱり” という思いが交錯して、それだけ言うのがやっとだった。

 「そっか。ごめん、わざわざ呼び止めたりして。じゃあ、俺、部活あるから……」

 「うん。頑張ってね」

 霧谷くんが部活へ向かったあと、私は裏庭でひとり呆然と立ち尽くしていた。

 どうしよう。陽依ちゃんには、言わないほうがいいよね……。

 でも、陽依ちゃんが霧谷くんに告白して断られたら?

 本当にどうしたらいいんだろう。

 明日、陽依ちゃんに対して変わらない態度でいられるだろうか。


 * * *


 翌日、私は陽依ちゃんに対してできるだけ普通に振舞った。

 陽依ちゃんは昨日のことは特に気づいてないみたいだけど、きっといつかは知ってしまうだろう。

 「優羽ちゃん? どうしたの?」

 「……あ、ごめん、なんでもないよ」

 昼休み、お弁当を食べながら、つい昨日のことを考えて黙り込んでしまった。

 「ねぇ、天音さん」

 突然、近くの席でお弁当を食べていた星野(ほしの)さんが、私に声をかけてきた。

 「昨日の放課後、霧谷くんと一緒に裏庭にいたでしょ? 私、偶然見たんだ」

 「え!?」

 誰もいないと思っていたのに、まさか見ていた人がいるなんて思わなかった。

 「もしかして、告白されてたの?」

 今は「違う」って言ったほうがいいだろうか。

 でも、私と霧谷くんには何も接点がないから、適当なことは言えない。

 それに、今はごまかせても、いつか耳に入るかもしれない。

 それなら今言ったほうがいいのかもしれない。

 「……うん……」

 色々考えて、私は正直に頷いた。

 その瞬間、陽依ちゃんが動揺したのがわかった。

 「やっぱりそうなんだ! 天音さんモテるもんね~」

 星野さんが明るく言う。

 「それで、OKしたの?」

 「……断ったけど」

 「え~なんで? 霧谷くんイケメンなのに」

 私と星野さんの会話で、陽依ちゃんが今にも泣き出しそうな表情をしているのに気づいた。

 早くこの話題終わりにしないと。

 そう思った時、

 「……ちょっと、ごめんね」

 陽依ちゃんが席を立って、教室から出て行ってしまった。

 やっぱり正直に言わないほうが良かったのかもしれない。

 よりにもよって同じクラスに私と霧谷くんが一緒にいるところを見てた人がいるなんて思わなかった。

 とにかく、陽依ちゃんときちんと話をしないと!

 私は急いで陽依ちゃんを追いかけた。

 陽依ちゃんは、屋上へ続く階段に座り込んで泣いていた。

 「陽依ちゃん、ごめんね、私……」

 なんて言ったらいいのかわからなくて言葉を続けられずにいると、

 「……どうして?」

 膝に顔をうずめて泣いてる陽依ちゃんが、かすれた声でつぶやいた。

 「どうして優羽ちゃんなの……」

 「陽依ちゃん……」

 「わかってる。優羽ちゃんはかわいいし、頭も良くて、優しくて、モテるのは当然だよね」

 「そんな……」

 「それに比べて私は優羽ちゃんの引き立て役だよね」

 「そんなことないよ!」

 「ごめん、優羽ちゃん。私、優羽ちゃんと一緒にいると惨めな気持ちになる」

 「……え?」

 「今は優羽ちゃんと一緒にいるの辛い……」

 陽依ちゃんはそう言ってまた泣き出してしまった。

 私はかける言葉が見つけられなくて、陽依ちゃんのそばから離れた。

 陽依ちゃんに言われた言葉が胸に突き刺さって痛い。

 私の瞳にも涙が溢れてくる。

 陽依ちゃんは2年間ずっと霧谷くんのことが好きで、今年やっと想いを伝えようと決心したのに。

 決心したとたんに、霧谷くんは私のことが好きで失恋なんて、辛いのは当たり前だ。

 だけど「一緒にいるのが辛い」なんて言われたら、私もどうしたらいいかわからない。


 【始まりは屋上】


 翌日、学校に行くと事態はさらに悪くなっていた。

 教室に入ったとたん星野さんたちのグループが私の方を見て何かを話し始めて、何が起きているのかよくわからないまま席に着く。

 その直後に陽依ちゃんが教室に入ってきて一瞬目が合ったけれど、陽依ちゃんは視線をそらして自分の席に着いてしまった。

 陽依ちゃんとは、しばらくの間離れたほうがいいのかもしれない。

 そう思うと休み時間も一緒に過ごせなくなった。

 陽依ちゃんも、授業が終わるとすぐ教室を出ていなくなっている。

 他のクラスにも友達がいるみたいだから、その子のところに行っているのだろう。

 「……私、前からあまり好きじゃなかったんだよね~」

 自分の席で次の授業の準備をしていたら、星野さんの声が聞こえてきた。

 星野さんは窓際でいつも一緒にいる子たちと話している。

 明るくて元気が良くて顔も美人系で、生徒委員もやっている目立つ存在。

 恋愛の話が好きでちょっと派手な雰囲気がわたしとは合わないと感じる部分があるから、少し距離を置いているけれど。

 「かわいいからって気取ってる感じがするし、告白されてもいつも断ってるのだって、モテるからっていい気になってるんじゃないのかなって思ってた。一昨日だって、霧谷くんに告白されたけど断ったって言ってたでしょ?」

 聞こえてきた話の内容は、明らかに私のことだ。

 「そういえば昨日の昼休みに春日さんと揉めてたみたいけど、もしかして春日さんて霧谷くんのこと好きだったのかな?」

 「あ~、そうだよ。サッカー部の練習見てるところ見かけたことあるし」

 「そうなの? 春日さんかわいそうだね~。あ、それで今日は天音さんと一緒にいないんだ」

 そんなことまで気づかれているなんて。

 もしかして、今朝私の方を見て話していたのはこのことだったのか。

 それに、星野さんが私のことを前から好きじゃなかったとはっきり知ってしまったのもショックだ。

 人それぞれ性格的に好き嫌いがあるから仕方ないとは思うけど、やっぱり嫌われるというのは辛い。

 昼休み、陽依ちゃんはやっぱりわたしを無視して、教室を出て行ってしまった。

 朝から居心地の悪さを感じていた私は、ひとりで屋上へ向かった。

 屋上は一応立ち入り禁止だから、誰もいないはず。

 そう思って屋上に行くと、予想通り誰もいなかった。

 当分、昼休みはここで過ごすことになるのかもしれない。

 誰もいない屋上でお弁当を食べ始めたけれど、ひとりだとお母さんが作ってくれたお弁当も全然おいしく感じない。

 どうしてこんなことになってしまったんだろう。

 私は陽依ちゃんを傷つけるつもりなんてなかったし、決して見下してもいなかった。

 気取っているつもりも男子に人気があるからっていい気になっているつもりも全然ない。

 ただ、自分が本当に好きな人とつきあいたいだけなのに。

 思えば、中学生の頃から何度か同じようなことを言われてきた気がする。

 そんなことを考えながらお弁当を食べていたら、突然ドアが開く音がして誰かが入ってきた。

 部活で昼練する人かもしれない。

 そう思ってドアの方を見ると、入って来たのは意外なことに日向くんだった。

 「……天音?」

 日向くんは私がここにいることにかなり驚いているみたいだ。

 「なんでこんなところにいるんだ?」と言いたげな表情をしている。

 「ひとりで食ってんの?」

 「うん」

 日向くんとまともに会話するのは初めてだから、少し緊張する。

 「珍しいな。ここ、いつも誰も来ないのに」

 「あの、ちょっと色々あって……」

 私が緊張気味に答えると、日向くんが吹き出した。

 「別に取って食ったりしないから、そんな緊張しなくても大丈夫だって」

 そう言って笑った日向くんの笑顔は優しくて、緊張していた心が和らいだ。

 「天音って、綺麗な名前だよな」

 「え、そうかな」

 「うん。なんか芸能人の名前みたい」

 「日向くんだって、綺麗な名前じゃない」

 「……う~ん、まあ」

 そんな話をしているうちに、5時間目の予鈴が鳴った。

 「あ、行かなきゃ」

 「俺は昼寝」

 日向くんは堂々とそんなことを口にした。

 「もしかして日向くん、よくここでサボってるの?」

 「ああ。静かで誰も来ないから昼寝に最適なんだ」

 「……そう。じゃあね」

 「サボっちゃだめだよ」なんて言うのはさすがに余計なお世話かなと思って、私は屋上を出て教室へ向かった。

 日向くんとあんなに会話したのは初めてだ。

 いつも怖そうな感じがしたけど、話してみるとそんなことないんだ。

 今まで誤解していたかもしれない。



 【独りのふたり】


 翌日の昼休みも屋上でお弁当を食べていたら、日向くんが来た。

 「天音、今日もここで食ってんの?」

 「うん。あの……邪魔じゃなければ、しばらくここでお弁当食べていいかな?」

 私は遠慮気味に日向くんに言った。

 話してみると怖くないということはわかったけど、もともと私と日向くんは親しかったわけじゃない。

 それなのに昼休みを一緒に過ごすのは迷惑かもしれないと思ったから。

 でも、日向くんはそんなこと気にしてない様子で「別にいいけど」と言ってくれた。

 それから、私と日向くんは昼休みに屋上で話すようになった。

 話すと言ってもまともに話すようになって少ししか経っていないから、あたりさわりない会話だけではあるけれど。

 でも、たったひとりでお弁当を食べる辛さを味わうことなく過ごすことが出来て安心している。

 日向くんは、私がひとりでいる事情を深く追求せずに普通に話してくれてるから、本当は優しい人なのかもしれない。

 * * *

 数日後、私はまたクラスの女子の反感を買っていた。

 星野さんのグループ以外の子たちまで私の方を見て陰口を言うようになり、私のことを避けるようになっていた。

 「最近、日向くんと一緒にいるらしいよ」

 「え~、日向くんと? 意外だね~。性格全然合わなそうなのに」

 「日向くんも結局顔が良ければ仲良くしてくれるんじゃないの」

 どこからか、そんな話が聞こえてきた。

 今度は日向くんのことが原因か。

 なんだか私って、男子と関わるたびに色々言われている気がする。

 私は悪いことしてないんだから気にしたらダメだと思っても、やっぱりクラスで孤立するのは辛い。

 陽依ちゃんとも離れたままで、もしかして卒業までずっとこんな状態が続くのだろうか。

 「どうしたんだよ。ボーっとして」

 「……えっ?」

 日向くんに言われて我に返る。

 昼休みに屋上でお弁当を食べながら、午前中のクラスの様子を思い出していた。

 「なんか学校に来るのユーウツだなと思って……」

 私は、思い切ってそう口にしてみた。

 「友達とケンカしたのか?」

 「それもあるけど、クラスの中にいるのが辛いから」

 「あ~……女子って気に入らないヤツがいるとすぐ外すよな」

 「うん。高校生にもなってそんな子供っぽいことするなんてって思うけど。でも、どうしてもなくならない」

 「だけど、ひとりになるのがイヤで無理に合わせるくらいなら、ひとりでいたほうがいいんじゃねぇの?」

 「え?」

 「居場所なんて、学校だけじゃないだろ?」

 「……そうだね」

 私たちの生活は学校が中心だけど、学校だけが自分の居場所っていうわけでもないのかもしれない。

 そう考えたら、少し心が軽くなった。

 「日向くんは、なんで授業に出ないの?」

 思い切って前から気になっていたことを聞いてみたら、

 「つまんないから」

 返ってきた答えはあまりにあっさりしていて、単純だった。

 「でも、それじゃ学校に来てる意味ないんじゃない?」

 「ないな」

 全く授業に出ないのに学校に来ることが無意味だとわかっていて、なんで学校に来るんだろう?

 学校には日向くんの居場所はないように見える。

 「居場所は学校だけじゃない」って言ったけど、学校以外になら日向くんの居場所があるのかな。

 「学校やめようとは思わないの?」

 一瞬、聞くべきじゃないかなと思ったけど、日向くんは特に気にしていないようで、あっさりと答えた。

 「やめてもどうせすることないから」

 「……そう……」

 学校に来ても、授業は全然真面目に受けなくて、だからと言って学校をやめて他にしたいこともない。

 それなら、日向くんは一体何を楽しみに、何を目標に毎日生活してるんだろう?

 ――何のために、生きてるんだろう?

 ぼんやり窓の外を眺めている日向くんの瞳には、楽しさや嬉しさや希望の光が全く宿っていない。

 明るい未来も光り輝く希望も映っていない。

 何も映っていない空虚な瞳。

 だけど、その奥には何かがある。

 そんな気がした。


 * * *


 私は相変わらずクラスでひとりのままだけど、中間試験が近くなってきたこともあって、ひたすら勉強に打ち込んだ。

 そうすれば、ひとりでいる辛さを忘れられるから。

 休み時間は勉強か塾の宿題をやって、昼休みは屋上で日向くんと話しながらお弁当を食べて、放課後は塾に行くっていう毎日の繰り返し。

 そのおかげで中間試験の結果は今までで一番良かった。

 6月に入ってすぐ、中間試験の成績と進路調査表をもとに、生徒と担任の二者面談が始まった。

 私は両親とも相談して、第一志望を清風女子大の家政学科にした。

 レベルとしてはAランクの難関校だけど、中間試験頑張ったし、2年までの成績も悪くないからこの調子でいけば推薦で行けそうだ。

 「天音、なんか顔色悪くない?」

 「……え?」

 いつものように屋上でお弁当を食べていたら、日向くんに言われた。

 実は最近結構無理して勉強していたから、最近寝不足気味になっていた。

 特に今日は、朝からなんとなく気分が悪かった。

 「……大丈夫……」

 そう言った瞬間、目の前が真っ暗になった。

 ―――…………

 「……あ、気がついた?」

 目が覚めると、養護教諭の先生が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。

 「………?」

 確か、昼休みにお弁当を食べていたら、具合が悪くなった気がする。

 「天音さん、昼休み中に貧血で倒れたのよ。日向くんがあなたを保健室まで連れてきてくれたの」

 「……日向くんが……」

 「勉強頑張るのはとてもいいことだけど、無理は禁物よ」

 「……はい」

 「もう5時間目始まってるけど、今日は帰って家でゆっくり休みなさい。今、日向くんが荷物取りに行ってくれてるから。久遠くん、さっきまでずっとここにいてくれたのよ」

 「……え……」

 「日向くんが言ってたけど、天音さん、クラスでうまくいってないの?」

 「……はい」

 「そう。じゃあ、遠慮しないで何かあったらいつでも話しにいらっしゃい」

 「ありがとうございます」

 先生の言葉が、すごく嬉しい。

 家族には、クラスでうまくいってないことを話してないから、ひとりでためこんですごく辛かった。

 少し待ってたら、ドアが開いて日向くんが入ってきた。

 「気がついたのか」

 「うん」

 「これ、天音のスクバだよな」

 「うん……ありがとう」

 「天音さん、お家の方に迎えに来てもらう?」

 「いえ、大丈夫です。気分も良くなったし、歩いて帰れますから」

 「でもまだ顔色もあまり良くないし、心配だわ。……あ、そうだ。日向くん送ってあげて」

 「え!? 先生、ホントに大丈夫です」

 これ以上、日向くんに迷惑かけたくない。

 でも、先生は私の言葉を聞かずに言った。


 「本人の “大丈夫” っていうのが一番あてにならないのよ。日向くんどうせ授業サボるんだから、いいでしょ?」

 「……ああ」

 「じゃ、お願いね。それにしても、日向くんと天音さんが仲いいなんてね~」

 先生が意味ありげに笑って言った。

 もしかして先生、私たちのこと何か誤解してる?

 「正反対のカップルよね。まあ、そういう方が面白いけど」

 「あの、先生。私と日向くん、全然つきあってるとかじゃないんですけど」

 「照れない、照れない。いいのよ~。高校時代は1度しかないんだから、思い切り青春しなさい」

 先生、私の言ってること全然聞いてない。

 「あ、ちょっと職員室行かなきゃ。じゃ、日向くんよろしくね」

 そう言うと、先生は保健室を出た。

 「行くか」

 「うん」

 それから私と日向くんも保健室を出た。

 「日向くん。あの、ごめんね。迷惑かけて……」

 帰り道、私は日向くんに申し訳ない気持ちでいっぱいで謝った。

 クラスで独りだからって、毎日昼休み一緒に過ごさせてもらってるだけでも悪いのに。

 倒れた時保健室まで連れて来てくれて、鞄も持ってきてくれて、そのうえ家まで送ってもらってるなんて、本当に迷惑かけすぎだと思う。

 日向くん、怒ってるかな。

 「別に、どうせヒマだし」

 日向くんは、そんなに優しい口調や表情ではないけど、怒ってはいないみたい。

 ここまで色々してもらったんだから、きちんと話したほうがいいかな。

 私は、思い切って話し始めた。

 「私、睡眠不足が続いたり精神的にストレスがたまると体調崩しやすいみたいなの。今回は、クラスでのストレスと勉強で寝不足が続いてたからだと思う。わかってて結局こうなって、日向くんにまで迷惑かけちゃってごめんね」

 「でも、そうでもしないとやってられなかったんだろ」

 それまで黙って私の話を聞いていた日向くんが、不意にそう言った。

 「……え?」

 「そこまで追いつめられても、俺みたいにサボったりしないだろ。それってすごいと思うけど」

 ……そうなのかな……。

 今までそんな風に考えたことなかった。

 「でも、そんな辛いなら俺みたいにテキトーにやりなよ。サボりならつきあうから」

 そう言って日向くんが笑った。

 日向くんって、普段は無口で近寄りがたい雰囲気だけど、本当は優しいんだ。

 そう思ったら、胸の奥に温かい気持ちが押し寄せてきた。

 「あ、私の家すぐ近くだから、ここまででいいよ」

 「そうか?」

 「うん。今日は本当にありがとう。日向くんも帰り気をつけてね」

 「ああ。じゃあ、また」

 日向くんを見送りながら、心の奥でかすかに何かが芽生えるのを感じた。

 * * *

 「ねぇ。昨日、日向くんが天音さんを保健室まで運んであげたって話、知ってる?」

 「え~!そうなの!?」

 「しかもお姫様抱っこだったらしいよ。見た人いるよ」

 「うそ~! あのふたりってもしかしてつきあってるの?」

 4時間目の英語の授業。

 今日は、先生が休みで自習になっている。

 課題としてプリントが出ていて、受験生だからみんな意外と真面目にやっていたんだけど、授業終了10分前になって集中力が切れたのか、あちこちでおしゃべりが始まった。

 そのおしゃべりの中で、どこからかまた私の話が聞こえてきた。

 内容は予想通り昨日のこと。

 いちいち気にしたらダメだと思ってプリントの問題に集中しようとしたら、突然思いがけない言葉が聞こえてきた。

 「体が弱いフリすればモテるからかな」

 「男子って、病弱そうな女の子に弱いもんね~」

 「もしかして、日向くんの前で倒れたのもフリだったりして」

 ……信じられない。

 どこまで人のこと悪く言えば気が済むんだろう。

 こんなひねくれた考え方ができるなんて、ある意味感心する。

 今までは相手にするだけ無駄だと思って無視してたけど、ここまで言われたらさすがに黙っていられない。

 ちょうどその時授業終了のチャイムが鳴って、私は席を立って話をしているグループのところへ行った。

 「私、男子の気を惹くためにわざと病弱なフリなんてしてないから」

 それだけ言うと、私は急いで屋上へ向かった。

 さっきの子たち、私があんな風に怒ることなんて今までなかったから、すごく驚いた顔をしてた。

 でも、あんな風に勝手に決めつけて人を悪く言うなんておかしいと思う。

 屋上に行くと、日向くんはすでに来ていて、窓際の席に座っていた。

 窓から差し込む夏の始まりを感じさせるような少しきつくなった陽射しに、日向くんの髪の色が透けている。

 「なんか、昨日のことで色々噂が広まってるみたいだな」

 「……え」

 日向くんもウワサ聞いたんだ。

 「ごめんね。こんなウワサ迷惑だし、日向くんの彼女にも悪いよね。ホントにごめんね」

 「俺、彼女なんていないけど」

 「え?」

 日向くん、彼女いないの?

 イケメンって言われてるし、モテそうだから彼女いるのかなって思ってた。

 「ホントに?」

 「ホントだよ。悪かったな、独り者で」

 「そういう意味じゃないけど。でも、女の子の知り合いはたくさんいるんじゃない?」

 「まあ、遊びに誘われたら行くけど、ヒマだから行くだけ」

 「……そうなんだ」

 「恋愛なんて面倒くさい。気持ち縛りつけるだけだし、どうせいつかは離れるんだし……」

 そう言ったときの日向くんの瞳はどこか寂しそうで、私はその奥にかすかに闇があるような気がした。

 日向くんはあまり自分のことを話さない。

 だから、光を宿さず闇に包まれた瞳をしてる理由がなんなのか、わからない。

 どうしていつもそんな寂しそうな瞳をしているの?

 日向くんの心の奥にある闇はいったい何だろう?


 【望まれない存在】


 「天音さんは、清風女子大の家政学科が第一志望ね」

 「はい」

 「あなたの成績なら充分推薦で行けるわ。期末もその調子で頑張りなさい」

 「はい。ありがとうございます」

 昼休み、私は担任の先生との二者面談を終えて屋上へ向かった。

 進路に関しては特に問題ないみたいで、わずか5分で終わった。

 屋上では、日向くんが相変わらずのんびり過ごしていた。

 日向くんと昼休みにここで過ごすようになって1ヶ月。

 最初の頃は緊張気味であまり話さなかったけど、今では普通に話せるようになった。

 「今日は二者面談があったの。明日の昼休みは日向くんだよ」

 「……ああ。そんなのあるんだっけ」

 「うん。でも、私は希望の進路で大丈夫そうだからって5分で終わったけど」

 「天音は大学?」

 「うん。親は 〝優羽の人生なんだから好きなようにしなさい〟って言ってくれてるから」

 「天音の家って、家族の仲いいんだな」

 「え? うん、そうだね、仲いいよ。それが自慢でもあるくらい」

 「……幸せに育ったんだな」

 ………?

 どうしたんだろう。

 どこか遠くを見つめてる、寂しそうな瞳。

 日向くんの瞳にはいつも暗い陰がある。
 
 その理由は、軽々しく聞いちゃいけないような気がして聞けないでいるけれど。


 * * *


 翌日の昼休み、私は屋上でひとりでお弁当を食べていた。

 日向くんは二者面談をしてるから、まだ来ていない。

 この1ヶ月、昼休みはほとんど毎日日向くんと過ごしていたから、ひとりだとなんか寂しい感じがする。

 そんなことを思っていたら、日向くんが来た。

 「二者面談、終わった?」

 「ああ」

 日向くん、なんだか機嫌が悪そうだ。

 「先生に何か言われた?」

 「ああ、いつものことだよ。授業サボるなとか、遅刻欠席するなとか」

 「そう」

 「今さら勉強やったからってどうせ大学行くつもりもないし、意味ないんだけどな」

 「でも、お家の人は何も言わないの?」

 「うちは母子家庭だから、無理して大学行こうと思ってない」

 「……え……」

 知らなかった。

 日向くん、母子家庭だったんだ。

 「じゃあ、就職するの?」

 「どうかな。働く気もないし、高校卒業できるかだってわからないし」

 「何かやりたいこともないの?」

 「ない」

 「楽しみにしてることとか、嬉しいなって思うことも?」

 「ないかな」

 「それじゃ、毎日つまらないよね?」

 「うん。でも、どうせ俺はいても意味がないから」

 「え?」

 「母親は朝から晩まで働き通しで家にいないし、俺が何やったって何も言わない。俺なんかいない方がいいと思ってるんじゃない?」

 「そんなことないよ。日向くんのお母さんは、日向くんのために頑張って働いてくれてるんじゃないの?」

 私の言葉に、日向くんの表情が変わった。

 「……何も知らないくせに、わかったようなこと言うな」

 いつもと違う低くて感情を押し殺したような声。

 やっぱり日向くん、怒ってる。

 もしかしたら、日向くんの瞳に光がないのは、心の奥にある闇は、お母さんのことが原因なのかもしれない。


 * * *


 放課後、塾で勉強している間も、私は昼休みの日向くんの話と表情が頭から離れなかった。

 片親家庭はそんなに珍しくない。

 それなのに、あんなに気にしてるのはどうして?

 考えてみれば、日向くんは家族の話を今まで一度もしなかった。

 それは、他人に触れられたくない何かがあるからかもしれない。

 「――今日はここまでで終わりにします」

 先生の言葉に、教室が騒がしくなった。

 ダメだ。今日は全然集中できなかった。

 日向くんのことがどうしても気になる。

 なんでこんなに気になるんだろう?

 そんなことを考えながら塾の帰り道を歩いていたら、通りがかりの人にぶつかってしまった。

 「すみません」

 謝って顔を上げた瞬間、びっくりした。

 「日向くん?」

 ぶつかってしまった人は、日向くんだったから。

 「天音?」

 日向くんも、私だとわかって驚いてる。

 「日向くん、どうしてここにいるの?」

 「……別に、遊んでただけ。天音は?」

 「私は塾の帰りだけど。日向くんも早く帰った方がいいんじゃない?」

 「……もう、帰りたくない」

 ぽつりとかすかにつぶやかれた言葉。

 だけど、私にはしっかりと聞こえた。

 「何かあったの? あまり遅いとお母さん心配するんじゃない?」

 「心配なんかしないよ。母親は俺なんか産まなきゃ良かったって思ってるんだから」

 「なんでそんなこと言うの? お母さんがそんなこと思ってるはずないでしょ?」

 「思ってるんだよ。……俺は父親の不倫相手の子供なんだから」

 「……え?」

 不倫相手の子供って、どういうこと?

 「母親は結婚してた父親好きになって、不倫して生まれた子供が俺なんだ」

 「…………」

 ショックで言葉が出て来ない。

 そういうのってドラマや小説ではよくある話だけど、まさか現実にあるなんて思ってもいなかった。

 日向くんにそんな事情があったなんて。

 だから、自分の将来や生きることに悲観的になっていたのかな。

 「帰らないって、他にどこかいくあてがあるの?」

 質問には答えずに、日向くんは無言で私の腕を掴んで歩き出した。

 帰り道とは反対方向の繁華街へ向かっているらしく、途中で派手な髪の色をした不良系の人や夜のお仕事系の女の人を見かけて場違いな雰囲気を感じる。

 大音量で流れる音楽、どこか妖し気に光るネオンの建物、明らかに普通の高校生とは違う派手な格好をした同い年くらいの男の子や女の子。

 いつも学校と塾しか行き来しない私にとっては、別世界のような空間だ。

 日向くんは、こういう場所に行き慣れているのかな。

 いったいどこに行くつもりなんだろう……。

 不安に思いながら歩いていると、

 「あれ、彼方じゃん!」

 突然後ろからそんな言葉が聞こえた。

 日向くんの知り合いらしく、私の腕を掴んでいた手を離して日向くんが振り返った。

 「ユーマ、久しぶりだな」

 「おう。最近あまり来てなかったからな。久しぶりにこいつらとカラオケでもしようかと思ってさ」

 ユーマと呼ばれた男の子は金髪で見るからに遊び慣れた雰囲気の男の子で、他にも数人、見るからにギャルっぽい恰好をした女の子や男の子がいる。

 「あれ、もしかしてその子、彼方の彼女? めっちゃ美少女じゃん!」

 ユーマくんと一緒にいた男の子のひとりが私の存在に気づいてそう言った瞬間、周りの視線が一気に私に集中したような気がした。

 「彼方ってば散々うちらみたいな女と遊んでおいて、本命はすごい清楚系な子だったの~?」

 「あ~それな!」

 一緒にいたギャル系の女の子たちまでそんな風に言って笑い合っている。

 やだ。この子たちとは絶対合わない。早く帰りたい。

 そう思ってうつむいていると、

 「あ~違うって。ただのクラスメートだし、さっき偶然会っただけ。こいつはもう帰るみたいだから、俺だけカラオケ混ぜてよ」

 日向くんがそう言って私に目配せした。

 私は帰っていいということなんだろう。


 「な~んだ、そっかぁ。じゃあ行こうぜ~」

 ユーマくんがそう言って日向くんの肩を組んで歩き始めると一緒にいた子たちもぞろぞろとカラオケがあるらしき方へ歩き始めた。

 私は日向くんたちとは反対方向の道を駆け足で通り抜け、もとの帰り道の方へ戻った

 日向くんはあのままユーマくんたちと遊ぶのかな。

 不意にさっきあの中にいた女の子が言っていた言葉が甦る。

 “散々うちらみたいな女と遊んでおいて”……って、日向くんはそんなにあの子たちと親しくしていたの?

 それは、ただの友達として?

 それとも……彼女として?

 そんなことを考えたら、なぜか胸の奥が苦しくなった。


 【近づけない距離】


 ほとんど眠れずに迎えた翌朝、起きて鏡を見たらクマが出来ていた。

 ……学校行きたくないな。

 今日、日向くんに会ったら、どうしたらいいんだろう。

 カーテンを開けると、空はどんよりした曇り空で、今にも雨が降ってきそうな天気。

 もうそろそろ梅雨なのかな。

 こんな暗い気分の時に天気まで曇りだと、ますます気分が暗くなる。

 重い足取りで学校へ向かい、席に着く。

 日向くんはまだ来ていないみたいだ。

 私のクラスでの様子は相変わらずで、陽依ちゃんとも離れたまま。

 まさかとは思うけど、昨日の夜誰か見ていた人がいたらどうしよう。

 私も日向くんも私服だったから、気づかれてないといいけど。

 結局あまり授業に集中できないまま、4時間目の授業が終わった。

 日向くんの席は朝からずっと空席のままだ。

 今日は学校に来なさそうで、少しホッとした。

 今はまだ、どう接したらいいかわからないから。

 昼休み、屋上へ向かうため廊下を歩いていたら「天音さん」と偶然すれ違った星野さんに声をかけられた。

 「氷上先生が、面談室に来るようにって言ってたよ」

 「え?」

 面談室ってことは、個人的に話したいことがあるということだ。

 まさか、昨日のこと?

 そう考えたら、急に動悸が激しくなった。

 「わかった。ありがとう」

 お礼を言って、早速面談室へ向かう。

 もし昨日のことだったらどうしよう。

 深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから、面談室のドアをノックした。

 「どうぞ」

 「失礼します」

 返事が聞こえて中に入ると「座りなさい」と先生に厳しい口調で言われて、言われた通り席に着く。

 「単刀直入に聞くけど、あなた、日向くんとつきあってるの?」

 「……え?」

 いきなりそんなことを聞かれるとは思わなかった。

 「つきあってません」

 ちゃんと否定しないと、日向くんにも迷惑かけることになる。

 でも、なんでわざわざそんなこと聞くんだろう?

 「最近あなたが日向くんと一緒にいるって話を耳にしたの。それに……昨日、あなたが日向くんと繁華街にいるところを見たっていう人がいるんだけど、本当なの?」

 やっぱり昨日見てた人がいたんだ。

 一体誰が先生に話したんだろう?

 どうしよう、なんて言えばいい?

 「…………」

 黙り込んだ私を見て事実だと思ったのか、先生が厳しい口調で言った。

 「あなたたちくらいの年は、一番恋愛や遊びに興味がわく頃だと思うけど。常に自覚と責任を持って行動しないと、後悔するわよ。特に今は受験で大事な時期なのに。あなたは成績も優秀だし、生活態度も真面目な生徒だと思うわ。でも、日向くんは授業もちゃんと受けないし、素行が悪いことで有名な生徒なのよ。あなたとはレベルが違うの。このまま日向くんとつきあっても悪影響なだけよ」

 ………ひどい。

 日向くんだって、本当は優しいところがあるのに。

 それに、レベルが違うってなに?

 どうして生徒をレベル分けして判断するの?

 ひとりひとりが価値ある存在じゃないの?

 授業で平和や命の大切さについて学んでるのに。 

 教えてる先生がそんな風に考えているなら、何のための授業なんだろう。

 「日向くんは家庭環境も複雑だし、これ以上問題起こされたら学校の評判にも影響するし困るのよ」

 ……!?

 なんでそんなことまで言えるの?

 信じられない。

 いくら先生だからって、そこまで言う権利なんかないはずだ。

 先生がそんな目で日向くんのことを見ていたら、日向くんだって学校に来たくないと思うのは当然だ。

 「どうしてそんなこと言えるんですか?」

 「え?」

 「家庭環境のことで一番悩んでるのは日向くんです。それなのに、そんなことが言えるなんて……!」

 日向くんは、自分は生まれるべきじゃなかったんだって自分を責めてるのに。

 「日向くんは先生が思ってるような悪い人じゃありません。……失礼します!」

 私はそう言って、一方的に面談室を出た。

 先生はなんで日向くんのことをそんなに悪く見てるの?

 怒りと悲しさで、お弁当にほとんど手をつけられないまま、5時間目の予鈴が鳴った。

 教室に戻ると、みんなの視線が一斉に私に集中しているのがわかった。

 「ねぇ天音さん、昨日、日向くんと繁華街にいたってホント?」

 席に着こうとしたところで星野さんが突然私に聞いてきた。

 なんで星野さんが知っているんだろう?

 「日向くん、かなり危ない人達と遊んでるらしいから、気をつけた方がいいんじゃない?」

 「……!」

 私が何か言おうとした時、先生が教室に入って来てみんな一斉に席に着いた。

 どうしてこんなことになるんだろう。

 やっぱり学校に来なければ良かったかな。

 なんとか6時間目までの授業を受けて、帰りのホームルームが終わると、すぐに家に帰った。

 家に着くとすぐ自分の部屋に向かい、私服に着替えてベッドに横になる。

 先生も星野さんも私に日向くんとは関わらない方がいいと言ってたけど、私が日向くんと一緒にいることは、そんなにいけないことなの?

 確かに日向くんは私とは違うタイプだけど、ホントは優しい人なのに。

 日向くんのことを家庭環境や生活態度だけで判断して、勝手なことを言わないでほしい。

 でも、自分で自分の気持ちがよくわからない。

 私はなんでこんなに怒りを感じているんだろう。

 なんでこんなに悔しさを感じてるんだろう。

 なんでこんなに悲しいんだろう。

 なんでこんな気持ちになるんだろう。

 この気持ちは一体なんだろう。


 * * *


 翌日、私は精神的にどうしても辛くて学校を休んだ。

 両親はすごく心配してくれて、その優しさが胸に沁みた。

 私はこんなに温かい家庭環境の中で育っているけど、日向くんはずっと大変な環境の中で苦しんできたんだよね。

 そう考えると、胸が痛い。

 お母さんは生活のために一日中働いてるって言ってたし、きっと日向くんは家に帰ってからもひとりなんだよね。

 学校でも家でもひとりで、寂しくて辛くて、だから、それを紛らわすために強がっているのかもしれない。

 そして今もそんな日向くんの心の奥の傷を癒してくれる人はいないんだ。

 私は、日向くんの心の傷を癒せる人になれるかな?

 この前のことはやっぱりすごくショックだけど、クラスでひとりになっても学校へ行けたのは、日向くんがいたからだったんだ。

 だから、私も日向くんの力になりたい。

 寂しそうな瞳を見てたら、ほっとけない。

 こんな気持ち、初めてだ。

 * * *

 翌日学校へ行くと、私と日向くんが夜の繁華街にいたというウワサはかなり広まっているみたいだった。

 クラスの子たちはもちろん、廊下を歩いている時も、すれ違う人たちが私の方を見てヒソヒソ話をしてる。

 でも、こういうのをいちいち気にしてたらダメだ。

 もっと強くならないと、日向くんと一緒にはいられない。

 今日は日向くんも学校に来ている。

 授業は相変わらずサボってるけど、昼休みは会えるはずだから、きちんと話そう。

 昼休み、屋上へ行くと、日向くんは窓際でぼんやりと空を見ていた。

 「日向くん」

 声をかけると日向くんは一瞬私を見たけど、すぐ視線をそらした。

 「……もう来るな」

 「え?」

 「もう来るなよ。俺に関わるのやめろ」

 日向くんはもう一度、今度は大きな声ではっきりとそう言った。

 「どうして急にそんなこと言うの?」

 「俺と関わってるせいで、天音、色々言われてるんだろ?」

 「……え?」

 日向くん、知ってたの?

 「天音だって、こんなことになって迷惑だって思ってるだろ? 俺なんかいないほうがいいって思ってるだろ?」

 日向くんの口調がどんどん強くなっていく。

 「いないほうがいいなんて、そんなこと思ってないよ! なんでそんなに自分の存在を自分で否定するの?」

 私もだんだん感情が高ぶってきて、大きな声で言い返していた。

 「俺は生まれるべきじゃない存在なんだ。天音とは違うんだよ!」

 「日向くん、ホントは寂しいんでしょ? でもそれを相手に伝えて拒絶されるのが怖いから、そんな風に強がってるんでしょ? ちゃんと向き合って自分の気持ち話せば、わかってくれる人もいるよ!」

 「天音に何がわかるんだよ? 幸せに育ったやつに、俺の気持ちなんてわかるわけないだろ!」

 日向くんはそう言って、屋上を出て行ってしまった。

 こんなつもりじゃなかったのに。

 やっぱり、私じゃダメなのかな。

 私は日向くんの心の傷を癒せる人にはなれないのかな。

 両親がいて心から愛されて大事にされて、何不自由なく育った私には、日向くんの気持ちなんてわかるわけない?

 日向くんの力になりたいなんて、ただの思い上がりだったのかな。

 私にはどうすることもできないなら、もう日向くんに関わるのはやめるしかないのかな……。


 【隠していた本音】


 翌日から、私は昼休みに屋上へ行くのをやめて、空き教室を探してそこで過ごすようになった。

 ひとりで食べるお弁当はやっぱりおいしく感じない。

 それに、時間が経つのがすごく遅く感じる。
 日向くん、今頃どうしてるだろう?

 たった1ヶ月しか話してなかったのに、昼休みに日向くんと過ごすことが当たり前になってた。

 これからも一緒に過ごせるって思ってたのに。

 私はいつのまにか、昼休みに日向くんと話せることを楽しみにしていたんだ。

 昼休みにひとりで過ごすようになって1週間経つのに、日向くんのことばかり考えてる。
 どうしてだろう。

 日向くんと過ごしたときのこと思い出すと、胸がしめつけられるような感じがして、泣きたくなる。

 もう来るなって言われたけど、私は日向くんに会いたい。

 そう思ってることに気がついて、ハッとした。

 もしかして私は日向くんのこと……。

 でも、今頃気がついても遅い。

 遅いけど……会いたい。

 私は思い切って屋上へ向かった。

 教室の前までいくと、話し声が聞こえてきた。

 ………!

 ドアの隙間から中を見て、私は思わずドアを開けようとしていた手を止めた。

 日向くんが、私の知らない女の子と楽しそうに話していたから。

 一瞬日向くんと目が合った気がして、私はとっさに踵を返して階段を駆け降りた。

 私は何を期待してたんだろう。

 もう屋上は私の居場所じゃない。

 そんなこと、わかっていたはずなのに。

 こんなに胸が苦しいのはどうして?

 泣きそうになってるのはどうして?

 本当だったら、あの女の子の場所にいるのは私なのに。

 私がいた場所は、たった1週間で他の女の子に取られてしまった。

 今頃になって気づくなんて、遅いけど。

 私は日向くんのことが好きなんだ。

 そう強く思ったら、涙が溢れた。

 「天音!」

 突然名前を呼ばれて振り向くと、日向くんが立っていた。

 「……日向くん……」

 なんで?

 なんで追いかけてくるの?

 私に「もう関わるな」って言ったのに。

 私のことなんて気にしないで、さっきの

 女の子と仲良くしてればいいのに。

 私の想いは叶わないこと、わかってるから。

 だから、もうそっとしておいてほしい。

 私は、日向くんから逃げるように走り出した。

 「待てよ!」

 でも、日向くんは追いかけてくる。

 どうして!?

 なんで今さら追いかけてくるの?

 わたしのこと、からかってるの?

 「待てよ!……優羽!」

 ………!

 その呼び方に反応して足を止めた瞬間、私は日向くんに追いつかれて、腕をつかまれた。

 いつのまにか、私と日向くんは人がほとんど来ない屋上の階段まで来ていた。

 「離して!」

 逃げようとしても、日向くんの力が強くて逃げられない。

 「さっきのは誤解だから。偶然会って話してただけなんだ」

 「別にいいじゃない、私が誤解したって。日向くんには関係ないでしょ? もう来るなって言ったのは日向くんなのに、なんで追いかけてくるの?」

 「ごめん、嘘なんだ」

 私の言葉に、日向くんが視線を下に向けたまま言った。

 「え?」

 嘘ってどういうこと?

 「あんなこと言うつもりじゃなかった。……怖かったんだ。天音に嫌われるのが」

 「……」

 私は日向くんの言葉の意味がよくわからなくて、次の言葉を待った。

 「天音と話してると落ち着くっていうか……気持ちが和らぐから、天音と話すのはイヤじゃなかった」

 真剣に話してくれてるのはわかるけど、いまいち話が見えない。

 「いつのまにか天音の存在が大きくなって、本気になってくのが怖かった」

 その言葉に、かすかに話の内容が見えてきた気がした。

 「自分にとって大事な存在になるほど、拒絶されるのが怖くて、自分から突き放すようになってた。自分から離すほうが、傷つかなくてすむって思ってたから……」

 「……そんな……」

 「バカだよな。そうやって、母親のことも自分から突き離してたんだ。この前天音に言われたこと、全部当たってるよ。ホントは寂しいくせに強がってるんだ。俺は弱くて臆病者なんだよ」

 「……日向くん」

 初めて聞いた日向くんの心の奥の本音に、胸がしめつけられる。

 「俺、天音にひどいこと言ったし、この前嫌な思いさせたから、嫌われて当然で、こんなこと言う資格ないってわかってるけど……」

 日向くんは一度そこで言葉を切ると、真剣な瞳でまっすぐにわたしを見つめて言った。

 「天音には、ずっとそばにいてほしい」

 ………え?

 今の言葉って、私は日向くんのそばにいてもいいってこと?

 あまりにも思いがけない言葉に、混乱してる。

 ホントにいいの?

 さっきの女の子のことは誤解だってわかったけど、日向くん、前に「恋愛なんて面倒くさい」って言ってたよね。

 「ホントに? わたしのこと、からかってない?」

 信じられない思いで聞くと、日向くんが怪訝そうな顔をした。

 「だって、前に『恋愛なんて面倒くさい』って言ってたし、私、日向くんに迷惑かけてばかりだったし……」

 「それも強がってただけだよ。まあ、今までは確かにヒマだからってテキトーに遊びにつきあったりしてたけど、天音のことは特別だと思ってるから」

 日向くんが真剣な表情ではっきりとそう言ってくれて、本気なんだってわかった。

 私もこの気持ちを伝えてもいいのかな?

 「私も、日向くんのそばにいたい。日向くんのことが好きだから」

 私は溢れてくる涙を手で拭って、思い切ってそう伝えた。

 「ホントに?」

 「うん」

 私が頷くと、

 「すげー嬉しい」

 日向くんが本当に嬉しそうな笑顔で言った。

 その笑顔は、今まで見たことないくらい優しくて、胸が熱くなった。

 私はこれからも日向くんのそばにいていいんだよね。



 【愛されている命】


 それから、日向くんとはまたお昼休みに一緒に過ごすようになった。

 そしてあっというまに期末テストも終わって、1学期の授業も残すところあと約1週間。

 日向くんは少しずつだけど、授業に出るようになった。

 期末テストも、私が協力したから赤点は取らずにすんだみたい。

 私が日向くんと本当につきあい始めてからまた色々ウワサされて、陰口も言われたけど、日向くんが「いい加減にしろ」と怒ってくれて、今はだいぶ落ち着いてきた。

 陽依ちゃんも、私にきちんと謝ってくれた。

 「私、優羽ちゃんに嫉妬してたんだ。ホントにごめんね。すごいバカなことしたなって反省してる」って。

 だから最近はまた陽依ちゃんとも話すようになって、少しずついい方向に向かってきている。

 「天音、これから時間ある?」

 放課後、日向くんと一緒に帰っていたらそう聞かれた。

 「あるけど」

 「実は、母親が天音に会いたがってるんだ。今日、夕方からの仕事が休みだから、良かったら家に来ないかって」

 「いいの?」

 「うん。俺は別にいいよ」

 「じゃあお邪魔しようかな」

 日向くんの家に行くのは初めてだし、お母さんに会うのも緊張するけど。

 「あ、でも私、手土産とか何も持ってない」

 日向くんのお母さんに会うということは、彼女として紹介されるということだよね。

 家に呼んでもらっているのに、何も持たないで行くなんて失礼かもしれない。

 「ああ、そんなのいいって。学校帰りに来るって知ってるし、急な話だから」

 「そう?」

 「うん。最近さ、少しずつだけど母親と話すようになったんだ」

 「ホント?」

 「ほんの少しだけど。それで、天音のこと話したら会わせてほしいってしつこいから」

 「そうなんだ」

 日向くん、お母さんと話せているんだ。

 良かった。

 「ここだよ」

 しばらく歩いて着いたのはマンションの前だった。

 「ただいま」

 日向くんがドアを開けて中に入って、私も続けて中に入る。

 「お邪魔します」

 「あら、いらっしゃい。待ってたのよ」

 緊張しながらそう言って部屋の中に上がると、日向くんのお母さんが笑顔で迎えてくれた。

 若くて綺麗で、とても高校3年生の子供がいるようには見えない。

 私のお母さんも若い方だけど、もっと若いかもしれない。
 
 「どうぞ、座って」

 「ありがとうございます」

 日向くんのお母さんに促されて、席に着いた。

 「優羽さんっていうのよね?」

 「はい。天音 優羽です。初めまして」

 「とてもかわいいお名前ね」

 「ありがとうございます」

 優しそうなお母さんだな。

 日向くんとうまくいってないみたいだったから、もっと厳しい、キツイ感じのお母さんなのかなって思っていたんだけど。

 「彼方にこんな可愛い彼女がいるなんて、ビックリだわ」

 日向くんのお母さんが、私に紅茶とケーキを用意してくれながらそう言って微笑んだ。

 「……え……」

 可愛いなんて照れるし、「彼女」って言われるのも慣れてないし、どう返したらいいかわからない。

 「こんなにしっかりとした真面目そうなお嬢さんなのに、彼方と一緒なんて大変じゃない? 彼方は学校でかなり浮いているみたいだしね。彼方の父親のことは聞いてる?」

 「少しだけですけど」

 「じゃあ、だいたい知っていると思うけど、私は結婚しないで彼方を産んだの。いわゆるシングルマザーね」

 「……はい」

 日向くんのお母さんの真剣な表情と口調に、きちんと話そうとしてくれていることがわかって、私は姿勢を正して日向くんのお母さんの話に耳を傾けた。

 「彼方の父親とは高校の同級生で、つきあっていたの。結局別れてしまったけど、私はどうしても忘れられなかった。そして、大学生の時に同窓会で会ってまたお互い惹かれて、もう一度つきあうことになったの。その時にはあの人はもう結婚してたけど、私は知らなかった」

 「…………」

 「つきあって半年以上過ぎた頃に知ったの。ちょうどその頃、私は妊娠していることに気づいて……それで、あの人には何も言わずに離れてひとりで子供を産んで育てることを決めたの」

 「じゃあ、日向くんのお父さんは……」

 「私が子供を産んでることは知らない。でも後悔はしてないの。私はあの人のことを本当に愛してたし、あの人も、私のこと一瞬でも愛してくれていたから。そして、本当に愛してる人の子供を授かったんだもの。こんなに幸せなことはないわ」

 そう言った日向くんのお母さんの瞳は、まっすぐで強い光を宿していた。

 「彼方くんを産まなければ良かったって思ったりはしてないですよね?」

 「当たり前よ。辛いこと、苦しいこともたくさんあったけれど、そんなこと思ったことなんて一度もないわ。だけど、彼方を苦しませてたのね」

 「……母さん……」

 改めて聞いたお母さんの話に、日向くんも驚いているみたい。

 「彼方っていう名前は〝夢や希望を持って遠くまで羽ばたけるように〟と思いを込めてつけたの。私の一番の願いは、彼方が幸せになることよ」

 * * *

 「とても素敵なお母さんじゃない?」

 私の家までの道を日向くんに送ってもらいながら、思わずそう口にしていた。

 たったひとりで子供を産んで育てて働くなんて、今の私には想像もつかないくらい大変だろうし、辛いことや苦しいことも本当にたくさんあったと思う。

 大人の事情ってよくわからないけれど、日向くんのお母さんは、好きな人と結婚できない辛さもあっただろうし、きっとすごく苦しんだり悩んだりしてたんだよね。

 それでも、「後悔してない」って言えるのは、とてもすごいことだと思うし、強いと思う。

 きっとそれは、自分の子供という守るべき存在があるからなんだ。

 日向くんが気づこうとしなかっただけで、日向くんはちゃんとお母さんに大切にされて
 るし、愛されているんだ。

 「なんか俺、すげーバカだよな。勝手に 生まれてこなきゃ良かったなんて思い込んで荒れてさ。さっき母親の話聞いて、自分が恥ずかしくなった」

 「でも、日向くんは日向くんなりに辛かったんでしょ?」

 「……え?」

 「やっぱり複雑な事情で自分が生まれたんだって知ったら、色々考えちゃうのは当たり前だと思うけど」

 「そうだな。俺、母親にはっきり『産まなければ良かった』とか『いなければいい』とか言われたことなかったんだ。でも、小さな頃から必死に働いてる姿見てて、子供心に 俺がいるせいで大変なんだって思ってた。父親のこと知ったときはすげーショックで、それから俺は生まれるべきじゃなかったんだ〟 って考えるようになったんだ。父親も母親も許せなかった。幸せになんてなれないのになんで俺を産んだんだって思ったよ」

 日向くんは、お母さんに大変な思いさせてることも、自分のせいだって責めていたんだ。

 「どうせ生まれるべきじゃなかったなら、何やっても無駄だって思うようになって、何もする気が起きなかったんだ。ただ時間が過ぎるだけで、ホント何もない毎日だった。天音と話すようになるまでは」

 「え?」

 「天音と話すようになってから、少しずつ何か変わったような気がする」

 「……そうかな」

 自分では何かしたつもりなんてないから、そう言われると嬉しいけど、なんとなく恥ずかしい。

 「天音は勉強とか自分の将来に一生懸命だし、クラスでひとりになっても逃げなかっただろ? 素直だし、家族とも仲良くてホント羨ましいよ。俺にないもの全部持ってて、羨ましい反面ムカついたりもしたけど。でも、天音がそばにいると気持ちが和らいでいつのまにか大切な存在になってた。だから拒絶されることが怖かったんだ。俺とは違うってわかってたから、ホントの俺を知って嫌われたくなかった。でも、天音にはそういうのも全部見透かされそうで怖くて、イヤな思いさせてホント悪いことしたなって思ってる。ごめんな」

 「……日向くん……」

 今まで自分のことを話さなかった日向くんが、一生懸命正直に自分の気持ちを話してく
 れてることが、すごく嬉しい。

 「俺って、ホントどうしようもないやつだろ? 担任にも言われたんだよ。『天音さんがあなたと仲良くしていることでクラスにいづらくなっているから、距離を置いてほしいって。それで、天音のそばにいるべきじゃないって思って離れようとしたんだ」

 「そうだったの?」

 日向くんが先生にそんなこと言われてたなんて知らなかった。

 それで私から離れようとしてたなんて、やっぱり日向くん本当は優しいんだ。

 「でも、上手に思い通りに生きられる人なんていないんじゃない? みんな悩んで苦しんで傷ついて傷つけて失敗して、だけど、たった一度の人生だから、必死になって反省や後悔して前に進もうとしてるんじゃないかな。さっき日向くんの名前の由来を聞いて思い出したんだけど、私も小さい頃お母さんに 名前の由来について聞いたことがあるの。自分も誰かも優しく包み込んであげられる羽のような子になってほしいって願いからつけたんだって」

 「じゃあ、俺に羽をくれたのは天音だな」

 「え?」

 思いがけない言葉に驚いて顔を上げると、日向くんが優しい笑顔で私を見ていた。

 「俺、高1の頃から天音のこと知ってたよ」

 「高1の頃から?」

 「うん。天音って人目ひく顔だし、前から男子に人気あったし、成績も良くてかなり有名だったから。綺麗な名前だし印象に残ってたんだ。それで去年同じクラスになって実際に見たら、オーラみたいなのが見えた」

 「なんか芸能人みたい」

 「それに近いかもな。幸せオーラみたいな、なんかホントまっすぐに育ったんだろうなっていう雰囲気だったんだよ。俺とは正反対のタイプだから、関わることはないだろうなって思ってたけど、話したらどんな感じなのかなってちょっと興味もあった」

 「……そうなんだ」

 まさか日向くんが私のこと1年の頃から知ってたなんて思わなかった。

 日向くんと話しながら歩いていたら、いつのまにかあたりは夕闇に包まれてた。

 だんだん私の家が近づいてくる。

 もう少し一緒にいたい。

 そんな思いが胸をよぎる。

 「あ、私の家すぐそこだから、ここでいいよ。ありがとう」

 「……優羽!」

 家の方へ歩こうとした時、不意に名前を呼ばれて私が一瞬立ち止まると、

 「……忘れ物してる」

 日向くんが言った。

 ………?

 忘れ物なんて、何もないはずだけど?

 不思議に思って日向くんの方に体を向け瞬間、日向くんが私の腕を引っぱって、バランスを崩した私は気がついたら日向くんに抱きしめられていた。

 「……日向くん?」

 急にどうしたの?

 「まだちゃんと言ってなかったよな」

 「……え?」

 言ってなかったって、何を?


 わけがわからないまま身動きできずにいたら、

 「好きだよ」

 優しい声が耳元に聞こえた。

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥から熱い想いがこみ上げてきた。

 日向くんは恥ずかしそうに腕を離すと、

 「じゃ、また明日」

 そう言って駆け出した。

 私は日向くんの後ろ姿が見えなくなるまで、ただその場に立ちつくしていた。

 日向くんの温もりが残ってる体中が熱い。
 胸がいっぱいになって、涙が溢れてくる。

 誰かを好きになるって、こういうことなのかな。

 寂しがり屋で、素直になれなくて、強がってしまう不器用な人。

 でも、ホントは優しい心を持ってる人。
 大好きだよ。

 生まれるべきじゃなかった存在なんて、そんな悲しいこともう言わないでほしい。

 私は、日向くんに出会えて良かったと思ってるから。

 私たちはみんな誰かに愛されてる。

 必要とされている存在なの。

 だから、拒絶されることを恐れないで。

 もう、自分から大切な人の手を離したりしないで。

 私は、ずっと日向くんのそばにいるから。

 
 【変わっていく心 -Side彼方-】


 いつの頃からか、母親の目を見れなくなった。話すのも嫌になった。

 目を見たら、俺を嫌ってることがわかってしまいそうで。

 話したら「産まなければ良かった」って言われそうで。

 父親のことを知ってから「自分は生まれるべきじゃない、存在なんだ」と思うようになった。

 それからは何をやっても全て無駄な気がした。

 どうせ生まれるべきじゃなかったんだから。

 生きてたって意味のない存在なんだから。

 そう思うと、「楽しい、嬉しい」という感情もなくなった。

 夢や希望なんて持てなくなった。

 何もしたくなかった。

 人と深く関わりたくなかった。

 でも本当は、心の奥の奥では寂しかったんだ。

 自分は生きていていい存在なんだ、生きる意味が、生きる価値がある存在なんだって誰かに認めてほしかった。

 必要な存在なんだって、誰かに言ってほしかった。

 だから怖かったんだ。

 人と深く関わって、結局「おまえなんかいなくていい」って突き放されることが。

 どうしようもなく怖かったんだ。

 そんな臆病で弱い自分を認めたくなくて、他人に気づかれたくなくて、わざと強がってた。

 そんなとき、きみに出会った。

 きみは、何もかもが自分とは反対だった。

 飾らないありのままの姿でも輝いていて。

 成績優秀で、全てのことに一生懸命で。

 明るくて素直で、家族の愛情を一身に受けて育ったような雰囲気で。

 汚い、醜い世界なんて知らなさそうで。

 まっすぐで、純粋な瞳をしてた。

 幸せに満ちた笑顔が、とても眩しかった。

 光に満たされた世界の中にいて、俺には手の届かない存在だと思ってた。

 だから、きみと話したときはすごく嬉しかったんだ。

 毎日一緒にいるうちに、少しずつ惹かれてた。

 言葉を多く交わさなくても、そばにいるだけで、心が和らいで癒される。

 笑顔を見ると、温かい気持ちになる。

 きみが俺にとって大切な存在なんだと気づいた時、やっぱり拒絶されることが怖くなった。

 まっすぐで純粋な瞳に見つめられると、何もかも見透かされそうで怖かった。

 本当の自分を知って嫌われたくなかった。

 失いたくない大切な存在だからこそ、拒絶されて傷つくのが怖かった。

 だから、自分から突き放そうとした。

 そんな臆病で弱い俺をきみは受け止めてくれて、好きだと言ってくれて、信じられないほど嬉しかった。

 きみがそばにいてくれたら、きっと、自分の弱さを自分で受け止めて前に進める。
 う。

 ――強くなりたい。

 もう、きみを泣かせたくないから。

 もう、きみを傷つけたくないから。

 今はひとつだけ叶えたい願いがある。

 「ずっときみのそばにいて、幸せそうな笑顔を見ていたい」

 そう言ったら、きみは笑ってくれるかな?



 【第2章 夏休みのはじまり】


 耳元で波の音が聴こえる。

 真っ青な空に、眩しい陽射し。

 吹いて来る風は、潮の香りがする。

 日の光を浴びて、海の水面がキラキラ光ってる。

 私は、大好きな人と砂浜を歩いてる。

 つないでくれた手があたたかい。

 顔を上げると、大好きな人が最高の笑顔を見せてくれた。

 その瞬間、私は幸せな気持ちでいっぱいになった。

 ふと気がついて目に映ったのは、日向くんの笑顔じゃなくて、自分の部屋の景色だった。

 ……夢だったんだ。

 でも、夢とは思えないほどリアルだった。

 つないだ手のぬくもりも、日向くんの笑顔も、笑顔を見た瞬間の胸の高鳴りも。

 私はベッドに腰掛けて、夢の余韻に浸っていた。

 窓から夏の強い陽射しが差し込んできている。

 外では、夏の始まりを告げるように、セミがせわしなく鳴いている。

 今日から、夏休み。

 待ちに待った楽しい夏休みの始まりと言いたいところだけど、今年は受験生だからそんなに遊んでもいられない。

 私は推薦狙いだけど、一般受験のことも考えて、塾で勉強を続けている。

 来週からは夏期講習が始まるし、全国模試も受けなくちゃならない。

 日向くんとつき合い始めて最初の夏休みなのに。

 だけど、夏休み初日から日向くんとデートする夢を見るなんて何かいいことがありそうな予感がする。

 さっき夢で見た日向くんの笑顔を思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。

 夢じゃなくて、本当にあんな優しい笑顔が見られたらいいな。

 そんなことを思っていたら、突然、枕元に置いてあったスマホの着信音が鳴った。

 確認すると、日向くんからのメッセージだった。

 今まで日向くんのことを考えていたから、ナイスタイミングで思わず嬉しくなる。

 「夏休みになったらどこか行こう」って話をしていたから、そのことかもしれない。

 【遊びに行く日、明後日の土曜でどう?
 優羽はどこに行きたい?】

 内容を確認すると、予想通りの内容だった。

 来週からは塾の夏期講習が始まるから、明後日ならちょうどいいかも。

 暑い所や人が多い所に長時間いるのは苦手だから、ゆっくりできて適度に涼める所なら水族館がいいかな。

 【私も明後日で大丈夫だよ。 水族館に行きたいな】

 日向くん、OKしてくれるかな?

 ドキドキしながら送信ボタンを押すと、すぐに返事がきた。

 【了解。明後日11時に駅前待ち合わせでいい?】

 【それで大丈夫だよ。明後日、楽しみにしてるね】

 明後日が私にとって初めてのデートなんだ。

 まさか自分が夏休みにデートすることになるなんて、しかも相手が日向くんだなんて、去
 年の今頃は全く思ってもいなかった。

 私はなぜか中学生の頃から男の子に告白されることが多かったけど、「本当に好きな人じゃないとつき合えない」っていつも断っていた。

 好感を持てる男の子もいたけど、恋愛感情にはならなかった。

 “好き”っていう気持ちがどんなものなのか、わからなかった。

 でも、今ならわかる。

 一緒にいるだけでドキドキして、嬉しくて。

 笑顔を見ると、胸が熱くなって、幸せな気持ちになる。

 もっと一緒にいたいって思う。

 日向くんは辛い思いをしてきたから、私はそばにいて安らげるような存在になりたい。

 心の傷を少しでも癒せるような存在になりたい。

 去年までは知らなかった、初めての気持ち。

 私にも誰かをこんなに好きだと思えることがあるなんて、不思議。

 明後日は、どんな日になるのかな?

 私の高校生活最後の夏休みは、楽しいことが起こりそうな予感で幕を開けた。

 * * *

 デート当日。外は快晴で、まさにデート日和。

 緊張してなかなか眠れなかったから、ちょっと寝不足気味。

 昨日は陽依ちゃんにつきあってもらって、今日着ていく服を買いに行った。

 夏らしい涼しげなワンピースとミュール。

 お母さんが、「記念すべき初デートだから」ってお小遣いを奮発してくれた。

 こういうところ、すごく理解のある親なんだよね。

 服を着替えて、髪をブラッシングして、軽くメイク。

 最後に荷物の確認をしていたら、あっという間に家を出る時間。

 「行ってきます!」

 「行ってらっしゃい。気をつけてね」

 お母さんに見送られて、家を出た。

 駅に着くと、人待ち顔の人がたくさん。

 その中に、日向くんの姿は見当たらない。

 まだ時間前だし、来ていないかな。

 学校もいつも遅刻してるし、時間通りには来ないかもしれない。

 そう思っていたら、スマホに日向くんからのメッセージがきた。

 【駅に着いた】

 たった一言で、スタンプも何もないところが日向くんらしい。

 「優羽」

 名前を呼ばれて顔を上げると、日向くんがいた。

 私服姿の日向くんは、制服姿より大人っぽく見える。

 夏物のジャケットとシャツ、ジーンズにスニーカーっていうラフなスタイルなんだけど、雰囲気が日向くんに合ってる。

 「早いな」

 「日向くんが遅いんだよ」

 「ごめん、ごめん。じゃ、行くか」

 「うん」

 電車に乗って少しずつ変わっていく景色にワクワクする。

 水族館に到着して中に入ると、家族連れやカップルで賑わっていた。

 「私、ここの水族館って初めてなんだ」

 「俺も来たことないよ」

 「そうなんだ。あ、ドルフィンファンタジー行きたいな。白イルカ見たい」

 「いいけど、その前になんか食べない?」

 「そうだね。そろそろお昼だし、何か食べようか」

 そんな話をしながら歩いていたら、クレープ屋さんが見えた。

 「あ、クレープおいしそう。食べない?」

 「いいよ」

 早速クレープをオーダーして席につく。

 食べ始めたら、いつの間にかスズメが寄ってきた。

 人に慣れているのか、警戒心もなく足元に来る。

 「エサもらえると思って人に懐いてるんだね」

 「みんな可愛いからってエサやるんだろ」

 「うん」

 見ていると可愛くて、私も食べてるクレープを小さくちぎって、近寄ってきたスズメにあげた。

 全部食べ終えると、私たちは白イルカの見られる エリアへ向かった。

 中に入ると天井にアーチ型の水槽があって、イルカが何頭か泳いでいる。

 水槽に近づくと、人懐っこいイルカが寄ってきてくれる。

 愛嬌のある顔が可愛らしい。

 悠々と泳ぐイルカを見ていると、心が安らいでいく気がする。

 奥へ進むと円柱型の水槽があって白イルカが2頭泳いでいた。

 近づいて正面から見ると、本当に可愛い。

 軽く水槽をたたくと、正面を向いているイルカがお辞儀した。

 「今お辞儀したよ!すごいね。可愛い~」

 まるで笑ってるみたいな顔と、仕草がとても可愛くて、見ているだけで癒される。

 いつまで見ていても飽きない。

 しばらく見ていたら、不意に日向くんがつぶやいた。

 「白イルカって、優羽に似てるよな」

 「え? そう?」

 「マヌケな顔してボーっとしてるところが」

 「何それ!? ひどくない!?」

 「ウソウソ。冗談だよ」

 言いながら、日向くんが笑ってる。

 つい数ヶ月前までは、まともに話したことすらなかったのに。

 今はこんなやり取りが楽しくて、居心地がいい。

 いつのまにか、私にとって日向くんの隣は居心地のいい場所になっていたんだ。

 白イルカを見たあとは、メインの水族館エリアへ向かった。 

 館内は、夏休みということもあって、かなり混んでいる。

 特に人気が高いラッコとホッキョクグマのエリアでは小さい子が多くて、あちこちから「カワイイ!」という声が聞こえてきた。

 一通り見終わると、ちょうどあと少しでショーが始まる時間だった。

 「もうすぐショーが始まるよ。見て行かない?」

 「うん」

 席に座って会場の様子を見ると、家族や友達や恋人同士で賑わっている。

 こんな光景を見ていると、夏休みだなと実感する。

 「こういう所来るの、久しぶりだな」

 「女の子の友達と来たりしなかったの?」

 日向くんの言葉に私が何気なくそう訊くと、

 「普通そういうこと訊くか?」

 日向くんがちょっと呆れたように苦笑した。

 「あ、えっと、女の子の友達とも結構遊びに行ってたって前に言ってたから」

 慌ててそう言いながら、訊かない方が良かったなってちょっと自己嫌悪。

 「水族館とか行きたがるタイプじゃなかったから。カラオケとかライブハウスとか、そういう所の方が多かったよ」

 「そうなんだ」

 やっぱり、日向くんも一緒に遊んでた女の子たちも、私とは違うタイプなんだ。

 前からわかっていたことだけど、改めてそう思い知らされるとちょっと不安になる。

 水族館なんて、つまらなかった?

 もしかして無理につきあわせてる?

 「どうした?」

 「日向くん、こういう所イヤだったかなって思って」

 「なんで? 別に、俺、そういう所の方が好きってわけじゃないよ。水族館だって嫌いじゃないし。たまにはこういう所もいいなって思ってたし。気にするなって」

 そう言うと、優しく私の頭に手を置いた日向くん。

 そんな些細な仕草にもドキドキする。

 私は本当に日向くんのことが好きなんだなと
 改めて思ったその時、会場のBGMが変わってショーが始まった。

 約30分間のショーで、イルカはもちろんアシカやトドも登場して、可愛らしい芸を見せてくれた。

 「イルカ、可愛かったね」

 ショーが終わった後、私はイルカの可愛さにすっかりメロメロになっていた。

 イルカって、本当に人懐っこくて、頭が良くて、すごいんだ。

 「これからどうする?」

 「あ、あれ乗ってみたいな」

 偶然目に入った急流下りのアトラクション。

 みんなびしょ濡れになりながらも楽しそうにはしゃいでいる。

 乗り場に着くと、人気アトラクションだけに、結構並んでいた。

 でも、見ているだけで楽しそうで、ワクワクしてくる。

 「これって、一緒に乗る人の体重によって、水のかかる量が変わるみたいだよ」

 「優羽は軽いから大丈夫だろ」

 「えっ……そんなことないよ」

 「いや、軽かったよ。前に保健室に運んだ時に思った」

 「……ああ、そんなことあったよね」

 中間テスト前に無理して勉強して、元々体が丈夫じゃない私は、昼休み日向くんと一緒にお弁当を食べてるときに貧血で倒れたんだ。

 その時、日向くんが保健室まで連れて行ってくれた。

 気を失っていたから、覚えていないけど。

 「そういえば、あの時からだよな。俺と優羽がつきあってるってウワサになったの」

 「そうだよ。覚えてないけど、私のこと保健室に連れて行ってくれた時、お姫様抱っこしてたってホント?」

 「ああ、その方が運びやすかったから」

 ……やっぱりホントなんだ。

 覚えてないのに、思い出すと急に恥ずかしくなってくる。

 でも、覚えてなくてちょっと残念かも。

 お姫様抱っこって、女の子の憧れだもんね。

 「今度はちゃんと意識がある時にしようか?」

 「……えっ!?」

 まるで私の気持ちを見透かしたような言葉に、ビックリ。

 「なに赤くなってんだよ。優羽ってホント面白いな」

 面白いって……もしかして、からかったの?

 日向くんは、隣でおかしそうに笑ってる。

 そんなに笑わなくたっていいじゃない。

 でも、いつもクールな日向くんがこんなに笑うところなんてあまり見たことがないから。

 意外な一面が見られて、ちょっと嬉しい。

 そんなやりとりをしているうちに、私たちの順番が来た。

 円形のボートに乗って、コースを周っていく。

 最初はゆっくりコースを周って行く感じで、涼みながら周りの景色を楽しんでいたんだけど。

 だんだん他のボートにぶつかったり流れが速くなったりして、最後には思っていたよりかなり水がかかった。

 「まさか、こんなに水がかかるとは思わなかった」

 「夏なんだし、すぐ乾くから大丈夫だって。涼しくなってちょうどいいよ」

 「それはそうだけど……」

 「じゃ、乾くまで散歩するか」

 そう言って日向くんが歩き出して、私も歩き出そうとした瞬間。

 「きゃっ!」

 足が滑って転びそうになった。

 「あ~あ。危なっかしいなぁ。ほら」

 日向くんが手を差し出してくれる。

 「ありがとう」

 そして、私たちは手をつないだまま歩き出した。

 ただそれだけで、幸せな気持ちが胸に広がっていく。

 ねぇ、日向くんは知らないでしょう?

 私がこんな何気ないことでドキドキしてること。

 私がこんな些細なことで幸せな気持ちになれること。

 日向くんも、私と同じようにドキドキしてくれてるのかな?

 すぐ目の前に海が広がる道を通りながら、私は甘い気分に浸っていた。

 「そこにベンチがあるから、ちょっと座るか?」

 「うん」

 私たちはベンチに座って、休憩することにした。

 海から吹いてくる潮風が気持ちいい。

 「いい風だな~」

 日向くんが気持ち良さそうに目を閉じた。

 こうして間近で見ると、日向くんてイケメンなんだって改めて思う。

 日向くんはアイドル的なイケメンというより、クールで近寄りがたい独特の雰囲気を持っていて、暗闇の中で影を持ちながら光ってるどこか寂しげな月のような存在だと思う。

 「あ~、なんか眠くなってきた」

 真剣にそんなことを考えていたら、日向くんがのんびりした声で言った。

 「寝不足?」

 「昨日バイトしてたからな」

 「日向くん、バイトしてるの?」

 「うん。……あ、前から気になってたんだけど。その、『日向くん』って呼び方、そろそろやめない? 彼方でいいよ」

 「…えっ…」

 名前呼びしたいとは思っていたけど、いざ呼ぼうと思うと恥ずかしい。

 「じゃあ、ためしで呼んでみて」

 「か……彼方?」

 って、やっぱり慣れないし恥ずかしい。

 「彼方くんの方が呼びやすいかも」

 「じゃあ、慣れるまではそっちで」

 「……彼方くん」

 「うん」


 「どこでバイトしてるの?」


 「楽器店とコンビニ」


 「楽器店?」


 思いがけない答えに、思わず訊き返してた。


 「そんな意外?」

 「ううん、その逆。彼方くんバンドやってそうな感じだから、合ってるなって。でも、高3の夏休みにバイト掛け持ちってすごいね。ほとんどの人が受験に向けて本腰入れる時季じゃない?」

 「まぁな。でも、俺は大学行かないから」

 「うん。前にそう言ってたよね」

 彼方くん(ってまだ呼び慣れない)の家は母子家庭だから、大学に行く余裕はないって前に聞いたことがあるけど。

 その時は、就職する気も、何かやりたいことがあるわけでもないみたいだった。

 でももう夏休みだし、そろそろみんなが真剣に進路の事を考え始める時期に来てる。

 卒業してからどうするか、彼方くんはまだ決めてないのかな。

 「優羽は来週から夏期講習だっけ?」

 「うん。いよいよ受験生っぽくなってくるかな」

 私は大学進学を希望しているから、来週からは塾の夏期講習が始まる。

 「彼方くんは卒業したらどうするか決まった?」

 「う~ん……まだ考え中、かな」

 「そっか。でも、焦らずにゆっくり決めるのが一番だと思うよ」

 今の私には、こういうことしか言えない。

 「頑張って」という言葉は、頑張ろうとしている人には言っちゃいけない気がして。

 「そうだな。ま、焦ってもしょうがないしな」

 そんな風にふたりで話していたら、いつの間にか陽射しが弱くなって夕方の雰囲気になっていた。

 「くしゅん!」

 潮風に当たって少し体が冷えたのか、くしゃみが出た。

 「大丈夫か? 服濡れたままだったから冷えたのかな」

 「そうかも」

 「これ、着てていいよ」

 そう言って、彼方くんが自分のジャケットを脱いで肩にかけてくれた。

 「でも、彼方くんは……」

 「俺は寒くないから平気。優羽は体丈夫な方じゃないんだし、風邪ひいたら大変だから」

 「ありがとう」

 彼方くんって、こういう所さり気なく優しいんだよね。

 ジャケットからは、いつも彼方くんがつけている香水の香りがした。

 「そろそろ帰るか?」

 「え?」

 「あまり遅くなると、親が心配するだろ? 受験生だし。俺は別に遅くなっても平気だけど」

 「そうだね。じゃあ、お土産見てからでもいい?」

 「うん」

 私たちは自然に手をつないで歩き始めた。

 少し薄暗くなって、イルミネーションがつき始めた園内は、ロマンチックな雰囲気に包まれている。

 本当はまだ帰りたくない。

 もう少し一緒にいたい。

 でも、家族に心配かけたくない。

 それに、夏休みはまだ始まったばかりだし、またこうして彼方くんと遊びに行けるよね。

 そう自分に言い聞かせてお店へ向かった。

 色々あって迷ったけど、両親と陽依ちゃんにはお菓子、そして自分用に彼方くんとお揃いのイルカのストラップを買った。

 買い終わって園内を出る頃には18時を過ぎていた。

 ふたりで話しながら電車に乗っていたら、あっという間に地元に着いた。

 「家まで送る」

 そう言って、彼方くんが私の手をつないだ。
 
 「いいの?」

 「もう暗いから」

 もう少し一緒にいられることが嬉しい。

 「地元に帰ってくると、現実に戻される感じだな」

 「うん。私は来週から毎日勉強だよ」

 「受験生は辛いよなぁ」

 「そういう彼方くんだって、一応受験生でしょ?」

 「俺は受験しないから受験生じゃないし。この夏はバイト三昧」

 「毎日バイトなの?」

 「ほぼ毎日だな。掛け持ちしてるし」

 「そっか……頑張ってね」

 「うん」

 つき合い始めて最初の夏休みなのに、ほとんど会えそうもないのは正直言うと残念だけど。

 でも、お互い自分の進路を決める大事な時だから、仕方ないよね。

 「送ってくれてありがとう」

 「うん」

 家の前に着くと、急に今日が終わってしまうことを実感した。

 「今日、すごく楽しかった。本当にありがとう」

 「俺も楽しかったよ」

 「ホントに?」

 「うん。優羽が楽しそうに笑ってるところたくさん見られたから、良かった」

 思いがけない優しい言葉に胸の奥が温かくなる。

 「私も、彼方くんの笑顔たくさん見られて嬉しかったよ」

 そう、素直に言えた。

 離れたくないな。

 別れが名残惜しくて、つないでいる手が離せない。

 「どうした?」

 すぐに家に行こうとしない私に、彼方くんが不思議そうに訊いた。

 「なんか……離れたくないなって思って」

 思い切ってそう言うと、

 「優羽って、ホントそういうとこカワイイよな」

 彼方くんは少し照れた様にそう言って、そっと抱きしめてくれた。

 それだけで、幸せな気持ちが体中に満ちていく。

 ドキドキしてるのは、私?

 それとも、彼方くん?

 今すぐ離れたいような、このままずっとこうしていたいような、そんな何ともいえない気持ち。

 「夏休み、あまり会えないかもしれないけどさ。バイトする気になったのは、優羽のおかげなんだ」

 彼方くんが、静かに言った。

 「……え?」

 「母親とちゃんと話すようになって、どれだけ俺の為に頑張ってきたかわかったから、少しでも母親の負担減らしたいって思ったんだ。それに、優羽が自分の進路の為に塾に行ってる間、俺も自分の将来についてちゃんと考えようと思って」

 「そっか」

 私とつきあう前までは、何に対しても無気力で自分の存在を否定してた彼方くんがこんな風に前向きになれたのが私のおかげなんて、すごく嬉しい。

 「だから優羽も頑張れよ、受験勉強」

 彼方くんが、優しい笑顔でそう言ってくれて、笑顔で頷いた。

 今日1日で、彼方くんとの距離はすごく近くなった気がする。

 本当に、楽しくて幸せな1日だったな。


 「ただいま」


 私は余韻に浸りながら玄関のドアを開けた。

 「おかえり、優羽」

 真っ先に出迎えてくれたのは、お母さん。

 「なんか、すごく幸せそうな顔してる」

 「え? そう?」

 「うん。あとで色々聞かせてね」

 「もちろん」

 ふたりで話しながら部屋に入ると、

 「初デートは楽しかったか?」

 テレビを観ていたお父さんまで、ニコニコしながらそう言ってる。

 「ちょっと、そんな突っ込まないでよ~」

 「だって、娘の記念すべき初デートだったのよ。お母さん嬉しいんだから」

 「そうだぞ。父さんも優羽の初デートをお祝いしてるんだ」

 「……あのね……」

 私の両親は、いつもこんな感じだ。

 理解があるのは嬉しいけど。

 「ご飯食べる?」

 「うん。遅くなると悪いからって、食べないで帰ってきたから」

 「あら、えらいのね。じゃあ、温めるから待ってて」

 「ありがとう」

 ご飯を食べてお風呂に入ったあと、自分の部屋へ戻った。

 塾の予習を明日やることにして、寝る支度をしてベッドに入る。

 彼方くんの笑顔を思い出して幸せな気持ちに浸りながら、いつしか眠りに落ちていた。

 
 【夏期講習の再会】


 夏休みに入って1週間が経った頃。

 私は、家から歩いて15分程度の所にある塾へ向かった。

 もう夕方の3時を過ぎているけど、陽射しはまだまだ強い。

 あちこちでセミの鳴き声が聞こえる。

 夏独特の体中をまとわりつくような暑さで、大した距離じゃないのに汗ばんでくる。

 塾に着いて館内に入ると、冷房が効いていてひんやりしていた。

 受付にある掲示板で、自分の受講コースと教室を確認する。

 私は文系コースで、教室は3階だ。

 教室に入ると、見知った顔が半数近くいた。

 つまり、このクラスの半数は夏期講習の前からこの塾に通っている人たちということ。

 適当に空いてる席に座って、テキストを鞄から出す。

 まだ授業が始まるまで30分近くあるから、テキストを見直しておこう。

 そう思って、テキストを開いた時。

 「天音さん?」

 名前を呼ばれて顔を上げると、目の前にいたのは見覚えのある男の子。

 一瞬誰だかわからなかったけど、すぐに中学時代クラスメートだった久遠(くどお)くんだと気づいた。

 でも、記憶の中の久遠くんより、大人っぽくなってる。

 「……久遠くん、だよね? なんでここにいるの?」

 「なんでって、俺も受験生なんだけど」

 「そうじゃなくて……だって、引っ越したんだよね? 戻ってきたの?」

 久遠くんは、中学卒業と同時にお父さんの仕事の都合で引っ越したんだ。

 「うん。でも、今年の春から俺と母親だけでこっちに戻ってきたんだ。親父が仕事で1年だけ海外に行くことになったから。俺はあと1年で高校卒業だし、都内の大学に行きたいから、この夏期講習からここに通うことにしたんだ」

 「そうなんだ。でも、3年ぶりなのに、よくわたしのことわかったね?」

 「ああ、中学の時と全然変わってないから」

 「それ、ちょっと失礼じゃない?」

 「あはは。冗談だって。そういう天音さんこそ、よく俺のことわかったね」

 「だって全然変わってないもん」

 思わずふたりで顔を見合わせて笑い出す。

 「隣いい?」

 「うん、どうぞ」

 隣の席に置いていた鞄を自分の足元に置いた。

 久遠 彼方(つばさ)くんは、中学2年と3年の時に

 同じクラスだった男の子。

 中学3年の時は、一緒にクラス委員をやっていた。

 気さくで明るくて話しやすいから、友達が多くてクラスのムードメーカーだった。

 サッカー部で部長も務めていて、成績も良くて、久遠くんに憧れていた子はたくさんいたんだ。

 「天音さんは、いつからこの塾に通ってんの?」

 「中1の頃からかな」

 「マジで? だから頭良かったんだ」

 「そんなことないよ。理数系はかなり苦手だから授業に遅れないように通い始めただけ」

 「でも、そう思ってちゃんと塾に通えるのってすごいよな。大学はもうどこ行くか決めた?」

 「一応はね。まだ、ちょっと悩んでるけど」

 「第一希望どこ?」

 「清風女子大なの。推薦狙ってるんだけど、家政学科にしようか文学科にしようか迷ってる」

 「清風女子って偏差値Aランクのとこだよな。しかも推薦って、すごいな」

 「久遠くんは第一希望どこなの?」

 「愛和学院の経営学部だよ」

 「久遠くんだって偏差値Aランクのところじゃない」

 「まぁそうなんだけどさ。俺は将来親父の会社継ぐ立場だし、必然的に勉強しなきゃいけないって感じだから」

 「そっか。久遠くんのお父さんって、社長だもんね」

 久遠くんのお父さんは、久遠コーポレーションっていう大手企業グループの社長さんなんだ。

 つまり、久遠くんは社長の跡取り息子ってことなんだよね。

 「天音さんは、家政学科と文学科で悩んでるんだ?」

 「うん。学校の進路調査では、とりあえず両親と相談して家政学科にしたんだけど…まだはっきり決められなくて」

 ちょうどわたしが話し終わったところで、講師の先生が教室に入ってきた。

 「また休み時間に話そう」

 「うん」

 久遠くんは、本当に親しみやすくて話しやすい。

 しかも同じくらいのレベルの大学を目指してるみたいだから、受験の話がしやすいかもしれない。

 彼方くんは大学に行かないから、あまり深く受験の話はしないようにしてるし。

 相談したい気持ちはもちろんあるけど、かえってイヤな思いをさせてしまうんじゃないかって思うと、話せなくて。

 授業が始まると、教室中が緊張感に包まれる。

 学校と違って、本当に受験のために勉強しに来ている人達ばかりだから、真剣さが違う。

 この夏期講習は今後志望校を決める為の大事な講座だから、余計にみんな気合が入っているみたい。

 「いよいよ今日から夏期講習が始まったけど、みんな志望校は決まってる? そろそろ興味のある学校のオープンキャンパスに行って、学校の雰囲気やどんな授業があるのか自分で確かめて本格的に決めていった方がいいよ」

 先生が明るく笑いながら言った言葉にハッとした。

 そうか。オープンキャンパスで、実際にどんな授業があるのか見ればいいんだ。

 校風や雰囲気もわかるし、一番いい方法だ。

 先生の言葉に、今まで心の中にかかっていたもやもやしたものが一気に晴れたような感じがした。

 休み時間になると、急に教室が騒がしくなる。

 みんなきちんとメリハリつけられるところが、この塾の良いところかな。

 「久遠くん、オープンキャンパスとか学校説明会ってもう行った?」

 「いや、これから。天音さんは?」

 「まだなの。さっき先生の話を聞いて、これから調べて行ってみようと思って。そうしたら、学科も決められるかなと思うし」

 「うん、そうだね。学校によっては体験授業とかやる所もあるし」

 「そうなんだ。じゃあ絶対行ったほうがいいよね。夏休み中に友達と行こうかな」

 「うん、友達と行ってみるのもいいんじゃない? なんなら俺も一緒に……」

 「女子大だからって可愛い子探しはダメだからね」

 「あ、バレた?」

 「あはは。ホント、久遠くんって面白いよね」

 明るくて面白くてみんなを和ませてくれるところ、中学生の頃と変わってない。

 こうして話してると、中学生の頃に戻ったみたい。

 そう思っていたらあっという間に休み時間が終わって、2時限目の数学の先生が教室に入ってきた。

 黒板に難しい数式を書きながら、先生が問題の解き方を解説してる。

 先生の説明を聞きながら、私はぼんやり彼方くんのことを考えていた。

 今頃、彼方くんはバイトしてるのかな。

 またどこかに遊びに行きたいけど、バイト忙しそうだし、連絡しない方がいいのかな。

 そして、2時限目の数学も3時限目の現国も終わって、夏期講習1日目の授業は終了。

 休み時間は久遠くんと話してたから、あっという間だった感じがする。

 「お疲れ~。天音さん、このまま帰る?」

 「うん」

 「じゃあ、途中まで一緒に帰らない?」

 「うん、いいよ」

 久遠くんと話しながら、外に出た時だった。

 「優羽?」

 名前を呼ばれて振り返ると、彼方くんが立っていた。

 「彼方くん? バイトは?」

 「これから。今ちょうどここ通りかかったら優羽が出てきたから、ビックリした」

 「そうなの? すごい偶然だね」

 「うん。じゃあ俺、もう行くから。またな」

 「うん、バイト頑張って」

 彼方くんと別れて、久遠くんと駅まで歩き出すと、

 「今の、もしかして天音さんの彼氏?」

 久遠くんが訊いてきた。

 「え!? そうだけど、よくわかったね?」

 改めて 「彼氏?」って訊かれるのって恥ずかしい。

 「お互い名前で呼び合ってて親しそうだったから」

 「そっか」

 「彼方って名前なんだ、彼氏」

 「うん。日向 彼方くんって言うの」

 「へぇ。名前までイケメン」

 「だよね」

 「でも、そっか、天音さん、彼氏いるんだ。
 中学時代からモテてたよな」

 「そんなことないと思うけど。久遠くんだって人気あったよ」

 そんな話をしていたら、あっという間に駅に到着。

 「あ、ちょうど電車来る。じゃ、またね」

 「うん、またね」

 久遠くんが改札に入っていくと、私は家に向かって歩き始めた。

 まさか、塾で久遠くんと会うなんて思わなかったな。

 でも、相変わらず明るくて面白くていい子だった。

 夏期講習は大変だけど、久遠くんと一緒だったら心強いかもしれない。

 
 【波乱の予感と不安】


 「うわぁ~大学って広いんだね~」

 陽依ちゃんが、はしゃいだ声をあげた。

 8月最初の土曜日。

 今日は、陽依ちゃんと一緒に清風女子大のオープンキャンパスに来ている。

 清風女子大は、歴史のあるお嬢様学校として有名な大学。

 荘厳な正門から続く桜並木を抜けて見えたのは、大きくてモダンな建物。

 歴史のある学校だけど、一番大きな校舎は去年建て替えたばかりで、近代的なデザインでとても綺麗。

 「説明会の会場、この校舎の中だって」

 校舎の入り口に看板が立っていて、私たちと同じく制服を着た子達が次々中に入っている。

 「ホントに女の子しかいないんだね」

 陽依ちゃんがしみじみとつぶやいた。

 「不思議な感じだよね」

 私たちにとって、女子校はまさに未知の世界。

 中に入るとすぐに受付があって、パンフレットや学校の資料を配っている。

 それをもらうと、私たちは空いている席に着いた。

 説明会が始まるまでの間、配られた資料の中から授業の科目と講義内容が書かれた本を見てみることにした。

 「すご~い! 大学ってこんなに科目があるんだ」

 隣で陽依ちゃんがビックリしてる。

 「この中から、単位数を計算して自分の好きな科目が選べるんだって」

 「自分で授業が選べるなんていいな。文学科の授業科目、おとぎ話とか童話の授業があるよ。面白そう」

 「ホントだ。他にも、昔話とか世界の民話の授業もあるんだね」

 こうして授業科目を見てみると、大学って専門的な授業が多いんだ。

 それに、文学科の授業、すごく面白そう。

 そう思っていたら、説明会が始まった。

 学長さんのお話や、学生部の方からの学校紹介と受験についての説明で約1時間。

 そして、休憩を挟んで、希望者は45分間の体験授業が受けられる。

 もちろん、体験授業にも参加した。

 最初は興味深く聴いていたけれど、30分を過ぎたところでちょっと眠くなってきた。

 資料を見るのに部屋を暗くしていて、先生の話し方が落ち着いたトーンだったし。

 でも、実際の授業は倍の90分あるから集中力が続くか早くも心配になった。

 無事に体験授業が終わると、休憩を挟んでキャンパス見学。

 最初に案内されたのは図書館は高校の図書館よりずっと広いし、何より本の数が多い。

 図書館の次は、各校舎と体育館を外から見学。

 学生数が多いから、教室がたくさんあるし建物も分かれているんだ。

 そして、最後は学食に案内してもらった。

 ここは女子大ということもあって、内装がオシャレだ。

 「大学の学食ってすごいね。あのパン美味しそう!」

 「ホント。カフェに来てるみたい」

 陽依ちゃんとふたりで感激していたら、オープンキャンパスは終了した。

 時計を見ると、まだ午後2時を少し過ぎたところ。

 「これからどうする?」

 「せっかくだから、学食でランチしてみたいな」

 ということで、陽依ちゃんとふたりで学食のパンを買って、ランチタイム。

 大学も夏休み中で、周りには私たちと同じくオープンキャンパスに来た制服姿の人と、部活やサークルで学校に来ているらしい人たちしかいない。

 「優羽ちゃん、見学してみてどうだった?」

 「うん。すごく参考になった。やっぱり私、文学科にしようと思う」

 「そっか。授業面白そうだしね。ここ、雰囲気いいよね。私も気に入ったな」

 「じゃあ、陽依ちゃんも志望校ここにしたら?」

 「行きたいけど……今の私の成績じゃ厳しいかも」

 「これから頑張れば大丈夫だよ」

 「そうだね、頑張ってみようかな。……そういえば優羽ちゃん、最近日向くんと会った?」

 「ううん。会ってないよ。彼方くんバイトで忙しいし、わたしも毎日塾だしね」

 「そっか。やっぱり受験生って大変だよね」

 彼方くんとは、夏期講習の初日に偶然会っただけ。

 お互い忙しいってわかってるし、彼方くんも自分の人生を前向きに考えてバイトを頑張っているから。

 私は邪魔しないで応援したいし、今は受験勉強をしっかり頑張りたい。

 そのあともふたりで色々話していたら、あっという間に夕方になった。

 「そろそろ帰ろうか」

 「うん」

 電車に乗って地元の駅に戻って改札を出た時だった。

 「あれ、日向くんじゃない?」

 「え?」

 陽依ちゃんの視線の先をたどると、確かに人混みの中、彼方くんがいた。

 地元だから、こんな風に偶然見かけることがあっても不思議じゃないけど。

 でも、よく見たら、隣には女の子がいた。

 彼方くんと楽しそうに話してる。

 彼方くんは私に気づくこともなく、私たちとは反対の方へ歩いて行ってしまった。

 「やっぱり日向くん、女の子の友達が多いんだね」

 陽依ちゃんがつぶやいた一言で、ハッと我に返った。

 友達……だよね。

 私も、塾で毎日久遠くんと会って話してるけど、それはいい友達としてだから。

 彼方くんも、きっと友達と一緒にいただけだよね。

 でも、休み中に私の知らない女の子と会ってる。

 その事実に、ショックを受けてる自分がいる。

 友達かバイト先の人かもしれない。

 だから、親しいだけかもしれない。

 不安になることなんてない、と何度も自分に言い聞かせた。

 * * *

 なんとなく不安な気持ちのまま週末を過ごして、週明けの月曜日。

 私はいつも通り塾へ向かった。

 彼方くんからは相変わらず何の連絡もないし、私からも連絡していない。

 わざわざ「一緒にいた女の子は誰なの?」って訊くなんてできないし。

 もともと彼方くんは私とつきあう前から女の子の友達が多かったから、気にしすぎないほうがいいと思ってる。

 「天音さん。おはよ」

 「おはよう。って、もう夕方だから、なんかヘンな感じ」

 夏期講習が始まってから、私は久遠くんと隣の席で講習を受けて、帰りは駅まで一緒に帰っている。

 だから最近、塾内では私と久遠くんがつきあってるなんてウワサが出てるらしい。

 もちろん「つきあってるの?」って訊かれたら、ちゃんと「違う」って言ってるけど。

 久遠くんは私に彼氏がいること知ってるし、中学時代のいい友達で受験仲間だから話が合うだけ。

 でも、この状況を彼方くんが知ったらやっぱりいい気はしないだろうな。

 「今週末は全国模試だよね。天音さん、受ける?」

 「うん。受けるよ」

 「そっか。俺も受けるけど、夏休みにテストなんてダルいよな。そういえば天音さん、家政学科と文学科で悩んでるって言ってたけど、どっちにするか決めた?」

 「うん。オープンキャンパス行ってきて、文学科に決めたよ」

 「文学科か。清風女子の文学科って難関だよな。まぁ、天音さんなら余裕だろうけど」

 「そんなことないよ。推薦だと評定平均見られるから、2学期の期末まで気が抜けないし」

 久遠くんとは気軽に受験の話ができるから、つい毎日隣の席で話しちゃうんだけど。

 話に区切りがついたところで、鞄からスマホを出して見てみる。

 誰からの連絡も来ていない。

 相変わらず、彼方くんからは連絡がない。

 バイトが忙しいのかな。

 でも、何の連絡もないと、やっぱりちょっと心配になる。

 思わず小さくため息をついたら、

 「天音さん、彼氏と最近連絡取ったりしてる?」

 久遠くんが突然そう訊いてきた。

 「……え?」

 「いきなりこんなこと訊いてごめん。ちょっと、気になることがあるから」

 「気になること?」

 なんだろう?

 「でも、連絡取ってるなら本人から聞いてるかもしれないし、あえて言う必要はないと思うけど」

 「実はバイトが忙しいみたいで、全然連絡来てないの。私も塾があるし、連絡してないんだけど……」

 「そうなんだ」

 「だから、ちょっと心配になってきてたところなんだけど。気になることってなに?」

 「天音さんの彼氏、俺の地元の駅のコンビニでバイトしてるみたいなんだけどさ。最近、いつもギャルっぽい女の子と一緒にいるんだ」

 それってもしかして、この前一緒にいた女の子?

 いつも一緒にいるって、そんなに親しいの?

 「いや、その女の子も同じところでバイトしてるから、バイト仲間だと思うけど」

 黙り込んだ私に、久遠くんが慌てて言った。

 「私も、この前その女の子と彼方くんが一緒にいるところ見てるの。髪の長い派手系の女の子でしょ?」

 「そうそう。天音さんとは合わなそうなタイプだよな」

 「話したことないからわからないけど、見た感じ苦手なタイプ、かも」

 でも、彼方くんは私とつきあう前からそういう派手系の子と結構遊んでたみたいだから、やっぱりそういう子の方が気が合うのかな。

 そんなことばかり考えていたから、今日の講習はほとんど上の空で頭に入らなかった。

 気がついたら、もう3時限目も終っていた。

 「天音さん、大丈夫?」

 「え?」

 「なんか、俺、始まる前に余計なこと言っちゃってごめん」

 「ううん。そんなことない。ちゃんと連絡取ってない私も悪いんだし」

 「もし気になってるなら、直接行って見てみる?」

 「直接?」

 「うん。直接行けば、偶然寄ったふりしてどんな関係か訊けるかもしれないし」

 「そうかもね」

 今まで、お互い忙しいからって連絡取り合ってなかったし、彼方くんのバイト先も教えてもらってなかったけど。

 でも、このまま気を遣っていたら、あの女の子のこともずっと気にしなくちゃいけない。

 だったら、直接会って確かめたほうがスッキリするかな。

 そう思って、私は思い切って彼方くんのバイト先に行ってみることにした。

 「俺が一緒にいたら向こうも誤解するだろうから、天音さんひとりの方がいいよね?」

 久遠くんが気を利かせてくれて、私は一人で駅前のコンビニへ向かった。

 外から店内を見てみると、確かに彼方くんがレジにいた。

 しかも隣には、久遠くんの言ってた通り派手系の女の子がいる。

 やっぱり、私もこの前見た子だ。

 ふたりで楽しそうに話していて、かなり仲が良さそう。

 どうしよう。中に入るのに、かなり勇気がいる。

 「バイト先教えてもいないのに、押しかけてきてウザイ」 とか思われないかな。

 やっぱりこのまま帰ろうかな。

 いや、せっかく来たんだから、ちゃんと確かめなくちゃ!

 そう自分に言い聞かせて、私は覚悟を決めて店内へ入った。

 「いらっしゃいませ」

 彼方くんと、隣にいた女の子が同時に言った。

 「彼方くん」

 思い切って彼方くんに声をかけると、かなり驚いていた。

 「優羽? なんでここにいるんだよ」

 「……あ、塾の子に彼方くんがここでバイトしてるって聞いたんだ。最近会ってないから、元気にしてるかなと思って」

 ちょっと緊張して早口になっちゃったけど、自然に言えたかな?

 そう思った時だった。

 「それでわざわざ仕事中ってわかっててここに来たんだ? すごいね」

 彼方くんの隣にいた女の子がそう口にした。

 何となくトゲのある言い方。

 やっぱり私、この人苦手かも。

 制服に付いている名札を見たら、“羽鳥”と書いてあった。

 「マイ、声でかい」

 彼方くんが言った。

 マイって……羽鳥さんのこと、今名前で呼んだ?

 私以外の女の子も名前呼び捨てで呼んでるんだ。

 「ごめんね。仕事中に」

 「いいけどさ。でも、ここの店長厳しいから。知り合いと話し込んでるとヤバイんだ」

 「そうそう。だからカノジョ入り浸ってると彼方がクビになっちゃうかもね~」

 「だからマイは話に割り込んでくるなって」

 「だって気になるじゃん。彼方のカノジョってどんな子なのかなって」

 「……え……」

 「ウワサには聞いてたけどね。結構男子に人
 気あるって有名な子でしょ」

 「…………」

 「マイ、一方的に喋るなって。初対面なんだからビックリするだろ」

 彼方くんが呆れたように言った。

 羽鳥さんって、よく喋る人なんだな。

 「あ、こいつ、羽鳥(はとり) (まい)っていうんだけど、ウチの高校の卒業生なんだ。だから優羽のことも知ってる」

 「……そうなんだ……」

 「年上に向かってコイツ呼ばわりしちゃって生意気だよね。カノジョ、今度説教してやってよ」

 「……はぁ……」

 なんかテンションの高さについていけない。

 「じゃあ仕事中に長居しちゃ悪いから、そろそろ帰るね」

 とりあえず、同じ高校の卒業生で話が合うから仲良くなったらしいってことはわかったし……これ以上ここにいても、本当に仕事の邪魔になってしまうから。

 「ああ。バイト上がったら連絡するから」

 「うん、待ってるね」

 「きゃ~! ラブラブだねぇ~。やるじゃん、彼方」

 「うるせーよ」

 そんなふたりの会話を聞きながら、私はお店を出た。

 「ただいま~」

 「おかえり。今日はちょっと遅かったのね。ご飯食べる?」

 「ううん、大丈夫。部屋に戻るね」

 「そう」

 部屋へ戻って着替えると、塾でもらったテキストとプリントを机に広げた。

 週末に模試があるから、少し勉強しようと思って。

 塾から帰ってきてすぐ勉強なんて普段ならほとんどしないけど、今日は彼方くんに会えたし連絡もくれるって言っていたから、頑張れそうな気がした。

 早速プリントの問題を解き始めたら、スマホに着信がきた。

 確認すると、期待通り彼方くんからだった。

 「今バイト終わった。さっきはあまり話せなくてごめん」

 「私こそバイト中にごめんね。でも、元気に頑張ってるみたいで良かった」

 「まあ、なんとかやってるよ。そうだ、今週の日曜空いてる?」

 「今週の日曜は模試があるんだ」

 「そっか。久しぶりにバイト休みだから会おうかと思ったんだけど」

 「せっかく予定空いてるのにごめんね」

 「いや、受験の方が大事だし、しょうがないよな。頑張れ」

 「ありがとう。またバイト休みの時があったら教えてね」

 「わかった。じゃあ、またな」

 「うん、またね」

 羽鳥さんのことは、正直言うとちょっと気になるけれど、同じ高校の先輩だったなら親近感もわくだろうし、仲良くなるのもわかる。

 それに彼方くんは、バイトが休みになったら私に会おうと考えてくれていたんだし。

 きっと、そんなに心配することないよね。

 

 【突然のライバル宣言】


 あっというまに、模試当日。

 会場は家から電車で30分ほどの駅にある大学。

 会場に着いて自分が試験を受ける教室を確認し、中に入る。

 既に来ている人達はそれぞれ勉強に集中していて、緊張感が漂っている。

 試験前に監督の先生が注意事項などを説明して試験が始まった。

 問題に集中してひたすら答えを書いていく。

 そして、ようやく全教科の試験を終えて教室を出た時だった。

 「久遠くん!」

 階段から久遠くんが降りてきたのが見えて、声をかけた。

 「あれ? 天音さん」

 「偶然だね。久遠くん、上の教室だったの?」

 「うん。っていうか今日の問題全体的に難しくなかった?」

 「そうだね。やっぱり、夏休みから受験勉強も本格的に始まる感じだしね」

 「あ~あ。俺、第一志望の判定微妙かも。天音さん、このまま帰る?」

 「うん」

 「俺、今日用事あって途中で降りるけど、一緒に帰らない?」

 「いいよ」

 塾の帰りと同じようにふたりで駅に向かい、電車に乗る。

 「天音さんは今日の模試も余裕だったんじゃないの?」

 「まぁまぁできたかなって感じだよ」

 「そっか。まあ、推薦狙いだと学校の成績の方が重要視されるしな」

 「そうなんだよね。推薦もらえるかは2学期にならないとわからないし」

 「でも先を見越してちゃんと勉強してるってところがすごいよな」

 ふたりで受験の話をしていたら、あっという間に久遠くんが降りる駅に到着。

 「じゃあ、俺ここで降りるから。また明日、塾で」

 「うん、またね」

 久遠くんが降りて、電車のドアが閉まった時だった。

 「浮気現場目撃~」

 突然目の前でそんな言葉が聞こえて顔を上げると、目の前に羽鳥さんが立っていた。

 地元近くとは言え、なんでこんな時に会ってしまうんだろう。

 「真面目そうに見えてそうでもなかったんだ~?」

 「違います。久遠くんとは中学時代の同級生で、今は塾が一緒なだけです」

 イヤミたっぷりの言い方にムッときてきっぱり否定すると、

 「やだ、そんなムキになんないでよ~。冗談に決まってるじゃない」

 羽鳥さんはそう言っておかしそうに笑い出した。

 やっぱり私、この人苦手だ。

 「それにしても、彼方にカノジョができるなんてね」

 断りもなく勝手にわたしの隣に座りながら、羽鳥さんがつぶやいた。

 この前から、彼方くんと妙に親しそうな言い方が気になる。

 もしかして羽鳥さんって、前から彼方くんと知り合いなのかな?

 「カノジョなら知ってると思うけど、彼方って家庭環境が複雑でしょ? だから恋愛もホンキでしたことないって言ってたんだよね。でも、校内で人気のある女子とつきあってれば自慢できるからね」

 「………!」

 最後の一言にカチンときた。

 まるで彼方くんが私と本気でつきあってないみたいな言い方。

 初めて会った時から私に対してトゲのある言い方をしてるのは、元々の性格?

 それとも……。

 「私、3年の頃によく彼方と遊んでたんだよ。今のバイト紹介したのも私なの」

 「……え……?」

 「あれ、知らなかった? 彼方が2年の時にライブハウスで会って、同じ高校だって知って仲良くなったの」

 そんなこと全然知らなかった。

 女の子の友達が多いのは知っていたけど、羽鳥さんがそのひとりだったなんて。

 でも、それでわかった。

 羽鳥さんが妙に彼方くんと親しそうにしていたのは、やっぱり前から知り合いだったからなんだ。

 「彼方、去年はかなり荒れてたんだ。毎日学校終わると家に帰らないで遅くまでフラフラして遊んでたし。学校だって、出席日数欲しいから行ってるだけで、授業は全然真面目に受けてなかったみたいだしね」

 そうだよね。

 彼方くんはずっと、家庭環境のことで悩んで家にも学校にも居場所がなかったから。

 「だから、あなたみたいな優等生タイプの子とつきあってるなんて意外。ねぇ、彼方とどこまで行った?」

 「……え? 水族館までしか行ったことないです」

 突然訊かれて戸惑いながら答えたら、羽鳥さんは一瞬きょとんとしたあと思い切り笑い出した。

 その笑い声に、周りの人達が何事かとわたしたちの方を見てる。

 「あはは。そっちの意味じゃないって。天音さんって天然なんだね」

 言いながら、羽鳥さんはまだ笑いがおさまらないみたいだ。

 羽鳥さんが訊こうとしたどこまでの意味に今更ながら気づいて、急に恥ずかしくなった。

 「でも、まだ何もないでしょ?」

 言い当てられて、何も答えられない。

 「彼方って、意外と本命は大事にするタイプなのかな」

 「どういう意味ですか?」

 「だから、そういう意味。私、彼方と泊まりで遊んでたから」

 「……え?」

 あまりにショックで、すぐには意味が理解できなかった。

 私が動揺していることに気づくと、羽鳥さんは勝ち誇った様な目で続けた。

 「私、彼方のこと好きなの。彼女がいるって知っててもね。それに、彼方にはあなたより私の方が合うと思うし」

 「……」

 何か言い返そうとしたその時、タイミング悪く羽鳥さんと彼方くんのバイト先の駅に着いた。

 「じゃあ、ここで降りるから」

 私の様子なんておかまいなしに、羽鳥さんは平然とした様子で電車を降りた。

 呆気にとられて、私は電車が動き出すまで放心状態だった。

 少し冷静になった頭で、考える。

 つまり、羽鳥さんは去年から彼方くんの遊び友達で、そういう関係でもあって、彼方くんの事が好きで。

 彼女である私に、堂々とライバル宣言してきたってこと?

 だから、最初に会ったときから、トゲのある態度だったんだ。

 敵意むきだしの言い方と、表情。

 そして私より自分の方が彼方くんに合ってるという自信満々の態度。

 それは彼方くんと朝まで一緒に過ごしたという事実があるからで。

 そう思うと胸がしめつけられるように苦しくなった。


 【夏の嵐とすれ違い】



 「え~つまりこの文の訳は……」

 塾の教室の中。

 英語の先生が、英文の訳し方を説明している。

 でも、先生の説明は私の耳を素通りしてる。

 ぼんやり窓の外を眺めていると、西の空に黒雲が見えた。

 少しずつ黒雲に侵食されていく青空。

 まるで、今の私の心みたいだ。

 嫉妬という黒くて醜い感情に侵食されてる。

 羽鳥さんの言っていたことが本当なのか知りたいけど、怖くて訊くことなんてできない。

 ずっとバイトが忙しいから連絡が来ないんだと思っていた。

 それだって、「バイトを始めたきっかけは優羽だ」って言ってくれた言葉を信じてたからなのに。

 でもそのバイトで羽鳥さんとあんなに親しそうで、しかも羽鳥さんは彼方くんのことが好きなんだ。

 羽鳥さんは彼方くんと雰囲気が似てるし、きっと趣味や好みも似てる。

 私みたいにマジメなタイプより、羽鳥さんの方が彼方くんも話しやすくて一緒にいると楽なのかもしれない。

 勉強に集中しなくちゃと思うのに、昨日の羽鳥さんの言葉が頭から離れない。

 窓の外、いつのまにか青空は低く垂れ込めた黒雲に覆われて見えなくなっていた。

 遠くでは、雷も鳴り始めている。

 今すぐにでも雨が降り出しそう。

 そう思っていたら、予想通り1時限目の終わりには雨が降り出した。

 窓を叩きつけるような激しい雨。

 晴れていればまだ明るいはずの空は夜みたいに真っ暗で、その暗闇を切り裂くように、稲妻が走っている。

 夏独特の夕立。突然のスコール。

 それは、これから私の周りで起こる、嵐の前兆のような気がした。

 「はい、今日はここまで。今日の復習と明日の予習もしっかりやるように」

 先生の言葉とチャイムの音が重なって、みんなが帰り仕度を始める。

 私も仕度をして、いつものように久遠くんと一緒に教室を出た。

 外に出ると、雨は上がっていた。

 「雨止んで良かったね。俺、傘持って来てなかったから助かった」

 「……うん」

 久遠くんが色々話してくれてるけど、やっぱりほとんど耳に入ってこない。

 私はカラ元気で相槌を打ってるだけ。

 心は鉛を飲み込んだみたいに重たくて、でもちゃんと確かめるのが怖くて考えたくなくて、わざと何もなかったように明るく振舞っている。

 「じゃあ、また明日」

 「うん、またね」

 駅に着いて、久遠くんと別れて歩き始めようとした、その時。

 「優羽」

 顔を上げると、目の前に彼方くんが立っていた。

 「……彼方くん……」

 もしかして、久遠くんと一緒にいるところ見てた?

 「これからバイト?」

 緊張しながらも、なんとか平静を装って笑顔で訊く。

 「ああ」

 答えた彼方くんの表情が硬い。

 「……さっきの、誰?」

 ポツリとつぶやくように、彼方くんが訊いた。

 やっぱり久遠くんと一緒にいるところ、見てたんだ。

 「中学時代の友達で、偶然塾で一緒になったの」

 一言もウソはついてない。

 「ホントにそれだけ?」

 「それだけって?」

 訊き返した私に、彼方くんは怒りをにじませた声で言った。

 「あいつ、塾内で優羽とつきあってるってウワサになってるヤツだろ?」

 「どうして知ってるの?」

 「舞が、おまえと同じ塾に行ってる知り合いから聞いたって言ってたんだ。それに、昨日だってそいつと一緒にいたんだろ?」

 責めるように、彼方くんの口調が強くなった。

 羽鳥さん、ひどい。

 わざわざそんなこと彼方くんに言うなんて、そんなに私のことが気に入らないの?

 私が……彼方くんの彼女だから?

 「受験のこと色々話してるだけだよ。昨日だって、模試の帰りに偶然会っただけで……」

 「受験の相談なんて口実だろ? そいつはそうやって優羽のこと狙って近づいてるだけなんじゃないの?」

 彼方くんのその言葉に、怒りがこみあげてきた。

 「ひどい! 久遠くんのこと何も知らないのに、そんな言い方しないで!」

 「あっそ。そんなにそいつのこと気に入ってるなら、そいつとつきあえば?」

 その一言に、今まで我慢していた気持ちが一気に弾けた。

 「彼方くんだって羽鳥さんとすごく親しそうにしてるじゃない! 去年から知り合いだったってこと全然話してくれなかったでしょ!?」

 「別にわざと黙ってたわけじゃない」

 「うそ、本当は知られたくないことがあるから言えなかったんでしょ?」

 「……なんだよ、それ」

 「羽鳥さんと、泊まりで遊ぶような関係だったんでしょ?」

 「ああ、そのことか。優羽とつきあう前のことだから言う必要ないと思っただけだ」

 平然とそう答えた彼方くんの態度にビックリした。

 もっと動揺するかと思ったのに。

 「じゃあ、羽鳥さんが言ってたことは本当なの?」

 「本当だよ」

 目の前が真っ暗になった気がした。

 「本気で好きじゃなくても女の子と泊まれるの?」

 「前に言っただろ。そういうヤツだよ、俺は」

 「………」

 返す言葉がなくて、それ以上耐えられなくて、私はその場から駆け出していた。

 走って走って、息が苦しくなって立ち止まる。

 彼方くんは、追ってきてもくれない。

 私のことなんてどうでもいいのかな。

 ショックや怒りや悲しみ……いろんな感情がごちゃ混ぜになって、涙になって溢れてくる。

 私のこと、本気で好きになってくれたんだって信じてたのに。

 やっぱり羽鳥さんの言うとおり、ただ人気のある子とつきあいたかっただけなのかな。

 私は今まで彼方くんの周りにいた女の子たちとは違うタイプだから、珍しくて気になっただけなのかな。

 もう何を信じたらいいのかわからない。

 * * *

 翌日、塾はお盆休みで、私は一日中家にいた。

 泣きすぎて、目が腫れてる。

 こんな状態じゃ勉強にも身が入らないから、今日塾が休みで本当に良かったと思う。

 だけど、家にいたって結局考えるのは彼方くんのこと。

 ショックで、何も手につかない。

 私の気持ちを疑われたことがショックだった。

 羽鳥さんの言っていたことが本当だったのがショックだった。

 「恋愛なんて面倒」とか「彼女はいない」って言っていたから、女の子の友達は多くても、恋愛関係はないんだと思っていた。

 でも、違ったんだ。

 ただ本気じゃなかっただけで、女の子と何もなかったわけじゃないんだ。

 つくづく彼方くんと私の環境やタイプが違っていたことを思い知らされて、愕然とする。

 やっぱり、彼方くんには羽鳥さんの方が合ってるのかもしれない。


 * * *


 翌日の夏期講習も上の空で受けながら終えて、帰ろうとした時。

 「……天音さん、この前から元気ないよね? 何かあった?」

 久遠くんが訊いてきた。

 彼方くんとのケンカの原因が久遠くんのことだから、さすがに本人を前にして本当のことは言えない。

 そう思って黙り込んでいたら、

 「彼氏とケンカした?」

 言い当てられて、思わず顔を上げた。

 「当たりだろ? ここじゃなんだから、帰りながら話そう」

 久遠くんが私を促して、教室を出た。

 「ケンカの原因。多分俺だよな」

 「え……?」

 「俺と一緒にいるところ見られて、誤解されたんじゃない?」

 「……ごめんね」

 「なんで天音さんが謝るんだよ? 謝るのは俺の方だって。明日から隣に座ったり一緒に帰るのは控えるよ。それで少し間を置いて、もう1回彼氏とちゃんと話してみたら?」

 「……うん。ありがとう」

 こんな風に気を遣ってくれるなんて、久遠くん、本当にいい人なんだ。

 久遠くんの言う通り、今は彼方くんとは少し距離を置いた方がいいのかもしれない。


 【彼の正体と真実】


 それから1週間以上、彼方くんからの連絡は一切なかった。

 私も少し距離をおいた方がいいと思って、連絡しなかった。

 久遠くんとは、会えば挨拶して少し話す程度で、隣の席で講習を受けることも一緒に帰ることもなくなった。

 そして夏休みも残すところあと1週間になったある日。

 3時限目が終って帰ろうと一人で外へ出た時、スマホにメッセージが届いた。

 送り主は彼方くんだ。

 緊張しながら画面を開いて、目に飛び込んできたのは……

 【別れよう】

 たった一言だけ。

 その一言が一瞬にして私の心を粉々に打ち砕いた。

 血の気が引いていくのがわかる。

 動悸どんどん激しくなって、耳元に響いている。

 なに? これは、なんなの……?

 イタズラ? 冗談? からかってるだけ?

 返信するとか電話をかけるとか、何かしなくちゃと思うのに、あまりのショックで体が動かない。

 放心状態で立ちつくしていると、

 「天音さん?」

 誰かに声をかけられた。

 目の前に立っていたのは、久遠くんだった。

 「どうしたの?青い顔して。具合でも悪……」

 言いかけて、久遠くんがハッとしたような表情で言葉を止めた。

 私の瞳に、涙が溢れていたから……。

 「とりあえず、ここ離れよう」

 そう言って、久遠くんは私の腕を軽く引いて、駅とは反対方向へ歩き出した。

 着いたのは、マンションの裏の小さな公園。

 夜の公園は誰もいなくて、静まり返っている。

 「ここなら誰も見てないから。一体何があった?」

 優しい口調の久遠くんに、私は涙声で言った。

 「彼方くんから、別れようって……」

 「え?」

 久遠くんが驚いた表情で私を見た。

 自分で言って、本当のことだと実感して、堰を切ったように涙が溢れてきた。

 彼方くん、やっぱり私のこと本当は好きじゃなかった?

 ずっとそばにいてほしいって、好きだって言ってくれたのに。

 その言葉は全部ウソだったのかな。

 「……天音さん」

 少しの間、泣き続ける私を黙って見ていた久遠くんが、静かに私の名前を呼んだ。

 そして、次の瞬間、私は久遠くんの腕の中にいた。

 ………!

 突然のことに、頬が熱くなる。

 「……だったんだ」

 久遠くんが何かつぶやいた。

 「天音さんのこと、ずっと好きだったんだ」

 もう一度、今度はさっきより大きな声でそう言った。

 「……えっ……?」

 突然の告白に驚いて顔を上げると、久遠くんが切なそうな表情で私を見ていた。

 「中学生の時から好きだった。でも、天音さんが誰ともつきあわないって知ってたから、結局言えなくて。夏期講習で会えて嬉しかったけど、彼氏がいるって知って諦めようと思った。……なのに……」

 「……久遠くん……」

 何て答えたらいいのかわからずに久遠くんの腕から離れようとした時、強く抱きしめられた。

 「俺だったら、天音さんのこと不安にさせたり泣かせたりしない。ずっとそばにいるから……だから、彼のことやめて俺にしなよ」

 「………」

 久遠くんの気持ちが痛いほど伝わってきて、動けない。

 久遠くんなら受験の話もできるし、中学時代からの知り合いだし。

 もしかしたら私には彼方くんより久遠くんの方が合ってるのかもしれない。

 このまま久遠くんの気持ちに応えた方がいいのかもしれない。

 そんな私の気持ちを見透かすように、久遠くんがまっすぐ私を見て。

 そして、ゆっくり顔が近づいてきた、その瞬間。

 「……っ」

 私は久遠くんの腕を押しのけていた。

 「……ごめんなさい……」

 うつむいた私に、久遠くんが静かに言った。

 「……やっぱり彼のことが好き?」

 「……うん……」

 頷きながら、また涙が溢れる。

 私とは正反対のタイプでも。

 羽鳥さんが彼方くんのことを好きでも。

 彼方くんが私を本気で好きじゃなかったとしても。

 私は彼方くんのことが好きなんだ。

 不器用で、強がりで、でも本当は寂しがり屋で、優しくて。

 そんな彼方くんのことが、私はどうしようもなく好きで。

 だから……私の気持ちを信じてくれなかったことがショックだった。

 羽鳥さんとのことが許せなかった。

 「……彼が、人の家庭を壊して生まれた子供だと知っても?」

 久遠くんが、低く小さな声で独り言のようにつぶやいた。

 「……え……?」

 どうして、久遠くんがそんなこと知ってるの?

 私からは、彼方くんの家庭の話なんてしてないのに。

 そう思った時だった。

 「……久遠。何してんだよ」

 後ろで聞き覚えのある声がして、振り返って、私は目を疑った。

 「彼方くん……!?」

 そこにいたのは、彼方くんだったから。

 「やっぱりそういうことか」

 彼方くんがつぶやいた。

 そういうことって、どういうこと?

 どうして私たちがここにいるってわかったのだろう。

 「そういうことって何?」

 私が訊くと、彼方くんが言った。

 「俺と優羽が別れたって知れば、こいつが優羽に何かすると思ったんだ」

 「え?」

 余計わけがわからない。

 「久遠は、俺を苦しめるために優羽に近づいたんだよ」

 「なにそれ?」

 なんで久遠くんが彼方くんを苦しめる必要があるのだろう。

 久遠くんはそんなこと考えるような人じゃないのに。

 混乱するわたしに、久遠くんが衝撃の事実を告げた。

 「こいつと俺は異母兄弟なんだ」

 「異母兄弟!?」

 全く想像もしてかなった答えに、私は思わず大きな声を出していた。

 異母兄弟ってことは……。

 「俺の父親は久遠の父親なんだ」

 私の頭に浮かんだ事を、彼方くんが口にした。

 まさか、そんなことって……。

 「でも、年齢一緒でしょ? 兄弟って……」

 「そう。半年しか年の違わない兄弟だよ」

 「でも、どうして兄弟だってわかったの?彼方くんのお母さんは、子供がいることをお父さんには教えてないのに」

 「俺だって、まさか親父に隠し子がいるなんて思ってもなかった。でも、天音さんの彼氏の名前が久遠だって知って、どこかで聞いた名前だと思って思い出したんだ。親父が学生時代につきあっていた人の名前だって」

 それから、久遠くんはゆっくりと話し始めた。

 久遠くんのお父さんは、代々経営している会社の大事な取引先の娘さんという婚約者がいたにもかかわらず、久遠くんのお母さんとつきあっていたこと。

 結局、久遠くんのお父さんは婚約者と結婚したものの、彼方くんのお母さんとの関係を続けていたこと。

 そしてそのことを久遠くんのお母さんも気づいていて、結婚後はずっとケンカが絶えなかったこと。

 だけど、大手企業の社長の立場を守るために離婚しなかったこと。

 今年の春にこの街に戻って来た時、久遠くんのお母さんが、お父さんの浮気相手が住んでいるからと調査をして彼方くんの存在を知ったこと。

 隠し子がいたことを知った久遠くんは、浮気相手の子供である彼方くんの大切なものを奪うために彼女であるわたしに近づいたこと。

 久遠くんの話を黙って聞いていた私は、ただただショックだった。

 「じゃあ、夏期講習でいつも私と一緒にいたのは……」

 やっと少しずつ話が見えてきた私に、久遠くんが言った。

 「天音さんとの仲をわざと久遠に誤解させて、天音さんの気持ちを俺に向けさせるため。ついでに言うと、久遠が他の女の子と一緒にいるって教えたのも、バイト先まで行くように薦めたのも、わざとやったんだ」

 「そんな……!」

 彼方くんを苦しめるためにわざとやっていたなんて、信じられない。

 「私を好きだって言ったのも、彼方くんを苦しめるためのウソだったの?」

 「それはウソじゃない。だから余計許せなかったんだ。人の家庭を壊した女の子供が、ずっと好きだった子と幸せになるなんて、許せるわけないだろ?」

 そう言った久遠くんの目には、激しい憎しみが浮かんでいた。

 確かに、久遠くんの立場からしたら、彼方くんのお母さんも彼方くんも許せないのかもしれない。憎んでしまうかもしれない。

 世間一般の目から見れば、久遠くんのお母さんが悪いのかもしれない。

 許されないことなのかもしれない。

 でも、こんなことをするのは間違ってる。

 「確かに彼方くんのお母さんは許されないことをしたかもしれないけど、でも、彼方くんのお母さんも彼方くんもずっと苦しんできたんだよ。彼方くんだって自分を責め続けて自分の存在を否定して辛い思いしてきたのに……」

 言いながら、涙が溢れてくる。

 そうだ。だから私がその傷を癒したいって、彼方くんのそばにいたいって思ったのに。

 いつのまにかそばにいることが当たり前になって、一番大事な気持ちを忘れてた。

 「苦しむのは当然だろ? そうやってこいつとこいつの母親は自分の罪を抱えて自分を責めて生き続けるんだ。そんなヤツと一緒にいたって、天音さんは幸せになれない。だから俺とつきあったほうがいいって言ったんだ」

 「私の幸せはわたしが決めることだよ。私は久遠くんとはつきあえない」

 きっぱり言った私に、少しの沈黙のあと、久遠くんが自嘲気味に笑って言った。

 「……天音さんにはかなわないな」

 「久遠くん?」

 「……ごめん」

 そうつぶやいて、久遠くんは公園を出て行った。

 そして、公園には私と彼方くんのふたりきりになった。

 夏の終わりの風が木々を揺らす音と、虫の鳴き声しか聞こえない。

 「天音って、バカだな」

 沈黙を破って彼方くんが言った。

 いきなりそんなことを言われてビックリしたけど、すぐにまた彼方くんが言葉を続けた。

 「なんで久遠じゃなくて俺なんだよ? あいつの言うとおり、俺は幸せになることを許されない存在なのに……それでもいいのか?」

 「いいに決まってるでしょ!? 私は彼方くんが好きだからそばにいたいの。彼方くんが幸せになっちゃいけない存在なんて、そんなこと絶対にない。誰だって生まれてきた以上は、幸せになる権利があるよ……!」

 泣きながら言う私に、彼方くんがもう一度つぶやいた。

 「……こんなヤツ好きなんてホントにバカだ」

 「バカでもいいよ。彼方くんのそばにいられるなら」

 彼方くんは私の言葉に小さく笑って、そして静かに言った。

 「俺、この前優羽にウソついた」

 「……え?」

 「舞とのこと。泊まりで会ったことは本当だけど、べつに何もなかったんだ」

 「え? だって羽鳥さんがそう言ってたのに……」

 「舞はおまえが久遠と浮気してると思って、ムカついてわざとウソついたらしい」

 「ホントに何もなかったの?」

 「ホントだって。舞にも聞けばわかるよ」

 「なんでそんなウソついたの?」

 「久遠の言ってたように、優羽は久遠とつきあったほうがいいと思ったんだ。あいつは社長の息子だし、将来も約束されてる。おまえと中学時代から知り合いで、話だってしやすいだろ? でも、俺はそばにいたってイヤな思いさせるだけかもしれない。だから、舞とのことで嫌いになって久遠を選ぶなら、その方がいいかもしれないって思ったんだ」

 ……ああ、そうだ。

 彼方くんは、お母さんのことで悩んでいた時から自分を責めて、失うことが怖くて自分から大切な人の手を離そうとする人だった。

 私とつきあう前も、そうだったよね。

 だから今回も自分から離れようとしてたんだ。

 「嫌いになれるわけないじゃない……。ただ不安だったの。彼方くん、全然連絡くれないで羽鳥さんと仲良くしてたから。久遠くんのことも、わたしの気持ち信じないで 『つきあえば?』なんて言うし 。ホントにショックだったんだから!」

 「ごめん。連絡しなかったのは、バイトで忙しかったのと勉強の邪魔したくなかったからなんだ。でも、そしたら天音は久遠と塾で仲良くしてたみたいだったから。俺だって不安だったよ」

 「私……羽鳥さんに、彼方くんはただ人気のある女子とつきあいたかっただけじゃないかとか、彼方くんには私より自分の方が合うって言われて……やっぱり彼方くんは私のこと本気で好きじゃなかったのかなって不安になったの」

 「あいつ、そんなことまで言ってたのかよ」

 「うん。だから、彼方くんはやっぱり羽鳥さんとつきあった方がいいのかもしれないって思った」

 「確かにその方がいいかもしれないとは思ったよ」

 「……え?」

 「でもダメだった。離れて気づいたんだ。優羽じゃないとダメなんだって」

 その言葉を聞いた瞬間、また涙が溢れた。

 涙がとまらない私を、彼方くんはそっと抱きしめてくれた。

 久しぶりに感じたぬくもりに、胸が熱くなる。

 やっぱり私も彼方くんじゃないとだめなんだ。

 * * *

 「彼方くん、なんでさっき私があの公園にいるってわかったの?」

 家までの帰り道、私は気になっていた事を訊いてみた。

 「塾の近くで優羽と久遠が公園の方に行くの見てたから」

 「……え?」

 「別れようって連絡したのもバイト終わって駅に着いてからだよ。俺は久遠と兄弟だって知ってから、あいつはわざと優羽に近づいてるんじゃないかって思ってた。だから、あいつが俺を苦しめるために優羽に近づいてるっていう確信が欲しかった。だから、俺と優羽が別れたって知って久遠がどんな行動に出るか試したんだ」

 「……そうだったんだ。でも、久遠くんのお父さんが彼方くんのお父さんだなんて、まだ信じられない」

 「俺だって信じられなかったよ」

 「そうだよね。でも、あんなにいい人だと思ってた久遠くんが、彼方くんを苦しめるためにわたしを利用してたなんて、ショックだった」

 「憎まれるのは当然だと思うよ。でも、それで優羽のことを巻き込んだのは絶対許せない。俺と一緒にいることで、優羽にはこれからもそういう辛い思いさせるかもしれない。だけど……やっぱり俺は優羽と一緒にいたいから。守れるように強くなるから」

 「………」

 彼方くんの言葉が嬉しくて、私はまた泣き出していた。

 「あ~あ。また泣いてるし」

 彼方くんが照れたように言って、私の手をつないだ。

 すれ違って、ケンカもして、たくさん泣いたけど。

 前よりもっと強くて確かな絆が生まれた気がする。


 【彼女の本音と真相】


 それから数日後の土曜日の午後。

 私は、彼方くんのバイト先であるコンビニのすぐ近くにある喫茶店に向かった。

 羽鳥さんから話したいことがあるということで、バイトの休憩になる時間に合わせて待ち合わせたんだ。

 私が喫茶店に行くと、羽鳥さんはすでに席について待っていた。

 「お待たせしてすみません」

 「私も今来たところだから」

 私が向かい側の席に着くと、羽鳥さんが言った。

 「彼方から話は全部聞いたよ。色々大変だったみたいだね」

 「……はい」

 「あまり時間がないから、早速本題に入るね。私、天音さんに嘘ついたこと謝ろうと思って」

 「彼方くんから聞きました」

 「私、彼方が本気で好きになったあなたのことが羨ましかった。だから、他の男と仲良さそうにしてるとこ見てムカついたんだよね。……天音さん、夏休み前に彼方と他の女の子が一緒にいるところを見て逃げたことあるでしょ?」

 確かに、夏休み前にそういうことあったけど、なんで羽鳥さんが知ってるんだろう?

 私が不思議に思っていたら、羽鳥さんが言った。

 「実はあの時彼方と一緒にいたのは、私なの」

 「……え?」

 あの時見たのは一瞬だったし、女の子は後ろ姿だったから顔も見てなかったけど。

 まさか羽鳥さんだったなんて、気づかなかった。

 「でも、夏休み前って……羽鳥さん、もう卒業してますよね?」

 「うん。彼方に会いたかったから、学校に行ったの。でも、あの時天音さんのこと追いかけた彼方を見て、すぐわかったよ。彼方は本気で好きな子ができたんだって。悔しかったよ。彼方、いつも『誰も本気で好きにならない』って言ってたから。私、初めて会った時から彼方のこといいなって思ってたの。誰も寄せつけない雰囲気とか、カッコイイなぁって。私、結構軽いノリで彼氏作ってたから、本気じゃなくてもいいって彼方にコクったことあるんだ。泊まりで出かけたっていうのはその時なの」

 羽鳥さんの話を、私はただ黙って聞くことしかできなかった。

 「母親に学校のこと言われたとかで、かなり荒れてた日でね。もう何もかもどうでもいいって顔してたの。私も親とうまくいってなかったから、そういう気持ちよくわかるし、タイプがわたしと似てるなって思った。もっと近い存在になりたかったから……私が帰らないって言ってホテルに泊まろうとしたの。本気じゃなくても、一瞬でも私のこと見てくれるならそれでいいって思った。 でも、彼方にハッキリ言われたの。『こんなことしても、俺は舞のことを本気で好きにはならない。もっと自分のこと大事にしろ』って。突き放してるようで、ホントはあとで後悔しないようにちゃんと止めてくれたんだ」

 そうだったんだ。彼女は彼女なりに辛い恋をしていたんだな……。

 「そういうわけだから、泊まったっていうのはウソなんだ。それと……この際だから言っちゃうけど、私、この休み中にも彼方に告白してるの」

 「え?」

 「でも、もちろん断られたよ。彼方はホントにあなたのことが好きなんだね。あいつがこんな一途だなんて思わなかったよ。きっと、天音さんが彼方のこと変えたんだね」

 「そんなことないと思いますけど……」

 「悔しいけど、今回の話聞いて、彼方に必要なのは天音さんなんだって思い知らされた。もう彼方に迫ったりしないから安心してよ」

 「……羽鳥さん……」

 「じゃ、そろそろ時間だから」

 そう言うと、羽鳥さんはお店を出て行った。

 相変わらず、一方的に喋る人だ。

 でも、ずっと苦手なタイプの人だと思ってたけど、こうして正直に話してくれたんだし……悪い人じゃないのかな。

 今なら、羽鳥さんの気持ちもわかる気がする。

 羽鳥さんの分まで、彼方くんを大切にしようと心に誓った。


 【恋色に咲く花火】


 夏休み最後の日、私はお母さんに浴衣を着せてもらって、彼方くんとの待ち合わせ場所へ向かった。

 今日は、彼方くんと花火大会デートの約束をしていたんだ。

 「浴衣着てきたんだ?」

 「うん」

 「可愛いな。浴衣が」

 「ちょっと、なにそれ」

 そんな何気ない彼方くんとの会話がたまらなく嬉しい。

 人ごみの中、手をつないで花火大会の会場になっている河原へ向かう。

 そして、花火が見やすそうな高台へ行くと、意外と穴場らしく、人はほとんどいなかった。

 花火が始まるまで、まだ少し時間がある。

 「あれから久遠とは会った?」

 「ううん。塾辞めちゃったみたい」

 「……まあ当然だよな」

 「でも、今は同じ街に住んでいるから、会う可能性はあるよね。久遠くんのお母さんが彼方くんの存在を知ったっていうことは、これから大変なことになるかもしれないよね。久遠くんのお父さんは海外にいるし、まだ彼方くんの存在を知らないわけでしょ?」

 「しかも会社の社長だしな。隠し子がいたなんてバレたら、仕事の立場だって危なくなる。だから俺の母親は離れたんと思うよ。俺がこの街に来たのは、中学を卒業したあとだから」

 「そっか。久遠くんは中学卒業と同時にこの街を引っ越してるから、彼方くんとはすれ違ってるんだね」

 「でも、もうお互いに真実を知ったわけだし、なんとかするしかないだろ」

 彼方くんは他人事みたいに言ってるけど、これから起こるかもしれない騒ぎの事を考えると、胸が痛くなった。

 「まだ起こってないこと考えてもしょうがないよ」

 「……そうだよね」

 私が頷いたそのとき、空にドンという音が響いて、花火大会が始まった。

 夜空に次々と咲いていく大輪の花に、あちこちから歓声があがる。

 「もう今日で夏休みも終わりなんだね。なんかすごく色んなことがあった気がする」

 「そうだな」

 「高校時代の中で、一番思い出深い夏休みかもしれない」

 「思い出ならまだ作れるよ」

 「……え?」

 私が顔を上げた瞬間、目の前の視界が遮られて、一瞬呼吸ができなくなった。

 それは、本当に一瞬で。

 あまりに突然のことで、何が起きたのかわからなかった。

 「……ちょっと、いきなり何するの……!」

 唇に残るかすかな熱で、今のが何だったのかわかって、恥ずかしくて真っ赤になりながら、私はそう口にしていた。

 「だから、思い出作ったんだって」

 彼方くんが平然とそう言って、ますます頬が熱くなる。

 「……信じられない。なんでこんなところで……」

 「ホントにふたりきりになってまともな雰囲気だったら、絶対拒否ると思ったから」

 「………!」

 「図星だろ?」

 彼方くんが、からかうように笑う。

 悔しいけど、見透かされてる。

 「……彼方くんにはかなわない」

 「今頃気づいたのかよ」

 彼方くんがそう言いながら笑って、私もつられて笑った。

 空には、たくさんの光の花が咲いてる。

 隣には、大好きな人がいる。

 今こうしてつないでいる手を、もう簡単に離したりしない。

 不安になって、不安にさせて、迷って、悩んで。

 傷ついて、傷つけて、泣いて、笑って。

 前よりたくさんの気持ちを知った18歳の夏休みを、私はきっと一生忘れない。

 「……優羽」

 花火が途切れた時、彼方くんがそっと私の名前を呼んだ。

 見上げた彼方くんの瞳はとても穏やかで優しくて。

 そして、その瞳がまっすぐに私を見つめて言った。

 「もう1回していい?」

 彼方くんが私を抱き寄せて、もう一度キスをした。

 その瞬間、夜空にたくさんの光の花が咲いた――。


 【第3章 悩める受験生】


 「陽依ちゃん、ちょっと相談があるんだけど、このあと時間ある?」

 放課後、教室を出ようとした陽依ちゃんに声をかけた。

 「え?」

 不思議そうに首を傾げた陽依ちゃんだけど、「うん、大丈夫だよ」と言ってくれた。

 「じゃあ、駅前のカフェ寄ってもいいかな」

 「うん」

 学校を出てカフェに向かっていると、秋を告げる涼しい風に乗ってキンモクセイの香りがした。

 「相談って、なに?」

 カフェに入って席に着くなり、陽依ちゃんが言った。

 「……男の子に贈る誕生日プレゼントって何がいいのかな?」

 「あ、もしかしてもうすぐ日向くんの誕生日なの?」

 私の質問で、陽依ちゃんはすぐ相談の内容を察したみたいだ。

 「うん。だから、何をあげようかなって思って」

 もうすぐ、私にとって人生初の彼氏の誕生日がやってくる。

 だから、事前に何をあげたらいいか相談しようと思ったんだ。

 「日向くんが喜びそうなものって……難しそうだよね」

 「でしょ?」

 何か物をあげるにしても、夏休み中は塾通いでバイトもしてなかった私には、予算的にそんなに高価な物は買えそうにない。

 「う~ん…手作りケーキとかは?」

 「定番ではあるけど……彼方くんってケーキ好きなのかな」

 雰囲気的になんとなく甘いものは苦手そうな感じがする。

 あくまで私のイメージだけど。


 「でも、優羽ちゃんお菓子作り得意だし、いいんじゃないかな? ムリして高いお金出すより、優羽ちゃんらしいものをあげる方が気持ちは伝わると思うけど」

 陽依ちゃんのその言葉は妙に説得力があって、思わず納得してしまった。

 確かに、高いお金を出して何か買ったところで、彼方くんの好みに合わなかったら意味がない。

 それに、やっぱり誕生日と言えばケーキだよね。

 「よし、じゃあバースデーケーキに決まり!」

 「それがいいよ。味見なら私がするから任せて!」

 「あはは。ありがとう、陽依ちゃん」

 それから私たちは1時間ほど雑談をして帰宅した。

 自分の部屋で部屋着に着替えて、机の上に置いてあるカレンダーを見る。

 彼方くんの誕生日まであと10日。

 平日だから、直前の土日に材料を買って準備しようかな。

 そんなことを考えるだけでワクワクしてくる。

 好きな人に手作りのお菓子をプレゼントする。

 そんな日が本当に私にくるなんて、思わなかった。

 甘い気持ちに浸っていたら、窓から吹き込んできた風で机の上に置いてあったプリントが床に落ちた。

 拾いながら、プリントに書かれている二者面談日程表の文字を見て、一気に現実に引き戻される。

 今の私は大学受験を控えた受験生。

 数日後には、担任の先生と進路についての二者面談がある。

 推薦狙いの私は今度の面談で推薦が取れたかどうかわかるんだ。

 推薦が取れれば来月末には面接試験があるから、私にとって本格的な受験が始まる。

 まだ先だと思っていた受験が、もう目前まで迫ってきている。

 推薦とれますように。

 プリントを見ながら、心の中で願った。


 * * *


 数日後の放課後。

 「失礼します」

 緊張しながら面談室の中へ入ると、

 「どうぞ、座って」

 担任の氷上先生に促されて、私は椅子に座った。

 「まずはこれを渡さないといけないわね」

 そう言いながら、先生が私にA4サイズの少し厚みのある封筒を差し出した。

 封筒の右下には、清風女子大の文字が書かれている。

 「清風女子大の入学願書よ。推薦通ったから」

 先生が笑顔で言った。

 「ありがとうございます」

 嬉しくて、思わず私も笑顔になる。

 良かった。推薦取れたんだ。

 「第一志望は家政学科じゃなくて文学科に変更でいいのね?」

 「はい、大丈夫です」

 確認するように尋ねた先生の言葉に、しっかりとした声で頷いた。

 「天音さんの成績なら、文学科でも問題ないわね。来月には面接試験だから、頑張って」

 「ありがとうございます」

 先生から渡された封筒を大事に胸に抱えるように持って、面談室を出た。

 一気に緊張が解けて、心が軽くなる。

 帰り道、私は早速彼方くんにメッセージを送った。

 【推薦決まったよ!】

 きっと今はバイト中だと思うけど、この喜びを早く伝えたかったから。

 送信してすぐ、制服のポケットに入れたスマホが震えた。

 彼方くんからかな?

 ドキドキしながらメッセージの内容を確認すると、

 【おめでとう! 良かったな】

 やっぱり彼方くんからだった。

 たった一言だけど、すごく嬉しい。

 画面を見ながら自然と笑顔になる。

 【ありがとう。バイト中にごめんね】

 もう一度返信して歩き出した。

 見上げた空は高くて綺麗な青空で、なんだかそれだけで嬉しさが増した。

 まだ受験に合格したわけじゃないけど、これから進む道は明るい道になりそうな気がする。

 私は彼方くんがいるから頑張れる。

 彼方くんもそう思ってくれていたらいいな。

 【誕生日の意味】


 彼方くんの誕生日当日。

 朝から気持ちのいい青空が広がっている。

 鞄の中には昨日の夜頑張って作った手作りケーキが入っている。

 彼方くんのイメージ的に、チョコレートケーキって感じではないかなって思ったから、さっぱりしたチーズケーキを作ってみた。

 喜んでくれるといいな。

 昼休み、屋上へ行くと、彼方くんは先に来ていた。

 「お待たせ」

 「おう」

 「今日は彼方くんに渡したいものがあるの」

 「渡したいもの?」

 「うん。はい、誕生日おめでとう」

 そう言いながら、後ろ手に持っていたケーキの入った箱を差し出した。

 「……これ……」

 彼方くんがかなり驚いたような表情でつぶやいた。

 「誕生日プレゼントだよ。開けてみて」

 私の言葉に、彼方くんが箱を開けた。

 でも、中を見つめたまま無言になってしまった。

 「もしかして、ケーキ嫌いだった?」

 不安に思って訊いてみると、

 「いや、そうじゃないけど……」

 何かを言い淀んでいる様子の彼方くん。

 そして、少しの沈黙の後に聞いた言葉は思いもしない言葉だった。

 「俺、誕生日って嫌いなんだ」

 「え?」

 意味がわからず聞き返すと、彼方くんは静かに話し始めた。

 「子供の頃から母親が仕事で、ひとりで過ごすことが多かったし。俺は『おめでとう』なんて言ってもらえるような存在じゃないって思ってたから。逆に、誕生日が来るたびに思ってた。俺は生まれてこなければよかったのにって」

 「………」

 「なんで泣いてるんだよ?」

 「……え?」

 彼方くんに言われて初めて、自分が泣いてることに気づいた。

 私にとって誕生日は家族みんなでケーキを食べてお祝いするのが当たり前で、毎年誕生日がくるのが楽しみだけど。

 彼方くんにとっての誕生日はそうじゃないんだ。

 いつもひとりで、毎年自分の存在を祝うどころか、否定して。

 「おめでとう」という言葉すら否定し続けてきたなんて。

 彼方くんの気持ちを考えただけで悲しくて苦しくて、気がついたら涙が頬を伝っていた。

 「私が祝うから。これから毎年一緒に祝うから、もうそんな風に思わないで……」

 言いながらもっと涙が溢れる。

 こんなことしか言えない自分がもどかしい。

 泣きたくなんかないのに。

 一番辛い思いをしてきたのは彼方くんなんだから、私が泣いたらダメなのに。

 彼方くん、気を悪くしちゃうよ……。

 そう思って必死に涙をとめようとしていたら、

 「……ごめんな、暗い話して。泣くなよ」

 優しい声が聞こえて、頭に手のひらの温もりを感じた。

 そっと私の頭を撫でてくれている彼方くん。

 その優しさに胸がしめつけられた。

 「ごちそうさまでした」

 私の涙が落ち着いてから、彼方くんはケーキを全部食べて笑顔で言ってくれた。

 「美味しかったよ。ありがとな」

 「どういたしまして」

 「こんな風に誕生日祝ってもらったのって初めてだから嬉しいよ」

 本当に嬉しそうな彼方くんを見て、私も嬉しくなった。

 喜んでもらえて良かった。

 こうして彼方くんの誕生日を一緒に祝えて良かった。

 「これからは、生まれて来て良かったって思えるように、私が一緒にお祝いするよ」

 そう素直に思ったことを口にしたら、

 「……優羽って、ホントまっすぐだよな」

 彼方くんが照れたようにつぶやいた。

 「そういうとこ、好きだよ」

 優しい表情でそう言いながら私を抱きしめた。

 彼方くんの香りに包まれて、幸せな気持ちになる。

 優しい温もりに、胸の奥が熱くなる。

 “好き”っていう気持ちが溢れる。

 誕生日って、きっと生まれて来てくれたことに感謝する日でもあるんだよね。

 だって、彼方くんがいなかったら、誰かをこんなに好きになって大切だと思うことなんてなかった。

 だから、ねぇ、彼方くん。

 生まれて来てくれてありがとう。

 彼方くんのことが、大好きだよ。


 【新たな道への一歩】


 11月に入ると、クラスは受験ムードに染まり始めた。

 私も、もうすぐ清風女子大の面接試験がある。

 放課後に先生と模擬面接をしたり、休み時間に進路指導室で大学案内を見たりと、本格的に受験モード。

 「音大って自然がいっぱいあるところなんだね」

 「清風女子はやっぱりお嬢様学校って感じがするよね」

 休み時間、私は陽依ちゃんと進路指導室でお互いの第一志望校のパンフレットを見せ合っていた。

 陽依ちゃんは夏休みに一緒にオープンキャンパスに行ってくれたけど、5歳の頃からピアノを習っているということで、音大のピアノ科を第一志望にすることにしたらしい。

 「そういえば、優羽ちゃんって日向くんの進路は聞いてる?」

 「え?」

 突然彼方くんの話題を振られて、思わず顔を上げる。

 家庭の事情で大学受験をしないことは知ってるけど、具体的にどういう道に進むのかまでは聞いたことがない。

 就職するのか、このままバイトを続けてフリーターになるのか、それとも何かやりたいことが見つかったのか。

 「大学受験はしないってことは聞いてるけど」

 「そっか。でも、みんな受験ムードなのに、相変わらず遅刻常習犯だね、日向くんは」

 「そうだね」

 陽依ちゃんの言葉に、私も苦笑しながら頷いた。

 確かに、今日もまだ来てないし。

 遅刻もサボりもいつものことだけど、さすがに今は進路を決める大事な時季だけに、ちょっと心配。

 昼休み、屋上に行っても彼方くんの姿はなかった。

 今日はサボるつもりなのかな。

 あまりサボってばかりいたら、卒業すら危ないかもしれないのに、大丈夫なのかな。

 なんて余計なお世話だとわかっていても心配になってしまう。

 「……はぁ」

 思わずついた小さなため息が、秋の澄んだ青空に吸い込まれていく。

 今日もキレイな青空だなと思ったその時、

 「幸せが逃げてくぞ」

 すぐ後ろからそんな言葉が聞こえた。

 「彼方くん?」

 いつのまに来ていたんだろう。

 「今日はサボりかと思った」

 私の隣に座って、コンビニの袋からパンを取り出す彼方くんを見ながら言う。

 「ホントはそのつもりだったんだけど。優羽に会いたかったから」

 「えっ!?」

 予想外の言葉に思い切り動揺した私は、開けかけて手に持っていたお弁当箱のふたを落としてしまった。

 そんな私を見て彼方くんは、

 「なんて、ホントは来ないと出席日数ヤバいからなんだけど」

 ってからかうように笑って言った。

 「もう、どっちなのよ」

 恥ずかしくてつい怒り口調になった私に、

 「どっちもホント」

 そう言って優しい笑顔で私を覗きこむ彼方くん。

 それだけで、鼓動が高鳴って。

 やっぱり、私は彼方くんのことが好きなんだって想う。

 こんな何気ない些細なことが嬉しくて幸せでたまらない。

 でも、こうして彼方くんと昼休みに一緒に過ごせるのもあと少しなんだよね。

 卒業したらこんな風に毎日顔を合わせることもできなくなるんだ。

 「優羽、面接の日いつだっけ?」

 少し切ない気持ちになっていたら、突然彼方くんに訊かれた。

 「25日だよ」

 「そっか。もうすぐだな」

 「うん」

 受験の話題になって、さっきの陽依ちゃんとの会話を思い出した。

 彼方くんは自分から何も言わないけど、聞いてもいいかな。

 「彼方くんは、進路決まったの?」

 遠慮がちにそう訊いてみると、

 「一応決まった、かな」

 彼方くんはそんな曖昧な言い方をして笑った。

 「一応って、まだ悩んでるってこと?」

 「う~ん、まぁそんなとこ」

 言葉を濁す彼方くん。

 「就職するの?」

 気になってちょっと突っ込んで聞いてみたら、

 「優羽が合格したら教えるよ」

 そう言って答えをかわされてしまった。

 だけど、一応でもなんでも、彼方くんがちゃんと進路を考えているのなら良かった。

 * * *

 面接当日。

 「忘れ物ない? 大丈夫?」

 玄関で心配そうに訊くお母さん。


 「落ち着いて頑張れよ」

 少し緊張気味に言うお父さん。

 「大丈夫だよ。終わったら連絡するね」

 私より緊張しているんじゃないかと思うふたりに笑顔でそう言うと、私は清風女子大へと向かった。

 夏休みに陽依ちゃんと一緒に行ったオープンキャンパス以来だ。

 そういえば、あの時の帰りに、彼方くんが羽鳥さんと一緒にいるところを見かけたんだよね。

 ふとそんなことを思い出した。

 もうあれから3ヶ月経つんだ。

 あの時は不安で仕方なかったけど、今は少し強くなれた気がする。

 そんなことを考えていたら、ポケットに入れていたスマホが震えた。

 画面を確認すると、彼方くんからのメッセージだった。

 【今日の面接、頑張れ】

 そのたった一言が嬉しくて、電車の中なのに思わず笑顔になる。

 【ありがとう。頑張るよ】

 大丈夫。私にはこうして応援してくれる人がいるから、ひとりじゃないから。

 そう心の中で思いながら、私は清風女子大の試験会場へ向かった。

 受付を済ませて案内された待合室の中へ入ると、すでに色んな制服姿の女の子達がそれぞれの席に座って順番を待っていた。

 緊張感が漂う静寂の中、事前に準備した面接で訊かれる質問とその答えを書いたノートを見て、何度も頭の中でシミュレーションしながら自分の順番を待つ。

 そして席に着いて30分が過ぎた頃。

 案内係の人に名前を呼ばれて返事をして席を立つと、面接室へ案内された。

 「準備ができたら、ノックして中に入って下さい」

 そう言うと、案内係の人はまた待合室へ戻って行った。

 ……いよいよ始まるんだ。

 目を閉じて深呼吸をすると、ドアをノックした。

 「どうぞ」

 中から男の人の声が聞こえて、ドアを開ける。

 「失礼します」

 一礼をして部屋の中に入ると、長いテーブルを挟んで面接官らしき中年の男性が二人座っていた。

 面接は約10分間。

 どれも事前に模擬面接で「絶対訊かれるから」と言われて準備していたから、特に失敗することもなくきちんと答えられたと思う。

 「結果は、数日後、学校を通してお知らせします。お疲れ様でした」

 その言葉を合図に、面接は終了した。

 * * *

 「天音さん、ちょっといい?」

 数日後。朝のホームルームのあと、担任の氷上先生に声をかけられた。

 先生のあとについて廊下に出ると、

 「合格、おめでとう」

 そう言って先生が私に封筒を差し出した。

 受け取って中を見ると、合格通知書と書かれた紙と、入学手続きの書類が入っていた。

 「ありがとうございます!」

 笑顔で言って軽く礼をする。

 合格したんだ。

 じんわりと喜びが胸に広がっていく。

 「日向くんとつきあってるっていうからちょっと心配だったけど、無事に推薦で決まって良かったわね。日向くんにもちゃんと進路決めるように言っておいて」

 「はい」

 先生の言葉に苦笑しながら頷いた。

 相変わらず、氷上先生の中では彼方くんは問題児みたいだ。

 でも、私とつきあっていることに否定的なことは言わなくなった。

 教室に戻って席に着くと、陽依ちゃんが駆け寄って来た。

 「優羽ちゃん、氷上先生の話なんだったの?」

 「あ、第一志望合格したって」

 「良かったね!おめでとう!」

 「ありがとう」

 「日向くんにも早く報告したいところだよね」

 「うん」

 陽依ちゃんの言葉に頷きながら、彼方くんの席を見る。

 でも、やっぱり彼方くんはまだ来ていない。

 また昼休みまで来ないつもりかな。

 進路決まったって言ってたけど、この時季まで遅刻ってどうなんだろう?

 私が合格したら進路教えてくれるって言ってたけど。

 「……寒い」

 昼休み、屋上前の階段にいる私は思わずそう呟いた。

 もうすぐ12月だけあって、空気はすっかり冬の気配。

 なんでここにいるかというと、4時間目が終わる少し前、彼方くんから【昼休み屋上に行くから待ってて】という連絡が来たから。

 今日は彼方くんに会ったらまず大学に受かったこと伝えなきゃ。

 早く伝えたい気持ちで彼方くんが来るのを今か今かと待っていると、かすかに足音が聞こえてきた。

 だんだん音が大きくなって、屋上の方へ近づいてきているのがわかる。

 「おはよ」

 そして、聞き慣れた大好きな人の声が聞こえた。

 「おはようじゃないよ、もうお昼だよ」

 「はは、そうだな」

 私の言葉に、彼方くんが笑いながら頷いた。

 「あのね、今日は彼方くんに報告があるの」

 「報告?」

 「うん。清風女子合格したよ!」

 「そっか、良かったな。おめでとう」

 声を弾ませて言う私を見て、彼方くんも嬉しそうな笑顔でそう言ってくれた。

 「ありがとう。これで安心して卒業できるよ」

 「そうだな」

 「そういえば、氷上先生に、彼方くんにもちゃんと進路決めるように言ってねって言われたんだけど」

 「マジで? 余計なお世話だっつーの」

 「でも、私も気になるよ。私が合格したら教えてくれるって言ってたよね?」

 「……うん。俺さ、音楽の専門学校に行こうと思ってるんだ」

 「専門学校?」

 予想外の答えに驚いて思わず訊き返すと、彼方くんが少しずつ話し始めた。

 「クラブとかライブハウスとか行ってサウンド作りに興味あったから。で、そのことを今バイト先の楽器屋の店長に話したら、音楽の専門学校紹介してくれたんだ」

 「……そうなんだ」

 「でも、入学料とか授業料とか結構かかるから。資金稼ぎの為にバイトの時間増やしてる」

 だから、毎日学校来るのが遅いんだ。

 彼方くんのうちはお母さんが家計を支えているから、お母さんの負担にならないようにするために。

 「すごいね、彼方くん。ちゃんと自分で自分の道を決めて、考えて行動に移してる」

 「まぁ、今まで色々テキトーだったし。そろそろ真面目に考えないといけないかなって」

 そう言って、彼方くんが照れたように笑った。

 「私も、応援してるからね」

 「サンキュ」

 彼方くんも、確実に新たな道への一歩を踏み出してるんだ。

 こうして、私たちは少しずつ大人に近づいていくのかな。

 * * *

 「合格おめでとう!」

 家に帰ると、お母さんが真っ先に笑顔でそう言ってくれた。

 「ありがとう」

 「今日は御馳走ね。お父さん帰ってきたら、合格祝いしようね」

 お母さんが弾んだ声で言う。

 相変わらずお祝い好きな私の家族。


 お母さんの言葉通り、夕飯はちらし寿司でいつもより豪華。

 デザートにケーキも買ってきてくれた。

 お父さんが帰ってくると、お母さんが待ってましたというように「パパ、優羽が大学合格したって!」と言った。

 「おめでとう。それで今日はこんな豪華なのか」

 「そうよ。さ、乾杯しましょう」

 お父さんが席に着くと、それぞれグラスに飲み物を注いで準備万端。

 「それじゃ、優羽の合格を祝って乾杯!」

 「乾杯!」

 3人でグラスを合わせた。

 「優羽も春からは大学生になるのか」

 お父さんが、グラスに注いだビールを飲みながらしみじみつぶやいた。

 「ホント、時が経つのって早いわね」

 お母さんも感慨深げに頷いている。

 「きっと大学の4年間もあっというまなんだろうね。優羽は大学卒業したら就職するのか?」

 「あら、結婚するんじゃないの? 今、お付き合いしてる子と」

 「……!?」

 お母さんの言葉に、食べかけていたご飯がのどに詰まりそうになった。

 「ちょっと、お母さん何言い出すの!?」

 結婚って、気が早すぎでしょ。

 「だって、お母さんもお父さんと結婚したの大学卒業してすぐだったもの」

 「なんだ、優羽は4年後には家出ちゃうのか。お父さん寂しいな」

 お父さんまで。

 「もう、勝手に盛り上がんないでよ~」

 そう言いながら、相変わらず笑いの絶えない家族で良かったなと心から思った。


 【聖夜の願いごと】


 「すごい混んでるね」

 「そりゃ、クリスマスだからな」

 人の多さに圧倒されて思わず呟いた私に、彼方くんがあっさりと言う。

 「優羽の大学合格祝いに」と彼方くんがクリスマスイブの予定を空けてくれて、久しぶりのデートなんだけど。

 この数年クリスマスに遠出していなかった私は、有名スポットを選んだことを少し後悔した。

 「みんな、混むってわかっててなんでくるんだろうね?」

 「俺達だって人のこと言えないだろ?」

 私の言葉に、彼方くんが苦笑する。

 確かにそうだよね。

 混むとわかっていても来たのはやっぱり今日が特別な日で、大切な人と一緒に過ごしたいと思ったからで。

 きっとそれは、ここに来ている人達も同じなんだろう。

 街中はどこもクリスマス一色で、寄り添って歩く恋人達はみんな幸せそうな顔をしている。

 去年までは、そんな光景を羨ましく思いながら見ているだけだった。

 でも、今年は隣に大好きな人がいて。

 つないでいる手の温もりは夢じゃない。

 確かに、ここにあるもの。

 ふたりでショッピングモール内のお店を何気なく見ながら歩いていたら、アクセサリー店を通りかかった。

 ショーウィンドウにはキラキラと輝くリングがたくさん並んでいる。

 店内はクリスマスだけあって、カップルばかり。

 真剣な眼差しで選んでいたり、恥ずかしそうに笑い合いながら商品を手に取っていたり。

 それぞれの想いが幸せなオーラになって、お店の中を包んでいるような気がする。

 「……優羽?」

 お店に視線を向けていた私は、思わず立ち止まっていたらしい。

 彼方くんに声を掛けられて、我に返った。

 「あ、ごめんね。行こう」

 そう言ってそのまま歩き出した。

 やっぱり、特別な日にプレゼントで指輪をもらうのって憧れるけど。

 でも、彼方くんはあまりそういうの好きじゃなさそうな気がする。

 それに、彼方くんは専門学校に行く為に頑張ってバイトしてお金貯めてるんだし、こういうものにお金かけてる場合じゃないよね。

 「どこか店に入って休むか?」

 「うん、そうだね」

 私たちは近くにあったカフェに入ることにした。

 かなり並んでいるけど、席はまだ少し空いている。

 「注文するから、先に座ってて。何がいい?」

 「あ、じゃあカフェラテで……」

 「了解。持って行くから、座ってて」

 彼方くんに言われて、私は先に空いてる席を見つけて座った。

 やっぱりクリスマスだけあって、どこに行ってもすごく混んでる。

 いつも混雑するところに出歩かないから、ちょっと人の多さに疲れたかも。

 ふぅ、と小さくため息をついて、ぼんやりとしていたら、

 「はい」

 目の前にマグカップが差し出されて、彼方くんが向かい側の席に着いた。

 「ありがとう」

 お礼を言って、鞄からお財布を出すと、

 「あ、いいって。これぐらい」

 彼方くんが言った。

 「でも、悪いよ」

 私は誰かに奢ってもらうことに慣れていない。

 だから、なんだか申し訳ない気がしてしまう。

 「悪くないよ。そもそも、今日は優羽の大学の合格祝いなんだから」

 「ありがとう」

 「優羽って、ホント真面目なんだな。男に払わせて当然ってヤツも多いのに」

 「そう、なんだ」

 彼方くんの周りにいた女の子たちは、そういう子が多かったのかな。

 なんて考えたら、なんとなく胸の奥が重くなった。

 「彼方くんはいつ受験日なの?」

 一瞬暗くなった気持ちを振り払うように、話題を変えた。

 「年明けだよ。1月の下旬」

 「そっか。まだもう少しあるね」

 「うん。今はちょうど願書提出期間中」

 私は推薦で進路が決まったけど、一般受験や専門学校を受験する人たちはこれからが勝負なんだよね。

 「最近バイトばっかりだったから、なんかいいな。こういう時間」

 「そう?」

 「うん。やっぱり、優羽といると癒される」

 「……えっ?」

 面と向かってそんなこと言われると恥ずかしいけど、嬉しい。

 しばらくのんびりしてお店を出た私たちは、また何気なく色々なお店を見て回った。

 「あ、あれ可愛い!」

 私の目に留まったのは、ゲームセンターにあるクレーンゲームのぬいぐるみ。

 クリスマス仕様でサンタクロースの格好をしたテディベア。

 他にも、今人気の可愛いキャラクターのぬいぐるみが景品になっているクレーンゲームが何台か置いてある。

 「ちょっと寄ってくか」

 「うん」

 ふたりでゲームセンターの中に入った。

 騒々しい音と、目が眩むような照明。

 ゲームセンターで遊ぶことがほとんどないから、まるで異空間に足を踏み入れたような気分。

 色んなゲームがあるんだな、なんてぼんやり見ていたら、突然後ろから何かで肩を叩かれた。

 ビックリして振り返ると、目の前にブサカワ系のキャラクターのぬいぐるみ。

 「?」

 わけがわからず戸惑っていたら、

 「プレゼント・フォー・ユー」

 そう言いながら彼方くんが笑っている。

 いつのまに取ったんだろう。

 でも、これがプレゼントって……。

 「……微妙」

 思わず本音を口にしてしまった。

 「やっぱり?」

 「やっぱり?じゃないよ」

 少し拗ねたような口調でそういうと、

 「わかったよ」

 彼方くんは私が最初に見ていたテディ・ベアのクレーンゲームへ向かった。

 そして、あっさりとそのうちのひとつを取った。

 「すごい、上手いね」

 思わず感心してしまう。

 「ってことで、改めてプレゼント」

 「ありがとう」

 そのままふたりでゲームセンターを出ようとしたところで、あるものが目に留まった。

 「ね、プリクラ撮らない?」

 「え?」

 彼方くんはこういうの好きじゃなさそうだけど。

 「女子ってホントそういうの好きだよな」

 案の定、彼方くんは怪訝そうな表情。

 「せっかくだし、記念にね」

 「まぁいいけど」

 ふたりで中に入って、撮影の準備。

 カウントに合わせて普通にピースサインのポーズ取ろうとしたら、フラッシュが光った瞬間、彼方くんが私の肩を抱き寄せた。

 「えっ!?」

 そして、画面に映し出されたのは、思い切り戸惑った表情の私と、笑顔の彼方くん。

 「ちょっと、今のなし! 彼方くん、ひどいよ~」

 「わかったわかった」

 私の言葉に彼方くんが苦笑して、今度はカウント中から肩を抱いた状態でポーズ。

 って、この体勢、距離近すぎてドキドキするよ。

 でも、今度はちゃんとふたりとも笑顔で撮れた。

 完成したプリクラを彼方くんと半分ずつ分けて、失くさないように手帳の中に挟んだ。

 ふと腕時計に視線を向けると、気づけばもう19時近くなっていた。

 「もうこんな時間なんだ。早いね」

 「じゃあ、そろそろ締めの場所行くか」

 「締めの場所?」

 訊き返した私に、

 「誰にも邪魔されないでふたりきりになれるところ」

 彼方くんが真顔で言った。

 「え!?」

 ビックリして思わず声をあげると、

 「今へんな場所想像した?」

 彼方くんがからかうように笑いながら言った。

 「してない!」

 思い切り否定する私を見て、彼方くんは楽しそうに笑っている。

 どこに行くつもりなの?

 彼方くんに手を引かれるまま歩いて着いたところは、観覧車だった。

 いつの間にか外はもう真っ暗で、観覧車を彩るクリスマスのイルミネーションがキラキラと輝いている。

 乗り場には、たくさんのカップルや家族が並んでいた。

 「優羽、高い所大丈夫だっけ?」

 「大丈夫。実は、観覧車大好きなの」

 「へぇ? そうなんだ」

 小さい頃から絶叫系が苦手な私にとって、遊園地の中で観覧車は唯一乗れるアトラクションだった。

 もともと空が好きだった私は、空がすぐ近くに見られることがすごく嬉しくて。

 それに、頂上に近づくにつれて自分が空に浮かんでいるような感じがして、大好きなんだ。

 家族で遊園地に行くと、必ず何度も観覧車に乗ってたっけ。

 ふとそんなことを思い出して、懐かしさに胸がしめつけられた。

 「お待たせしました、どうぞ」

 案内係の人の声にハッと顔を上げると、もう私たちの順番になっていた。

 ふたりでゴンドラの中に入って、向かい合わせに座る。

 「それでは、どうぞごゆっくりお楽しみください」

 その言葉と同時に扉が閉められて、ゆっくりとゴンドラが動き出す。

 中につけられているスピーカーからは、クリスマスソングのオルゴールバージョンが流れている。

 カップルで乗るにはピッタリのロマンチックな雰囲気。

 窓の外には、ライトアップされた夜景が広がっている。

 「なんか、別世界にいるみたいだね」

 「うん」

 私の言葉に、彼方くんが静かに頷く。

 頬杖をつきながら窓の外の景色に視線を向けている彼方くんの表情が大人びて見えて、思わずドキッとする。

 今、この空間にふたりきりなんだ。

 そう思ったら、今さら緊張してきた。

 「あ、プレゼント持ってきてるんだ」

 緊張をほぐすようにわざと明るい声でそう言いながら、鞄の中からラッピングされた包みを出した。

 「はい。メリークリスマス」

 そう言って、その包みを彼方くんに差し出した。

 「ありがと。開けていい?」

 彼方くんは、一瞬驚いたような表情になったけど、すぐ笑顔で受け取ってくれた。

 私が頷くと、彼方くんはゆっくり包みを開けた。

 プレゼントにしたのは手編みの手袋。

 「もしかしてこれ、手編み?」

 「うん。そう」

 「すごい、よく作れるな」

 感心したように言われて、嬉しいような恥ずかしいような気持ちになる。

 「ありがとな」

 「どういたしまして」

 彼方くんの嬉しそうな笑顔を見て、ホッとした。

 喜んでくれて良かった。

 気がつけば、ゴンドラはだいぶ上の方まで来ていた。

 久しぶりに感じる、空の中に浮かんでいるような感覚。

 窓から見下ろす景色はミニチュアの世界。

 「だいぶ上まで来たね」

 そう言いながら窓の外に向けていた視線を彼方くんの方に向けると、彼方くんはうつむいて黙り込んでいる。

 「彼方くん?」

 「………」

 呼びかけても、黙ったまま。

 もしかして、実は高い所が苦手で気分悪くなったとか?

 大丈夫かな?

 「彼方くん、大丈…きゃっ!」

 心配になって彼方くんの方に体を寄せて声をかけたら、突然腕を引かれて前のめりになった。

 バランスを崩しかけたところを彼方くんが抱きとめて、

 「ひっかかった」

 面白そうに笑いながら言った。

 「もう、 本気で心配して損した」

 そう言いながら彼方くんに抱きしめられてる体勢になってることに気づいて、慌てて離れようとしたら。

 「優羽に渡したいものがあるんだ」

 彼方くんが言った。

 「……え?」

 なんだろう?

 戸惑っている私から腕を離すと、彼方くんはズボンのポケットから何かを出した。

 「左手出して」

 「左手?」

 不思議に思いながらも言われるまま左手を出すと、

 「プレゼントって言ったらこれかなと思って」

 そう言いながら、彼方くんが私の左手の薬指にリングをつけた。

 シンプルなシルバーリング。

 「……ありがとう……」

 まさか、ホントにプレゼントで指輪をもらえるなんて思ってなかった。

 彼方くんの気持ちが嬉しくて、胸がいっぱいになる。

 なんだか夢をみているような気持ちで、左手の薬指に光るリングを見つめたまま放心状態になっていると、

 『間もなく大観覧車頂上です』

 スピーカーからそんな言葉が聞こえてきた。

 もう頂上なんだ。

 私が大好きな、一番空に近づける場所。

 「……優羽」

 彼方くんが不意に名前を呼んで、私の左手を掴んで引き寄せた。

 一瞬驚いて顔を上げた瞬間、そっと唇が重なった。

 このまま時間が止まればいいのに。

 心からそう思うくらい、幸せで。

 ふわふわと宙に浮かんでいるみたい。

 「ずっと、離さないから」

 ゆっくり唇を離して、彼方くんがまっすぐ私を見つめて言った。

 それはまるで誓いの言葉のようで。

 静かに、強く私の心に響いた。

 何か言いたいのに、言葉が出てこない。

 胸の奥がギュッとしめつけられて、嬉しいのに涙が溢れてくる。

 「また泣いてる」

 彼方くんがそう言って、私の手をつないだ。

 聖なる夜に、もしも願いが叶うなら。

 どうか、この手をこれから先もずっと、離さないでいて。



 【向き合う覚悟】


 年が明けて、3学期。

 私は、推薦で進路が決まった生徒向けの特別授業で学校に登校している。

 陽依ちゃんも冬休み前に音大のピアノ科の推薦が決まって、第一志望の大学に合格したから、特別授業参加組。

 一般受験を控えている子達は自由登校だから、クラスでも出席してる子は半分くらい。

 「優羽ちゃんは冬休みの間に日向くんとなにかあった?」
 「え!?」
 休み時間、いきなり陽依ちゃんに訊かれて思い切り動揺した私は、飲んでいたホットミルクティーでむせてしまった。

 「……な、ないない!」

 ハンドタオルで口元を拭きながら、慌てて否定する。

 「ホントに? クリスマス・イブにデートしたんでしょ?」

 「うん。でも、全然泊まりとかじゃないし。彼方くん、まだ受験終わってないしね」

 「そうなんだ~。意外だなぁ」

 彼方くんは今月下旬に専門学校の受験を控えているし、相変わらずバイトも入れているから、結局冬休みもクリスマスイブの日以外は会わなかった。

 冬休みは夏休みと違って短いから、不安もなくあっというまに過ぎた感じがする。

 * * *

 1月下旬。彼方くんの専門学校の受験も無事終わって、あとは合格発表を待つのみとなったある日の朝。

 私はいつも通り特別授業のため学校へ向かった。

 天気予報で、東京でも冷え込みが厳しくて雪がちらつくかもしれないと言っていた通り、空は低く垂れこめた灰色の雲に覆われている。

 寒さとどんよりした曇り空で重く暗い空気を感じながら、学校に着いて校門を通ろうとした時、なんとなくいつもとちがう雰囲気を感じた。

 校門の前に、数人のスーツ姿の男性が立っている。

 でも、明らかに普通のサラリーマンとは違う。

 まるでマスコミ関係者の様な、マイクとカメラを持っている人達。

 テレビの撮影?

 都内では、ドラマや映画の撮影で学校を使うことも多いけど。

 でも、うちの学校は校長先生が撮影許可を出してないはずと不思議に思っていたら、

 「きみ、3年生?」

 突然、スーツ姿の男性に声をかけられた。

 「……え? はい」

 「日向くんっていう子、知ってるかな?」

 戸惑いながらも頷くとそう訊かれた。

 日向くんって、彼方くんのこと?

 知ってるも何も同じクラスだけど、彼方くんがどうかしたの?

 わけがわからず校門の前で立ち止まっていると、何人かの先生が慌てて駆け寄ってきて、

 「すみません、取材も撮影も一切ご遠慮ください」

 厳しい口調で言った。

 取材? 撮影? 何? どういうこと?

 混乱してその場で固まっていると、

 「早く教室に行きなさい」

 先生に軽く腕を掴まれて、教室に向かうよう促された。

 教室に入るなり、

 「優羽ちゃん、大丈夫!?」

 陽依ちゃんが私の席に来た。

 教室にいる子達がざわめいてる。

 「なんかマスコミ関係者っぽい人に声かけられたんだけど」

 「ホント!? もしかして日向くんが優羽ちゃんとつきあってることまで調べられてるのかな」

 私の言葉に、陽依ちゃんが不安げにつぶやいた。

 なに?  一体何のこと?

 「優羽ちゃん、日向くんから何か聞いてる?」

 「彼方くんがどうかしたの? 何も聞いてないよ」

 「そっか。あの、これ、今日発売の週刊誌なんだけど」

 私の言葉に、陽依ちゃんが少しためらいながら週刊誌を出して見せてくれた。

 でも、それは若い子向けの雑誌ではなく、芸能人のスクープや経済のコラムが載っているサラリーマン向けの週刊誌。

 こういう雑誌を陽依ちゃんが読んでいるとは思えない。

 不思議に思って開かれたページを見てみると、

 『大手企業・久遠コーポレーション社長に隠し子発覚!』

 という見出しが出ていた。

 これ、彼方くんのことだ。

 やっとなんとなく状況が理解できた私は、記事の内容に目を通した。

 【大手企業、久遠コーポレーションの代表取締役社長・久遠氏に、現在高校3年生になる隠し子がいることがわかった。母親は、久遠氏が学生時代に交際していたという一般女性のAさん。Aさんとは、結婚直後から約半年間不倫関係にあったという。しかし、Aさんは突然如月氏の前から姿を消し、関係は自然消滅。Aさんはこの時すでに久遠氏との子供を身ごもっていたことになる。現在、久遠氏はアメリカに滞在しており、子供の認知や親権問題などは弁護士を通して手続きするようだ。また、今回の件については、子供のプライバシーに関わることなので、コメントは差し控えたいとのこと。】

 「すごいね、マスコミの情報収集力って」

 記事の全文を読み終えて、私は思わずそう口にしていた。

 さっきの人達は、久遠社長の隠し子が彼方くんで、彼方くんがこの学校に通ってることまで調べ上げて取材に来たってことだよね。

 彼方くんはこんな記事が出ていることを知ってるのかな。

 心配になってスマホを確認すると、彼方くんから連絡が来ていた。

 【今日発売の週刊誌に、父親のことが出てる。しばらくゴタゴタするかもしれないけど、大丈夫だから心配するな】

 心配するなって言われても心配だよ。

 学校にまでマスコミが取材に来てるのに。

 「日向くんから?」

 「うん。心配するなって」

 陽依ちゃんに訊かれて答えたその時、ドアの開く音がして先生が教室に入って来た。

 「今朝の件については校長先生が対応しているので、くれぐれも必要以上に騒がないように」

 みんなが席に着いたのを確認すると、先生は教室内を見回して少し厳しい口調で言った。

 「それから、天音さんはこのあと面談室に来て下さい」

 先生にそう言われて、私は言われた通りホームルームが終わると面談室へ向かった。

 面談室には誰もいなくて、座って待つことにした。

 きっと話は彼方くんのことだ。

 5分ほどして先生が「お待たせ」と言って面談室の中に入って来て、私の向かい側の椅子に座った。

 「日向くんから連絡あった?」

 「あ、はい。心配するなって」

 「……そう。今ね、私も日向くんのお家に連絡したの。そしたら誰も出なかったのよね。日向くんは今バイトしてるの?」

 「はい。専門学校の学費稼ぐ為にシフト多く組んでるみたいです」

 「じゃあ、もう卒業式まで学校来ないつもりなのかしら」

 「そうかもしれないです」

 「でも今朝の様子からすると、日向くんはかえって学校に来ないほうがいいかもしれないわね。ますます大騒ぎになるかもしれないし」

 「そうですね」

 「天音さんは、日向くんのお家の事情やお父さんのこと知ってた?」

 「はい。全部彼方くんと彼方くんのお母さんから聞きました」

 「そう、もう全部聞いてるのね。あのね。私が前にあなたに日向くんと離れるように言ったのは、いつかこういうことが起こるかもしれないって思っていたからでもあるの。あなたも日向くんの家庭の事情に巻き込まれて、辛い思いをするかもしれない。大人の世界は綺麗事ばかりじゃないわ。それに向き合う覚悟がある?」

 「………」

 予想以上に深刻な先生の言葉に、私は何も言えなかった。

 先生は、あの時すでにこうなるかもしれないことを考えていたんだ。

 「それでも本当に日向くんとつきあいたいと思うのなら、私はもう口出ししないわ」

 そう言って、先生は席を立った。

 教室に戻ると、みんなの視線が私に集中した。

 やだな、こういうの……。

 そう思いながら席に着こうとした時。

 「天音さん、前から日向くんのお父さんのこととか知ってたの?」

 星野さんが訊いてきた。

 「…え? うん…」

 戸惑いながら頷くと、

 「そうなんだ。それでもつきあってるってすごいねぇ」

 星野さんが明るく言った。

 「そんなことないけど」

 「でも、あんな家庭環境だって知ったら、誰だってかわいそうだって思うし、気になるよねぇ」

 ……どういうこと?

 意味がわからず黙っていると、星野さんがつぶやいた。

 「同情から始まった恋って、長続きしなさそう」

 ……!?

 「ちが…」

 違うって言い返そうとした時、タイミング悪く1時限目開始のチャイムが鳴って、星野さんは自分の席に戻って行ってしまった。

 私は、かわいそうとか、そんな気持ちで彼方くんのそばにいるんじゃない。

 でも「向き合う覚悟がある?」と先生に訊かれて、即答できなかった。

 彼方くんを好きな気持ちは、確かなはずなのに。

 なんでこんなに不安になるの?

 その後は授業中もずっと上の空で、気がついたらもう授業は終わっていた。

 私は帰りのホームルームが終わると、すぐに家に帰った。

 お母さんは買い物に行っているみたいで、家には誰もいなかった。

 静かな部屋にひとりきりでいたら、なんだか無性に寂しくて。

 どうしようもなく不安で、泣きたくなった。

 会いたい。彼方くんに会いたい。

 顔が見たい。声が聞きたい。

 直接彼方くんから「大丈夫だよ」って言葉が聞きたい。

 こみあげてきた想いにはじかれたように、私はスマホでメッセージを送った。

 【会いたい】

 きっと今頃、彼方くんはバイト中。

 何時に会えるかなんてわからない。

 それでも会いたくて。

 彼方くんから返信が来たのは、21時半を過ぎた頃だった。

 【バイト終わったから、今からでも良ければ会えるよ】

 今からでもいい。会いたい。

 【じゃあ、今から出るよ。どこで待ち合わせにする?】

 【駅の反対側にある公園で待ってる】

 私は急いでクローゼットからコートとマフラーを出して身支度をすると、1階に降りた。

 「ちょっと出かけてくるね」

 リビングにいたお母さんに声をかけると、

 「今から?  一体どこに行くの?」

 お母さんが怪訝そうな表情で訊いてきた。

 私がこんな時間にひとりで出かけることなんてないから、驚くのも無理はない。

 「ちょっと駅まで。あまり遅くならないようにするから」

 そう言うと、

 「気をつけて行ってきなさいよ」

 お母さんは心配そうにしながらもわかってくれてそう言ってくれた。

 「うん。ありがとう」

 私はお母さんに見送られて家を出た。

 外は真冬の凍えるような寒さ。

 彼方くん、もう着いてるのかな?

 小走りで待ち合わせの公園へ向かう。

 そして公園のすぐそばまで着くと、公園の中に立っている人影が見えた。

 「彼方くん」

 公園の中に入って声をかけると、

 「優羽。早かったな」

 少し驚いたように彼方くんがそう言って、笑った。

 彼方くんの笑顔を見た瞬間。

 胸の奥が熱くなって気持ちが溢れて止まらなくなって、思わず彼方くんに抱きついていた。

 「優羽?」

 彼方くんが驚いたように私の名前を呼ぶ。

 「会いたかった」

 小さな声でそうつぶやくと、

 「うん。俺も」

 彼方くんがそう言ってそっと抱きしめてくれた。

 その温もりに、心が満たされていく。

 さっきまでの不安が消えていく。

 やっぱり、私は彼方くんのことが好きで、好きで、好きで。

 何があっても離れたくない。そばにいたいよ。

 「今朝、ごめんな。ビックリしただろ?」

 彼方くんが腕を離して言った。

 「うん。ビックリしたよ。朝、学校にマスコミ記者っぽい人達も来てて」

 「マジかよ。なんか予想以上に大ごとになってるな」

 「うん。だから心配だったの」

 「今日はうちには取材とか来なかったけど。学校に来たんじゃこれから来るかもな」

 「うん。可能性はかなり高いよね」

 「でも、もし来たらなんとかするし。大丈夫だから、あまり気にしすぎるなよ」

 その言葉に不安な気持ちが落ち着いて、心がふわっと温かくなる。

 「もう遅いし、帰ろう。送ってく」

 「……うん」

 ふたりで手をつないで公園から私の家までの道を歩く。

 「今日、何かあった?」

 「え?」

 「優羽が急に会いたいって言うなんて珍しいから」

 「………」

 そうだ。勢いで会いたいって言ってこんな時間に待ち合わせしちゃったけど。

 冷静に考えたら、彼方くんだって毎日バイトで疲れてるんだし、いきなり会いたいなんて言われても困るよね。

 「ごめんね。迷惑だった?」

 今さら自分のわがままさに気づいて申し訳なくなった。

 「迷惑なわけないだろ。ただ、またなにか嫌がらせでもされたのかと思って」

 「………」

 彼方くんにこれ以上心配かけたくないけど。

 私の様子がいつもと違うことに気づいてるから、隠しても無駄だよね。

 そう思った私は、正直に自分の気持ちを話すことにした。

 「嫌がらせとかじゃないんだけど。先生に、彼方くんの家庭の事情と向き合う覚悟があるかって言われて。こんな騒ぎになってるから、心配っていうか不安になったの」

 「うん」

 「でも、彼方くんに会えて大丈夫って言ってもらえて、すごく安心した」

 「………」

 私の言葉に、彼方くんは無言になってしまった。

 「彼方くん?」

 何か気を悪くさせちゃったかなって少し不安になって彼方くんの方を見て呼びかけると、彼方くんは私から視線をそらした。

 心なしか、顔が赤いような。

 ……もしかして、照れてる?

 いつもクールで私の方がからかわれてばかりだから、なんだか可愛いな…なんて思ったら、思わず小さく笑いがもれた。

 「なに笑ってんだよ」

 「なんでもない」

 そんなやりとりをしていたら、あっというまに私の家のすぐそばまで来ていた。

 「送ってくれてありがとう。今日はわがまま言ってごめんね」

 そう言ってつないでいた手を離そうとしたら、手を強く引き寄せられた。

 「優羽、可愛すぎ」

 「えっ!?」

 急にそんなこと言われると恥ずかしい。

 「……そろそろ限界かも」

 彼方くんが独りごとのように小さな声でつぶやいた。

 「え?」

 意味がよくわからなくて訊き返したら、

 「なんでもない。おやすみ」

 そう言ってつないでいた手をそっと離して、彼方くんが歩き始めた。

 後ろ姿を見つめていたら、彼方くんが振り返って手を振ってくれた。

 私も笑顔で手を振り返す。

 あんなに強く会いたいと思ったのは初めてで。

 私にも誰かをこんなに強く想う気持ちと行動力があるなんて、自分でも驚いた。

 でも、今日彼方くんに会って、本当に良かったと思う。

 これからまた大変なことがあるかもしれないけど、きっと大丈夫。

 ふたりで一緒に乗り越えていける。

 そんな前向きな気持ちになれたから。


 【ふたりきりの夜】


 翌日には学校に取材が来ることもなく、騒ぎは少し落ち着いた。

 彼方くんの家にも記者が押しかけてくるようなことはなかったみたい。

 でも、彼方くんのお母さんは、日向くんのお父さんと弁護士を通して話し合いをしているらしい。

 落ち着くまでには数ヶ月かかるかもしれないとのことだった。

 そんな中、彼方くんは専門学校の合格が決まった。

 気がつけば2月に突入して、卒業まであと約1か月。

 学校は卒業式の練習以外ほとんど休みの状態。

 私は家でのんびり過ごしたり、陽依ちゃんと映画を見たり買い物に行ったりして、残り少ない高校生活を過ごしている。

 彼方くんは、進路が決まった後も相変わらずバイトに明け暮れている。

 だからほとんど会っていないし、デートらしいデートもしてない。

 寂しくないと言えばもちろんウソになるけど、今はお家のことも色々大変だし、落ち着くまでの辛抱だと思ってる。

 そんな2月のある日。

 私は陽依ちゃんとふたりで都内のデパートに出かけた。

 「あ、このラッピングセット可愛い」

 「ホント、可愛いね」

 今私たちが見ているのは、プレゼント用のラッピングコーナー。

 バレンタインまであと少しだから、そのための準備として買い物に来たんだ。

 店内はバレンタイン特設コーナーが作られていて、たくさんの女の子たちで賑わっている。

 片思いでも両思いでも、バレンタインは恋する女の子の一大イベント。

 どれにしようか悩むのも、また楽しかったりする。

 いっぱい悩んで買い物を終えると、私たちはカフェに入った。

 ふたりでケーキセットを頼んで、ティータイム。

 「陽依ちゃんもチョコあげるの?」

 「うん、霧谷くんに」

 「……霧谷くん?」

 思いがけない名前に驚いて、思わず訊き返してしまった。

 「優羽ちゃんのこと好きなのはわかってるけど、最後に気持ちだけは伝えようかなって思って」

 そう言った陽依ちゃんの瞳は穏やかだった。

 「……そっか」

 「卒業前に、ちゃんとけじめつけたいんだ」

 まっすぐ顔を上げて言った陽依ちゃんは、前より強くなったような気がする。

 「優羽ちゃんは、日向くんとバレンタインデート?」

 「ううん。彼方くん夕方までバイトだから、夕方に彼方くんの家に行くことになってるの」

 「そうなの? っていうかバレンタインもバイトなの? 日向くん」

 「うん。どうしても人が足りないからって言われて、夕方までならってことでシフト入れたんだって」

 「そうなんだ。でも、家に行くってことは、もしかしてついに…!?」

 「いやいや、当日は彼方くんのお母さんも家にいるから」

 「なんだ、そっか」

 陽依ちゃんが少し残念そうにつぶやいた。

 バレンタイン当日は、彼方くんのお母さんも仕事が休みだから、久しぶりに私に会って話したいということで彼方くんの家に行くことになっているんだ。

 だから、陽依ちゃんが期待してるようなことはないと思う。

 ……と、この時は思っていたんだけど。

 * * *

 バレンタイン当日。

 彼方くんがバイトを上がる時間に合わせて駅で待ち合わせて、彼方くんの家へ向かう。

 「彼方くんのお母さんに会うの、夏以来だよね」

 「ああ、そうだな。優羽に会うの、すごい楽しみにしてたよ」

 「ホント?」

 「うん。優羽のことかなり気に入ってるから」

 「そうなんだ。嬉しいな」

 なんて彼方くんと話しながら歩いていたら、あっというまに彼方くんが住むマンションに着いた。

 「お邪魔します」

 彼方くんのあとについて玄関に入ると、部屋の中から慌ただしい物音が聞こえてきた。

 なんだろう?と思ったら、メイクをバッチリに決めた彼方くんのお母さんがコートを片手に玄関に来た。

 「ごめんね。今日出勤の子が体調不良で欠勤になって、急遽今から仕事に出なきゃいけなくなったの。悪いんだけど、また今度ゆっくりお話ししましょう? せっかく来てくれたんだし、今日は彼方とふたりでゆっくりしてね。遅番で明日の朝まで仕事だし、なんなら泊まってくれてもいいから」

 彼方くんのお母さんが、手際良くコートを着ながら早口でそう言った。

 「えっ!?」

 「あ~遅刻しちゃう! 彼方、あとよろしくね」

 そう言って、彼方くんのお母さんは慌ただしく部屋を出て行ってしまった。

 「…………」

 まるで嵐が去った後のように、静まり返った部屋。

 ……どうしよう。

 彼方くんのお母さんがいないっていうことは、当たり前だけど、この部屋に彼方くんとふたりきりで。

 しかも、お母さんは朝まで仕事って……。

 「とりあえず、何か飲むか?」

 心の中でパニックになっていた私は、彼方くんの言葉で我に返った。

 「紅茶でいい?」

 「……うん」

 「じゃあテキトーに座ってて」

 彼方くんに言われて、リビングのソファに座った。

 少しして、彼方くんがマグカップをふたつ持って来てテーブルに置いてくれた。

 「……ありがとう」

 カップを両手で包みこみようにして持って一口飲むと、一気に体が温かくなっていく。

 その温かさに少しホッとして、気持ちが少し落ち着いた。

 「なんか、ごめんな。来て早々慌ただしくて」

 私の隣に座りながら彼方くんが申し訳なさそうに言った。

 「ううん。急なお仕事なんでしょ? 仕方ないよ」

 私と会うのを楽しみにしてくれていたという彼方くんのお母さんとお話できないのはちょっと残念だけど。

 彼方くんのお母さんだって働いているんだし、ムリに私たちの都合に合わせることはできないだろうから。

 「あ、そうだ。これ、良かったら食べてね」

 少しだけ重くなった空気を変えるように明るくそう言って、持ってきていた袋をテーブルに置いた。

 それは、お母さんと一緒に作った手作りのバレンタインチョコ。

 数日前に陽依ちゃんと一緒に悩んで買ったラッピングセットで、可愛くラッピングもしている、かなりの自信作だ。

 「ありがと。開けていい?」

 「もちろん」

 笑顔で頷くと、彼方くんはラッピングをほどいて早速チョコを食べ始めた。

 「うん、美味いよ」

 「良かった」

 こうして、誰かの為にお菓子を作って喜んでもらうって、いいな。

 「優羽はホントこういうの上手いよな」

 改めて感心したように彼方くんがそう言ってくれた。

 「……そうかな」

 「うん。いい奥さんになれそう」

 「えっ!?」

 その言葉にビックリして顔を上げると、彼方くんが優しい瞳で私を見ていた。

 至近距離で見つめられて、鼓動が一気に速くなっていく。

 「…………」

 不意に訪れた沈黙。

 何かが起こりそうな予感がして、緊張でどんどん鼓動が早まっていく。

 「……優羽」

 静かな部屋に彼方くんの声が響いて、思わずビクッと肩が震えた。

 そんな私を見て彼方くんはフッと息を吐き出すと、

 「……今日はもう帰るか? 家まで送るから」

 一瞬の沈黙の後、そう口にした。

 ……え?

 さっき来たばかりだけど、もうそんな遅い時間?

 ふと壁にかかっている時計に視線を向けると、夜の7時になろうとしていた。

 「俺も明日午後からだけどバイトあるし、優羽も遅くならない方がいいだろ?」

 「……そうだね」

 彼方くんの言葉にぽつりとつぶやく。

 そっか。彼方くん、明日もバイトあるんだ。

 私があまり長居してたら、彼方くんもゆっくり休めないよね。

 そう自分に言い聞かせて、ゆっくりと帰り支度をして玄関へ向かった。

 何もなくて安心してるはずなのに、どこかで寂しいって思ってる。

 どこかで物足りないって思ってる。

 ホントにこのまま帰っていいの?

 彼方くんはこのまま私が帰ってもいいの?

 もっと一緒にいたいと思ってるのは、私だけ?

 ホントはまだ帰りたくないし、離れたくない。

 だけど言葉にしたら、きっと後戻りはできない。

 それでも私は……。

 「どうした?」

 玄関で立ちつくしたままの私を見て、彼方くんが不思議そうに訊く。

 「……ない……」

 「え?」

 「……帰りたくない……」

 震える声でつぶやいた私に、

 「それ、意味わかって言ってる?」

 彼方くんが真剣な瞳で尋ねた。

 「……わかってるよ」

 わかってる。だけど言わずにいられなかった。

 だって、今この気持ちを言わずに帰ったら絶対後悔する。

 そう思ったから。

 「マジかよ」

 「マジだよ」

 同じトーンで返した私に、彼方くんがもう一度言った。

 「後悔しても知らないからな」

 「後悔なんてしな……」

 言い終わらないうちに、強く抱きしめられた。

 「そんなこと言われたらもう限界なんだけど」

 彼方くんがそう言った瞬間、体がふわっと宙に浮いた。

 「…きゃ…!?」

 一瞬何が起きたかわからずにパニックになっている私の耳元で、

 「今度は意識がある時にって言ったよな?」

 彼方くんが囁くように言った。

 「覚えてたの?」

 初めてのデートの時に話してたこと。

 「もちろん」

 不敵な笑みを浮かべてそう言うと、彼方くんは私をお姫様抱っこしたまま歩き始めた。

 「……どこに行くの?」

 不安になりながら訊くと、

 「俺の部屋」

 彼方くんが即答した。

 

 【幸せになろう】


 「卒業証書授与」

 体育館に、司会進行役の先生の声が響く。

 代表に選ばれた生徒が壇上に上がって、校長先生から卒業証書を受け取る。

 送辞、答辞、校歌斉唱、予定通りに卒業式が終わって、

 「卒業生退場」

 たくさんの拍手に包まれて体育館を出た。

 退場する途中、少し涙ぐみながら拍手してくれてるお母さんとお父さんの姿が見えた。

 「優羽ちゃん、お疲れ」

 外に出ると、陽依ちゃんが声をかけてくれた。

 「なんか、あっというまだったね。高校3年間」

 「ホントだね」

 色んなことがあったけど、こうして卒業の日を迎えると、あっという間だった気がする。

 「今までありがとう」

 「こちらこそ。大学生になっても、また遊ぼうね」

 「うん」

 ふたりで話していたら、

 「春日」

 少し離れた所から陽依ちゃんを呼ぶ声がした。

 「あ、霧谷くんが呼んでるよ。行ってきなよ」

 「ホントだ。じゃあ、またね、優羽ちゃん」

 陽依ちゃんはそう言って、嬉しそうな笑顔で霧谷くんのところへ行った。

 バレンタインの日、陽依ちゃんは霧谷くんにチョコを渡して告白して「友達からで良ければって返事をもらったらしい。

 でも、このままいけば、もしかしたらふたりは付き合い始めるかもしれない。

 そんなことを思いながら楽しそうに話すふたりを見ていたら、

 「なにセンチメンタルになってんだよ」

 後ろからそんな言葉が聞こえた。

 「彼方くん」

 「優羽、今日は親と一緒に帰る?」

 「ううん。『今日で最後だから彼と一緒に帰ったら?』って言って先に帰ったよ」

 ホント、そういうところ優しい家族なんだよね。

 「そっか。じゃあ、ちょうどいいかな。話したいことがあるから」

 そう言って、彼方くんが私の手をつないで歩き始めた。

 話ってなんだろう。

 そう思いながらふたりで歩いていた時、

 「彼方」

 私たちの少し前から、彼方くんの名前を呼ぶ声がした。

 キレイにメイクをして、春らしい淡い色のスーツに身を包んだ彼方くんのお母さん。

 そして、隣にはスーツ姿の男性が立っていた。

 「……彼がどうしてもあなたに会いたいって」

 彼方くんのお母さんが遠慮がちにそう言うと、

 「初めまして。久遠です」

 隣にいた男性が静かに口を開いた。

 久遠ってことは……。

 「彼方のお父さんよ」

 彼方くんのお母さんが、私が思ったことを口にした。

 この人が彼方くんのお父さんなんだ。

 「きみが彼方くんだね?」

 「……はい」

 彼方くんが、戸惑いながら頷いた。

 「きみにも、きみのお母さんにも今までたくさん苦労と迷惑をかけて本当に申し訳ないと思っている。決して謝って済む問題じゃないし、許してほしいとは思っていない。でも、どうしても直接会って話したかったんだ」

 久遠さんが真剣な眼差しでそう言った。

 「………」

 彼方くんは、無言のまま下を向いている。

 こんな風に突然現れてそんなことを言われても、きっとどうしたらいいかわからないだろう。

 しばらくの沈黙のあと彼方くんは顔を上げて、

 「俺は、正直言ってあなたのことを許せないし、父親だとは思えません」

 そう、キッパリとした声で言った。

 久遠さんは、黙って彼方くんを見つめている。

 「ずっと、自分は望まれずに生まれてきて、生きる意味なんてないって思ってました。でも、彼女に出逢って、初めて生まれて来てよかったって思えるようになりました。だから、今はこうしてここにいることに感謝してます」

 “彼女に出逢って、初めて生まれて来て良かったって思えるようになった”

 その一言が嬉しすぎて、思わず、目頭が熱くなった。

 そんな風に思ってくれていたんだ。

 「今日は来てくれてありがとうございました」

 彼方くんはそう言って頭を下げた。

 彼方くんのお母さんも、久遠さんも、涙ぐんでいる。

 「……行こう」

 そう言って、彼方くんは私の手を引いて歩き始めた。

 私は慌てて彼方くんのお母さんと久遠さんに会釈して、彼方くんと一緒に歩き始めた。

 「彼方くん、お父さんが来てるって知ってた?」

 「いや。母親も何も言ってなかったし、式の時には保護者席にいなかったから」

 「……そっか。話し合いはまだ続いてるの?」

 「正式に俺を子供として認知して、養育費を払うってことになったっていうのはこの前母親から聞いた」

 「……そうなんだ」

 「これでやっと少し落ち着けるかな」

 「良かったね」

 ふたりでそんな話をしながら校舎裏を歩いていたら、卒業生も在校生ももうほとんど帰ったようで、さっきまで制服姿で溢れていた場所にはほとんど人の姿がなくなっていた。

 「そろそろ帰ろうか」

 そう言った私に、

 「最後に行きたい場所があるんだけど、いい?」

 彼方くんがそう言ってそのまま歩き始めて、校舎の中へ入った。

 誰もいない校舎は静まり返っていて、私たちの足音が妙に大きく響く。

 そして、着いたのは…いつもお昼休みを過ごしていた屋上だった。

 「この場所も今日で最後なんだって思うと寂しくなるね」

 「うん」

 「彼方くん、ここで初めて話した時のこと覚えてる?」

 「覚えてるよ」

 「私の名前、芸能人みたいだって言ったよね」

 「優羽は最初すごい怖がってたよな。俺と話すの」

 「だってあの頃の彼方くん、ホントに怖かったよ」

 誰も寄せつけないような雰囲気で、冷たい瞳をしてた。

 だから、クラスメートなのに全然話したことがなくて。

 クラスで独りになった時、ここで初めて彼方くんとちゃんと話した。

 それから毎日お昼休みにここで過ごすようになって。

 体調が悪くなった時、保健室に連れて行ってもらったり。

 彼方くんのお家の事情を知って、「もうここに来るな」って言われたり。

 ここで羽鳥さんと一緒にいるところを見て誤解したり。

 彼方くんの誕生日を祝ったのもここだったよね。

 この場所には色んな思い出が詰まってる。

 思い出すと切なさと懐かしさがこみあげてくる。

 ふと上を見ると雲ひとつないキレイな青空が広がっていた。

 春の空は淡い水色で、遠くの方が白く霞んで見える。

 こういう空、春霞って言うんだっけ。

 なんて思いながら空を見ていたら、

 「俺、専門行き始めたら、一人暮らししようと思ってるんだ」

 不意に彼方くんが言った。

 「そうなんだ?」

 だから、進路決まった後もずっとバイトしてたんだ。

 「それで、お互い新しい生活に慣れたら……一緒に暮らそう」

 ……え……?

 「……うそ……」

 「うそじゃない。言っただろ? ずっと離さないって」

 そう言いながら、彼方くんが私を抱きしめた。

 「これからもずっと優羽と一緒にいたい」

 「…………」

 言葉のかわりに、涙が溢れる。

 「私も、彼方くんとずっと一緒にいたい」

 「じゃあ、約束な」

 「……うん」

 頷いて顔を上げると、彼方くんの手が私の頬に触れて、そっと唇が触れた。

 「俺は優羽と一緒に幸せになりたい」

 彼方くんがそう言って私の左手を引き寄せて、今度は薬指に光るリングにそっと口づけた。

 きっとこれからも苦しいことや辛いことがあるかもしれない。

 また不安になったりするかもしれない。

 それでも私は、彼方くんとずっと一緒にいたい。

 ふたりで一緒に幸せになりたい――。


 《Fin.》